雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

花山帝即位 ・ 望月の宴 ( 20 )

2024-03-13 20:37:06 | 望月の宴 ①

       『 花山帝即位 ・望月の宴 ( 20 ) 』


今上の帝は、御年なども大人になっておられて、ご気性もたいそう色好みでおわしまして、早速に、しかるべき方々の御娘たちをご所望の旨を仰せになられる。(花山 ( カザン ) 天皇は、このとき十七歳。)
太政大臣(オオキオトド・藤原頼忠)は、この御代でも関白を続けられていて、中姫君(諟子)が十月に入内なさった。
まず最初に、我が娘を入内なさったのは、ご自分が第一の人であられるので、何としても思いのままに姫君を入内させようとなさるのは、当然のことと見受けられた。

御即位、大嘗会、御禊 ( ダイジョウエ、ゴケイ・・大嘗会は天皇が即位後初めて行われる新嘗祭。御禊は大嘗会の直前に天皇が鴨川に行幸して行う祓。) など、諸行事が過ぎて少し落ち着いた気分になる頃、太政大臣は姫君を入内おさせになる。中姫君のことである。
その女御の御有様は、お仕えしている女房であっても、七、八年以上仕えている者以外にはお顔をお見せになることがないくらいなので、どういうお方であるのかご器量などは申し上げにくい。ただ、芳しいお方でないはずはあるまい。このように高貴なお血筋であり、格別に帝のご寵愛が厚いというふうには見えないものの、父の大臣は、いずれ后にと期待しているに違いない。


そうこうしているうちに、帝は、式部卿宮(為平親王)の姫君が大変美しいお方だということをお聞きになって、毎日のようにお手紙を寄せられるので、式部卿宮は「これほど求められている姫を、家に引き込めているわけには行くまい」と思われて、支度を調えて入内させなさいました。
この式部卿宮と申されるのは、故村上天皇の第四の宮で、姫君(婉子女王)の御母は源高明(醍醐天皇の第十皇子)の御娘であられます。ご両親の御仲は睦まじく、共に高貴なお血筋であり、姫君もとても愛らしいお方でございますが、あらん限りの儀式を整えて入内されましたのは誠にすばらしく、ただ今は、大変なご寵愛とのことでございますから、入内の甲斐があったというものでございましょう。
因みに、この姫君の異母妹の明子姫は、我が殿道長さまと結ばれるお方でございます。

お二人が入内なさったので、目下のところはこの程度でよろしいのではないかと思われるのですが、帝はまだ御満足ではないようで、「朝光の大将の姫君(姫子)を入内させよ」と性急に仰せでございました。
東宮はまだ幼いので、入内させるとすれば今上天皇の御許に入内させるのが最も善いだろうし、この姫君を誰もおろそかにすることなどあるまいとお考えになり、入内させられました。
この大将殿は、堀河殿(兼家の兄兼通)のご三男ですが、ご兄弟の中では格別人望があり、今も世間で評価の高いお方でございます。姫君の母上は、醍醐天皇の皇子の重明親王と、九条殿(藤原師輔・兼家らの父)の御娘の間に生まれたお方です。
そうしたお血筋である上に、たいそう美しいお方との評判の高いお方なので、遅れての入内であっても粗略に扱われることはないと思われて、大将は決意なさったのでございます。そして、十二月に入内なさいました。
故堀河殿の遺産はすべてこの大将が相続なさっていて、故中宮(媓子・円融天皇中宮。朝光の同母姉。)の御道具類も委譲されています。そうしたこともあって、朝光の大将殿はとても裕福で、姫君のお支度もたいそう贅を尽くしたものでございました。


この姫君の母宮から、今は大将殿のお心は離れていて、枇杷の大納言延光(醍醐天皇の皇子の代明親王の子。)の北の方は、故権中納言敦忠(左大臣時平の三男。)の御娘であるが、枇杷の大納言が亡くなられた後はお通いになっていて、この母宮をまるで他人のように接しておられるが、お二人の間には、男君達(公達)二人にこの姫君がいらっしゃるので、何事につけ大切に扱っておられたので、この入内の件でもご一緒にお世話すれば良いものを、別居してしまわれたのである。
この枇杷の大納言の北の方は、たいそう才知に優れているお方である。一方の母宮は、幼さが残っているお方なので、どうなるものかと世間の人は取り沙汰している。
小一条の大将(藤原済時)の北の方も、この枇杷の大納言の御娘でいらっしゃるので、大将殿はまことに年上の御継女(オンママムスメ)を持ったものと、世間の人は陰で噂しているが、大将は人望の高いお方なので、表だって非難するようなことは出来ないようだ。
ただ、この北の方は、まるで大将の母上ぐらいに見える、と噂されているのである。

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多情の帝 ・ 望月の宴 ( 21 )

2024-03-13 20:36:39 | 望月の宴 ①

     『 多情の帝 ・ 望月の宴 ( 21 ) 』


かくて女御(朝光の娘・姫子)が入内なさると、帝は、はた目に見苦しいほどにご寵愛なさった。それまで時めいていた宮の女御(式部卿宮為平親王の娘・婉子)は、御寝所のご奉仕もこの頃は押しのけられていらっしゃる。
宮の女御は、どうしたものかと、やきもきなさってご不快であられたが、新しい女御(姫子)はひと月ばかり絶えず帝のご寝所に参上なさり、帝もまたこの女御の許にお渡りになり、まるで他にはどなたもいらっしゃらないかのご寵愛ぶりである。
こうしたことも、そうした運勢であったのだ、と思ううちに、年も改まった。


寛和元年 ( 985 ) となりました。
元三日(ガンサンニチ・正月一日のこととする説と、正月三が日のこととする説とがある。)のうちから、斬新な御政事が次々と打ち出されました。これは、花山天皇の御即位により、帝の叔父にあたります義懐(花山天皇の生母懐子の同母弟。権中納言。)殿が中心となり政策が練られているとのことでございます。
政権の頂点にいらっしゃる太政大臣(賴忠)殿は、お気に召さないお気持ちでしょうし、何とも体裁が悪いことでございましょうが、争い事を好まれぬご気性でいらっしゃぃますから、表だった波風がないまま日が過ぎていきました。

