雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

彰子誕生 ・ 望月の宴 ( 30 )

2024-03-13 20:33:05 | 望月の宴 ①

       『 彰子誕生 ・ 望月の宴 ( 30 ) 』


こうしているうちに、左京大夫道長殿の北の方(倫子)が産気づき、たいそう苦しそうにされましたので、御読経、御修法の僧たちはもちろんのこと、験力があることで知られている僧たちを召し集められて、大騒ぎでございます。
大殿(兼家)からも后宮(キサイノミヤ・一条天皇の母、詮子)からも、どのようなご様子かと、ひっきりなしにお尋ねの使者が途切れることがありません。

このように、大変な騒ぎでございましたが、まことに無事平穏に、特にひどく苦しまれることもなく、みごとな女君がお生まれになったのでございます。そして、この女君こそ、のちに中宮彰子として道長殿の全盛期を支え、平安王朝文化の一翼を担うことになる姫君なのでございます。
このご一家は、最初に生まれる女君を、必ず将来の后にとの大望を抱いておられましたので、大殿からも何度もお喜びの声が伝えられておりました。まことに結構なご夫婦でございます。
もちろん、大殿には、すでに御長男の道隆殿に定子・原子という二人の立派な姫君がいらっしゃるのですが、道長殿に対する期待の大きさが伝わって参ります。
七日の間の様々な御事は、とても書き綴ることなどできないほどでございます。
三日の夜は本家(妻の実家のことで源雅信が主催。
)、五日の夜は摂政殿(兼家)より、七日の夜は后宮よりと、それはそれは立派な御産養(ウブヤシナイ)がございました。


ますます三位殿(道長)は御心を他に向けることがなく、夫婦仲は水が漏れることなどないような睦まじさで過ごしていた。
ところで、故村上先帝のご兄弟の十五の宮(盛明親王)の姫君(明子)で、たいそう大切に養育なさっている方は、源師(ゲンノソチ・源高明)と申すお方の御末娘の姫君を養女として迎えられたお方である。
その姫君を后宮(詮子)のもとにお迎えして、宮の御方と称して特別扱いのもてなしをされていたが、どの殿方もが、何とかして我が妻にと思い申されていたが、中でも、大納言殿(道隆)は、例の好色な御心から、度を超すほど熱心に懸想されるので、宮の御前(詮子)は、絶対にあってはならないことだと止められていたが、この左京大夫殿(道長)は、姫君付きの女房方を味方につけて、前世の因縁であったのか、姫君と睦まじい関係になってしまわれたが、后宮も、「この君はそう容易く女に物など言わぬ人なので、信頼できるでしょう」と、二人の仲をお認めになり、しかるべきもてなしをなさったので、左京大夫殿は、ご自身もこの姫君をお慕い
申し上げておられたが、后宮のご配慮も畏れ多く、この姫君を大切にしてお通いになられた。

土御門の姫君(倫子)は、夫道長と宮の御方(明子)との結婚が覆しようのない事と認識されながらも、もとのままであればと辛いお気持ちであったが、この姫君は温和な性質をお持ちで、おっとりと若々しく振る舞っていて、取り立てて何事かが起こったとは思っていらっしゃらないように見える。

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五節の舞 ・ 望月の宴 ( 31 )

2024-03-13 20:32:39 | 望月の宴 ①

       『 五節の舞 ・ 望月の宴 ( 31 ) 』


摂政殿(兼家)は、今年六十歳におなりなので、この春、算賀(サンガ・四十歳から始めて十年ごとに行う長寿を祝う儀式。)を催されるということで準備を進めておられましたが、数々の支度を間に合わせることが出来ず、十月に行うということになりました。
そして、これということもなく月日が経ち、東三条院でにおいて御賀が行われました。
御屏風には様々なすばらしい歌が集められていますが、どことなく落ち着かぬままに、書きとどめぬままにされておりました。ご一家の君達(公達)は皆様が舞人になられましたが、なんともすばらしいものでございました。だって、同じ君達と申し上げても、道隆殿、道兼殿、そして道長殿といったそうそうたる方々なのですから。

帝(一条天皇)も行幸なさり、東宮(居貞親王)もご臨席という晴れがましい祝賀となりました。兼家殿の家司たちも皆さま加階の栄に浴しましたが、中でも兼家殿が特に目をかけておられる、有国殿は左中弁に、惟仲殿は右中弁へと昇進なさいましたが、お二人とも、世間の評判も学才も優れている方々なので、まことにおめでたいことでございました。


こうしたことがあって、この月も終ったので、五節などを殿上人は早くその日を迎えたいと待ち遠しく思っていたが、御即位の年は然るべき行事が行われるので目立たないが、今年の五節だけはその有様を帝もつぶさにご覧になり、また人々も期待していたが、四条の宮(頼忠の娘遵子)の奉る五節の舞姫はじめ、左大臣殿(源雅信)の左兵衛督時仲の君や、さらには受領たちも舞姫を奉る。
御前の試み(天皇が舞姫を清涼殿に召してご覧になる儀式。)の夜などは、帝はまだ年若でいらっしゃるが、后宮(一条天皇生母の詮子)が同席なさるので、清涼殿の二間の御簾の内の気配や、大勢の人がつめかけている様子などは、ふつうの舞姫たちで、少しでも物事の判断のつく者であれば、そのまま倒れてしまうほど恥ずかしくて、赤面してしまうだろうと思われた。
そうした中で、四条の宮の奉った舞姫は格別であった。何やかやと、思い思いに女房たちは言い騒いで、またの日の御覧(舞姫の介添えをする童女と下仕えを清涼殿に召して、天皇が御覧になる儀式。)に、童女、下仕えなどの様子も、どれもこれも誰が引けを取るものかと思うほど、それぞれに趣向を凝らしていて、いずれも捨てがたくおぼしめして品定めなさる。

