雅工房 作品集

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法会を台無しにした僧 ・ 今昔物語 ( 20 - 35 )

2024-06-28 08:00:48 | 今昔物語拾い読み ・ その5

      『 法会を台無しにした僧 ・ 今昔物語 ( 20 - 35 ) 』


今は昔、
比叡山の東塔に心懐(シンカイ・伝不詳)という僧がいた。
この山で法文を学んでいたが、年も若く、さしたる才能もなかったので、このまま比叡山に住みつくことも出来ないでいたところ、その頃、美濃守[ 欠字。氏名が入るが不詳。]と言う人がいたが、その人に付いて美濃国に行くことになった。美濃守の北の方の乳母が、この僧を養子にしたのである。
そこで、美濃守もその関係で、この僧を何かにつけて引き立てた。そのお陰で、その国の人々は、この僧を一の供奉と名付けて、たいそう敬意を払うようになった。

ある時、その国に疫病が大流行して、病死する人が多く出た。
国の人たちはこれを嘆いて、守が上京中に申上して、国の人たち皆が心を一つにして、南宮(美濃国
にあった神社らしい。)と申す社の前で、百座の仁王講(仁王経を百座に渡って講説し、鎮護国家や厄除けを祈願する法会。)を行うことになった。経に説かれている通りに、力を尽くして、荘厳な大法会の準備をした。
必ずやその効験があるものと、国の人は皆頼りにして、一人としてこの法会に奉仕しない者はいなかった。大きな幡などを懸け並べて、千の灯明をかかげて、音楽を奏した。

そして、その法会の総講師には懐国供奉(カイコクグブ)という人を招請した。その法師は、筑前守源道成朝臣(道済が正しい。1019 年没。光孝源氏。中古三十六歌仙の一人。)の弟である。学僧としても人に勝れ、説教も上手であった。また、兄に似て、和歌も巧みに詠み、話術も巧みであったので、多くの俗人たちがこの人を親しい知人として遊び楽しんだので、世間に知られた有名な僧であった。
ところが、後一条天皇の御読経衆として長年伺候していたが、天皇が崩御なさると、世情は大きく変化して、頼みとする所もなくなり、世の無常が身にしみて、「自分も老いてしまった。頼みとする縁もなく、阿闍梨になれそうもなく、頼み奉っていた帝もお亡くなりになってしまった。もう、この世にあっても何があるというのか」と思い込み、たちまち道心を起こして、美濃国へ行き、尊い山寺に籠居していたのである。
こういう人なので、「わざわざ講師にお迎えするのだから、ぜひとも、こういうお方をお招きすべきだ。それに、国内にいらっしゃるとは、大変好都合だ」と思って、招請したのである。

そもそも、このお方は比叡山においても尊いお方であった。然るべき方々が学僧として比叡山にいると言うことだ。
そこで、「まずはご意向をお聞きしよう」ということで、この法会の講師にお招きしたい旨を内々に伺うと、供奉(懐国)は、「お聞きすれば、国を挙げての祈祷だと言うことです。私はこの国を頼って、ここに住んでおります。どうして、疎かに思いましょうか。されば、必ずご参加させていただきます」と言った。

やがて、その日になって、いよいよ法会が始まると、供奉は出て行って、僧房の控え室で法服をきちんと調えて控えていると、輿を担ぎ、天蓋(テンガイ・長柄の大傘)を捧げ、楽人は音楽を奏しながら、整然と並んで迎えに来た。
講師である供奉は香炉を取り、付き人が輿に乗せると、その上に天蓋を差し掛けて、供奉を迎えて高座に登らせた。その他の講師たち百人も皆高座に登った。
百の仏像、百の菩薩像、百の羅漢像、これらを皆立派に描き奉り、懸け並べている。様々な造花を瓶にさし、色とりどりのお供え物も美しく盛り並べている。

そして、総講師は仏に法会の趣旨を申し上げるために、仏を見奉っていると、あの一供奉(イチノグブ・心懐のこと。)が甲の袈裟(袈裟の一種。高位の僧が着用。)を着て、袴のくくりを上げて、長刀(ナギナタ)をひっさげた恐ろしげな様相の法師を七、八人ばかり引き連れて、高座の後ろにやってきて、三間ばかり離れて立って、両腕を組んで脇を上げて扇を高々と使い、声を怒らせて言った。
「そこの講師の御坊、比叡山においては尊い学僧として遠くから拝見しておったが、この国においては、守殿がこの我こそをこの国の第一の法師として重用なさっているのだ。他国は知らず、この国の内においては、上下を問わず、功徳を営む法会の講師には、この国の一供奉を必ず招請することになっている。御坊がいかに尊くおわしても、賤しい我を招請すべきなのに、この我を
捨て置いて、この御坊を招請するのは、守殿をひどく侮ることにならないか。今日、法会がうまく行かないとしても、そなたに講師をさせるわけにはいかぬ。気の毒なことだがな」と。
さらに、「法師共、こちらへ来い。この総講師の御坊が坐っている高座をひっくり返せ」と言ったので、すぐに法師たちが駆け寄って、ひっくり返そうとしたので、講師は転がるように飛び降りたが、背丈が低いので真っ逆さまに倒れた。
お供の僧たちが抱きかかえ合いながら高座の隙間から連れて逃げたので、その後で、一供奉が代わりに飛び登って、怒りの様相で講師の作法などを行った。

その他の講師たちは、何が何だか分らない心地で、仏事を行うこともなく、法会は滅茶苦茶になってしまった。
国の者たちも、まだ一供奉に会ったことのない者たちは、「関わり合いになっては大変だ」と思って、後ろの方から皆逃げて行ってしまったので、人は少なくなってしまった。
そのため、法会はすぐ終ってしまい、総講師のために準備していた布施などは、全部一供奉に与えた。
最後まで残っていた国の人たちのぼんやりとした表情は、まことに情けなさそうであった。

その後、いつしか国司の任期も終ったので、一供奉も京に上った。
守は、二、三年ばかりして亡くなったので、一供奉は頼る所が無くなって、極めて生活が厳しくなった。そのうち、白はだけ(白なまず。皮膚病の一種。)という病にかかり、親子の縁を結んでいた乳母も汚がって寄せ付けないので、行く所もなくなり、清水や坂本の庵に行って住んでいた。しかし、そこでも、落ちぶれた者たちからも嫌われ、三月ばかりして死んでしまった。

これは他でもない、厳粛な法会を妨げ、賤しい身でありながら尊い僧を嫉妬した為に、現世において明らかな報いを受けたのである。
されば、人はこの事を知って、決して嫉妬の心を起こしてはならない。嫉妬は、まさに天道がお憎みになることである、
と語れり伝へたりとや。

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