さて、政界は嵐を内包しながらも平穏な日々でございましたが、内裏に起きましては、大きな変化が起こっておりました。
あれほど御寵愛を集めていらっしゃいました閑院の大将(朝光)殿の女御(姫子)の御寝所へのご奉仕が、どういうわけか間遠になり、ついには、お召しの仰せ事が絶えてしまったそうでございます。かりそめの御消息さえ絶えてしまって、ひと月ふた月が過ぎてしまいました。
どうしたことかと、大将殿は途方に暮れておられましたが、どうなるわけでもなく、物笑いの種にされるといった情けない状態になり、人目も恥ずかしく女御(姫子)は宮中から退出なさいましたが、そうしたことさえ帝は知ろうとなさらなかったのでございます。
大将殿も、参内すれば胸が痛むといってお屋敷に閉じこもってしまわれました。

世間では、「御継母(大将朝光が、姫子の生母である重明親王の娘を棄てて、枇杷の大納言延光の未亡人のもとに移ったが、この未亡人のことを指す。)の北の方が、どのようなことをなさったのか」などと噂されていますが、それと申しますのも、入内のお話しがある小一条の大将済時殿の御娘は、このご継母の御孫にあたるのですから、世間はおもしろおかしく噂されるのでしょう。
帝がお渡りになられます打橋に、誰かが何か悪さをなさったのか、女御ご自身も参内なさらず、帝も女御のもとにお出向きにならないのですから、まことにいたわしい有様でご退出なさいましたので、その後は、かつてのあの華やかな御時がなかったかのようでございます。女御のご兄弟の公達方も参内なさらなくなりました。
世の例とは申せ、余りの仕打ちと思われてしまうのでございます。


かくてまた、小一条の大将の御娘(娍子)や、一条の大納言為光(兼通、兼家らと異母兄弟)の御娘(忯子)などに、夜昼を分かたずお便りを持って帝の御使者が参上するが、小一条の大将は、閑院の大将の女御(姫子)が、あれほどの御寵愛を受けながら、驚くばかりにつれなくお見限りになられたことを思えば、どうすればよいかご返事に困っておられる。
村上帝などは、十人、二十人の女御、御息所(ミヤスドコロ)をお持ちであったが、御寵愛の深い方にも浅い方にも、ふつうにお情けを示され、際だってえこひいきをなさることがなかったからお見事なのであって、この帝のなされ方は、まったく極端ななさり方なので、小一条の大将殿は思い止まられたのであろう。

     ☆   ☆  ☆

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哀れ 一条殿の女御 ・ 望月の宴 ( 22 )

2024-03-13 20:36:16 | 望月の宴 ①

     『 哀れ 一条殿の女御 ・ 望月の宴 ( 22 ) 』


一条の大納言は、母に先立たれた姫君を、ご自身の御懐で大切にお育て申されたので、万事用心深く世間に振る舞われ遠慮がちにされていたが、今の帝の御叔父にあたる義懐(ヨシチカ)の中納言は、この一条の大納言の長女の御夫でいらっしゃったので、それを頼りにして、帝は常に中納言に姫君入内を催促なさる。それで、大納言は次第に決心なされたのであろう。
なお、式部卿宮(為平親王)の女御(婉子)が帝の御寵愛を受けておられる。大殿の女御(頼忠の娘諟子)ははじめからふつうのお扱いなので、かえって帝の心変わりが目立つことはない。ひと月に四夜五夜の御夜伽は続いており同じ状態である。

こうしているうちに、一条の大納言の御姫君(忯子 ( シシ/ヨシコ ))は支度を調えて入内なさった。
この姫君は、小野宮の大臣清慎公(実頼。師輔の兄弟)の御太郎敦敏の少将の御娘を母とする御兄妹お二人がいらっしゃったが、兄君は能書の佐理(スケマサ)の兵部卿で、その妹君を母とされるお方である。父の殿は、九条殿(師輔)の九郎君の為光と申される。
女御方は、どなたも優劣をおつけすることは出来ず、際だって優れているというお方がいらっしゃるというのでもない。
そうした中、この姫君はまことに大げさなまでの御儀式で入内なさった。弘徽殿にお住まいである。そして、すべての女御にまさって御寵愛をお受けになるので、大納言はたいそうお喜びになり、いっそう姫君の幸せを願ってご祈祷をおさせになる。 
また、どうなるのかとのご心配も当然である。人目もはばからぬ御寵愛のうちに月日が過ぎて他の女御方は、「何と見苦しいこと。こうした御扱いは今も昔も聞いたことがない」「長くは続きますまい」などと、聞きにくく呪わしく取り沙汰されていることも多い。

こうしているうちに、女御はご懐妊なされたのである。ただ、たいそう憂慮すべきことに、わずかな御果物もなかなか受けつけない。帝は、ただ「まずは弘徽殿(女御)に差し上げよ」とばかり仰せになられるので、ご配慮は有り難いことではあるが、かえって大納言は、はらはらさせられる思いになるのであった。
懐妊三月になり、奏上して退出なさろうとしたが、帝はあれこれとお止め申されるので、五月(イツツキ)ばかりになって、ようやく退出なさった。


