虎御前山の次は、北にある中島砦と丁野砦です。いったんは、虎御前山の南の中野町の駐車場に戻り、そこから、県道263号を北上します。すると、「中島城跡」という大きな看板が見えてきました。
中島城跡の看板
看板が見えた道の隅に車を止めさせてもらい、いよいよ中島城に登りました。
中島砦縄張り図(現地案内板)
案内板によれば
丁野山城がある岡山から東へ出る支脈の頂部(標高113m、平池からの比高差34m)の場所に存在する砦跡である。地域に伝わる「丁野山古砦之図」によれば、この支脈を「大鳳山」と称し、中島砦から東の尾根上にも、三田崎六郎右衛門ら朝倉氏家臣が立て籠った砦跡が存在したが、現状では明確に確認しえない。本城には浅井氏の重臣である中島宗左衛門直親が、織田信長の小谷城攻撃に対抗するため、布陣した場所と伝えることから、城名がつけられたと推定される。城の構造は、約10m四方の主郭の周囲を、高い土塁が囲繞(いじょう、取り囲むこと)し、虎口があいた西側に、やはり土塁で囲まれた出丸(現在地)を配する形状である。また主郭東側の横堀、東の尾根に設けられた堀切なども残りが非常に良く、小規模ながら近世城郭に近づいた、非常に進化した形状をなしている。
主郭
主郭北東に位置する土橋と堀
中島砦の敵は丁野山砦?
さて、ネット「城郭探訪」で面白い見解が出ていましたので、それを紹介します。(要約)
曲輪が二つあるとき、主郭に対してもう一つの曲輪は、主郭を守るために造られることが多い。先ほどの図の左側を主郭とするなら、右の曲輪は主郭を敵から守るために造られている可能性が高い。ということは、中島城は、敵を西、つまり丁野山砦に想定していることになる。
というのです。
面白い見解だと思いました。確かに、三河の古宮城を訪れたとき、堀切で切られた二つの曲輪のうち、半分は主郭の馬出の役割をしている曲輪だと聞いた気がします。
そうすると、中島砦と丁野山砦をセットにして浅井側の砦と考えてきましたが、そう単純ではないことになります。織田側が中島砦を落とした後、急きょ丁野山砦攻略の為に改造したのでしょうか。丁野山砦などの落城から朝倉義景の越前への敗走は「信長公記」では10日間ぐらいの出来事と記されています。砦を改修するには、短すぎます。
さらに「信長公記」では、8月12日、織田側が落とした城は、「大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、疋檀、敦賀、志津が嵩、若狭粟屋越中所へさし向ひ候付城、共に拾ヶ所退散。」とあります。
なんと、中島砦が入っていません。(ようの山に含まれてしまっているのかも知れません)ということは、もっと以前に織田側に攻め落とされ、改修されていたのかも知れません。
いやいや丁野山砦と中島砦は仲間だよ
なお、小冊子「小谷城と城下をゆく」小谷城址保勝会(小谷城戦国歴史資料館内)・小谷城下まちめぐりウォーク実行委員会2010年発行に「丁野山城絵図」というのが「本書で初公開」として紹介されています。その図では天正19年辛卯九月図画之とし、おそらく天正元年の小谷城攻防戦の様子として、丁野山を本丸(玉泉坊)、大鳳山(中島砦)を出丸(中嶋宗左衛門)としています。つまり、天正元年丁野山砦と中島砦は浅井側に立って戦っていたということを示しているのです。
中島城跡の看板
看板が見えた道の隅に車を止めさせてもらい、いよいよ中島城に登りました。
中島砦縄張り図(現地案内板)
案内板によれば
丁野山城がある岡山から東へ出る支脈の頂部(標高113m、平池からの比高差34m)の場所に存在する砦跡である。地域に伝わる「丁野山古砦之図」によれば、この支脈を「大鳳山」と称し、中島砦から東の尾根上にも、三田崎六郎右衛門ら朝倉氏家臣が立て籠った砦跡が存在したが、現状では明確に確認しえない。本城には浅井氏の重臣である中島宗左衛門直親が、織田信長の小谷城攻撃に対抗するため、布陣した場所と伝えることから、城名がつけられたと推定される。城の構造は、約10m四方の主郭の周囲を、高い土塁が囲繞(いじょう、取り囲むこと)し、虎口があいた西側に、やはり土塁で囲まれた出丸(現在地)を配する形状である。また主郭東側の横堀、東の尾根に設けられた堀切なども残りが非常に良く、小規模ながら近世城郭に近づいた、非常に進化した形状をなしている。
主郭
主郭北東に位置する土橋と堀
中島砦の敵は丁野山砦?
さて、ネット「城郭探訪」で面白い見解が出ていましたので、それを紹介します。(要約)
曲輪が二つあるとき、主郭に対してもう一つの曲輪は、主郭を守るために造られることが多い。先ほどの図の左側を主郭とするなら、右の曲輪は主郭を敵から守るために造られている可能性が高い。ということは、中島城は、敵を西、つまり丁野山砦に想定していることになる。
というのです。
面白い見解だと思いました。確かに、三河の古宮城を訪れたとき、堀切で切られた二つの曲輪のうち、半分は主郭の馬出の役割をしている曲輪だと聞いた気がします。
そうすると、中島砦と丁野山砦をセットにして浅井側の砦と考えてきましたが、そう単純ではないことになります。織田側が中島砦を落とした後、急きょ丁野山砦攻略の為に改造したのでしょうか。丁野山砦などの落城から朝倉義景の越前への敗走は「信長公記」では10日間ぐらいの出来事と記されています。砦を改修するには、短すぎます。
さらに「信長公記」では、8月12日、織田側が落とした城は、「大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、疋檀、敦賀、志津が嵩、若狭粟屋越中所へさし向ひ候付城、共に拾ヶ所退散。」とあります。
なんと、中島砦が入っていません。(ようの山に含まれてしまっているのかも知れません)ということは、もっと以前に織田側に攻め落とされ、改修されていたのかも知れません。
いやいや丁野山砦と中島砦は仲間だよ
なお、小冊子「小谷城と城下をゆく」小谷城址保勝会(小谷城戦国歴史資料館内)・小谷城下まちめぐりウォーク実行委員会2010年発行に「丁野山城絵図」というのが「本書で初公開」として紹介されています。その図では天正19年辛卯九月図画之とし、おそらく天正元年の小谷城攻防戦の様子として、丁野山を本丸(玉泉坊)、大鳳山(中島砦)を出丸(中嶋宗左衛門)としています。つまり、天正元年丁野山砦と中島砦は浅井側に立って戦っていたということを示しているのです。
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