五節も終ってしまうと、賀茂の臨時の祭が二十日過ぎに催された。
試楽(シガク・臨時祭の二日前に、清涼殿の東庭で行われる舞楽の試演。)も趣深く終り、祭の当日の還遊(カエリアソビ・使者以下が賀茂社から内裏に帰参し、清涼殿の東庭で宴が設けられ神楽が行われる。)が御前で行われるとき、摂政殿(兼家)をはじめとして、然るべき人々や殿上人が一人残らず伺候されている。
この舞人の中に、六位の者が二人いたが、蔵人左衛門尉上の判官という源兼澄(ミナモトノカネズミ・光孝天皇の四世にあたる。)が舞人として賜った杯を手にしたのを摂政殿がご覧になって、「まずは祝いの和歌をお詠み申せ」と仰せになるままに、「宵の間に」と声を挙げて申し上げると、「おもしろい、おもしろい、先を先を」と殿方たちがはやし立てると、「君をし祈りおきつれば」と申し上げた。
大殿(兼家)はたいそう興じられて、「遅いぞ、遅いぞ」と仰せられると、「まだ夜深くも思はゆるかな」と申し上げたので、たいそう感心されてお褒めになり、お召しになっていた衵(アコメ)を脱いでお与えらなった。

     ☆   ☆   ☆

* 源兼澄が詠んだ和歌は、「 宵のうちに わが君のご長寿を お祈り申し上げておきましたので これから先のご長寿は 限りないと思われます 」といった意味。

* 「六位の者」・・六位は地下人であるが、蔵人を兼ねている者は昇殿が許された。また、源兼澄の官職の「左衛門尉上」の「上」は殿上を意味している。

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九条流の繁栄 ・ 望月の宴 ( 32 )

2024-03-13 20:32:11 | 望月の宴 ①

       『 九条流の繁栄 ・ 望月の宴 ( 32 ) 』


世の中は、五節や臨時の祭さえ過ぎてしまうと、残りの月日がまだ残っているという感じがまるでない。
十二月の十九日になると、御仏名(ゴブツミョウ・十二月十九日から三日間、年内の罪障を懺悔し、過去現在未来の三千仏の御名を唱え、罪滅生善を祈願する儀式。
)ということで、地獄絵の御屏風などを取り出して設えているのも、それに目がとまってしみじみとした思いになるが、そうした折、雪がたいそう降ってきたので、「送り迎ふ」と古人が詠み残している歌も、まことにその通りだと思っていると、殿上人の菩提を求めて念仏を唱える声が、かえって生への執着のように聞こえてしまう。
その声は、宮中ばかりでなく、次々の宮の御所でも声高に唱えられている。
(古人の歌とは、平兼盛作「数ふれば わが身につもる 年月を 送り迎ふと なにいそぐらむ」)
月末になると、追儺(ツイナ・大晦日の夜、内裏において悪鬼を払う儀式。)とて大騒ぎである。帝はまことに年若でおわしますので、振鼓(フリヅツミ・追儺の時、童子が持ち歩く道具。でんでん太鼓のような物らしい。)などをしてご覧に入れると、君達(公達)もおもしろがっている。

こうして年号が変わり、永祚元年(989
)ということになり、正月には院(円融上皇)の御所に行幸が行われた。
院も入道なさったので、円融院(円融寺とも。竜安寺の近くにあったらしい。)にお住まいなので、その御所に行幸なさった。
恒例の作法通りに行われ、院司たちに加階など喜び事が様々に行われ、時は過ぎていった。

こうして、大殿(兼家)は、十五の宮(醍醐天皇の皇子、盛明親王。986年に薨去。)がお住みになっていた二条院(東二条院、京極院とも。後の法興院)を立派に修築なさった。もともとご立派な邸宅であっただけに、お心のままに存分にお手をかけられたので、ますます目も及ばぬほどにすばらしくなっていくのをご覧になられると、ますます熱心になられ、夜も昼もと工事を急がされた。
明年正月に、大饗(毎年正月に行われる恒例行事。大臣が他の大臣や殿上人などを招いて行う饗宴。もともと私宴であったが、朝廷からの勅使も遣わされ、公事に準ずる性格を持っていた。)を催す予定だと仰せられて、工事を急がせなさっていたのである。


ところで、九条殿(藤原師輔・兼家らの父。)には、男君方が十一人、女君方は六人いらっしゃいます。
その中でも、亡き后宮(キサイノミヤ・安子)の御子孫方は今に至るまで帝でいらっしゃいますのです。と申し上げますのは、第六十三代冷泉天皇と第六十四代円融天皇は御子であり、第六十五代花山天皇と第六十六代一条天皇は御孫であられるのですから。 
尚侍(ナイシノカミ・内侍司の長官、登子)や、六の女御(冷泉院女御、怤子)という方々は、御子孫にこれという御方は見当たらない。