安産を祈る物忌みや加持祈祷などは、ご実家で気楽になさりたいと大納言殿は願っておりましたが、帝のご意向で女御の御退出はかなり遅れてしまったのでございます。
御退出後には、諸所に使いを送って安産祈願をなさいました。
はじめは、悪阻ということで食事がお取りになれなかったのですが、二、三ヶ月経っても同じようなご様子で、ほとんど何も召し上がらず、ひどく痩せ細られてしまったのでございます。
父大納言殿は、この一大事にあらん限りのご祈祷をなさるも、橘の実一つを召し上がってももどしてしまう有様で、まことに哀れで頼りなげで、大納言殿は途方に暮れながらも介抱を続けられたのでございます。
帝におかれても、御修法をあれこれとたくさん行わせました。内蔵寮(クラヅカサ)よりそのための御道具類などを運ばせられ、夜夜中を問わぬ御使者が余りに多く、殿上人や蔵人は困り果てていたようでございます。少しでもためらうような者は、御簡を削らせさせたまう(ミフダヲケズル・殿上の間に出仕する臣下の官位、姓名を記した簡を削ることで、昇殿を差し止めるという意味。)など、恐ろしい措置も考えられ、六位の蔵人などは軽輩ですからともかく、高位の殿方の公達などは、まったくやりきれないお気持ちのようでございます。

多くの方々の祈りを受けても、女御は、やはり、わずかな御果物を差し上げてもお口にすることが出来ませんでした。
帝からも、何とか召し上がるようにとお届け物があり、大納言殿は並外れの御配慮に感謝しながらも、出るものはため息ばかりでございました。
帝からは、女御のことをたいそう御気にかけられ、「ほんのしばらく、宵のうちだけでもお顔をお見せするように」と再三仰せになっておられましたが、大納言殿といたしましては、とても無理な仰せと考えておりましたが、女御もさすがに帝のことがお気にかかるようで、遂に大納言殿も、一両日だけと決めて、出仕なさることを承知なさいました。
弘徽殿に参上なさるということで、お部屋を整えられるのを、他の女御方にお仕えする女房などは、「まがまがしく縁起でもない」などという陰口がささやかれていたそうです。確かに、宮中におかれましては、出産や死というものを汚れとして忌避するものですが、何とも哀れな話でございます。

こうして、女御(忯子)は無理を押して参内なさいました。
帝はたいそうお喜びになり、夜も昼も、御食膳にもおつきにならず、部屋に入って横になられました。
「あまりにも愚かな事よ」と、宮中内のあちらこちらでささやかれたと聞こえて参りました。
女御は、入内なさった当初の頃とはちがって、懐妊なさってから後はお痩せになっておられましたが、この度はなおさら痩せておられて、同じ人とは思えないほど変わり果てておられました。
あの才色兼備の輝くばかりのお姿は影を潜め、ひどく沈み込み、生きておられそうにもないとお嘆きになるのを、帝も泣いたり笑ったりしながら、涙がちになっておられたそうでございます。まことに、いたましく悲しい御事でございます。
そして、三日経って御退出ということで、迎えの御車などが向けられましたが、帝はお許しにならず、あと一夜、もうあと一夜とお止めしているうちに、七、八日にもなり、大納言殿は、御物忌みを理由に退出を強くお申し出になり、さすがに帝もお許しになられましたが、御車を引き出して退出なさる間際までお見送りなさったのでございます。
大納言殿は、まことに畏れ多いことと面目を果たされましたが、女御のご様子を見るにつけ、涙があふれそうになりましたが、それも不吉と堪えられているお姿こそお労しい限りでございました。
帝は、女御とのご対面に、かえって堪えがたいお気持ちになられ、体調を悪くなさってしまったことを、宮中の女房たちは、おいたわしいことと噂されていたそうでございます。

女御は、この幾月かは小康を保っておられたのですが、無理を押しての参内の後は、御頭をあげることも出来ない状態となり、気力も弱まり、重態に陥りました。
大納言殿は泣く泣く途方にくれていらっしゃいましたが、遂に甲斐なくも、御懐妊後八ヶ月でお亡くなりになりました。
大納言殿の御有様は、書き続けなくともご推察くださいませ。
帝も閉じこもっていらっしゃって、御声も抑えきれず、見苦しいほどにお泣きになられました。御乳母たちがお止め申し上げましたが、お聞き入れにならず泣き続けられ、まことに痛ましい限りでございます。

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花山帝の出家 ・ 望月の宴 ( 23 )

2024-03-13 20:35:53 | 望月の宴 ①

     『 花山帝の出家 ・ 望月の宴 ( 23 ) 』


それにいたしましても、一条殿の女御(忯子)のご逝去は、あまりにも哀れでお気の毒でございました。
そうとは申しましても、一条殿(大納言為光)は悲しんでばかりいるわけにも参りません。しきたり通りの葬送の儀式を執り行われましたが、その心中は察するに余りあるものでございました。
「ご懐妊されて宮中から女御をお引き取り申し上げるときには、いずれは后の位にお就きになられ、御輿でお出入りできる身分にと考えておりましたものを、まさかこのようなことになるとは」と、一条殿は転げ伏してお泣きになられるのです。

帝におかれましても、お気に入りの殿上人や上達部(カンダチメ・公卿)を野辺送りのお供に差し向けなさいました。ご自身はお出向きになることが出来ませんので、葬儀の有様をよそに聞くほかない悲しさに、際限なくお苦しみのご様子だったそうでございます。その夜はお寝みにもならず、亡き女御を偲んでいらっしゃいましたとか。
一条殿は、御柩車の後ろについて歩かれましたが、よろめき倒れるばかりのお姿が痛ましい限りでございました。荼毘に付されました御亡骸は、やがて雲となり霧となって消え失せてしまったのでございます。
宮中の内でも外でも、ああいたましいことよ、悲しいことよ、と取り乱しておりますうちに、日は過ぎて、しかるべき仏事のご用意につけても涙の乾く間もございませんでした。
宮中におきましては、この御喪の間は、どの女御も御夜伽に参上なさることはなく、宮の女御(婉子)にお声がかかることもありましたが、女御の方でご気分がすぐれないと申して、参上なさらないそうでございます。


こうして、悲しいことのあれこれがあったが、いつしか寛和二年 ( 986 ) になった。
世間は、正月よりどうも穏やかでなく、どういうわけか物のさとし(天変地異や夢などによって、神仏が発する警告。)などが度々あって、宮中でも御物忌みがちでいらっしゃる。
また、いかなる時世であるのか、世間ではたいそう道心を起こす人が多く、尼や法師になったという噂がしきりに聞かれた。
この事を帝がお聞きになり、はかない世を思って嘆かれて、「ああ、弘徽殿(一条の女御)はどれほど罪深く生まれたのか。あのように亡くなった人は、たいへん罪が重いと聞いている。なんとかその罪滅ぼしをしてあげたいものだ」と、御心の内で思い乱れているようであった。

