愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平三蔵直勝は家康方 岡崎市

2013年10月13日 10時46分40秒 | 岡崎市
松平三蔵直勝は家康方
 次に「松平記」は、大草の松平直勝について一揆方に与したと述べています。しかし、「愛知県史 資料編11 織豊1」の解説で、「松平三蔵(直勝)について、『松平記』では大草城主で一揆方となったという誤った記述が見られるが、『三河物語』では佐々木で家康に味方したと正しく記されている。」とコメントしています。

一 松平三蔵(三左衛門弟)は、大草の城を持っていて、このたびは一揆に味方して、敵になった。家来太田善大夫<1>以下皆敵になったが、岡崎衆(家康方)に攻落され、三河に居住することができなくなり、西国に浪人となって流れていった。後には加藤主計頭(かとうかずえのかみ 加藤清正のこと)のところにて、加藤佐助と改名し、天草の合戦で討ち死にしたらしい。これは、内藤弥次右衛門<2>の妹婿であった。


<1> 太田善大夫 この松平記によれば、松平三蔵の家臣である。
<2> 内藤弥次右衛門 内藤清長 清長は松平清康、松平広忠に仕え、天文11年(1542年)織田勢が上野城(愛知県豊田市)を攻めた際に、甥の内藤正成ら一族と共に防戦し、数十人の織田勢を討ち取ったという。愛知県額田郡幸田町にある荻城跡碑文によれば、永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起こると主家から離反して一揆側に与し、敗れて荻城に蟄居となりこの地で没したという。実子は内藤家長。また内藤信成の養父である。法名は「幽鑑」。墓所は愛知県安城市姫小川町姫150の誓願寺及び豊田市幸町隣松寺。<Wikipedia>

本ブログの訂正
また、このブログで2013年9月7日の以下の文は、訂正します。ちょっと混乱していました。

多くの松平は家康側に
 この図で家康側として「松平記」に記されているのは、竹谷、形原、五井、長沢、深溝、藤井、福釜で、大草松平昌久は一揆側についたとなっていますが、どうやら間違いのようで、家康側についています。他の松平氏については一揆が領地で起こっていないのか、記述がありませんでした。

(訂正した文)
多くの松平は家康側に
 この図で家康側として「松平記」に記されているのは、竹谷、形原、五井、長沢、深溝、藤井、福釜で、大草松平直勝は一揆側についたとなっていますが、どうやら間違いのようで、大草松平は松平昌久で一揆側につき、松平直勝は佐々木城の城主で、家康側についています。他の松平氏については一揆が領地で起こっていないのか、記述がありませんでした。

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