男君たちでは、太郎の一条の摂政と申される方(伊尹)は、その御子孫方は際だったご様子には見えません。もっとも、花山院はこの摂政の御孫であられますが、すでに出家なさっておいででございます。
また、入道の中納言殿(義懐)などは、花山院が退位にいたる騒動によりご出家されたのも嘆かわしいことでございます。
女君も、九の宮までいらっしゃいましたが、そのお方だけが在生でいらっしゃいます。
堀川の左大将殿(朝光・兼通の子)は、ただ今のところ、昔も今も代わらず栄えていらっしゃいます。広幡の中納言殿(顕光・兼通の子)は、これといったご活躍は見当たりません。
この他の君達方は、まだ御位も浅くいらっしゃいます。

その中で、やはり、ただ今の大殿(兼家)は、三郎君(三男)でいらっしゃいますが、目下のところこの殿こそ前途洋々のご様子で、頼もしい限りでございます。
一条の右大臣殿(為光)は、九郎でいらっしゃいますが、このように大殿がたいそう栄えていらっしゃる中においても、なお輝いておいでなのは、格別優れておいでだからでございましょう。

このように、九条殿のご一統は様々ではございますが、ただ今は、御位も他の方々に比べ
まだ低く、御年などもご兄弟の中で最年少であられますが、どういうところがこれほど期待を集めているのでしょうか、世間の人々は、この三位殿(道長)を同じご一家の君達の中でも、格別の御方だとお噂申し上げているのでございます。

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九条流の代替わり ・ 望月の宴 ( 33 )

2024-03-13 20:31:50 | 望月の宴 ①

       『 九条流の代替わり ・ 望月の宴 ( 33 )  』


九条殿(師輔)のご一族が、ある方は不運に沈み、ある方は洋々たる未来へと歩を進められておりましたが、この年(989年)も六月になりました。
毎年のことながら、人々は、厳しい暑さに悩まされておりましたが、三条の太政大臣殿(賴忠・・兼家らの従兄弟にあたる)が、重い病にかかり、二十六日にお亡くなりになりました。この殿は、故小野宮の大臣殿(実頼)のご次男の頼忠と申されるお方でございます。
このご逝去を、それを悼み嘆き悲しまれている様子が伝えられていますが、詮無いことでございます。中でも御子である、円融帝皇后遵子さま、花山帝女御諟子さま、権中納言公任殿たちのお嘆きは、察するに余りあるものでございます。
御諡(イミナ)は廉義公(レンギコウ)と申されます。
悲しみの中、あっけなく御忌みの期間も過ぎて、御法事なども盛大に行われました。
七月末には、相撲節会でございますが、今年は催されないのではないかとの噂でございます。

そして、臨時の除目が行われまして、摂政殿(兼家)が太政大臣におなりになりました。摂政殿の大納言殿(道隆)は内大臣におなりになりました。中納言殿(道兼)は大納言になられ、三位殿(道長)は中納言で右衛門督(ウエモンノカミ・皇居諸門の護衛、行幸の供奉などを司る役所で、左右ある。督は長官。)を兼務なさいました。
小千代君(道隆の三男、伊周)は、源中納言重光殿の御婿
になられましたが、重光殿は村上天皇の女御荘子女王の兄君でいらっしゃぃますから、小千代君の嫁取りは兄君(道隆の長男、道頼)より断然勝っていると噂されております。

小野宮の実資(サネスケ)の君は、宰相(参議)に就かれました。このお方は、祖父の実頼殿の養子となり小野宮流と膨大な資産を継承された御方でございます。まだ独身で、その人柄も奥ゆかしいことから、年頃の姫君をお持ちの殿方などは、しきりに意向を探っておられるようですが、いったいどういうお考えからか、具体的なお話しは聞こえて参りません。


かくて三、四の宮(為尊親王と敦道親王、ともに冷泉天皇の皇子。)の御元服の儀が一度に行われる。そして、三の宮を弾正宮(ダンジョウノミヤ・大臣以下の非違を弾劾する弾正台の長官であるが、名誉職であった。)と申し上げた。四の宮を師宮(ソチノミヤ・大宰帥に任じられた親王のことで、太宰府を統率する重職。師宮は任地には行かず、権師また大弐が代行した。)と申し上げた。
式部卿(為平親王)、中務卿(具平親王)、兵部卿(永平親王。史実としては、すでに薨去していて空位であったようだ。)などには村上先帝の御子たちがお就きになっていたので、このような役をお当て申されたのである。

それはそうと、この頃の斎宮としては、式部卿宮の御娘(婉子・花山天皇女御)の御妹の中の宮(恭子女王)がいらっしゃる。
帝は変わられましたが、斎院は変わることなく村上帝の十の宮(選子内親王)でいらっしゃる。
こうして月日は過ぎていく。

何いうこともなく年は暮れて、今年を正暦(ショウリャク)元年という。
正月五日、帝(一条天皇)の御元服の儀が行われる。

引き続き世間ではその準備を急いでいたが、摂政殿(兼家)が二条院で大饗を催される。
手をかけて磨き上げた邸内の有様は、えもいわれぬほど美しく立派なので、殿はご満足で、たいへん喜ばれ楽しんでおられる。
一条の右大臣(為光)が主賓として参上なさった。隅々まで見渡しても興趣尽きぬ有様である。
えもいわれず立派な東の対には、内大臣殿(道隆)がお住まいなので、そこから姫君たち(定子、原子ら)も見物しておられるので、ほかの殿方たちも見物したいと申し入れられたが(道兼、道長らが娘や女房たちの見物を申し出た、ということらしい。)、お許しにならない。
宮々(為尊親王と敦道親王)はほんとうに可愛らしい少年であられる。

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定子の入内 ・ 望月の宴 ( 34 )

