雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

兼通の天下へ ・ 望月の宴 ( 10 )

2024-03-13 20:41:21 | 望月の宴 ①

        『 兼通の天下へ・ 望月の宴 ( 10 ) 』


さて、政権の頂点にお立ちになった一条の摂政殿(藤原伊尹 コレマサ )でございますが、ご体調が勝れず、水だけをお飲みになっておられましたが、御年もまだ若くていらっしゃいますし、摂政になられて三年になっており、ご心配しながらも回復なさるだろうと頼りに思っているうちに、幾月かが過ぎました。
この間、参内なさることもなく、世間の嘆きの元となっておりました。

九月半ばのことである。
摂政殿のお見舞いに、ご子息の義孝の少将(伊尹の四男)の御許に、ある人が、ご様子はいかがですかとお尋ね申したところ、少将はこのようにお返しになった。
『 夕まぐれ 木繁(コシゲ)き庭を ながめつつ 木の葉とともに 落つる涙か 』

このように どうなることかとご一家こぞってご心痛のうちに、天禄三年十一月一日に摂政殿はお隠れになった。
女御(冷泉院女御懐子)をはじめとして、女君達(オンナキンダチ・姫君方)や前少将(三男挙賢)や後
少将(義孝)等と申し上げる方々、悲しみに動転なさっているのも世の常というものである。
その中でも後少将は、幼い頃よりたいそう道心が深く、法華経を明け暮れに読誦なされ、いっそ法師になってしまおうかというお気持ちであったが、実は、桃園の中納言保光と申されるお方は故中務卿の宮代明親王(ヨアキラノミコ)の御子であるが、その姫君のもとに後少将は数年通っておられて、可愛らしい男の子を儲けていて、その子らを見捨てがたくて、すべて辛抱しておられるのであった。

こうして御忌(オンイミ・服喪期間。ここでは四十九日間。)の間は、何事も悲しみのうちにお過ごしになった。御法事などはあるべき限りを営んで過ぎた。
そして、もうこれで終わりということで人々が退出するときに義孝の少将がお詠みになった歌は、
『 今はとて とび別れぬる 群鳥(ムラドリ)の 古巣にひとり ながむべきかな 』
修理大夫惟正(スリノカミコレマサ・源氏)の返歌は、
『 翼(ハネ)ならぶ 鳥となりては 契るとも 人忘れずは かれじとぞ思ふ 』
( あなたとは 比翼の鳥となって 契りを結ぶ仲と思っています 私を忘れずにいてくださるなら 決して離れることはいたしません )

故摂政殿は、今年は四十九歳であられた。太政大臣として亡くなられたので、後の諡(イミナ)を謙徳公と申し上げる。


こうして、次の摂政には、すぐ下の弟で、九条殿(師輔)のご次男の内大臣兼通殿が就かれました。

やがて、年号が変わり、天延元年 ( 973 )となりました。
すべてがめでたい世の有様で、兼通殿の御娘の女御(媓子)を早く皇后にしたいと急いでおられました。
前の摂政殿が、東宮(師貞親王)のご即位を見届けることが出来なかったこ
とを、人々が同情されている様子が伝わって参ります。
そして、この年の七月一日、摂政殿の御娘である女御が皇后となられ、中宮と申し上げることになりました。
帝(円融天皇)は、御妹の一品宮(イッポンノミヤ・資子内親王)の御もとへ、そして中宮の御もとへとお通いなさっています。宮中のご様子全体が、今風に華やいでいます。

この摂政殿を堀河殿とおよび申していますのは、その御邸の名前からでございますが、今は関白殿と申し上げるようでございます。ご子息方も四、五人いらっしゃって、やはり、今風に華やかで、わが世の春といったところでございますのでしょぅか。

     ☆   ☆   ☆


 

 

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兼通 兼家兄弟の争い ・ 望月の宴 ( 11 )

2024-03-13 20:40:55 | 望月の宴 ①

        『 兼通 兼家兄弟の争い ・ 望月の宴 ( 11 ) 』


さて、九条殿(藤原師輔)が、藤原氏一族の中で抜きん出た存在となりました。
薨去なさいました後は、ご長男の伊尹(コレマサ)殿が摂政となられましたが、四十九歳にて世を去ってしまいました。

その後には、次の弟君兼通殿が、数人の上席の方々を越えて、権中納言から内大臣摂政となられました。御娘の女御も立后なされ、まさにわが世の春というめでたさでございます。
ただ、それも、九条殿のご子息方の激しい権力争いの入り口でございました。


九条殿の三郎君(三男・兼家)は、この頃は東三条の右大将大納言などと申し上げている。
御娘の冷泉院の女御(超子)がたいそうご寵愛を受けていることを、嬉しく思っていらっしゃるに違いない。
中姫君(詮子)の入内の事をどのように実現させようかと思っていらっしゃったところ、帝のご内意があって仰せ事が寄せられたので、ぜひにと思われたが、今の関白殿 ( 兼通 ) といえば、もともと関白殿と東三条殿 ( 兼家 ) との二人の御仲はよろしくない上に、中宮がすでに入内されておられるので、気兼ねせずにはいられないのであろう。