こうした帝の御心に、どういうわけか仏を尊ぶ道心に傾くことが多く、落ち着かぬご様子なのを太政大臣(頼忠)がお嘆きになり、御叔父の中納言(義懐)も人知れず憂慮しているに違いない。
常に花山(ハナヤマ・京都山科にある元慶寺。)の厳久阿闍梨を召しては説教をお聴きになったが、帝の御心の内には道心が強まっていらっしゃった。「妻子珍宝及王位」という文句をよくお口にされていて、帝がたいそうお目にかけている召使いの惟成の弁(コレシゲノベン・藤原氏)も中納言と共に、「この御道心が何とも気掛かりだ。出家入道することはごくふつうのことであるが、帝におかれては、これはどうかと思われるご心境が時々お出になるのは、他のことではなく、まさに冷泉院の御物の怪(冷泉帝に取り付いている元方の霊。)のなせるわざであろう」などと嘆いておられるうちに、やはり、どうしたことなのか、平常ではなく、何となくそわそわと落ち着かない様子であられる。

そして、中納言なども御宿直がちにお仕えして申し上げていたところ、寛和二年六月二十二日の夜、突然帝の御姿が見えなくなり大騒ぎとなった。
宮中の多くの殿上人、上達部(カンダチメ・公卿)や、身分の賤しい衛士、仕丁に至るまで、残る所なく灯火をともして、隅々までお探ししたが、どこにもいらっしゃらない。
太政大臣をはじめとして、諸卿、殿上人が残らず参り集まって、あちこちの壺庭(殿舎により囲まれている庭。)までもお探ししたが、いずこにもいらっしゃらない。まったく驚き入った出来事で、一天下こぞって、夜のうちに関所関所を固め大騒ぎする。
中納言は、守宮神(スクウジン・神鏡のこと。三種の神器の一つ。宮中を守護することからこの字が当てられた。)、賢所(カシコドコロ・内侍所とも。神鏡が奉安されている所。)の御前に伏し転がって、「わが宝の君は、いずこにあらせられるのか」とお泣きになる。
山々寺々に手分けしてお探しするも、まったくいずこにもいらっしゃらない。女御方も涙を流しておられる。
ああ、何としたことか、と嘆き悲しんでいるうちに、夏の夜も明けて、中納言や惟成の弁などが花山に尋ねて行かれた。
すると、何とそこに、帝は目もつぶらかな小法師の姿で、きちんと控えていらっしゃったのである。ああ悲しいことよ、なんたることぞと、その場に伏し転げて、中納言も法師になられた。惟成の弁も出家なさった。まったく意外なことで、いまわしく悲しい限りで、これ以上のことはあるまい。
あの御口癖の「妻子珍宝及王位」も、このように出家なさろうとの御決心からであったのだと拝される。そして、その通り法師になられたことはお見事ではある。
どのようにして、花山までの道筋をご存じになって、徒歩で到達なされたのかと、推察申し上げるにつけても、まことに驚くべきことで、悲しくいたわしく、まがまがしいことと存じ上げたのである。

     ☆   ☆   ☆

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一条天皇即位 ・ 望月の宴 ( 24 )

2024-03-13 20:35:22 | 望月の宴 ①

     『 一条天皇即位 ・ 望月の宴 ( 24 ) 』


花山天皇の突然の御出家で宮中は大騒ぎとなりました。
御寵愛の女御(忯子)を亡くし、世の無常を悟ったための御出家でございましょうが、世間では、東三条の大臣(兼家)の暗躍があったなどと、まことしやかに囁かれているとの噂もあるそうでございます。
まことに畏れ多いことで、何らかの悪意のようなものも感じられますが、この騒動によって、兼家殿が躍進し、やがては、我が殿道長さまの前途が開かれることになったことは確かでございましょう。

さて、花山天皇の御出家と同じくして、寛和二年六月二十三日には、東宮(懐仁親王)が即位なさいました。一条天皇の誕生でございます。
東宮には、冷泉院の第二皇子(居貞親王)がおつきになられました。
帝は御年七歳、東宮は御年十一歳でございます。
帝も東宮も東三条の大臣兼家殿の御孫でございますから、後々のご繁栄は想像さえ出来ないほどでございます。そして、我が殿道長さまにとりましても、このお二人それぞれのご生母は、同母の御妹なのでございます。

花山院は、三界の火宅を出でて四衢道(シクドウ)の路地に御身を置かれまして、修行の道をお歩きになる御足の裏には、千福輪の文様がお付きでございました。
(花山院が、煩悩の世界から真理に目覚め迷いを脱した状態に至った、の意。千福輪の文様は、仏果を得た証の三十二相の一つ。足の裏に文様が現れる。)
花山院の御足跡には、いろいろな蓮華が花開き、来世においては極楽浄土の上品上生に上られることになるのでしょうか。

とは申しましても、現世に生きている人々にとりましては、特に花山院のお力に頼っていた人々にとりましては、長夜の闇路に迷い込んだ思いで、哀しみに沈んでおられるのでございます。
かの中納言殿は、今は院に付き添われておらず、飯室(比叡山内の一部)という所に隠棲なさいました。惟成入道は、聖にもまさる修行を続けられているとか。
花山院の御受戒は、この冬とのことでございます。
まことに、驚きと申しますより、あきれるばかりの事でございました。


かくて、帝(一条天皇)と東宮(居貞親王)がお立ちになったので、東三条の大臣(兼家)は六月二十三日に摂政の宣旨をお受けになる。准三宮(ジュンサングウ・三宮 ( 皇后・皇太后・太皇太后 ) に准じて年官年爵を賜ること。)として、内舎人随身(ウドネリズイジン・中務省に属して内裏に供奉する者から、摂関に賜る随身。)二人、左右の近衛兵衛などの御随身(各四人だったらしい。)がお仕えする。
右大臣には、ご兄弟の一条の大納言(為光)と申される方が就任なさった。