2024-03-13 20:31:26 | 望月の宴 ①

        『 望月の宴 ( 34 ) 』


さて、内大臣殿(道隆)の大姫君が入内なさいました。
この大姫君は定子さまと申されますが、このお方は一条天皇の寵愛を受け、道隆殿を中関白家として宮廷権力の頂点に導くのに大きな影響を与えたお方と言えるのではないでしょうか。
また、その一方では、枕草子の作者清少納言がこよなく敬愛したように、類い希なる優れた容姿に加えて、知性と優雅さに満ちたお人柄は、帝が溺愛なされたのもむべなるかなと思われます。しかも、のちには、中関白家の没落とともに悲運に陥れられたうえ、その余りにはかない生涯には、多くの人が涙したのでございます。そして、そのことも含めて、この中宮定子こそは、この王朝を代表する女性の一人と申し上げてよいのではないでしょうか。
お話がそれましたが、大姫君の入内のご様子は、それはそれはたいそうな盛儀でございました。大姫君は十六歳ばかり(史実は十五歳)で、十一歳の帝より年長でございますが、まさに輝くばかりでございました。
そして、その夜の内に女御になられたのでございます。
さらに、道隆殿の小姫君(原子)のいとけないご様子に、注目と期待が寄せられているのでございます。

このようなご様子を見るにつけましても、大納言殿(道兼)は、まことにうらやましく、女君がおいででないことを残念に思っておられたことでございましょう。
粟田という所に、たいそう立派な邸宅を造り、えもいわれぬ風情に仕立て、そこにお通いになり、御障子の絵には歌枕にある名所を描かせて、しかるべき人々に歌を詠ませられています。
世に伝わる絵物語を書き写されたり、女房を大勢集められて、ひたすら将来に備えて準備されているそうですが、人々は、まだ女君がいらっしゃらないのにと、可笑しく思っておられるのも当然かと思われます。

この道兼殿の男君たちの中で最年長であられる君を福足(フクタリ)君と申されましたが、一昨年の八月に病となり、あっけなくお亡くなりになられました。まことに残念なことでございましたでしょうが、この君につきましては、とかくの噂がある君で、世間の人からも愛想を尽かされたので世を早められたとの噂がございました。


内大臣殿(道隆)の正室がお生みになった三郎君(隆家)は、ただ今は四位少将などでいらっしゃる。その方も、福足君と似て手に負えなくいらっしゃるが、さすがにこちらはまだしもとお見受けする。
四郎君(隆円)はまだ幼くいらっしゃるが、法師におさせになり、小松の僧都(実因)という人に弟子入りなさった。
あれこれの腹違いのご兄弟たちは、大千代君(道頼、祖父兼家の養子になっている)よりほか、まだこれといった官職にお付けになっていない。

大殿(兼家)は長い間独り身でいらっしゃったので、御召人(メシウド・女房でありながら妻妾に準じた扱いを受けている人。)の典侍(ナイシノスケ)の扱いは、年月を経て北の方並になり、世間の人はこの人に名簿(ミョウブ・姓名、官位などを書いた札で、入門したり、家人として仕えたりするときに差し出す。)を送り、司召(ツカサメシ・京官除目)の折りにはもっぱらこの局に集まった。
この典侍という人は、冷泉院の女御(超子)にお仕えして大輔と称していた人である。

大殿が摂政になられた当初、このように独り身であられるのは悪しきことだととて、村上先帝の皇女三の宮(保子内親王)は、按察の御息所(アゼチノミヤスドコロ・正妃)と申し上げた方の御腹に男三の宮と女三の宮がお生まれになったが、その女三の宮を、この摂政殿は奥ゆかしくすばらしいお方と思いを寄せられて、お通いになられたが、すべて思い通りにならず、ご縁は絶えてしまいましたが、そのことを女三の宮もお気になさり、ご心痛の余りお亡くなりになったのである。
こうしたことも、この典侍の幸いに格別であったのであろう。

また、円融院の御時に、中将の御息所などというお方は、元方民部卿の孫にあたる女君である。後に摂政殿のもとに参られたが、まるでこの典侍の他には女人がいるとは思っていないかのような年来の有様である。
三の宮(為尊親王)や四の宮(敦道親王)の御乳母たちも典侍に劣らぬ容姿の持ち主であったが、戯れにさえ色めいた言葉をおかけになることはなかったのである。

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中関白家 ・ 望月の宴 ( 35 )

2024-03-13 20:30:59 | 望月の宴 ①

        『 中関白家 ・ 望月の宴 ( 35 ) 』


こうしているうちに、大殿(兼家)は病気になられましたので、何かにつけ危惧されることがあり、大殿のご子息方(道隆、道兼、道長らを指す)も皇太后宮(詮子・兼家の娘)もあらん限りのご回復への祈祷をなさった。
この二条院は、もともと物の怪の恐ろしい所で、その気配も恐ろしいと申されている。さまざまな御物の怪の中には、あの三の宮の霊が入り交じっているのも、たいそう哀れである。(三の宮( 保子内親王 ) は、兼家の愛情が急速に薄れたため、悲嘆のうちに亡くなったとされている。)

「やはり、場所を変えて養生なさいますように」と、殿方たちが申し上げられたが、大殿は、この二条院をどこよりもすばらしい所と思っておられるので、聞き入れようとなさらない。
そのうちに、病状がさらに恐ろしいことになったので、東三条院(兼家のもともとの居宅。)にお移りになった。皇太后宮もたいそう心を痛めお嘆きである。
大殿は、摂政もご辞退なさりたい旨を奏上なさったが、なおしばらくはこのままにということで過ごされているうちに、お苦しみの様子がいよいよ恐ろしい状態になったので、五月五日のことなので、菖蒲の根ではないが、音(ネ)をあげて泣く涙のかからぬ御袂(タモト)はない。
遂に、太政大臣の御位も、摂政をもご辞退になられた。なおこの後は、関白などと申し上げるのが穏当かと思われた。