こうしているうちに天延二年になった。
関白殿が太政大臣になられた。肩を並べる人とてないご様子であるにつけても、ただ九条殿一族のご繁栄ばかりを世間はもてはやしている。
小野宮殿 ( 藤原実頼・九条殿の兄 ) の御次郎 ( 次男 ) 頼忠の大臣とこの関白殿との御仲は極めて良く、あらゆる政 ( マツリゴト ) を二人で相談されていたのである。

この年には、世間にもがり ( 天然痘 ) というものが流行していて、大勢の人々が、身分の上下を問わずこの病にかかって大騒ぎとなり、公私ともども憂慮の元となった。
身分の高い家の男も女も亡くなる人がたくさんいると取り沙汰されているが、その中でも、前摂政殿 ( 伊尹 ) の子息である前少将 ( 挙賢 ) と後少将 ( 義孝 ) のご兄弟が、同じ日に続いて亡くなられ、母の北の方がたいそう悲しみ嘆いていることを、人の世の哀れのためしとして噂しあった。とてもその様子を、そのまま伝えるすべもない。


この東三条殿 ( 兼家 ) と関白殿 ( 兼通 ) の御仲がことに険悪であることを、世間では不思議なことと思っていました。
なんとかして。東三条殿を蹴落としてやりたいとの一念を関白殿は抱き続けておりましたが、そのようなことが実現するはずもございません。
東三条殿は、何としても中姫君 ( 詮子 ) を入内させようと願っており、結局は何も恐れる必要もないと決心なさって、密かにその準備を進めておりました。

このお二人の堀河殿 ( 邸 ) と東三条殿 ( 邸 ) とは、わずかに閑院 ( 邸 ) を隔てているだけですので、 東三条殿に参上する馬や牛車を兼通殿の方では、誰それが来たなどと家人が言うのを聞くと、「誰それは、あちらに追従しているのだな」などと意地悪くおっしゃるようで、それが恐くて、夜遅くに参上する人もいるようです。
そうした関係の中で、兼家殿は、今日明日にも中姫君を入内させようと決心なさったらしいことを兼通殿が伝え聞くと、「実に目に余るやり方だ。中宮 ( 兼通の娘・媓子 ) がちゃんとしておられるのに、あの兼家めが、こんなことを企んでいるとはとんでもないことだ。きっと、この私をどれほど呪っているのか」などと口癖のようにいっているものですから、兼家殿も厄介なことだと思われて、ひとまずは断念なさいました。ただ、やがては、自然に道は開けるものと思っていらっしゃいました。

     ☆   ☆   ☆

 

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兼家窮地に ・ 望月の宴 ( 12 )

2024-03-13 20:40:31 | 望月の宴 ①

        『 兼家窮地に ・ 望月の宴 ( 12 ) 』

いつの間にか改元されて貞元元年 ( 976 ) となりました。
兼家殿のご息女である冷泉院の女御 ( 超子 ) は、昨年の夏以来ふつうのお体ではございませんでしたが、ご出産は二月か三月ということで、安産のお祈りなどを盛大に行っておりましたが、それを聞きつけた兼通殿は、「東三条の大将 ( 兼家 ) は、『冷泉院の女御、男御子を生みたまえ。世の中を造り変えよう』といっているそうだ」と言い回っているらしいので、兼家殿は不快に思いながらも、いっそうご祈祷に努められているそうです。

そして、三月頃に、まことにご立派な男御子をお生みになりました。居貞親王とおっしゃることになる御子でございます。
冷泉院は、正常ではないお心になっておられましたが、平常にかえっておられますときには、かわいがられているご様子でございます。
兼通殿は、「何とめでたいことだ。東三条の大将は院の二の宮を得ることが出来て、得意満面であろう」と、まるで間が抜けたようにおっしゃるのを、兼家殿はその言葉に悪意を感じて、穏やかならぬ思いでございました。
この男御子のご誕生も、お二人の仲をさらに険悪なものにしたようでございます。


こうしているうちに、内裏が焼亡してしまい、帝の御座所が見苦しくなったので、堀河殿 ( 兼通邸 ) をたいそう立派に磨き立て、内裏と同じように改装して、もとの内裏ができあがるまで帝が滞在できるように造営をお急がせになった。
貞元二年三月二十六日に、この堀河院に行幸なさるとあって、天下をあげてその支度に追われた。
その日になって帝はお渡りになった。中宮 ( 媓子 ) もすぐさまその夜にお移りになり、堀河院を今内裏と呼んで、世間ではたいそうもてはやした。

こうしているうちに、大殿 ( 兼通 ) のお考えは、世の中というものは予測もつかないものなので、ぜひともこの右大臣 ( 小野宮の頼忠 ) を今少し昇進させて、自分の関白の職を譲ろうと思い立ち、今の左大臣兼明の大臣 ( カネアキラノオトド ) と申す方は、延喜の帝 ( 醍醐天皇 ) の第十六皇子でいらっしゃるが、そのお方が病気であると聞きつけて、もとの親王の地位にお戻し奉って、その左大臣に小野宮の頼忠の大臣を就任させなさった。右大臣には、雅信の大納言がお就きになった。


