H.G.ウェルズのSF小説「宇宙戦争」。
人類が全く歯が立たなかった宇宙からの侵略者を、地球上で最も小さな生物であるウィルスがやっつけてしまうと言う粗筋は、知らない人がいないくらい有名だろう。
ここには、我が物顔で地球の覇者を気取っている人類に対する痛烈な批判が込められている。
地球は、人類だけのものではない。地球上に存在するあらゆるものの手に、共有されるべきものなのだ。
それを人類は、地球上で遣りたい放題のことを行い、あまつさえ環境破壊まで引き起こしている。
そんなことが許されて良いはずがない。
地球上の全てのものたちとの共存共栄こそが人類に架された使命であり、それこそが人類が地球上で存続を許される唯一の条件なのだ。
この物語では、人類が意識していなかったにせよ、結果的にウィルスと共存共栄していたおかげで、からくも滅亡の危機から逃れることができたという設定である。
皮肉なものではないか。
H.G.ウェルズがこれを書いたのは、1898年。
大政奉還が1867年(慶応3年)だから、その30年後。
日本海海戦の1905年(明治38年)の7年前。
今から、なんと100年以上も昔!
当時、環境破壊とか環境汚染と言った問題が認識されていたのだろうか。
この作品が発表された当時は、石炭がエネルギー源の主流だった頃である。
近代化がもたらした弊害として、石炭による環境汚染がロンドンなどの都市部で問題になったとものの本には記されている。
しかし、それは、人間の健康を害するものという認識であり、現在のように地球そのものが破壊されてしまうという危機感溢れるものではなかった。
まだまだ楽天的であったはずだ。
H.G.ウェルズは、そういう時代に、地球環境に目を向けたこの物語を著した。
現代においてですら、誰が考えてもこのままではいけないと判る「地球温暖化」の問題に対して、「世界の警察」を標榜する西の超大国は、自国経済ばかり優先させ、「京都議定書」に賛同しないのだ・・・つまり、環境破壊の恐ろしさを理解していない。
いくら地球上で最強の軍隊を有していても、そんなものは、宇宙からの侵略には全く役に立たないのだ。それは、目にも見えないウィルスよりも頼りにならない、脆弱なものに過ぎない。そんなものを過信して、環境破壊を続ければ、人類はかけがえのない地球上の盟友に見放されて、今度こそ宇宙人に滅ぼされてしまうだろう。
わたしは原作を斜め読みしかしていないから、偉そうなことは言えないが、この小説の凄さは、現在読んでも色褪せないこういう先進的なコンセプトにあると思う。
わたしは長編小説は苦手なのだが、たまには読書も必要だなぁと痛感した。
この機会に「宇宙戦争」は、きちんと読んでみたいと考えている。
すっかり前置きが長くなってしまった。
トム・クルーズ主演、スピルバーグ監督の映画、「宇宙戦争」を観に行った。
ほとんど初日に観に行ったというのに、今頃、感想を書いている。
それには、いろいろと事情があるのだ。
例えば、彼に振られ、失意のどん底から立ち直れなかったとか、予想もしなかった転勤(ほとんど嫌がらせとしか思えない)のため、書く時間がなかったとか、父の13回忌の準備にドタバタしたとか、この2か月間は、わたしにとって、それこそ波乱万丈の毎日だったのだ。
その荒んだ心を癒してくれたのは、今年の夏の数々の新作映画にほかならない。
実際のところ、今年は良い作品が多いように思う。
他におもしろい映画がたくさんあって、そちらの感想を先に書いてしまったという嫌いもあるなぁ。
「宇宙戦争」は、おもしろくなかったのか?