七月五日、梅壺女御(円融院女御詮子。兼家の娘。)が后にお立ちになる。皇太后宮と申し上げる。

家の子(兼家の一族)の君達(公達)は、后と同腹の方が三人いらっしゃる。まだ官位は高くはないが、上達部(カンダチメ・公卿)になっておられる。
后とご同腹の太郎君(道隆)は、三位中将でいらっしゃったが、中納言におなりになって、すぐに皇太后宮の大夫(長官)になられた。
二郎君(道兼)は、蔵人頭でいらっしゃったが、宰相(参議)になられた。
三郎君(道長)は、四位少将でいらっしゃったが、三位中将に上られた。

閑院の左大将(朝光・兼家の兄兼通の子)は、東宮大夫に任命される。この昇進については、左大将は、他でもないご自身の父の大臣の兼家殿への非常な仕打ちを思い出されるに違いない。世間でいうことわざ(「徳を以て怨に報ゆ」を指しているらしい。)と同様のお考えなのかと、居心地が悪く恥ずかしい気持ちであろう。

摂政殿(兼家)の御娘と名乗っている人がおられた。摂政殿にも思い当たる人らしく、参上なさって皇太后宮の宣旨の役を務められた。

東宮には、九条殿(師輔・兼家らの父)の御娘といわれ、また先帝(冷泉帝)の御息所でいらっしゃったお方(怤子)の同母妹の方が、共に典侍(ナイシノスケ・次官)に任命されて、藤典侍(トウノナイシノスケ・繁子)、橘典侍(キノナイシノスケ・清子)などと呼ばれて、重用されて奉仕されている。橘典侍は、権大納言といった人の御娘なのであろう。

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兼家の御子たち ・ 望月の宴 ( 25 )

2024-03-13 20:34:59 | 望月の宴 ①

     『 兼家の御子たち ・ 望月の宴 ( 25 ) 』


さて、東宮(居貞親王・冷泉天皇の皇子)は今年十一歳におなりになられたので、この十月に御元服の儀が予定されていたが、これは大殿(兼家)の御女(綏子)で対の御方(藤原国章の娘)を母君とする方を、尚侍(ナイシノカミ・内侍司の長官)に就任させて、そのまま御副臥(オンソイブシ・皇子などの元服の夜、多くは公卿の娘で年長の者を選んで、添い寝をさせる風習。この時代には形骸化していたが、そのまま妻となる例も多い。)にとのお心づもりで、その時のための御調度類などを夜も昼もかまわず急がれている。
この対の御方は、たいそう華やかであだめいた方で、世間では名だたる浮気女と噂されていらっしゃったが、この尚侍のゆかりのお方とあって、ただ今は、たいそうな信望を受けているので、世間の人々は、「さても、このような思いがけないこともあり得たのだ」と取り沙汰されている。

この尚侍の妹君は、この殿(兼家)のご子息の中納言殿(道隆)の御女(娘。対の御方は兼家の妾であったが、後に道隆と関係を持ち子をなした。このあたりのことも、世間で揶揄されていたらしい。)だということで、東宮の御匣殿(ミクシゲ・もともとは、天皇の御衣を縫製する役所の長官のことであるが、後には、天皇または東宮の侍妾の性格を持った。ここでは東宮の侍妾の意。)にお付けになられた。
対の御方は、それほど身分の高い人ではないが、大弐であった人(藤原国章)がその女をたいそう大切に育てられ、何かにつけ申し分ない扱いに終始しているうちに、度を超してあだっぽくなり、好色な女になったそうだ。


この中納言殿(道隆)の北の方は、高階貴子と申されるお方でございます。
このお方の父君は高階成忠と申されますが、たいそう学問に秀でたお方ですが、どうも人から煙たがられる面がおありのようです。諸国の受領を歴任されましたが、大勢の男女の子がおありでした。
その中でも、貴子さまをとりわけ大切になさっていて、良い男と結婚させようと思っておられましたが、なかなか意にかなう男は見当たらず、それならば宮仕えさせようと考えられて、先帝(円融天皇)の御時に、宮中の女房として出仕させましたが、女でありながら、漢字なども実に見事に書きますので、内侍(ナイシ・掌侍のこと。内侍司の三等官。)に任命され、高内侍(コウノナイシ)と呼ばれておりました。
道隆殿は、あちらこちらの多くの女性と情を交わしておられましたが、この貴子さまが特に気に入られ、そのまま北の方になさったのでございます。

貴子さまは女君三、四人と男君三人をお生みになられたので、道隆殿は一段と北の方を大切に思いながらも、浮気なお振る舞いがなくなることはございませんので、この殿の御子と言われる公達が大勢になられましたが、正室腹の方々を格別な子として思われていました上に、母の貴子さまの学才が優れていたからでしょうか、男君たちも女君たちも、どなたも年の割には断然優れていらっしゃったのでございます。

道隆殿は、ご容姿もお心も実に優雅で、ご気性もまことに端正でいらっしゃいます。
道隆殿の御外腹の太郎君(長男)は、大千代君(のちの道頼)と申されますが、摂政殿(兼家)が引き取られ、ご自分の御子として、この頃は中将であられました。
そして、正室腹の一番上の男君を小千代君(のちの伊周)とお呼びされておりました。


摂政殿の二郎君である宰相殿(道兼)は、御顔色が悪く、毛深く、ことのほか醜男であられたが、ご気性は老成して雄々しい方で、何となく恐ろしく感じられるほどわずらわしく、意地が悪くて、兄である道隆殿を常々注意するといった人柄である。
北の方には、宮内卿であった人(遠量・兼家の異母兄弟にあたるが、宮内卿であったかは未詳。)がたくさんの女君を儲けておられていて、その一人を迎えられている。その宮内卿は九条殿(師輔)の御子でいらっしゃる。
道兼殿には特に浮気沙汰もなく、そうしたことには常に非難されていた。