このように、兼通殿が実の弟である兼家殿を憎まれることは尋常ではございませんでした。
頼忠殿の上席である兼明の大臣殿も、親王に戻り中務卿に就かれたことを憤っていたと伝えられております。
そうこうしているうちに、兼通殿がご病気になられましたが、ますます兼家殿への敵愾心を燃やされ、今のうちに手も足も出ないようにしておいて、左大臣となった頼忠を摂政関白にさせようとの思いから、常々帝に、「あの右大将兼家は、冷泉院の御子 ( 居貞親王 ) を擁しまして、何かといえばこの御子をこの御子をと口にしたり、思ったり、祈祷したりしております」と言い続けられたのです。
帝は堀河院にお住まいになっておりましたので、兼通殿は閑院を仮の住まいになさっていましたが、体調の優れない中でも無理をおして帝の御前に参上なさって、兼家が無能であると奏上なさり、「このような人物が政界にいては朝廷にとって大事が出来いたします。ご用心なさるべきです」などと度々奏上なさいました。

そして遂に、貞元二年十月十一日に、兼家殿の大納言兼大将の職を取り上げて、治部卿に左遷したのでございます。
本当は、無官ということにしたかったのでしょうが、さすがにこれといった確かな罪状があるわけでもなく、このようになさったのでしょう。兼通殿の思い通りになるものであれば、あの恐ろしい筑紫国までも左遷したいと思っていたのでしょうが、相当する過失がなく実現できなかったのでしょう。
後任の大将には、小一条の大臣 ( 師尹 ) の御子の済時中納言殿が就任なさいました。
治部卿となった兼家殿は、邸の門を閉じて、あまりにもひどい世の中を恨み、むせび嘆いておられました。一家のご子息たちも出仕を控えられ、襲いかかってきた不運を耐え忍んでおられたのでしょうか。
そして、そのご子息方の中のお一人は、道長の御殿でございます。

     ☆   ☆   ☆

 

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兼家の復権 ・ 望月の宴 ( 13 )

2024-03-13 20:40:05 | 望月の宴 ①

        『 兼家の復権 ・ 望月の宴 ( 13 ) 』


こうしているうちに、堀河殿 ( 兼通 ) のご病状は一段と重くなり、もう回復の望みはないと世間では取り沙汰された。
先ごろ参内なさって、東三条の大将 ( 兼家 ) を失脚させなさった。そして今一度、内裏に参上されて様々のことをしっかりと奏上して退出された。一体どういうことを奏上なさったのかと、人々は知りたがったが何の沙汰もない。

こうして十一月四日、堀河殿は准三宮 ( ジュンサングウ・太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮に準ずる位。) に昇られた。そして、同月の八日に亡くなられた。御年五十三歳である。忠義公と御諡を申し上げる。悲しくて痛ましいことである。
それにしても、このようにいくばくもない御命でありながら、東三条の大納言 ( 兼家 ) をあれほどまでも嘆かせたのは情けないことである。
小野宮の頼忠の大臣に関白職をお譲りすべきと先日奏上されていたので、その願い通りにと帝は思し召して、同じ月の十一日、関白の宣旨をお受けになって、世の政 ( マツリゴト ) は、すべてこのお方に移った。
全く慮外のことと、世間では取沙汰申している。中宮 ( 兼通の息女媓子 ) は何かにつけお嘆きである。朝光の権大納言、顕光の中納言 ( ともに兼通の子息 ) などは悲嘆のあまり途方に暮れている。

東三条殿 ( 兼家 ) のご息女である冷泉院の女御 ( 超子 ) は、昨年お生まれになった男御子 ( 居貞親王 ) に続き、今年もまた御子 ( 為尊親王 ) がお生まれになり、将来がいかにも頼もしく見える。
堀河殿の後々の法要は通例通りに行われた。
 
 
こうして、年も改まりました。
左大臣 ( 頼忠 ) の有様は、まことに結構なことで、大姫君 ( 遵子 ) をぜひとも入内させたいものと考えておられました 。

いつしか月日は過ぎ、冬になりました。年号も改まって天元元年と申します。
十月二日に除目があり、関白 ( 頼忠 ) 殿は太政大臣になられました。左大臣には源雅信殿がお就きになりました。
東三条殿 ( 兼家 ) が罪もないのにこのような状態では納得がいかないことなので、太政大臣は度々奏上なさって、この度の除目で右大臣になられたのでございます。
これには、兼家殿ご本人のご努力もあったともいわれておりますが、やはり仏や神のご処置なのでございましょう。

帝のおそばには、中宮 ( 媓子 ) がいらっしゃるので、どなたもわが姫を入内させることに遠慮なさっておられましたが、兼通殿のあまりの仕打ちに、兼家殿は中宮に対して恐れることもなく、中姫君 ( 詮子 ) を入内させられました。
大殿 ( 頼忠 ) はわが姫 ( 遵子 ) こそ入内させたいものと考えておいででしたが、兼通殿のお心にご遠慮しているうちに、兼家殿は何のご遠慮もなく入内を実現させてしまったのでございます。それもこれも、兼家殿が兼通殿の仕打ちを今も強くお恨みだということなのでございましょう。