この後も、大殿のご病状は重態のままでございましたので、五月八日に出家なさいました。
そして、この日に、摂政の宣旨を内大臣殿(道隆)がお受けになられました。後世、中関白家と呼ばれることになる、道隆殿の世の始まりともいえる宣旨でございます。
ただ、大殿が大変お苦しみの中でのご就任ですから、お喜びを表すわけには参りませんでした。
大殿は、今度ばかりはこれが最期だと思われたのでしょうか、お気持ちが乱れて、二条院をそのまま寺院に改造なさいました。もし、平癒なさることがあれば、そこにお住まいとのお考えのようでございました。
お屋敷内の方々は、皆様途方に暮れていらっしゃいますが、もう、快方に向かわれることを期待できない様子でございました。

摂政となられた道隆殿のご様子は、たいそう張り合いがあってひときわご繁栄をうかがわせておいでです。北の方(高階貴子)のご兄弟は、明順(アキノブ)殿、道順(ミチノブ)殿、信順(サネノブ)殿などといって、大勢いらっしゃいます。
道隆殿の摂政任命の宣旨を伝える役には、北の方の御妹の摂津守為基の妻が任ぜられました。
北の方の御親(高階成忠)もまだ健在であられます。
大殿のご病気が重態であられることを、誰もが同じ気持ちで平癒を祈願されているように見えてはおりました。

こうした中で、摂政となられた道隆殿は、帝のご内意を頂いて、まずは、わが娘である女御の定子さまを后にお立て申すべく、あれこれとご準備を進めておいでです。
ご自身が第一位の人になられたのですから、万事につけ今は思いのままでいらっしゃる上に、これら一族の方々にも促されて、六月一日に女御は后の位にお就きになられました。後世までも語られる、中宮定子さまの誕生でございます。
ただ、世間では、大殿がご重態であられる折、今少しお待ちになることが出来なかったのか、などといった取り沙汰もされているようでございます。
中宮大夫(中宮職の長官)には右衛門督(ウエモンノカミ・道長)殿を任命なさいました。何とも意味深長なものが窺える配置とも思われ、道長殿はどう思われましたことか、受任はなさいましたが、まるきり中宮さまのおそばに寄り付かないとのお噂ですから、道長さまのご気性もなかなか剛毅なものでございます。

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兼家の薨去 ・ 望月の宴 ( 36 )

2024-03-13 20:30:35 | 望月の宴 ①

        『 兼家の薨去 ・ 望月の宴 ( 36 ) 』


そうこうするうちに、大殿(兼家)のご病気は、あらゆる手当の甲斐もなく、七月二日にお亡くなりになった。
誰もが哀れで悲しい御事として、途方に暮れていらっしゃる。今年、御年六十二におなりだった。七、八十まで生きている人もいらっしゃるのに、情けなく残念なことだと思い惑われている。大殿は、入道していらっしゃったので御諡(イミナ)はない。(太政大臣経験者には、死後に諡が送られるが、出家した場合には諡はない。)
弾正宮、師宮(ダンジョウノミヤ、ソチノミヤ・・為尊親王と敦道親王のことで共に冷泉天皇の皇子。兼家の娘である生母の超子が亡くなった後、兼家が養育していた。)は悲しみのあまり途方に暮れていらっしゃるのも、無理からぬ事と拝察される。

大千代君(道頼・・道隆の庶長子であるが兼家の養子になっていた。)はこのころ蔵人頭ぐらいでいらっしゃるが、今は小千代君(伊周・・道頼の異母弟)に追い越されることになるだろうと、さまざま取り集めてお嘆きになられるのも、お労しいことである。
東三条院の廊、渡り殿をみな土殿(板敷きの廊などの板を取りはずして喪に服した。)に造りかえて、后宮(詮子)や殿方が籠もられている。東宮(居貞親王・・父は冷泉天皇、母は兼家の娘超子)は、ひときわ沈んでいらっしゃる。
葬送や法要など次々の御事は、限りなく盛大に行われる。後々のご供養は、申し分なく立派に営まれたと拝される。


さても、兼家殿の崩御は、まことに多くの方々に波風となって伝わって参りました。
藤原有国殿も、兼家殿の格別の知遇を得ていたお一人でございます。有国殿は受領級の家柄の出身ですが、兼家殿が摂政に就かれた頃には、平惟仲と有国を「左右の眼」と表され、道隆殿がお立場を奪われると心配されたことがあると言われています。また、宴席において、有国殿が道隆殿に杯を勧めるという非礼もあったとも伝えられているのでございます。(杯は上位の者が下位の者に与えるものとされていた。)
その有国殿が、粟田殿(道隆の弟の道兼)の御邸にしばしばお出入りしていると伝わっており、何とはなく気になるお噂ではございます。

二条院は、ただ今は法興院(ホコイン)と申し上げますが、兼家殿のご法要の間に、多くの仏像をお造り申し上げて寝殿に安置されておりますので、八月十余日に四十九日の法要がそこで行われました。
この春に行われました大饗の折には紅梅が満開でございましたが、今は、梢が繁っているばかりでございます。

やがて年月も暮れて、正暦二年(991)となりました。
しかし今年は、宮の御前(詮子)もご兄弟方(道隆・道兼・道長ら)も服喪中ということで行幸もございませんでした。