后宮(詮子)に仕える藤内侍(トウノナイシ・繁子)の腹に御女が一人いらっしゃったが、別に可愛くも思われていない。
北の方の御腹に、男君たちが大勢いらっしゃったが、女君がいらっしゃらないのが、実に残念だと思われていることだろう。

摂政殿の五郎君(道長)は、三位中将で、ご容姿をはじめ、ご気性などは、兄君たちをどのように見ておられたのであろうか、うって変わって、さまざまな面でたいそう巧者で男らしく、さらに道心もあり、ご自分に心を寄せる人に対しては格別に目をかけ庇護なさった。
お人柄は、すべての面で人並みより勝っていて、申し分のないお方である。后宮(円融帝后、詮子)も、特別にお心遣いされていて、実の御子よと申されて、何事につけご配慮なさっておいでである。
現在、御年二十歳ほどでいらっしゃるが、戯れにも浮気っぽいお心とは無縁であられる。といって、決してお心が堅苦しいというわけではなく、人に恨まれない、女に薄情者と思われることほど辛いことはない、とお思いになって、並々ならずお心を寄せている女に対しては、人目に立たぬようにして、情けをかけておられたのである。
このように抜きん出たお人柄は、自然と世間の知るところとなり、我も我もと競ってこの君を婿にとの意向を示される方々があるが、「今しばらく待って欲しい。自分には考えるところがあるので」と言って、一向に聞き入れようとなさらないので、大殿(父の兼家)も、「どうも納得がいかぬ。何を考えているのか」と、不審がっておられるのであった。

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兼家の天下へ ・ 望月の宴 ( 26 )

2024-03-13 20:34:38 | 望月の宴 ①

       『 兼家の天下へ ・ 望月の宴 ( 26 ) 』


大殿(藤原兼家)は、院の女御(冷泉院の女御超子。兼家の娘、四年前に急死。)のお生みになった皇子たち三人を、みな御懐に入れて養育なさっていたが、二の宮(居貞親王)は東宮にお立ちになられたので、今は三の宮(為尊親王)、四の宮(敦道親王)を大切に思われていたが、中でも東宮と四の宮を格別に可愛がられていて、来年には御元服をと思っておいでである。 

かくて十月になったので、御禊(ゴケイ・大嘗会の直前に天皇が鴨川に行幸して行う祓え。)や大嘗会(ダイジョウエ・天皇即位後初めて行われる新嘗祭。)が行われるということで、世間は大騒ぎになっている。
帝(一条天皇)は七歳でいらっしゃるので、御輿には后宮(一条天皇の母宮、詮子)も同乗なさるはずなので、后宮付きの女房など、あれこれと世間ではたいそうな騒ぎである。女御代(ニョウゴダイ・御禊の時、通常は女御が供奉するが、何らかの事情で出せない場合には公卿の娘が務めた。この時は、兼家の娘の綏子が務めた。
)の御事など、すべて世を挙げての関心事である。

かくて御禊の当日になると、東三条邸(兼家の邸)の北側の築地(土塀)を崩して、そこに御桟敷を設けて、宮たち(為尊親王と敦道親王)もご覧になられる。
その間の儀式の有様は、えもいわれぬほどすばらしく、一つの御輿に帝と后宮が同乗なさり、それに続いて、后宮付きの女房方の車が二十輛、それに帝の女房の車が十輛、女御代の御車など、すべていいようもなくすばらしい有様は、とても書き尽くすことなど出来ない。恒例通りのすばらしさなので推察されたい。

行列が切れる頃に、摂政殿(兼家)が姿を見せられた。御随身たちの交代もいわれず(官職により朝廷より賜る随身や私的な随身などがいる。)、いかにもふさわしい有様で姿を見せ、前駆の人たちは格別に美麗な者たちを選んでおられる。
何と見事なものだと目を奪われていると、東三条邸の御桟敷の御簾の片端を押し上げさせて、四の宮(敦道親王)が、様々な色を重ねた御衣に紫の上着を重ね、その上に織物の御直衣をお召しになって、御簾の片端から御身を乗り出されて、「これは、大臣(オトド)」とお声をかけられると、摂政殿は、「まあ、いけませんなぁ」と申されて、本当に可愛がっておいでのようで、優しい笑顔になられるご様子は、これを拝見している人たちも、ついつい微笑ましくなるのも当然のことである。


さて、その日も暮れましので、次は大嘗会のお支度を急がれるということでございましょう。
東宮(居貞親王)の御元服は十月のご予定でしたが、このように儀式やその準備が重なりましたので、延期ということで、十二月ということになったようでございます。
そして、いつしか十一月となり、大嘗会のご準備に世間はわきたって、天皇出御の帳上げ(トバリアゲ)の儀式など、作法のご準備も仰々しくなさっています。五節舞も今年は当世風の華やかなものなるとのことでございます。
この間は、摂政となられた兼家殿の権力が目に見えて大きくなっていった時期でもありました。

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道長の結婚 ・ 望月の宴 ( 27 )

2024-03-13 20:34:12 | 望月の宴 ①

       『 道長の結婚 ・ 望月の宴 ( 27 ) 』


こうして日が過ぎていって、十二月の初めの頃に、東宮(居貞親王)の御元服の儀があって、その夜、尚侍(ナイシノカミ・内侍司の長官。兼家の娘綏子のこと。)が参上なさって、麗景殿(レイケイデン・後宮六殿の一つ)にお住まいになられる。
東宮はまことに年が若くていらっしゃる。尚侍殿は十五歳ほどにおなりである。大殿(兼家)の御女でいらっしゃるので、すぐに御輦車(テグルマ・宮城門より宮門までの間を車に乗ることを許されること)を許されて、やがて女御におなりだなどと、至れり尽くせりに大切にお扱いされていることに、母君の対の御方は幸いに恵まれた人と思われた。