兼家殿の強引とも見える行動ですが、その甲斐あって輝きを増しているように見受けられるのでございます。中宮に対する軽んじられるかの対応も、かつての兼通殿の仕打ちを思えば、当然のことだという声もあるのでございます。
その東三条の女御 ( 詮子 ) は梅壺 ( 後宮五舎の一つ。「舎」は「殿」より規模が小さい。) にお住まいになっています。そのご様子は、とても可憐で気高くて美しいお方でございます。ご兄弟の公達方は、今や何はばかることなくご活動のようでございます。

さらに、東三条の女御の姉君である冷泉院の女御 ( 超子 ) は、皇子が三人になられました。この事もまた、兼家殿にとって先々頼もしいことでございましょう。

     ☆   ☆   ☆

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兼家の台頭 ・ 望月の宴 ( 14 )

2024-03-13 20:39:39 | 望月の宴 ①

        『 望月の宴 ( 14 ) 』


こうしているうちに天元二年 ( 979 ) となった。
梅壺の女御(詮子)はたいそうご寵愛を受けている。
中宮(媓子)は、この数か月どういうわけかご気分が勝れず、中宮職をあげて、また朝廷からも平癒のご祈祷がさまざまに盛大に行われたが、六月二日にお亡くなりになった。
帝は、あっけなく、あまりのこととたいそうご悲嘆なされたが、どうなるものでもない。
世間の人々は、例によって口うるさいもので、「東三条殿(兼家)の御幸いがありますぞ」「梅壺の女御が后におなりだろう」などと盛んに取沙汰している。
こうしたことで、相撲節会も中止となり、世間は何とはなく物足りない気分である。
関白殿(頼忠)は、中宮の葬儀や法要を執り行われた。ただ今の関白であられますし、堀河殿(兼通)のご恩をよくわきまえておられ、万端すべてお世話をされたのであろう。
中宮のご兄弟である権大納言(朝光)、中納言(顕光)などはたいそう嘆いておられる。


このような状況で月日は過ぎていきました。
その冬(史実としては、その時期は諸説がある。)には、関白殿の姫君(遵子)が入内なさいました。第一の家門の姫君の入内ですから、その儀式はたいそうご立派なものでございました。とりわけ、関白殿のお振る舞いは奥ゆかしいものであられました。
梅壺の女御は何かにつけ親しみやすく格別のご寵愛を得ておられますので、新しく入内なさった女御はどれほどのご寵愛を受けられるのだろうなどとの声もございますが、現在の関白である父上のご威勢を帝もお気遣いなさるでしょうから、おろそかになさることもありますまい、などといった声も聞こえて参ります。


どうしたことであろうか、こうしているうちに梅壺の女御の様子がいつもと違って苦しげになさっており、父の大臣(オトド・兼家)はどうしたことかと恐ろしく思っておられたが、何とご懐妊であった。
世間の取り沙汰も煩わしいので、一、二か月は隠しておられたが、そうとはいえ、いつまでも隠しきれることでもなく、三月目(ミツキメ)に奏上なさったところ、帝はたいそうお喜びであったに違いない。
梅壺の女御が里邸にお下がりになられようとするのを、帝はたいそうご心配で寂しいお気持ちであられたが、そのままというわけにもいかず、退出させられましたが、その間のご様子などは言葉に尽くしがたいものであった。しかるべき上達部(カンダチメ・上級貴族)や殿上人はみな残らずお供に奉仕なさった。
世間の人望は、みなこの東三条殿(兼家)に集中しているかのように見えた。

     ☆   ☆   ☆

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懐仁親王誕生 ・ 望月の宴 ( 15 )

2024-03-13 20:39:13 | 望月の宴 ①

       『 懐仁親王誕生 ・ 望月の宴 ( 15 ) 』


帝(円融天皇)も位にお就きになって長年になられたので、今は譲位なさりたいとお思いであるが、どうにもこうにも御子がいらっしゃらないことをたいそう苦になさっていたところ、男女いずれかは分からないが、梅壺の女御(兼家の娘・詮子)が懐妊なさったことをたいそうお喜びになって、然るべきご祈祷を数多くなさった。
長日(チョウジツ・日限を決めず、長期間行う修法。)の御修法(ミズホウ)・御読経など宮中においても始めさせられたが、それは盛大なもので、これでご安産なさらぬはずはあるまいと頼もしく見える。
関白殿(頼忠)は、こうした世の中の有様に心がふさぎおもしろくない思いであろう。されば、どうあろうとも、この自分が生きている限りは何としてもわが娘の女御(遵子)を后に据え奉らんとお考えなのであろう。


やがて、天元三年( 980 ) となりました。
三、四月頃に梅壺の女御の出産がおありの予定なので、そのためのご用意に大わらわでございます。内蔵寮(クラツカサ)においては、御帳台(ミチョウダイ・御座所とする帳)はじめ白一色の調度の数々をご用意なさります。殿の北の方(兼家の室、時姫)も様々のご準備をなさいました。ただ今の世において、慶事の例になるものとも言えましょう。
帝からは、夜昼の別もなく、御使者が絶えることがございませんでした。

