荻城址
10月13日(日)幸田町荻の方に行きました。「松平記」松平昌久のところに内藤弥次右衛門という武将が登場して、WIkipediaで、「荻城址碑文によれば」とコメントがありました。そこで、「荻城址」なるものがどんなものか訪ねることにしました。
国道248号線から東へ約350メートル進むと右側に石碑がありました。
五輪塔が右に並んで建てられていました。
五輪塔の裏に説明文がありました。
内藤弥次右衛門清長公終焉の地と伝う
荻城は寛正(一四六〇)の頃内藤氏京都より三河に移り住みこの地に屋敷
城を築いたと伝えられる。永禄七年以来明治三八年まで内藤一族が居住。
同年耕地整理事業に伴い城址の古木は伐られ堀は埋められ往時を偲ぶもの
は姿を消し城 西堀の地名をのこすのみ整理後小字名は城跡となる
永禄六年の晩秋三河一向一揆起る上野城主内藤弥次右衛門清長は主君松平
元康(家康)嫡子家長養子信成甥の正成同族甚五左衛門忠郷等と袂を分か
ち熾烈なる信仰に燃え宗門護持の為権勢に屈せず決然起って法敵退治の為
進むは往生極楽 退くは無限地獄を旗印とし主従骨肉相食悲惨な戦いに敗
れ こゝに蟄居の身となる同七年甲子八月十二日死去す 享年六十四歳
法号 楽宝院殿釈幽鑑真光覚位
没後四百二十三年にあたり城の由来を記しこゝに碑を建立す
昭和六十二年八月吉日 荻郷土史研究会有志
蓮如ゆかりの玄好寺
ついでなので、近くのお寺も回ってみました。玄好寺と言うお寺が北の方にありました。中に入ってみると、蓮如ゆかりのものが2点ありました。といっても説明板だけですが。
ひとつは「蓮如上人絵伝」です。三河一向一揆について描かれているものが岡崎本宗寺にあるらしいのですが、ここにも絵伝があることが分かりました。ただし、絵伝の内容が三河一向一揆のものなのかは分かりません。
もう一つは、「蓮如上人 御済度 蛇骨塚」というものです。どういうものなのかよく分かりませんが、蓮如上人という文字が見えるので、蓮如上人ゆかりのものであろうと思います。
10月13日(日)幸田町荻の方に行きました。「松平記」松平昌久のところに内藤弥次右衛門という武将が登場して、WIkipediaで、「荻城址碑文によれば」とコメントがありました。そこで、「荻城址」なるものがどんなものか訪ねることにしました。
国道248号線から東へ約350メートル進むと右側に石碑がありました。
五輪塔が右に並んで建てられていました。
五輪塔の裏に説明文がありました。
内藤弥次右衛門清長公終焉の地と伝う
荻城は寛正(一四六〇)の頃内藤氏京都より三河に移り住みこの地に屋敷
城を築いたと伝えられる。永禄七年以来明治三八年まで内藤一族が居住。
同年耕地整理事業に伴い城址の古木は伐られ堀は埋められ往時を偲ぶもの
は姿を消し城 西堀の地名をのこすのみ整理後小字名は城跡となる
永禄六年の晩秋三河一向一揆起る上野城主内藤弥次右衛門清長は主君松平
元康(家康)嫡子家長養子信成甥の正成同族甚五左衛門忠郷等と袂を分か
ち熾烈なる信仰に燃え宗門護持の為権勢に屈せず決然起って法敵退治の為
進むは往生極楽 退くは無限地獄を旗印とし主従骨肉相食悲惨な戦いに敗
れ こゝに蟄居の身となる同七年甲子八月十二日死去す 享年六十四歳
法号 楽宝院殿釈幽鑑真光覚位
没後四百二十三年にあたり城の由来を記しこゝに碑を建立す
昭和六十二年八月吉日 荻郷土史研究会有志
蓮如ゆかりの玄好寺
ついでなので、近くのお寺も回ってみました。玄好寺と言うお寺が北の方にありました。中に入ってみると、蓮如ゆかりのものが2点ありました。といっても説明板だけですが。
ひとつは「蓮如上人絵伝」です。三河一向一揆について描かれているものが岡崎本宗寺にあるらしいのですが、ここにも絵伝があることが分かりました。ただし、絵伝の内容が三河一向一揆のものなのかは分かりません。
もう一つは、「蓮如上人 御済度 蛇骨塚」というものです。どういうものなのかよく分かりませんが、蓮如上人という文字が見えるので、蓮如上人ゆかりのものであろうと思います。
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