そういえば、九条殿(兼家の父師輔)の十一郎君で宮雄君(公季)と申す方は、最近、中納言で東宮権太夫を兼ねていらっしゃる。

やがて、これということもなく年が改まった。
皇太后宮(円融帝后、詮子。一条天皇生母。)は東三条院にお住まいなので、正月二日に行幸があった。たいそうおめでたいことで、皇太后宮付きの宮司や兼家殿の家司(ケイシ・親王や三位以上の貴族の家政に携わる者。)などの位が昇進し、その御礼言上に大騒ぎである。

月末になると、司召しの除目(ツカサメシノジモク・在京の官職を任命する行事。)があり、中納言殿(兼家の長男道隆)は大納言になられた。宰相殿(二男道兼
)は中納言になられた。

今年は(987年)は年号が変わって永延(エイエン)元年という。
二月は例年通り幾つもの神事が重なって、あちらこちらの社へ使者が遣わされ、様々なことがあるうちに時が過ぎた。
三月は石清水への行幸がある予定なので、その準備に大わらわである。その行事の奉行役は、中納言殿(道兼)がなさる。その功績により、御位の昇進があるのだろうと思われる。
皇太后(詮子)がいつものように帝の御輿に同乗なさるので、たいそう美麗にして御威勢は辺りを払うばかりである。


さて、このように兼家殿ご一族の繁栄が顕著になる中で、五郎君であられる道長殿は、この時、三位の中将でございました。

その道長殿は、さる姫君に夢中でございました。
土御門の源氏の左大臣殿(源雅信)には、二人の姫君がいらっしゃいました。正室腹の姫君方で、たいそう大切に養育されていて、左大臣殿は、やがてはお后にとお考えでしたが、どういう伝手(ツテ)によったのでしょうか、道長殿は姉姫である倫子さまを何としても正室にと想い込まれて、その旨を先様に申し入れたのでございます。
ところが、左大臣殿は大変なお怒りで、
「何と馬鹿げたことを。もってのほかだ。誰があのようなくちばしがまだ黄色い者どもを、婿としてこの邸に出入りさせてなるものか」
と言って、まったく聞き入れようとされませんでした。

すると、姫君の母上であるお方は、土御門中納言朝忠殿の御娘であられますが、並の女性とは違いたいそうで賢明で才気あるお方でございましたから、
「どうして、あの公達を婿に迎えないということがありましょうか。時々、行事の折などにお姿を拝見しておりますが、あの公達は並大抵のお方ではありません。すべて、このわたくしにお任せください。このお話は、悪いはずがありません」
と申し上げられましたが、左大臣殿は、とんでもないことだと納得なさいませんでした。

この左大臣殿は、宇多天皇の御孫にあたる御方でございますが、高貴なお血筋に加え、台頭著しい藤原兼家殿が一目置く朝廷の実力者でもありました。
左大臣殿には、幾人かの妻妾がお生みになった男君や女君が大勢いらっしゃいましたが、法師になられたり、世に背を向けようとなさる方もいらっしゃるようで、それを心配なさっていたようでございます。

左大臣殿が、倫子さまを何とか入内させたいとお考えであることは、この母上も十分承知されていたことでございますが、道長殿をたいそう気に入られたようで、婿にお迎えするお支度を急がれておりました。
左大臣殿は、苦々しく感じられていたのでございましょうが、今上の帝はまったく年若く、東宮もまた同じようでございますから、帝や東宮への入内は望みをかけるわけにも行かないという現実がございました。また、しかるべき人で、是非とも姫の婿にという人も見当たらず、第一、北の方(倫子の母上)が道長殿以外はまったく相手になさらないものですから、黙認する形になったようでございます。
そして、いざ道長殿を婿取りするとなりますと、さすがにその御支度や御披露は、まことに立派で重々しくお扱いなさいましたので、道長殿の父上である兼家殿は、まだ位などの低い者がこれほどの扱いを受けるのはどうしたものかと、はらはらされたということでございます。

しかし、この後のことを考えますと、倫子さまを正室になさったことは、道長さまのご運に大きな力を与えられることになったのではないでしょうか。
そのことを道長さまもよく承知なさっていたようで、この御母上を末永く大切になさいましたのでございます。

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道長 左京大夫に ・ 望月の宴 ( 28 )

2024-03-13 20:33:50 | 望月の宴 ①

      『 道長 左京大夫に ・ 望月の宴 ( 28 ) 』


道長殿に取りまして、左大臣源雅信殿の姫君倫子さまとのご結婚は、道長殿の御運を大きく開かれたと思われるのでございます。
倫子さまのもとに、せっせとお通いになられるようになってほどなく、左京大夫(サキョウノダイブ)にお就きになられました。この職務は、左京職の長官でございますが、右京職とともに都の司法・警察・民政を司るという要職でございます。後には、この職権は検非違使に移りますが、特別な意味を持つ職務とも言えるのではないでしょうか。
世間では、まだお若い方には似合わない職務だと申される人もいるようですが、大殿殿(父・兼家)は、「自分も就いたことがある官職なのだ」と仰せられていますことから、この職務の重要性をよくご存じで、大殿のご配慮があったと思われます。
また、道長殿のお二人の兄君方(道隆と道兼)の北の方は、格別のこともございませんが、何と申しましても、倫子さまのご実家は、賜姓源氏の左大臣源雅信殿でございますから、まことに美々しく婿の道長殿をお迎えなさいますので、お仕えしている人たちも自慢げでございました。


かの花山院は、昨年の冬、比叡山において受戒をなさって、その後、熊野に詣でられて、まだご帰還なさっていないとのことである。
どうして、このような苦しい御山巡りをずっとなさるようなことになったのか、まことに哀れでおいたわしく畏れ多いことであるが、これも御宿命と拝される。