いつかいつかと周囲の大騒ぎが続きます中、五月の末頃から産気づかれ、その月も過ぎた六月の一日の寅の刻(午前四時頃)に、まことにめでたく男御子を、いささかも苦しまれることもなく無事に出産なさいました。
この皇子、懐仁親王こそが、後の一条天皇として帝位に就かれ、我が殿・道長殿との縁の深いお方なのでございます。
まず最初に帝に奏上なさいますと、伝統に従って御剣(ミハカシ)を差し上げられましたが、その経緯などはまことにめでたいものでございました。七日間にわたる御産養(ウブヤシナイ・親類縁者が集まって子供の誕生を祝い、無事に成長することを願う儀式。)の有様などは、想像を超えるほどのものでございました。
東三条の御邸の門前は、この数年の間でさえ気安く往来できる所ではございませんでしたが、今は冷泉院の皇子たち三人がいらっしゃるだけでも並大抵の御邸ではございませんのに、さらに今上の帝の第一の皇子が誕生なさいましたのですから、当然のことですが、何方もが何かにつけてご機嫌伺いにこぞって参上なさいます。
女御のご兄弟の君達(公達)方は、父兼家殿の左遷などで、長年にわたって鬱々とした思いで過ごしてこられましたが、今はそれも解き放たれて、晴れやかなご気分になられていたことでしょう。
道長の殿も、そのお一人でございました。


こうしているうちに、また今年、内裏が焼亡した。
帝は閑院に御移りになられた。閑院は故堀河殿(兼通)の御領にて、ご子息の朝光大納言が住んでおられたが、他所にお移りになった。

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円融帝と兼家に隙間風 ・ 望月の宴 ( 16 )    

2024-03-13 20:38:48 | 望月の宴 ①

       『 円融帝と兼家に隙間風 ・ 望月の宴 ( 16 ) 』


梅壺の女御(兼家の娘詮子)が皇子を儲けられ、里邸にいらっしゃいました。
そのこともありまして、関白殿(頼忠)の女御(遵子)が帝のお側についておられましたが、ご懐妊の気配はございませんでした。
大臣はたいそう残念がって、心を痛めておられることでございましょう。
帝(円融天皇)は、梅壺の女御ご出産の皇子(懐仁親王)と一日も早い対面をお望みになられ、「御子をこっそりと参上させよ」などと仰せになられましたが、東三条殿(兼家)は世間の人が何を企んでいるかと恐ろしく思われて、なかなかご決心なさることが出来ないでおりました。
ところが、今年はどういうわけか、大風が吹いたり、地震さえあって、実に気味悪いことばかり続きましたので、帝は若宮が里邸でお過ごしのことをことさら気がかりになさって、その旨仰せになられましたが、そうとはいえ、里内裏(内裏焼亡のため帝は閑院に移られていた。)は狭苦しいためどうしたものかと実現しないため、しきりに御使者を差し向けられました。
若宮は、御五十日(イカ)や百日(モモカ)のお祝いなどを済まされまして、たいそう可愛らしくおなりでした。
兼家殿は東三条殿に行幸を仰ぎたく思っていらっしゃいましたが、太政大臣(頼忠)の御心に気兼ねされていたのでしょう。
帝と兼家殿との関係は、何とも微妙なものでございました。


帝のご気性は、たいそう穏やかでご立派であられるが、雄々しく毅然としたところに欠けていると、世間では取り沙汰されている。
東三条の大臣(兼家)は、世の中のことは御心の内では十分に成し遂げたと思っておられるようだが、それでもなお、気を許すことなく御心を構えておいでの様子である。それというのも、帝の御心が強くなく、どうも頼りなく思われているからであろう。

こうしているうちに天元四年 ( 981 ) となった。
帝は、御心の内に何か御願でもおありだったのか、賀茂や平野などの御社へ、二月に行幸された。皇子の為のご祈祷であれば、それも道理であろうと拝察された。
帝は、今は皇子もお生まれになり、何とかして譲位したいものとのお気持ちを急がされていらっしゃる。梅壺の女御が里邸で過ごしがちであることをおもしろくないことと帝は思っておられたが、右大臣(兼家)は、自分は一の人(最高位でないこと)ではないので、梅壺の女御がいつもおそばに奉仕することはない、とお思いであった。

堀河の大臣(兼通)がご存命の時、今の東宮(師貞親王。冷泉天皇の皇子でのちの花山天皇。)の御妹の女二の宮(尊子)が入内なさったので、帝はたいそう愛らしいお方だとご寵愛なさったが、入内なさって間もなく内裏が焼亡したため、「火の宮」と世の人に取り沙汰されているうちに、この女二の宮はまことにはかなくも世を去られたのである。

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突然の逝去 ・ 望月の宴 ( 17 )    

