『 花山帝の出家 ・ 望月の宴 ( 23 ) 』
それにいたしましても、一条殿の女御(忯子)のご逝去は、あまりにも哀れでお気の毒でございました。
そうとは申しましても、一条殿(大納言為光)は悲しんでばかりいるわけにも参りません。しきたり通りの葬送の儀式を執り行われましたが、その心中は察するに余りあるものでございました。
「ご懐妊されて宮中から女御をお引き取り申し上げるときには、いずれは后の位にお就きになられ、御輿でお出入りできる身分にと考えておりましたものを、まさかこのようなことになるとは」と、一条殿は転げ伏してお泣きになられるのです。
帝におかれましても、お気に入りの殿上人や上達部(カンダチメ・公卿)を野辺送りのお供に差し向けなさいました。ご自身はお出向きになることが出来ませんので、葬儀の有様をよそに聞くほかない悲しさに、際限なくお苦しみのご様子だったそうでございます。その夜はお寝みにもならず、亡き女御を偲んでいらっしゃいましたとか。
一条殿は、御柩車の後ろについて歩かれましたが、よろめき倒れるばかりのお姿が痛ましい限りでございました。荼毘に付されました御亡骸は、やがて雲となり霧となって消え失せてしまったのでございます。
宮中の内でも外でも、ああいたましいことよ、悲しいことよ、と取り乱しておりますうちに、日は過ぎて、しかるべき仏事のご用意につけても涙の乾く間もございませんでした。
宮中におきましては、この御喪の間は、どの女御も御夜伽に参上なさることはなく、宮の女御(婉子)にお声がかかることもありましたが、女御の方でご気分がすぐれないと申して、参上なさらないそうでございます。
こうして、悲しいことのあれこれがあったが、いつしか寛和二年 ( 986 ) になった。
世間は、正月よりどうも穏やかでなく、どういうわけか物のさとし(天変地異や夢などによって、神仏が発する警告。)などが度々あって、宮中でも御物忌みがちでいらっしゃる。
また、いかなる時世であるのか、世間ではたいそう道心を起こす人が多く、尼や法師になったという噂がしきりに聞かれた。
この事を帝がお聞きになり、はかない世を思って嘆かれて、「ああ、弘徽殿(一条の女御)はどれほど罪深く生まれたのか。あのように亡くなった人は、たいへん罪が重いと聞いている。なんとかその罪滅ぼしをしてあげたいものだ」と、御心の内で思い乱れているようであった。
こうした帝の御心に、どういうわけか仏を尊ぶ道心に傾くことが多く、落ち着かぬご様子なのを太政大臣(頼忠)がお嘆きになり、御叔父の中納言(義懐)も人知れず憂慮しているに違いない。
常に花山(ハナヤマ・京都山科にある元慶寺。)の厳久阿闍梨を召しては説教をお聴きになったが、帝の御心の内には道心が強まっていらっしゃった。「妻子珍宝及王位」という文句をよくお口にされていて、帝がたいそうお目にかけている召使いの惟成の弁(コレシゲノベン・藤原氏)も中納言と共に、「この御道心が何とも気掛かりだ。出家入道することはごくふつうのことであるが、帝におかれては、これはどうかと思われるご心境が時々お出になるのは、他のことではなく、まさに冷泉院の御物の怪(冷泉帝に取り付いている元方の霊。)のなせるわざであろう」などと嘆いておられるうちに、やはり、どうしたことなのか、平常ではなく、何となくそわそわと落ち着かない様子であられる。
そして、中納言なども御宿直がちにお仕えして申し上げていたところ、寛和二年六月二十二日の夜、突然帝の御姿が見えなくなり大騒ぎとなった。
宮中の多くの殿上人、上達部(カンダチメ・公卿)や、身分の賤しい衛士、仕丁に至るまで、残る所なく灯火をともして、隅々までお探ししたが、どこにもいらっしゃらない。
太政大臣をはじめとして、諸卿、殿上人が残らず参り集まって、あちこちの壺庭(殿舎により囲まれている庭。)までもお探ししたが、いずこにもいらっしゃらない。まったく驚き入った出来事で、一天下こぞって、夜のうちに関所関所を固め大騒ぎする。
中納言は、守宮神(スクウジン・神鏡のこと。三種の神器の一つ。宮中を守護することからこの字が当てられた。)、賢所(カシコドコロ・内侍所とも。神鏡が奉安されている所。)の御前に伏し転がって、「わが宝の君は、いずこにあらせられるのか」とお泣きになる。
山々寺々に手分けしてお探しするも、まったくいずこにもいらっしゃらない。女御方も涙を流しておられる。
ああ、何としたことか、と嘆き悲しんでいるうちに、夏の夜も明けて、中納言や惟成の弁などが花山に尋ねて行かれた。
すると、何とそこに、帝は目もつぶらかな小法師の姿で、きちんと控えていらっしゃったのである。ああ悲しいことよ、なんたることぞと、その場に伏し転げて、中納言も法師になられた。惟成の弁も出家なさった。まったく意外なことで、いまわしく悲しい限りで、これ以上のことはあるまい。
あの御口癖の「妻子珍宝及王位」も、このように出家なさろうとの御決心からであったのだと拝される。そして、その通り法師になられたことはお見事ではある。
どのようにして、花山までの道筋をご存じになって、徒歩で到達なされたのかと、推察申し上げるにつけても、まことに驚くべきことで、悲しくいたわしく、まがまがしいことと存じ上げたのである。
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