院の御叔父の入道中納言殿(藤原義懐・摂政太政大臣伊尹の五男。花山院の側近。)は、熊野へはお供されることなく、自身は飯室(比叡山横川にある。)という所にお住まいになっていて、こうありたいと思えるような、出家の本懐が叶えられているようである。
この三月に、御僧坊の前の桜が、たいそう美しく満開になったので、ひとり言に口ずさまれたが、それがかなりの時を経てから、自然に世間に漏れ伝えられた、その歌は、
 『 見し人も 忘れのみゆく 山里に 心ながくも 来る春かな 』
惟成の弁(藤原氏。母が花山天皇の乳母であったことから早くから仕えた側近。)も立派な聖人となって、この世の仏よと思われているほどの修行を積んでいた。


さて、このように、花山院のご退位ご出家は、少なからず世間を騒がせました。その裏で暗躍なさった方々がおいでであったとかなかったとか、世間の噂はやがて声が低くなり、宮中の政は滞りなく行われているのは、何とも哀れを感じるものでございます。

ところで、大殿(兼家)の長男であられる道隆殿は、大姫君(定子)と小姫君(原子)という姫君方をとても大切にご養育なさっていて、帝と東宮に入内させたいとのおつもりでございます。
また、長男の大千代君(道頼)は、祖父の大殿がたいそう可愛がられて養子とし、後に山井(ヤマノイ)という所にお住まいの藤原永頼殿の姫君の婿になられました。永頼殿は、幾つもの国の受領を務めていて、豊かだったのでしょうが、それにしても受領級の御家への婿入りは、どういう思惑があったのでしょうか。ただ、これによって、永頼殿は異例の昇進をなさることになります。
この大千代君を大殿はたいそう可愛がられておりましたが、父の道隆殿は、この長男をまるで他所の人のような扱いだと言うことでございます。
三の宮、四の宮につきまして余り耳に入って参りませんが、道長殿は小千代君(伊周・実際は三男)を大切になさっていて、ぜひとも早く昇進させようとのお考えでございました。

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北の方の懐妊 ・ 望月の宴 ( 29 )

2024-03-13 20:33:30 | 望月の宴 ①

       『 北の方の懐妊 ・ 望月の宴 ( 29 ) 』


道長殿の正室倫子さまの御父である土御門の源氏の左大臣雅信殿は、このところ頭を痛めておいでのようでございます。

と申しますのは、少将でいらっしゃった男君(時方か?)が、最近また出家なさったのです。雅信殿は、まったくどういう事なのかと嘆かれ、「この兄弟たちは、あの姫(倫子)のために力になってやろうという気持ちはないのか。次々と皆法師になってしまった」と、あきれ果てたご様子で、「帰ってこい、帰ってこい」と責められましたが、聞き入れようとなさらないようでございます。
倫子さまの同母のご兄弟は、時通殿、時叙殿はすでにご出家なさっていて、またまた時方殿までがご出家となれば、お嘆きも当然のことでございましょう。左大臣殿のご威光のもと、洋々とした将来をお持ちでありながら、世をはかなんでの事だとすれば、ご理解に苦しんでしまいます。
他の御腹の男君たちは、かえってご出世に恵まれたように見えるのでございます。

こうした中、かの土御門殿におきましては、道長殿の北の方倫子さまのご気分がすぐれない様子でございましたが、どうやらご懐妊の兆候が見えてきて、兼家殿も道長殿もたいへんなお喜びで、安産のためのご祈祷を大々的に催されておられます。雅信殿の北の方穆子さま、大北の方(雅信殿の母、時平の娘)さまも、御心遣いの限りを尽くされ、着々と準備を進められているとのことでございます。
まったく、道長殿を婿に迎えられたことによって、土御門の御邸はまことに繁栄を予感させる様子でございました。


さて、円融院のご様子はたいそう結構にお過ごしであられる。
一方、冷泉院は、元方の霊に祟られるなど御悩み多く、生きている甲斐もない有様であるが、この院は、たいそう多くの人々がお心を寄せて奉仕申し上げている。

こうして、永延二年 ( 988 ) になったので、正月三日に円融院の行幸があって、母后(一条天皇の母、詮子)も出御なさったので、ますます儀式も有様も勝っていて、格別にすばらしいものであった。
帝(一条天皇)の御有様、たいそう可愛らしくあられるので、父の円融院はまことにご対面の甲斐があったと、感無量でご覧になっておられる。
帝は御笛に熱心であられるので、お吹かせになられ、たいそうお楽しみであった。
院の御方では、帝への御贈物や、母后への御贈物などを、あれこれ様々にご用意されていた。上達部、殿上人の御禄の品々なども、すべてが見る目にも鮮やかで見事にご用意されていた。御乳母の典侍(ナイシノスケ)たちや、すべての命婦、蔵人、母后の女房たち、さらには下々の数にも入らないような衛士、仕丁に至るまで、それぞれに応じた品々を賜った。
また、院司や上達部や、しかるべき人々には、加階の栄転をお与えになられた。

このように、円融院が申し分のないご様子とお見受けするにつけても、冷泉院の御有様を取り沙汰されるのである。
あのようなご様子であられるが(冷泉院には多くの奇行が見られた。)、そのようであられても、そのご恩顧のもとにお仕えしている男女は、ただ、「観音菩薩が、衆生を済度するために、仮に人となって出現なさったのだ」とお噂している。
ほんの少しお召しになった御衣や御衾(オンゾやオンフスマ・着物や夜具。)などは、ご使用なさるとすぐにお下げ渡しになられるので、
我も我もと競って頂くという有様なので、院ご自身は、冬などはたいそう寒そうになさっているのも、たいへん畏れ多いことである。

冷泉院の三の宮(為尊親王)、四の宮(敦道親王)などがたまに参上なさるときは、たいそう殊勝に情を寄せられるのであった。しかし、御物の怪の発作が大変恐ろしいので、そうそう気軽には参上なさることもない。
この冷泉院は、このようではあられたが、しかるべき御領のいくつかや、立派な御宝物をたくさんお持ちであったので、それらは東宮(居貞親王)やこの皇子たちに、すべてお与えになられたのである。

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