小豆坂というところ
小豆坂という地名が岡崎市に有ることは、知人が岡崎の同名の小学校、小豆坂小学校に勤めていたことで知りました。その次に織田信秀(信長の父)と今川義元がこの地で戦っていることで知りました。「信長公記」のはじめの方にその記事が記載されています。そして三河一向一揆の中でも小豆坂が出てきました。

小豆坂古戦場の碑

戦いについての案内板
一揆勢の敗北を決定付けた小豆坂の戦い
小豆坂の戦いは、「松平記」では、以下のように記述されています。(現代語文に直し、文章を細かく分けてみました。)
・そのころ、家康の伯父水野藤十郎忠重は、兄の下野守信元と仲が良くなかった。
・藤十郎は、三河の国の鷲塚というところで浪人をしていた。相婿(藤十郎の嫁の姉妹の婿)の水野太郎作正重、村越又十郎と三人は一揆が起こったことを聞いて気がかりと思い、見舞いに来たところ、
・このようにいろんなところで、戦が起こっているのに、どうしてこれが見捨てておかれようかと、水野藤十郎は先鋒の集団に加わり、数度の手柄を立てたのである。
・その時分佐々木上宮寺の一揆勢の後方支援隊として、一揆勢は岡、大平へ動いた。
・馬場小平太、石川新九郎正綱、同新七郎親綱、矢田作十郎助吉が大将であった。天野三兵と馬場小平太が槍を合わせ、天野が馬場小平太をつき伏して首を取った。一揆勢はこれを見て戦意を失い、引き返した。
・家康は、大久保一族を針崎勝鬘寺の押さえとしておき、大久保弥三郎計忠政を案内として、『盗木を直に小豆坂へあかり給へハ』、
・一揆勢が引き返していく道で行き会い、合戦をし敵を多く討ち取った。
・一揆どもはかなわず引いていった。
・石川新七は、赤の具足に金の団扇の指物で、最後尾を退却していった。家康の家来たちは、これを討とうと考えた。
・他のひとは山にのがれ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎吉実、波切孫七郎は本道をしずしずと『除く』ところを水野藤十郎が追い詰め、石川新七だと見ると「返せ」と言葉を掛けてついてかかった。
・石川新七は取って返し、お互いに突きあっていたが、水野藤十郎が石川をつき伏せ、団扇を添えて名を上げた。
・大見藤六は水野太郎作につき伏せられ、佐橋甚五郎もここで討たれてしまった。波切孫七郎は、家康自身が追いかけ、鑓で後ろを二回ついたが、傷が浅く引き払って逃げていってしまった。
・味方はみな本陣に帰った。
現地の案内板でも
現地の案内板にも以下のように記されていました。
永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めることになった。
つまり、小豆坂の戦いでの敗戦により一揆勢の劣勢が決定的となり、以後「和睦」へと推移していったのです。
いろいろな疑問が
しかし、地図で確認すると、いろいろと疑問が出てきます。

・水野藤十郎は陣中見舞いをしに、どこへ出向いたか。
・家康は、どこから大平・岡に向かったか。
・一揆勢は、上宮寺の後詰として大平・岡に向かっているが、上宮寺の先鋒隊は、どこで戦いをしていたのか。
など、小豆坂の戦いは、それに至る過程がよく分かりません。
しかし、一揆勢の武士、馬場小平太がまず討ち取られ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七郎などが、討ち取られたり、傷を負ったりしたことで、一揆勢は大きな痛手を受けたものと思われます。
小豆坂という地名が岡崎市に有ることは、知人が岡崎の同名の小学校、小豆坂小学校に勤めていたことで知りました。その次に織田信秀(信長の父)と今川義元がこの地で戦っていることで知りました。「信長公記」のはじめの方にその記事が記載されています。そして三河一向一揆の中でも小豆坂が出てきました。

