『 多情の帝 ・ 望月の宴 ( 21 ) 』
かくて女御(朝光の娘・姫子)が入内なさると、帝は、はた目に見苦しいほどにご寵愛なさった。それまで時めいていた宮の女御(式部卿宮為平親王の娘・婉子)は、御寝所のご奉仕もこの頃は押しのけられていらっしゃる。
宮の女御は、どうしたものかと、やきもきなさってご不快であられたが、新しい女御(姫子)はひと月ばかり絶えず帝のご寝所に参上なさり、帝もまたこの女御の許にお渡りになり、まるで他にはどなたもいらっしゃらないかのご寵愛ぶりである。
こうしたことも、そうした運勢であったのだ、と思ううちに、年も改まった。
寛和元年 ( 985 ) となりました。
元三日(ガンサンニチ・正月一日のこととする説と、正月三が日のこととする説とがある。)のうちから、斬新な御政事が次々と打ち出されました。これは、花山天皇の御即位により、帝の叔父にあたります義懐(花山天皇の生母懐子の同母弟。権中納言。)殿が中心となり政策が練られているとのことでございます。
政権の頂点にいらっしゃる太政大臣(賴忠)殿は、お気に召さないお気持ちでしょうし、何とも体裁が悪いことでございましょうが、争い事を好まれぬご気性でいらっしゃぃますから、表だった波風がないまま日が過ぎていきました。
さて、政界は嵐を内包しながらも平穏な日々でございましたが、内裏に起きましては、大きな変化が起こっておりました。
あれほど御寵愛を集めていらっしゃいました閑院の大将(朝光)殿の女御(姫子)の御寝所へのご奉仕が、どういうわけか間遠になり、ついには、お召しの仰せ事が絶えてしまったそうでございます。かりそめの御消息さえ絶えてしまって、ひと月ふた月が過ぎてしまいました。
どうしたことかと、大将殿は途方に暮れておられましたが、どうなるわけでもなく、物笑いの種にされるといった情けない状態になり、人目も恥ずかしく女御(姫子)は宮中から退出なさいましたが、そうしたことさえ帝は知ろうとなさらなかったのでございます。
大将殿も、参内すれば胸が痛むといってお屋敷に閉じこもってしまわれました。
世間では、「御継母(大将朝光が、姫子の生母である重明親王の娘を棄てて、枇杷の大納言延光の未亡人のもとに移ったが、この未亡人のことを指す。)の北の方が、どのようなことをなさったのか」などと噂されていますが、それと申しますのも、入内のお話しがある小一条の大将済時殿の御娘は、このご継母の御孫にあたるのですから、世間はおもしろおかしく噂されるのでしょう。
帝がお渡りになられます打橋に、誰かが何か悪さをなさったのか、女御ご自身も参内なさらず、帝も女御のもとにお出向きにならないのですから、まことにいたわしい有様でご退出なさいましたので、その後は、かつてのあの華やかな御時がなかったかのようでございます。女御のご兄弟の公達方も参内なさらなくなりました。
世の例とは申せ、余りの仕打ちと思われてしまうのでございます。
かくてまた、小一条の大将の御娘(娍子)や、一条の大納言為光(兼通、兼家らと異母兄弟)の御娘(忯子)などに、夜昼を分かたずお便りを持って帝の御使者が参上するが、小一条の大将は、閑院の大将の女御(姫子)が、あれほどの御寵愛を受けながら、驚くばかりにつれなくお見限りになられたことを思えば、どうすればよいかご返事に困っておられる。
村上帝などは、十人、二十人の女御、御息所(ミヤスドコロ)をお持ちであったが、御寵愛の深い方にも浅い方にも、ふつうにお情けを示され、際だってえこひいきをなさることがなかったからお見事なのであって、この帝のなされ方は、まったく極端ななさり方なので、小一条の大将殿は思い止まられたのであろう。
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