決してそんなことはない。
ただ「トム・クルーズ」が演じる主人公「レイ・フェリアー」の人物設定がとても気になって、物語の世界にのめり込めなかったのだ。
レイは、離婚歴のある港湾労働者(コンテナオペレーター)という設定である。
別れた妻は、明らかにレイとは異なるタイプ(多分、弁護士か医者の部類)の新しい夫と裕福な生活をしている。レイは、いわゆる「負け犬」として描かれているのだ。
しかも、彼と彼の子供たちとの間には「断絶」がある。
ハイスクールに通う息子の「ロビー」は、明らかに父親に反抗しているし、娘の「レイチェル」は醒めた目で父親を見ている。
ウェルズの原作がそうなっているのならともかく、この設定は今回の作品のための独自の設定であり、どうしてここまで荒んだ設定にするのか不思議だ。
そのような思いが、これまで、この作品の感想を書くことを逡巡させてきたのだ。
わたしは、「映画の主人公はその時代の鏡」と思っている。
ひょっとしたら、レイのような父親像は、現在のアメリカの標準的な父親像なのかもしれない。
どことなく自信なさそうで、弱々しい。
かつてあれほど愛し合った妻にも愛想を尽かされ、別の男の許に去られる。
その男は、自分と比べるのも躊躇われるようなピカピカのセレブ。
要するに、この「宇宙戦争」の舞台設定では、登場人物における「勝ち組」と「負け組」の差が歴然としていて、両極化が顕著になっているのだ。
しかも、「負け組」が大多数で、一度、「負け組」に組み入れられてしまうと、もはや挽回は不可能、アメリカンドリームは過去のものだと言わんばかりの諦観が漂っている。
また、アメリカは、日本の近未来の姿を映し出しているとも言われる。
もし、わたしの感じたことが当たっているのなら、いずれ日本にもその波は押し寄せてくるだろう。
「少数の持てる者」と「多数の持たざる者」の2極化。
そのような社会構造に、総中流層意識の楽園を味わった日本人は、耐えられるのだろうか。
日本が戦後、驚異的な発展を遂げることができたのは、全ての日本人が一定以上(中流以上)の生活とステータスを得ることができていたからである。
それを支えていたのは、日本独特の文化であった終身雇用制度と年功序列制度。
これは世界も羨む最高のシステムだったのだ。
恐らく、世界はそのような日本に脅威を感じていたことだろう。
それを手放した現在、もはや日本にはアメリカと同じ道を歩くほかに手だてはなく、アメリカと違う日本独自の繁栄もあり得ない。
もし、他国と比べて異なる未来を求めるのならば、明確に異なる制度を独自に持っていなければならないのは当然のことだ。
そして、その独自の制度が、他国と比較して優れておればこそ、他国を凌駕できる。
そんなことが、頭の中を去来して、どうしても「宇宙戦争」にのめり込めなかった。
一度、この作品をそのような目で見てしまうと、「負け犬」のレイが、宇宙人襲来という未曾有の大厄災に遭遇して、どのように対決していくのか、それが焦点になってしまう。
いや、彼は頑張りましたよ。
レイは危機に対して敏感で、危機意識、危機管理能力に卓越したものを持っている。
だから、街中でたった1台しかない動く自動車を入手し、宇宙人の第1波の攻撃から、からくも逃け切ることができたのだ。
軍隊は民衆を守るために懸命に戦うのだけれど、全く歯が立たない。
同じ地球人同志の戦いではなく、まさに外敵からの攻撃に対する反撃であり、軍隊が軍隊らしく戦える、まさに本来の存在意義を試される戦いを初めて行ったのだ。
ある意味、彼らの戦いぶりは、健気でもあった。
負けると判っているのに、背後の民衆を少しでも逃がすために、1分でも長く持ちこたえようとする。
太平洋戦争の末期における特攻隊を彷彿させるような悲壮感が一瞬ではあるが、画面に漂った。
レイは、子供たちを連れて、少しでも安全な場所へと逃げる。
無力な彼には、それしかできない。
しかし、それはレイだけに限ったことではなかった。全ての人類が、宇宙からの侵略に対しては無力だったのだ。
「勝ち組」も「負け組」も同じ土俵の中に入れられてしまうと、平等にその力を試されることになる。
その中で、レイは非常によくやった。
それは、彼に反発し、無視し続けていた子供たちにも伝わっていく。
失墜していた父親としての威厳と信頼を取り戻すことができたのは、父親としての愛情の深さを彼らに示すことができたからだ。
「スターウォーズ」の場合、純粋にその作品のおもしろさを楽しんだが、「宇宙戦争」の場合は、さまざまなことを考えさせられながら、作品を観ることとなった。
わたしにとって、この2つの作品の違いというのは、まさにその点にある。
「宇宙戦争」のわたしの採点は、ハート3つ(3つが最高です。念のため)
おもしろいというよりは、考えさせられました。
プチッと押してね、お願い →
人類が全く歯が立たなかった宇宙からの侵略者を、地球上で最も小さな生物であるウィルスがやっつけてしまうと言う粗筋は、知らない人がいないくらい有名だろう。
ここには、我が物顔で地球の覇者を気取っている人類に対する痛烈な批判が込められている。
地球は、人類だけのものではない。地球上に存在するあらゆるものの手に、共有されるべきものなのだ。
それを人類は、地球上で遣りたい放題のことを行い、あまつさえ環境破壊まで引き起こしている。
そんなことが許されて良いはずがない。
地球上の全てのものたちとの共存共栄こそが人類に架された使命であり、それこそが人類が地球上で存続を許される唯一の条件なのだ。
この物語では、人類が意識していなかったにせよ、結果的にウィルスと共存共栄していたおかげで、からくも滅亡の危機から逃れることができたという設定である。
皮肉なものではないか。
H.G.ウェルズがこれを書いたのは、1898年。
大政奉還が1867年(慶応3年)だから、その30年後。
日本海海戦の1905年(明治38年)の7年前。
今から、なんと100年以上も昔!