小豆坂古戦場の碑

戦いについての案内板
一揆勢の敗北を決定付けた小豆坂の戦い
小豆坂の戦いは、「松平記」では、以下のように記述されています。(現代語文に直し、文章を細かく分けてみました。)
・そのころ、家康の伯父水野藤十郎忠重は、兄の下野守信元と仲が良くなかった。
・藤十郎は、三河の国の鷲塚というところで浪人をしていた。相婿(藤十郎の嫁の姉妹の婿)の水野太郎作正重、村越又十郎と三人は一揆が起こったことを聞いて気がかりと思い、見舞いに来たところ、
・このようにいろんなところで、戦が起こっているのに、どうしてこれが見捨てておかれようかと、水野藤十郎は先鋒の集団に加わり、数度の手柄を立てたのである。
・その時分佐々木上宮寺の一揆勢の後方支援隊として、一揆勢は岡、大平へ動いた。
・馬場小平太、石川新九郎正綱、同新七郎親綱、矢田作十郎助吉が大将であった。天野三兵と馬場小平太が槍を合わせ、天野が馬場小平太をつき伏して首を取った。一揆勢はこれを見て戦意を失い、引き返した。
・家康は、大久保一族を針崎勝鬘寺の押さえとしておき、大久保弥三郎計忠政を案内として、『盗木を直に小豆坂へあかり給へハ』、
・一揆勢が引き返していく道で行き会い、合戦をし敵を多く討ち取った。
・一揆どもはかなわず引いていった。
・石川新七は、赤の具足に金の団扇の指物で、最後尾を退却していった。家康の家来たちは、これを討とうと考えた。
・他のひとは山にのがれ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎吉実、波切孫七郎は本道をしずしずと『除く』ところを水野藤十郎が追い詰め、石川新七だと見ると「返せ」と言葉を掛けてついてかかった。
・石川新七は取って返し、お互いに突きあっていたが、水野藤十郎が石川をつき伏せ、団扇を添えて名を上げた。
・大見藤六は水野太郎作につき伏せられ、佐橋甚五郎もここで討たれてしまった。波切孫七郎は、家康自身が追いかけ、鑓で後ろを二回ついたが、傷が浅く引き払って逃げていってしまった。
・味方はみな本陣に帰った。
現地の案内板でも
現地の案内板にも以下のように記されていました。
永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めることになった。
つまり、小豆坂の戦いでの敗戦により一揆勢の劣勢が決定的となり、以後「和睦」へと推移していったのです。
いろいろな疑問が
しかし、地図で確認すると、いろいろと疑問が出てきます。

・水野藤十郎は陣中見舞いをしに、どこへ出向いたか。
・家康は、どこから大平・岡に向かったか。
・一揆勢は、上宮寺の後詰として大平・岡に向かっているが、上宮寺の先鋒隊は、どこで戦いをしていたのか。
など、小豆坂の戦いは、それに至る過程がよく分かりません。
しかし、一揆勢の武士、馬場小平太がまず討ち取られ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七郎などが、討ち取られたり、傷を負ったりしたことで、一揆勢は大きな痛手を受けたものと思われます。
北陸の一揆だけではなく、戦国時代のこの時期に相次いで起こった一揆で、しかも、時代の英雄であった信長や、家康までもが辛酸をなめた、三河の一揆や長島の一揆も取り上げる予定です。
北陸の朝倉氏や富樫氏に負けず劣らず、つらい戦いであったことが分かり、ぜひ、取り上げたいと思っています。
これもmidorishakoさんのブログのおかげです。
コメントありがとうございます。
福井新聞の講座で役に立つことができて光栄です。
三河一向一揆が北陸の一揆と関係があると、金龍静氏が述べておられました。
本願寺が感知する前に、あっという間に家康によって瓦解させられてしまい、そのことで本願寺が今まで敵対していた大名と手を組み、北陸戦線で反信長で対抗しようとしたといっていました。
そういう点で本願寺に深刻な影響と与えたのではないかといっておられました。
詳しいことは不勉強で分かりませんが、一揆を調べることで、戦国期の日本が見えてくる気がしました。
もう、随分このブログは深まっていますね。
城歩きマンは、朝倉氏が一向一揆に苦労した、そのため義昭と上洛するのもためらわれた、と単純に思っていましたが、上杉氏や武田氏、さらに本願寺との反信長包囲網が形成されていたとの情勢を知ると、この時期の政治史がリアルに想像されて感激します。
前にも言いましたが、midorishakoさん、ぜひ三河一向一揆で何かまとめてください。