摂政となられた道隆殿の御政は、ただ今は格別変化がないようでございます。道隆殿のご気性もまことに高貴でご立派であられますので、ご非難を受けるようなことはございません。
ただ、北の方(貴子)の御父君の高階成忠殿を二位に昇らせなさいましたので、世間では高二位と称されているようでございます。年老いてはいらっしゃいますが、大変な学才の持ち主だとかで、人柄がふつうではなく不気味で恐ろしい人物だとのお噂もございます。
北の方とご同腹のご兄弟を、然るべき国々の守などに任命なさいましたが、高階の御家がさして尊いとも思えないだけに合点かいかない、といった世間の声も聞こえてきてはおりました。

その北の方は、もともと道心の深いお方でございますので、常に経をお読みになり、山々寺々の僧たちをお労いになられますので、たいそう感謝されているとのことでございます。

そうこうしているうちに、円融院がご病気となり、世間は大騒ぎとなりました。
帝(一条天皇・・円融帝の皇子)は、今年は行幸をなさっていないことを気にされていて、お見舞いの行幸の準備をお急ぎになり、吉日(ヨキヒ)を選んで行幸なさいました。
帝は、今は元服もお済ませになり、すっかり大人びていらっしゃるのを、院はつくづくとご対面の甲斐があったとのご様子でございました。然るべき御領の所々、然るべき御宝物などを目録になさっていて、それらのすべてを帝に差し上げられました。
帝も、まだ年若うございますが、院のご容態をたいそうご心配なさっていて、院は何も申されることもなく、感慨無量のようでございました。
名残は尽きませぬでしょうが、御物の怪(元方の霊など)も恐ろしいことでもあり、「早々に還御なさるように」とお返しになられたそうでございます。


さて、その後も院のご容態が気掛かりで、いかにいかにとご心配申し上げていらっしゃるうちに、数日を経て、正暦二年二月十二日にお亡くなりになられた。
長年おそばにお仕えした僧も俗人も、殿上人も判官代(院司の一つ。五位相当官。)も、涙を流し動転するばかり。何ともいいようもない有様である。
仁和寺の僧正(寛朝)と申す方は、土御門の源氏の大臣(源雅信)のご兄弟であられ、仁和寺の親王(敦実親王)と申された方の御子でいらっしゃるが、この方もたいそうお嘆きである。
かの釈尊入滅のごとき心地がして、「大師入滅、我随入滅」と憍梵波提(キョウボンバダイ・釈迦十大弟子の一人。)が言って水になって自ら流れていったという伝承と、同じ境地の人々もたいそう多い。哀れに悲しいと言うも愚かである。 
帝は先日の行幸の折の院の御有様を偲ばれて、恋い悲しまれていらっしゃった。

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退位後の花山帝 ・ 望月の宴 ( 37 )

2024-03-13 20:30:14 | 望月の宴 ①

        『 退位後の花山帝 ・ 望月の宴 ( 37 ) 』


かくて、この円融院の御葬送、紫野にて執り行われた。その時の御有様は想像されたい。
先年の御子の日(ネノヒ・正月の最初の子の日に、紫野などの郊外に出て、小松の根を引き、青菜を摘んで宴を催した。子の日の遊びという。)に、このあたりの景色が何とすばらしかったかと、思い出すにつけても、しみじみと悲しく、閑院の左大将(朝光・兼通の子)は、
 『 紫の 雲のかけても 思ひきや 春の霞に なして見んとは 』
( 紫野の 空にかかる紫雲を眺めても 全く思ってみなかったことだ 春霞のように 院を荼毘に付す煙を 見ることになろうとは )
と詠じた。
行成(伊尹の孫)の兵衛佐は、たいそう若かったが、これを聞いて、一条の摂政(伊尹)の御孫の成房の少将の御もとに、
 『 おくれじと 常のみゆきは いそぎしを 煙にそはぬ たびの悲しさ 』
( これまでは 常の行幸には 遅れまいと用意をしていたが 煙となられ お供できない旅の 悲しいことよ )
など、多くの方が詠まれたが、ただ悲しい御事ばかりが心に満ちて、みな、誰がどう詠んだのか覚えている人もなく、やがて帰途につかれた。
御忌みのさまざまな事は、たいそう悲しいことばかりである。院とゆかりある殿方は、籠居されている。

その頃、桜の花が美しく咲いた枝を人のもとに届けようとして、実方の中将(師尹( 師輔の弟 ) の孫)が次のように詠んだ。
 『 墨染の ころもうき世の 花盛り をり忘れても 折りてけるかな 』
( 誰も墨染の衣を着て 辛く悲しい思いをしているときに 桜の花盛りとなった それをもてはやす折でもないが ついひと枝折ってしまった )
この歌も、興趣深いと伝えられた。
世の中は、諒闇(リョウアン・天皇が父母やそれに準ずる人の喪に服すこと。)であって、栄えないことばかりである。


さて、花山帝(円融院と現天皇 ( 一条天皇 ) の間の天皇。)は、落ち着きなく、あちらこちらに参られているようでございます。
熊野ご参詣の途中では、ご気分が悪くなられたとかで、海人(アマ)が塩を焼くのをご覧になって、このような御歌をお詠みになっております。
 『 旅の空 夜半の煙と のぼりなば 海人の藻塩火 たくかとや見ん 』
( 旅先で 我が命果てて 火葬の煙となって空に昇ったならば 世の人は 海人が焚く 藻塩の煙だと 見ることだろう )
旅をお続けの中で、こうした御歌を数多くお詠みになられたということでございますが、まことに惜しいことでございますが、しっかりした人がお供にいらっしゃらないので、ほとんど記録されていないとのことです。