2024-03-13 20:38:12 | 望月の宴 ①

       『 突然の逝去 ・ 望月の宴 ( 17 ) 』


帝(円融天皇)は太政大臣(オオキオトド・頼忠)のお気持ちを大切に思われて、「この女御(遵子・頼忠の娘)を后にお据えしよう」と仰せになられたが、太政大臣は何となく遠慮なされて、一の皇子(懐仁親王)がお生まれになった梅壺の女御を差し置いて、我が娘の女御が后となれば、世間の人はどのように取り沙汰するかと思われ、人の恨みは買わぬ事こそ良いことだと思われて、そのまま過ごされていたが、帝は、「どうしてそのように遠慮する必要があろうか。梅壺の女御は、今はどうあろうとも、いずれ必ず后に立つことであろう。世の中は転変定めなきものゆえ、この女御の立后を急がせるが良い」と、再三仰せになられるので、太政大臣は嬉しく思い、内々に準備を進めているうちに、今年も暮れてしまい、残念に思われる。
こうしたことが漏れ伝わって、右大臣(兼家)としては参内されることが難しくなった。梅壺の女御のご兄弟の君達(公達)なども、なおさら出仕されることがない。
渦中の女御もお心を閉ざしているご様子なので、一品宮(イッポンノミヤ・円融天皇の同母妹の資子内親王)は世間の噂を伝え聞かれて、立后の件を気にされているのだろうと思うにつけ、世の中をおもしろくなくお思いになられていることであろう。


いつしかその年も終り、天元五年 ( 982 )となりました。
正月に庚申の日(コウシンノヒ・・この夜は眠らないで、呪文を唱えればサンシという虫が体内から去り、万福がくるという信仰。そのためこの夜は、詠歌・管弦・遊戯などが徹夜で行われた。)がございまして、東三条殿の院の女御(超子。兼家の娘で冷泉天皇の女御、のちの三条天皇の母。)の御殿でも、梅壺の女御(詮子。超子とは同父母の姉妹)の御殿でも、若い女房たちが「年のはじめの庚申です。庚申待をなさいませ」と申し上げますと、それではと御方々皆様がその催しをなさいました。
このお二人の女御には、男君達のご兄弟方が三人いらっしゃいます。君達方は、「とても興味深い」「すばらしいことだ」「こちらとあちらの両方に参上しているうちに夜が明けてしまうだろう」などと仰せになりながら、さまざまな遊びや詠歌などを楽しまれましたが、女房たちはもちろん、慎み深い女御方までもずいぶんくつろがれておりました。「この君達方がおいででなければ、今夜の眠気覚ましは味気なかったことでしょう」などと話されているうちに、暁を告げる鶏の声も聞こえて参りました。

院の女御は、暁方になって脇息にに寄りかかっておられましたが、そのまま寝入ってしまわれました。
「今頃になってお寝みにならなくても」と女房たちはささやくが、一方で、「烏も鳴いたので、このままにして、お起こししないでおきましょう」という声もありました。
ところが、例の男君達方が、ちょっとした和歌をお聞かせしようと言うことで、「もしもし、今頃になってお寝みになることはないでしょう。起きていただきましょう」と申し上げられましたが、まったくご返事がなく目覚められる様子がないので、近寄って「もしもし」とお声をかけましたが、ご様子が普通でないので、引き揺すってお起こししようとしたところ、すでに御体が冷たくなっておられたのです。
驚いて、御殿油(灯火)を取り寄せてよくご覧になりますと、すでに亡くなっていたのでございます。

男君達方はじめ、皆様驚きの余り言葉もありませんでしたが、何はともあれ殿(兼家)にお知らせ申し上げましたが、殿も茫然となりながらその場に駆けつけられましたが、どうすることも出来ず、ただご遺体を抱きかかえていらっしゃいました。
御邸内は悲しみの声があふれ、しかるべき僧侶を大騒ぎして召され、あらん限りの御誦経のための使者を寺々に走らせましたが、何の甲斐もなく、ご遺体を横たえて差し上げられました。
白い綾の御衣四枚ばかり重ねて、紅梅の表着をお着せして、御髪は長く美しいまま御身に添えて寝かせられました。その御姿は、ただ眠られているかのように見えました。
殿のお悲しみは想像することも及びませんが、皇子たちがまだ幼くいらっしゃるなど、先々のご苦難が忍ばれます。

冷泉院もこの事をお聞きになって、思いかげない悲しみに、やはりこれも御物の怪のせい(大納言元方は、政争に敗れたため死後、冷泉天皇やその子孫に祟ったとされる。)だと思われたようでございます。
大勢の方々が弔問にいらっしゃいましたが、殿は分別をなくして途方に暮れて過ごされていましたが、いつまでもそのままというわけにも参らず、葬送や法事のことなど定まった作法に従って執り行われましたが、その間も悲しみの涙が涸れることはなく、無情の世の中とはいえ余りにも突然のご不幸でございました。

御服喪の間も悲嘆に暮れていらっしゃいましたが、今は今上天皇の女御(梅壺の女御詮子)の御身についても元方の怨霊が恐ろしく思われて、女御と若宮(懐仁親王)とを他所にお移しになりました。
世ははかないものと申しますが、これまで経験したことのないようなご不安と、若宮方(超子出生の居貞、為尊、敦道親王)がまだ幼くて悲しみさえ分かっておられないことが、さらに悲しみを大きくさせるのでした。

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若宮の袴着 ・ 望月の宴 ( 18 )