当時、環境破壊とか環境汚染と言った問題が認識されていたのだろうか。
この作品が発表された当時は、石炭がエネルギー源の主流だった頃である。
近代化がもたらした弊害として、石炭による環境汚染がロンドンなどの都市部で問題になったとものの本には記されている。
しかし、それは、人間の健康を害するものという認識であり、現在のように地球そのものが破壊されてしまうという危機感溢れるものではなかった。
まだまだ楽天的であったはずだ。
H.G.ウェルズは、そういう時代に、地球環境に目を向けたこの物語を著した。
現代においてですら、誰が考えてもこのままではいけないと判る「地球温暖化」の問題に対して、「世界の警察」を標榜する西の超大国は、自国経済ばかり優先させ、「京都議定書」に賛同しないのだ・・・つまり、環境破壊の恐ろしさを理解していない。
いくら地球上で最強の軍隊を有していても、そんなものは、宇宙からの侵略には全く役に立たないのだ。それは、目にも見えないウィルスよりも頼りにならない、脆弱なものに過ぎない。そんなものを過信して、環境破壊を続ければ、人類はかけがえのない地球上の盟友に見放されて、今度こそ宇宙人に滅ぼされてしまうだろう。
わたしは原作を斜め読みしかしていないから、偉そうなことは言えないが、この小説の凄さは、現在読んでも色褪せないこういう先進的なコンセプトにあると思う。
わたしは長編小説は苦手なのだが、たまには読書も必要だなぁと痛感した。
この機会に「宇宙戦争」は、きちんと読んでみたいと考えている。
すっかり前置きが長くなってしまった。
トム・クルーズ主演、スピルバーグ監督の映画、「宇宙戦争」を観に行った。
ほとんど初日に観に行ったというのに、今頃、感想を書いている。
それには、いろいろと事情があるのだ。
例えば、彼に振られ、失意のどん底から立ち直れなかったとか、予想もしなかった転勤(ほとんど嫌がらせとしか思えない)のため、書く時間がなかったとか、父の13回忌の準備にドタバタしたとか、この2か月間は、わたしにとって、それこそ波乱万丈の毎日だったのだ。
その荒んだ心を癒してくれたのは、今年の夏の数々の新作映画にほかならない。
実際のところ、今年は良い作品が多いように思う。
他におもしろい映画がたくさんあって、そちらの感想を先に書いてしまったという嫌いもあるなぁ。
「宇宙戦争」は、おもしろくなかったのか?
