愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

上之郷(かみのごう)城跡(1)鵜殿氏 蒲郡市

2015年11月01日 17時33分16秒 | 蒲郡市
見学日 2015年10月18日(日)
所在地 蒲郡市神ノ郷町城山


上之郷城は、蒲郡のほぼ中央山よりにあり、ここから三河湾がよく見えました。城主鵜殿氏は、海の産業も関わっていたのかとも、思いました。


上之郷城跡からの眺め。三河湾がよく見えました。

関係する武将
鵜殿氏 上之郷城は、15世紀ごろから鵜殿氏の拠点でした。鵜殿長善の子どもの代から上之郷鵜殿家と下之郷鵜殿家に分かれたようです。上之郷は、鵜殿長善の子鵜殿長将から始まりました。

桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、上之郷家は、そのまま今川への忠節を守りましたが、他の鵜殿家は徳川家康の傘下に入りましたので、一族は分裂することとなりました。

系図(上之郷鵜殿家)


鵜殿長将 今川氏に仕えました。

鵜殿長持 今川義元の妹婿となり、待遇が向上したそうです。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が敗れると一族は分裂し、今川家に忠節を尽くしていた上之郷家は孤立していきました。永禄5年(1562年)には、徳川家康の攻撃を受け、子の長照とともに戦死しました。この戦いでは、忍者が城に忍び込み、火を放って混乱したところを家康軍が攻めて落城させたようです。

鵜殿氏長・氏次 鵜殿長持の孫、鵜殿長照の子。同時に今川義元の孫にあたります。永禄5年(1562年)に家康によって父、祖父が戦死し、松平氏により人質となりました。

人質交換
 永禄5年の戦いの後、徳川家康は、捕らえた鵜殿氏の氏長・氏次と、今川氏に人質として出していた瀬名姫(家康の正室、築山殿)、竹千代(家康の嫡男、信康)、亀姫(家康の長女、後に奥平信昌の正室)らの人質交換を今川側に要求しました。交渉は成立し、徳川家康は家族を自分の下に戻す事に成功しました。

三河物語より
大久保彦左衛門忠教「三河物語」では、下記のように記述しています。

 其より、東三河へ御手を懸けさせ給いて、西之郡之城(上之郷城)を忍び取りに取らせ給いて、鵜殿長持を打ち取り、両人之子供(鵜殿氏長、氏次)を生捕給う。
 然る間、竹千代様(徳川信康)をば駿河に置きまいらせられて、御敵にならせ給いければ、竹千代様を「今害死し奉れ」「後害死奉れ」「今日の」「明日の」とののしれども、関口刑部之輔殿(今川義元の妹婿で徳川家康の正室瀬名姫(築山殿)の父)の御孫(つまり徳川信康が、関口の孫であるということ)なれば、さながら害死し奉る事も無し。然らば、石川伯耆守(石川数正)申しけるは、「いとけなき若君御一人戕害(しょうがい、殺すという意味)させ申さば、御供も申すもの無くして、人之見る目にもすごすごとして(しょぼしょぼして)、おわしますべし。然らば、我らが参りて御最後之御供を申さん。」とて駿河へ下りけるを、貴賎上下感ぜぬ者もなし。
 然る処に、「鵜殿長持子供に人質替えにせん」と申し越しければ、上下万民喜び申すこと際限なくして、さらばと云いて、替えさせ給う。其の時、石川伯耆守御供申して、岡崎へ入らせ給う。上下万民、続いて御迎えに出でにけるに、石川伯耆守は、大髯をくいそらして(髯の先を反りあがらせて、得意な様子)、若君を頸馬に乗せ奉りて、念じ原へ打ち上げて通らせ給う事之見事さ、何たる物見にも是に過ぎたる事はあらじとて見物する。「氏真は、さてもさても阿呆の人かな。そもそも竹千代様を鵜殿に替えるという、方薬(あほう)かな。」と云いたり。


人質交換の交渉に当たった石川数正が交渉を成功させた事で、得意満面で岡崎に帰還し、今川氏真を阿呆呼ばわりしていることなどが描かれています。
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