2024-03-13 20:37:51 | 望月の宴 ①

       『 若宮の袴着 ・ 望月の宴 ( 18 ) 』


こうして時は過ぎて、天元五年 ( 982 ・年代わりが重複している。 ) となった。
三月十一日に中宮(遵子)がお立ちになるということで、太政大臣(頼忠。遵子の父。)は準備に懸命でいらっしゃる。
これにつけても右大臣(兼家)は何もかも驚きあきれたこととお聞きになっているうちに、后がお立ちになってしまった。言うまでもなく、おめでたいことである。太政大臣のなさりようももっともなことである。
ただ、帝の御はからいを、世間の人の目には不都合で嘆かわしいことと取り沙汰されている。
第一の皇子がいらっしゃる女御を差し置いて、このように皇子も皇女もいらっしゃらない女御が后にお立ちになったことは、穏やかならぬことと世の人は非難して、素腹の后とあだ名をおつけしたりする。
とはいえ、こうして后に立たれたことだけでも結構なことである。

東三条の大臣(兼家)は、もし命ながらえることが出来れば、そのときこそはと思いながらも、この立后についてはご不満で嘆かわしいことと思っていらっしゃる。
冷泉院の女御(兼家の娘・超子)が亡くなられたことを嘆いているところに、重ねてこの事で世間はどう取り沙汰するのかと、世の中の何もかもが思いに叶わず、あの堀河の大臣(兼通。兼家は兄の兼通に冷遇された。)の仕打ちなどはどれほどのことでもなかったと、この度の帝の御取りはからいは、たいそう情けないことと思われる気持ちは並大抵のものではない。これほどまでも世間の人の笑い者になってしまった上は、とても生きてはいられないという気持ちになりながらも、このまま終ってなるまいかという気持ちもあり、この世間の有様を自分の目で見届けてやろうと、気を強くされて、冷泉院の女御のご逝去ののちは、いっそう御門を閉じがちにして、男君達もすべて出仕を差し止めされる。
帝の御使者は、女御殿(詮子)のもとに毎日参上されるが、二、三度のうち御返事は一度だけといった状態である。一品宮(イッポンノミヤ・資子内親王。帝の同母の妹で、詮子との中を取り持っていたらしい。)も、この度の御取りはからいをたいそう不快に思われていて、申し上げてもいらっしゃった。


若宮(懐仁親王)は、さぞ可愛らしくなられたことでしょうが、今年は三歳におなりなので、御袴着(ハカマギ・着袴とも。男女の別なく、三、四歳から六、七歳の頃に行われる、初めて袴を着ける儀式。袴の腰を結ぶ役は重視され、皇子皇女の場合は天皇自らその任に当たることが多い。)の儀式を行うべく、帝は造物所(ツクモドコロ)に御調度類などの準備を命じられ、その行事のお支度も用意されておいででございました。

冷泉院の女御の御法事もすべて済まされまして、お気持ちに空白が生じられる中、兼家殿はもっぱらこの女御の残された皇子方のお世話に没頭なされておりました。

この殿の北の方であられた時姫殿は天元三年の正月にお亡くなりになっております。
そのこともありまして、冷泉院の女御殿にお仕えしていた大輔(ダイフ)という女房を召し使われておりました。たいそう信頼されて親しく遇せられていますので、まるで北の方並の立場としてお仕えでした。
冷泉院の第二、第三、第四の宮方(居貞親王、為尊親王、敦道親王)の御乳母たち、大弐の乳母、少輔の乳母、民部の乳母、衛門の乳母、その他にも多くの女房がお仕えしていますが、その人たちにはまったく目もくれず、ただこの大輔のことを大切にされておりました。

帝は、梅壺の女御(詮子)のご機嫌をとても気にされていて、若宮(懐仁親王)の御袴着のことを立派に準備したいと考えていらっしゃいました。
と申しますのは、立后のことは、決して梅壺の女御を粗略に扱ったということではなく、太政大臣のご威勢を恐れてのことだったのでございます。

兼家殿は、この冬に若宮の御袴着を殿の御邸である東三条殿で行うとのご意向でございました。
帝はそれをお聞きになって、「どうして里邸で行うというのか。宮中で行うことにせよ」と仰せになられ、十二月にということでお支度を急がされました。母女御(詮子)も参上なさって、三日の間帝のおそばにいらっしゃったそうでございます。

ご準備をたいそうお急ぎになり、当日になって若宮を参内させられました。その間の儀式の盛大な有様は、とてもお伝えできるものではございません。
帝は、この皇子にお会いになり、たいそう可愛らしいことに感動なさって、「この母女御のためにも、この若宮の扱いが粗略だと見えるようなことがあれば、神仏の罰を受けることになるだろう。わが後継ぎになるに違いない皇子なのだから」とお考えになって、できる限りのもてなしをなさり、母女御にもあれこれとなだめられましたが、母女御の御心は解けないご様子なのが、帝には不本意でございました。