決してそんなことはない。
ただ「トム・クルーズ」が演じる主人公「レイ・フェリアー」の人物設定がとても気になって、物語の世界にのめり込めなかったのだ。
レイは、離婚歴のある港湾労働者(コンテナオペレーター)という設定である。
別れた妻は、明らかにレイとは異なるタイプ(多分、弁護士か医者の部類)の新しい夫と裕福な生活をしている。レイは、いわゆる「負け犬」として描かれているのだ。
しかも、彼と彼の子供たちとの間には「断絶」がある。
ハイスクールに通う息子の「ロビー」は、明らかに父親に反抗しているし、娘の「レイチェル」は醒めた目で父親を見ている。
ウェルズの原作がそうなっているのならともかく、この設定は今回の作品のための独自の設定であり、どうしてここまで荒んだ設定にするのか不思議だ。
そのような思いが、これまで、この作品の感想を書くことを逡巡させてきたのだ。
わたしは、「映画の主人公はその時代の鏡」と思っている。
ひょっとしたら、レイのような父親像は、現在のアメリカの標準的な父親像なのかもしれない。
どことなく自信なさそうで、弱々しい。
かつてあれほど愛し合った妻にも愛想を尽かされ、別の男の許に去られる。
その男は、自分と比べるのも躊躇われるようなピカピカのセレブ。
要するに、この「宇宙戦争」の舞台設定では、登場人物における「勝ち組」と「負け組」の差が歴然としていて、両極化が顕著になっているのだ。
しかも、「負け組」が大多数で、一度、「負け組」に組み入れられてしまうと、もはや挽回は不可能、アメリカンドリームは過去のものだと言わんばかりの諦観が漂っている。
また、アメリカは、日本の近未来の姿を映し出しているとも言われる。
もし、わたしの感じたことが当たっているのなら、いずれ日本にもその波は押し寄せてくるだろう。
「少数の持てる者」と「多数の持たざる者」の2極化。
そのような社会構造に、総中流層意識の楽園を味わった日本人は、耐えられるのだろうか。
日本が戦後、驚異的な発展を遂げることができたのは、全ての日本人が一定以上(中流以上)の生活とステータスを得ることができていたからである。
それを支えていたのは、日本独特の文化であった終身雇用制度と年功序列制度。
これは世界も羨む最高のシステムだったのだ。
恐らく、世界はそのような日本に脅威を感じていたことだろう。
それを手放した現在、もはや日本にはアメリカと同じ道を歩くほかに手だてはなく、アメリカと違う日本独自の繁栄もあり得ない。
もし、他国と比べて異なる未来を求めるのならば、明確に異なる制度を独自に持っていなければならないのは当然のことだ。
そして、その独自の制度が、他国と比較して優れておればこそ、他国を凌駕できる。
そんなことが、頭の中を去来して、どうしても「宇宙戦争」にのめり込めなかった。
一度、この作品をそのような目で見てしまうと、「負け犬」のレイが、宇宙人襲来という未曾有の大厄災に遭遇して、どのように対決していくのか、それが焦点になってしまう。
いや、彼は頑張りましたよ。
レイは危機に対して敏感で、危機意識、危機管理能力に卓越したものを持っている。
だから、街中でたった1台しかない動く自動車を入手し、宇宙人の第1波の攻撃から、からくも逃け切ることができたのだ。
軍隊は民衆を守るために懸命に戦うのだけれど、全く歯が立たない。
同じ地球人同志の戦いではなく、まさに外敵からの攻撃に対する反撃であり、軍隊が軍隊らしく戦える、まさに本来の存在意義を試される戦いを初めて行ったのだ。
ある意味、彼らの戦いぶりは、健気でもあった。
負けると判っているのに、背後の民衆を少しでも逃がすために、1分でも長く持ちこたえようとする。
太平洋戦争の末期における特攻隊を彷彿させるような悲壮感が一瞬ではあるが、画面に漂った。
レイは、子供たちを連れて、少しでも安全な場所へと逃げる。
無力な彼には、それしかできない。
しかし、それはレイだけに限ったことではなかった。全ての人類が、宇宙からの侵略に対しては無力だったのだ。
「勝ち組」も「負け組」も同じ土俵の中に入れられてしまうと、平等にその力を試されることになる。
その中で、レイは非常によくやった。
それは、彼に反発し、無視し続けていた子供たちにも伝わっていく。
失墜していた父親としての威厳と信頼を取り戻すことができたのは、父親としての愛情の深さを彼らに示すことができたからだ。
「スターウォーズ」の場合、純粋にその作品のおもしろさを楽しんだが、「宇宙戦争」の場合は、さまざまなことを考えさせられながら、作品を観ることとなった。
わたしにとって、この2つの作品の違いというのは、まさにその点にある。
「宇宙戦争」のわたしの採点は、ハート3つ(3つが最高です。念のため)
おもしろいというよりは、考えさせられました。
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これは、「語り方」においては、アメリカン・ニューシネマなんですよ。観客の視点は、つねにレイの立場から見させられるでしょ。
ID4の場合は、侵略者VS地球人全体の群像劇として描いていた。
宇宙戦争は、ある状況のなかでレイがどう考え、行動するのか、という「実存主義」ベースの語り口で、侵略者VS地球人の軍隊の戦時の状況はまったくといっていいくらい、無視される。
これは、ベトナム以後の権威が失墜したアメリカで若者時代を送ったスピさん世代の特有のものの見方です。僕はわりと好きですけど。
スピさんは初めは、アメリカン・ニューシネマ(または、だめだめ人間ばんざいの映画)の旗手として映画界デビューしたひとなんですよ。
今回、宇宙戦争で、彼の本質が部分的に見えてよかったです。
昨晩は、萩本欽一氏も来松して、野球拳踊りを踊ったんですよ。
返事が遅くなってゴメンなさい。
こういう手法を「ニューシネマ」というのですか?