このように、花山帝はあちこち巡行なさって、円城寺(エンジョウジ・熊野あたりの庵室か? 三井寺(園城寺)という説もある。)という所においでになり、桜がたいそう美しいのを見て回られて、ひとり言のようにお詠みになった御歌がございます。
 『 木(コ)のもとを すみかとすれば おのづから 花見る人に なりぬべきかな 』
( 桜の木の下を 住処にしていると いつの間にか 花見を楽しむ俗世の人に なってしまいそうだ )
胸打たれる御歌ではありますが、まことに畏れ多いことでございます。
一条の摂政の北の方(恵子女王。醍醐天皇の孫にあたり、花山帝は醍醐天皇の曽孫にあたる。)は、姫君の九の御方(のちに、花山帝の弟である為尊親王と結婚している。)と共に東院(ヒガシノイン・恵子女王から九の御方を経て花山帝に伝領されたので、花山院とも呼ばれた。)にお住まいになっていらっしゃいますが、花山院に何とかお会いしたいものとお考えでしたが、このように修行三昧のご様子では、そのように俗世間に足をお向けになることなど有り得ぬことでございました。

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宣耀殿の女御 ・ 望月の宴 ( 38 )

2024-03-13 20:29:52 | 望月の宴 ①

        『 宣耀殿の女御 ・ 望月の宴 ( 38 ) 』


円融院の御法事は、三月二十八日に、そのまま同じ院(円融寺)にて催された。殿上人(院の殿上人)などで、長年、院のご愛顧を受けておられた方々には、一条帝から格別のご配慮があるに違いない。
そして、その年のうちに、右大臣(為光。兼家の異母弟。)が太政大臣になられた。
右大臣には、六条の大納言(源重信)が就かれた。土御門の左大臣(源雅信)のご兄弟である。

東宮(居貞親王)は十五、六歳ばかりであられたが、ある僧が経を尊く読誦したので、常に夜居(ヨイ・僧が加持祈祷のため寝所近くに詰めること。)させられて、世間話などさせるついでに、小一条殿(藤原済時)の姫君の御事をお聞かせ申し上げたところ、東宮は、姫君のことがお耳に留まり関心を持たれ、この僧を毎夜お召しになっては経を読誦させ、夜の世間話の折には、この小一条の事ばかりを話題にされて、「この事が必ずうまくいけば良いのだが」などと、たいそう真剣に仰せられであった。
この事を、僧が大将(済時)に申し上げたので、大将は、「このまま放っておくわけにはいくまい。花山院からの申し出の時はうまく逃げることが出来たのだ。帝はとても若年(この時十二歳)でいらっしゃるうえに、内裏には中宮(定子)までいらっしゃるので、何かと気を使わされる。東宮には、麗景殿(レイケイデン・兼家の娘 綏子)が参られているが、それは辛抱しよう(綏子の父兼家はすでに亡くなっている)」などと思われて、その支度を急がれる。
この姫君(娍子)は、十九歳ばかりでいらっしゃった。

いくらかの御調度品などは、先帝(村上帝)の御時に、この大将の御妹である宣耀殿女御を村上帝がたいそう可愛がられ、多くの御調度品を作ってお与えになられた。
それらの物は、御櫛の筥(オンクシノハコ・櫛など化粧品を入れる箱。)をはじめ屏風などに至るまで、まことに立派に保存されておいでなので、そうした御調度類は支度の必要がないので、ただ姫君の御装束と女房の装束ばかりをご用意なられる。
姫君の御母上は、枇杷の大納言延光(源氏)という御方の娘であられるので、東宮とのご縁もすっきりとお似合いである。(東宮も姫君も四代遡れば醍醐天皇に繋がる。)


ところで、村上帝は箏の琴(ソウノコト・十三絃の琴)の名手であられましたが、宣耀殿女御にご伝授なさいましたが、その折、この大将殿(済時)にもお教えになられました。
大将殿はこの姫君に箏の琴を教えられましたが、その腕前は御父上をすでに上回り、さらに当世風の華やかさも加えられ、実にすばらしいものだそうでございます。
妹の中の君(のちに敦道親王の室。)には、琵琶を習わせたそうでございます。

大将殿は、姫君をそれはそれは大切に養育なさいましたが、妹の中の君とはお扱いに相当の差があったようでございます。
そのようなこともありまして、中の君は祖母である師尹殿の北の方が引き取って養育なさいました。そのお方は高齢でいらっしゃいましたので、中の君には婿取りして良い北の方にと思われておりましたが、大将殿が同意なさらないので、たいそうご不満とのことでございます。

一方、姫君の方は、準備をお急ぎになり、十二月の初めに東宮妃として入内なさいました。以前に、大将殿の妹芳子さまが、宣耀殿女御として村上帝に入内したことを思い出されましてか、同じように宣耀殿にお住まいになられました。
そうした甲斐がありまして、姫君は東宮の御寵愛一方ならぬとのことでございます。
大将殿のお喜びは大きく、これで、わが大切な娘をおろそかに思うものなど誰もいるまいと思われ、また口にもされているとのことでございます。

麗景殿女御は、東宮の御寵愛がそれほどでもないとのお噂でございますが、ただ、この御方は、何かと華やかで親しみやすく振る舞われるとのことで、その御殿は気安くお話しできる場所として、殿上人などは見ているとのことでございます。
一方、宣耀殿女御の御殿は、たいそう奥深く気の張る所と取り沙汰されているようでございます。