御袴を着けられた若宮のお姿は、それはそれは可愛らしゅうございました。帝にお付きの女房方の中の年配の方々は、「主上のご幼少の頃が、まるでこのようでございました」などと申されておりました。
帝は、若宮を抱き上げて一品宮の御もとにお連れすると、一品宮はたいそう楽しげにあやされて、「この若宮の御為にも、母女御を粗略にお扱いなさるのはもってのほかでございます」などと申されますと、「どうして粗略なことなどあろうか。立后のことは、あのようにするしか仕方がなかったのだ」と帝は仰せになっていらっしゃいました。

さまざまな見事な御贈物などがあり、行事は終りました。
上達部(カンダチメ・上級の貴族)、殿上人、女房方などの禄も行き届いて申し分なくなさって、四日目の暁に母女御も若宮も宮中を退出なさいました。帝は強くお引き留めになりましたが、「今しばらくしてから、ゆっくりと参上いたします」と申し上げてお帰りになられるので、帝は名残惜しく思われ、立后にまつわる隙間風を寒々と感じられていたのでございましょうか。

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円融帝の譲位 ・ 望月の宴 ( 19 )

2024-03-13 20:37:26 | 望月の宴 ①

       『 円融帝の譲位 ・ 望月の宴 ( 19 ) 』


右大臣(ミギノオトド・藤原兼家)は、冷泉院の今は亡き女御(超子・兼家の娘)の御法事(少し早いが、一周忌か?)を今月に予定されていて、それに御袴着の儀式をお済ませになられたので、今はこの二十余日に、その法要をお営みになられた。
しみじみと故人を偲び追善法要を終えられた。哀しみの思い出は尽きることなくお嘆きになる。
このような哀しみはともかく、梅壺女御(詮子・円融天皇女御。同じく兼家の娘。)の立后については、遅くともここ一、二年のことであろうと、気丈に思われていた。


やがて、永観元年 ( 983 ) となりました。
正月から様々な行事は例年通り行われ、平穏な日々に見受けられました。ただ、帝(円融天皇)は、ご自分のご意向とは違って、若宮(懐仁親王)が梅壺女御と共に東三条邸にいらっしゃることがご不満でございました。これも、兼家殿の意向を無視した遵子(頼忠の娘)立后以来、帝と兼家殿の不仲が形になって現れているのでございましょう。
帝は、今となっては何としても早く譲位したいとお考えになられるようでございます。さらに、御身に物の怪の発作が恐ろしくしばしば起こり、冷泉院はなお正気であられることはまれになり、嘆かわしいことを憂いながらお過ごしでございました。

永観二年になりますと、帝はいよいよ今年は譲位を実現すべく御心を固められていらっしゃるようです。
兼家殿がなかなか参内なさらないのも、帝はお気に召さないことでございましょう。梅壺女御の御もとでも若宮の立太子の御祈祷が熱心に行われていて、これに携わる方々には、然るべき位など存分な賜り物が与えられるとのことでございます。
( 上皇、諸王、親王、三后、東宮、公卿等に与えられた優遇措置で、所定の官職への申請・任命できる権利や、従五位下に叙す権利があった。いずれも申任・叙任料を取り、収入源の一つであった。)

折々の諸行事は滞りなく行われ、七月には相撲節会が行われるということで、「ぜひ、若宮にお見せしよう」と帝は仰せになられましたが、兼家殿は乗り気でないご様子で、そのままお過ごしになっていらっしゃる。
「大臣、参内なさるように」と、たびたび帝からお召しがありましたが、体調が優れないなどを理由に渋られているうちに、いよいよ相撲節会となり、内裏からの執拗なお召しに遂に兼家殿は参内なさいました。

帝は兼家殿と親しくお話しを交わされた後、御決意を伝えられました。
帝は、自分が皇位に就いてすでに十六年が過ぎたこと。今月は相撲節会で何かと落ち着かないので、来月にも譲位するつもりだということ。東宮(師貞親王。冷泉天皇皇子。母は、兼家の長兄伊尹の娘懐子。)が即位されると、若宮を東宮に据えたいと思っていること。若宮を誰よりも大切に思っている自分の心中を理解しないで、あれこれ画策するのは不本意であること。いくら候補者がいても、やはり我が子が可愛いのは当然のことである。まして、一人子の若宮をおろそかにすることなどない。
等々、ご心境を吐露されたそうでございます。

兼家殿は、帝の御決意を承って、恐懼退出なさいました。
梅壺女御(兼家の娘詮子)に帝の御決意を密かに伝えられて、暦をご覧になり、諸所に若宮の立太子に向けてのご祈祷の使者を出立させられました。
帝の御決意はまだ内密のことではありましたが、兼家殿の御家中の方々はそのことを察してのご様子は、喜びに満ちあふれておりました。
このご一家の君達(公達)は、すでに喜びを隠すことが出来ないご様子でございました。そして、我が殿道長さまも、この君達のお一人でございます。


かくて八月になったので、二十七日に御譲位とて大騒ぎになる。
その日になると、帝は退位なされた。代わって東宮が皇位にお就きになった。花山天皇の誕生である。
東宮には梅壺女房御腹の若宮がお立ちになった。いうまでもなく、めでたいことである。世の中は、こうあるべきであると見られ、思われもした。
退位された帝は、堀河院(もと兼通邸であったが、里内裏としても使われた。)にお住まいになられた。

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