なるほど。メモメモ。
わたしは、自然にそういう切り口になったと思ってました。
ルーカスとスピルバーグの両監督は、永遠のライバルらしいですが、やはり凄いです。
この2人が一緒になって撮った初期の頃のスターウォーズって、今なら考えられないほど「もの凄い作品」ということになるのでしょうかねぇ。
アメリカ映画の歴史的ジャンルであり、
おもに、反体制的・民間的な個人の
視点から描いた映画を指す。
メインは、60・70年代である。
「イージーライダー」
「明日に向かって撃て」
「続・激突カージャック」(スピルバーグ監督)
とか、こういうやつです。
体制側にいない人間が主人公であり、
多くの主人公は、ダメ人間ふうに
描かれる。
しかし、米国の失われた権威を表現したので、
ヒッピーブームと相乗効果をだした。
スピサンは、もとヒッピーだし、
ヒッピーLIKEなアントニオーニの
「砂丘」
とか、大FANらしいです
わたしが、映画を観始めたのは、
ここ2~3年の間ですから。
これも、何かの縁ですから、
昔の作品も勉強するようにします。
面白いわけではないと思います。
僕の場合は、芸術系学校だったので、
授業の研究テーマとして見たんですよ。
まあ、おすすめなのは、
スピルバーグの「続・激突! カージャック」くらいが一般うけのラインでしょう。
スピさんは、アメリカンニューシネマをやりながらも、やはりエンタメをめざしたひとですから。。。ね
単純にパニック映画として観ていた自分が・・・。:゜(。ノω\。)゜・。
ま、楽しめたのだから良いですよね?
と、自分に言い聞かせつつ、今後もよろしくお願いします。
まあ、どんなものでも、どんな芸術でも、
やはり、自分以外の人たちにみてもらいたい、という気持ちがすこしはあるものだとおもいますが。
テツマンをしたので、眠くてたまらないので、
今日は早めに寝ます。
「テツマン」とは「徹夜でマージャンをした」という意味なので、変な意味に無理矢理曲解しないでね。
ふふふ。
そこでお伺いするのですが、
「エンタメ」って、何の略ですか?
無理矢理、曲解してお答えいただくと、
minaはとてもうれしゅう感じまする。
で、密室で、たばこが充満している雰囲気の
マージャンワールドには足を踏み入れずに
生きてきました。
それと、海外が長かったので、マージャン文化より、夜のあそびはビリアードが主流でした。これは結構得意です!
エンタメというのは
エンターテインメント(娯楽)の略らしい
です。
しかし、これは日本でのみ通用する言葉
ですので、アメリカでは
エンタテイメント!
と発音しましょー!!
曲解で答える・・・わかりませんんんん。
何を求めておられる???
心よりお喜びを申し上げます。
ふふふ。
想像していたのは、
元が「お金がかかるため、どうしても、エンタメ」
という文章だったから、
東さんが、ご自身のプログでも書いていた内容、
例えば、郵政の民営化に関連して、
東経済教授と言う名前で、
外国為替の話でもと思ったの。
そういうスリリングな話が読みたかったな。