この宣耀殿女御の御兄は、このころ内蔵頭(クラノカミ・内蔵寮の長官。従五位下相当。)に任じられておりました。(「通任」らしいが、その場合は弟になる。)
このお方は、父の大臣(済時)殿にはあまり似ておいでではなく、実におっとりとしたお方だと皆様が申されております。長命君という侍従でいらっしゃったお方(相任。従五位下侍従。十六歳の時に出家している。)は、出家してしまわれたので、父の大臣殿は、「今、この子がいて、あの子がいないのが残念なことだ。姫君が東宮に入内されたこうしたときに、長命君が居ればどれほど良かったことか」とお嘆きのご様子でございます。
済時殿の甥の実方の中将殿は、たいそう風流なお方として知られておりますが、その中将殿を宣耀殿女御は何かにつけお引き立てなさっておりますが、ただ今は、この上ないご身分となられておりますので、入内の甲斐があるということでございましょう。

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大千代君と小千代君 ・ 望月の宴 ( 39 )

2024-03-13 20:29:29 | 望月の宴 ①

        『 大千代君と小千代君 ・ 望月の宴 ( 39 ) 』


摂政殿(藤原道隆)の弟君のうち一番上の君(道綱)は、宰相(参議の唐名)でいらっしゃる。粟田殿(道兼)は、内大臣におなりになった。中宮大夫(道長)は大納言におなりになった。
大千代君(道頼・・道隆の庶長子であるが兼家の養子になっている。)は、中納言におなりになった。小千代君(伊周(コレチカ)・道隆の三男であるが嫡男扱い。)は三位中将でいらっしゃったが、この方も中納言になられた。
いつものことながら、そうなるはずの人ばかりが昇進なさるようである。

新中納言(道頼)の北の方(藤原永瀬の娘)は、山井(ヤマノイ)という所にお住まいなので、山井の中納言と申し上げる。
小千代君は、あの大納言殿(源重光)の姫君である北の方が、たいそう可愛らしい若君(道雅)をお生みになったので、祖母北の方(重光の北の方)や摂政殿(道隆)などは、得がたい宝物として大切に養育なさる。松君と申すとのことである。
摂政殿がお屋敷にお迎えしては、乳母にも若君にも様々な御贈物をされてお帰しなさる。女房方も、いつしかこの若君の成長を待ち遠しく思っていることだろう。


こうして月日は流れ、正暦三年(992)になりました。
何とも哀れなことが多く、はかない世の中でございます。
二月には、故円融院の御一周忌が催されました。これにより、世間は喪服の薄鈍色(ウスニビイロ)の御衣装も終りとなり、平常の華やかな服装が戻って参りましたが、それだけで、何もかもが引き立って見えるものでございます。
摂政殿には姫君方が大勢いらっしゃいますが、まだ幼い方々なのが、摂政殿にはもどかしいことでございましょう。

ところで、中宮大夫であられる道長殿は、土御門の北の方(倫子)様も、宮の御方(明子)様も、昨年からご懐妊のご様子で、まことにおめでたくも賑々しいことでございます。
倫子様のもとには、左大臣殿(倫子の父源雅信)が、いかにいかにと安産のご祈祷をなさっておられます。
明子様には、故円融院の后であられた詮子様がお越しになられ、然るべきご祈祷を指図なさっておられるとか。何と申しましても、詮子様は、今上天皇(一条天皇)の生母であられますし、明子様を養女になさっておられますから、母代わりということなのでございましょうか。

六月十六日には、一条の太政大臣藤原為光殿がお亡くなりになりました。御諡(オクリナ)は恒徳公と申されます。
御娘の花山院の女御忯子様が亡くなられてからは、法師よりもご熱心に勤行三昧をお続けでございました。法住寺をまことに立派に造立なさって、明け暮れその寺に籠もっておられたとのことでございます。
為光殿の御嫡男(誠信)は、東宮権大夫でいらっしゃいます。もうお一人(斉信)は、中将でございます。
その中将殿が、この四月の賀茂祭の使いにお立ちになられましたので、為光殿はあれこれと立派に支度のうえ御役につけさせられ、ご自分は、粗末な御車に乗って行列をご覧になり、使いの君が通り過ぎられますと、他のものを見ようともしないでお帰りになってしまわれましたが、世間の人々は、その事を思い出して痛ましく噂されているのでございます。

為光殿の姫君は、なお、忯子様の同腹のご姉妹として三人いらっしゃいます。その三の御方を寝殿の御方と申し上げて、特に大切になさっていらっしゃいました。
四の御方と五の御方もいらっしゃますが、故忯子様と寝殿の御方とだけを格別に大切になさっていたそうでございます。為光殿は、「女子は器量が大切だ」などと仰せられていたそうですので、四の御方、五の御方は如何なのかとの噂もございます。
ただ、三の御方と四の御方をめぐりましては、花山院と伊周(道隆の子)殿との間で確執があり、大事を引き起こしております。また、四の御方は、後年、道長殿とご縁のある御方でございます。

為光殿の御法事は法住寺で行われました。
為光殿の一条殿は、並大抵のお邸ではなく、堂々とした大邸宅でございますから、太政大臣であられた為光殿が亡くなりますと、ふつうのお方で住みづらく、次第に荒廃していくのがいたわしいことでございます。
この御邸とあらゆる御財産は、三の御方が御相続なさったそうでございます。

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