愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

あけましておめでとうございます

2023年01月14日 09時38分05秒 | 日記
あけましておめでとうございます
2023年もよろしくお願いします

「どうする家康」を見ました。
令和の世の中でしかやれないことだとびっくりです。
東照大権現、神君家康公を「弱虫で泣き虫」と。ままごとばかりしている。大高城ではひとり逃亡を図ろうとする。
ありえないです。江戸時代にこんなことを書いたら、市中引き回し、獄門縛り首、さらし首です。
私は、家康に対して特に思い入れはないので、別にどうでもいいのですが、「桶狭間の戦い」については、ちょっと思うところがありました。
①兵糧入れを5月19日とし、同時に丸根砦への攻撃を行っています。しかし、兵粮入れと丸根攻めは同時ではないようです。
「信長公記」では、「今川義元討死の事」の項において、
「今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、」
「案の如く、夜明けがたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり。」
「辰の刻に源太夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上がり候。」
「天文21年5月19日、午の刻(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を焼き、御辛労なされたるに依って、人馬の息を休め、大高に居陣なり。」

つまり、18日に兵糧入れは終わり、19日は早朝に丸根砦を攻撃し、朝8時ごろには丸根砦は落ち、お昼ごろに家康は大高城で休息をしていたことになります。
ただし、「信長公記」にいう、先に兵糧を入れて後で丸根を攻めたというのは現実的ではなく、ドラマのように、先に丸根を落してから兵糧入れをした方が合理的です。

②甲冑を金色にしていましたが、上記にあるように家康は「朱武者」だったので、金色の甲冑ではないと思います。
③雨ののさなかに義元の討死が大高城に知らされていますが、雨は一時のものだったように思います。
「(信長の軍が)山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。(中略)空晴るるを御覧じ、信長槍をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かかれ、かかれと仰せられ、(後略)」

つまり、義元は空が晴れてから討ち取られているのです。

以上、視聴者の方に誤解があるといけないので、十分検討してほしいと思いました。
しかし、大高城の堀の描写は素晴らしくて、現地を見ていると思いました。

大高城の堀跡

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