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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

白山平泉寺 福井県勝山市(1)

2018年08月13日 20時24分48秒 | 福井県
先日、福井県の白山平泉寺を訪れました。
というのは、私の所属する「若越城の会」の学習会でこの「白山平泉寺」をテーマに学習会がもたれ、関心を持ったからです。

白山平泉寺はお寺か神社か
はじめ平泉寺というくらいなので、ここにはお寺があると思っていました。しかし、学習会でよくよく聞いてみると、ここには白山神社という神社があるということでした。では、平泉寺とはどういうことか、戦国時代までここに平泉寺というお寺があり、そのお寺は京都の比叡山延暦寺につながるお寺として絶大な勢力を誇っていたそうです。パンフレットには、「一帯は、最盛期の戦国時代には8000人もの僧兵がいたと伝えられ、当時の日本では最大規模の宗教都市となり繁栄します。しかし、天正2年(1574)に越前一向一揆勢に攻められ、全山焼失しました。」と書かれています。


中宮白山平泉寺境内図(江戸時代に描かれた中世の白山平泉寺の境内図)

戦国時代の宗教都市といえば、大坂(石山)本願寺が思い浮かびますが、福井県にもそういった宗教都市があったというのは驚きでした。

さて平泉寺は、現在発掘調査が行われており、特に南谷の方で僧房の跡が発見され石畳の道や坊舎の跡の調査が行われています。それを見ることを目的にして見学をしました。

平泉寺案内図(青色は、私が追加しました)

「まほろば館」の近くの駐車場に車を停め、一の鳥居から順に見学しました。

続く

クタラキ山城 福井県大野市

2018年06月25日 09時54分06秒 | 福井県
先日、若越城の会より「クタラキ山城」に登りませんかという案内が来ました。
クタラキ山城は、織田信長の時代に、信長の家臣である金森長近が美濃から越前へ攻めてくるというので、越前の一向一揆衆が、それを迎え撃つために築いた城ということです。
また、水戸の天狗党が敦賀に入る際に「蠅帽子(はえぼし)峠」(クタラキ山城)を通ったという記録もあるそうです。

ということで、現地の城を研究している方2名と城の会3名さらに蠅帽子峠を目指す武生の山の会の方数名で登山をすることになりました。

案内をしていただける地元の研究者

登山は難航を極め、山には「やぶ」と称する低木が生い茂り、顔面に当たらないようにその枝を手で払いながら、足元は枯れ葉が積もっていたり、切り株が鋭利な切り口をのぞかせていたり、根っこがむき出していたりで、それに足を取られたり、滑らせたりしないように細心の注意を払いながらの登山でした。
川も渡りましたが、折からの梅雨時で水量が増していたらしく、長靴にはもう少しで水が入ってきそうでした。そこで、浅いところを見つけながら、なおかつ川底の石に足を滑らせないように、これも細心の注意を払いながら川を渡りました。

城には、曲輪が数か所と畝状竪堀が4条あるということでした。確かにそれらしき跡が残っていました。しかも、このクタラキ山城のある山を「夜引山」というそうで、「一向衆が夜にここを引いたから、この名前がついたのではないか」と地元の研究者の方が言っておられました。

もう一つの発見は、美濃から越前に抜ける蠅帽子峠を越える古道の跡があったことです。岐阜県側では整備が進んでいるそうですが、福井県側は手つかずになっています。なんとか整備をしてもらいたいと思いました。


沢登り、藪漕ぎをして上る一行


クタラキ山城より下流の古戦場跡 ここから金森軍に向かって石で攻撃したのではないかと地元の研究者の方が説明してくださいました。

奥深い大野の山に越前一向一揆の跡があり、敵と戦う一向衆の姿が目に浮かぶようでした。
大野の研究者の方、ありがとうございました。

豊原三千坊 福井県坂井市

2018年03月26日 14時49分41秒 | 福井県
お久しぶりです。
季節もよくなり、暖かくなりました。
今年の冬は北陸や東北ですごい雪が降り、寒い冬でした。

さて、3月25日(日)若越城の会で見学会がありましたので、はるばる出かけて参加しました。
丸岡インター近くの「豊原三千坊」というところです。
豊原寺は、パンフレットによれば、
大宝2年(702)、泰澄大使によって開かれたそうです。泰澄大師と言えば白山平泉寺を開いたのも泰澄大師でした。平泉寺とゆかりのあるお寺のようです。戦国時代には、一向一揆の拠点となったため、織田信長に焼き払われたそうです。織田信長の家臣柴田勝家の養子である柴田勝豊が丸岡に城を築いたときに山から下りたそうです。それまでの場所には「華蔵院」という建物が残ったそうです。明治の神仏分離により廃寺となり、白山神社だけが残ったそうです。


豊原三千坊案内掲示板


豊原三千坊資料館

資料館で、館長(?)さんの豊原さんからいろいろ説明を聞きました。
中にはいろいろな仏像や資料がありました。

薬師如来像(パンフレットより)


阿弥陀如来像(パンフレットより)

この資料館は、豊原さんが自分のお金で建てられたそうです。
市からの助成は、ここにある文化財を修復するときにだけ出るそうです。
ここにある仏像もかなり傷んでいて、修復が必要だとおっしゃっていました。
それにしても、文化財の維持管理にもたくさんお金を出してほしいと思いました。

予定では資料館見学で終了でしたが、せっかくなので周りを散策することになりました。
豊原さんにガイドをお願いしました。

ずんずん登っていきますと、最初に見えたのが豊原の滝でした。
ここで修業をしたそうです。

豊原の滝

さらに登っていくと、集落跡がありました。
豊原さんは小さいとき、ここに住んでいたそうです。
しかし、今は誰も住む人はおらず、家もありません。
一部は、キャンプ場になっていました。
この集落ももっと昔は、豊原寺の門前町でした。

その中心辺りに「延命地蔵堂」という建物がありました。

延命地蔵堂 中を覗いてみましたが、保護のための青いシートに覆われていて、地蔵様を拝むことはできませんでした。

集落の跡地を進んでいきますと「豊原寺跡」という看板がありました。
ここが最後まで残っていたという「華蔵院」のあった場所です

豊原寺跡 写真の右手奥がが華蔵院跡です。

さらに奥へと進んでいきますと「閼伽井(あかい)」という泉がありました。
飲むと不老長寿になるそうです。

閼伽井 実際に城の会の人たちが飲んでいました。私も飲みました。

最後に、豊原寺が丸岡に下りるまであった旧白山神社の後に行きました。

白山神社(旧)

建物の左右にはたくさんの石仏がありました。観音様でした。

白山神社の石仏

なお、神社なのに、どうして石仏があるのかと言えば、昔は本地垂迹で日本の神社の神様は、仏教界の仏や菩薩、天、明王などの化身と考えられていたからです。

玄蕃尾城(2) 福井県敦賀市

2017年12月21日 05時55分30秒 | 福井県
山道をハアハア言いながら登りつくと、道は左のほうに折れてしばらく尾根伝いに続いていました。

そして、ようやく玄蕃尾城にたどり着くことができました。

玄蕃尾城看板

看板を見ると、最後に「敦賀市教育委員会」と「余呉町教育委員会」の二つの教育委員会が連名で書いてありました。

玄蕃尾城とは、どんな城なのでしょう。
築城 天正11年頃(1583、賤ケ岳の合戦)
城主 この城は賤ケ岳の合戦の折に、柴田勝家が本陣を置いた場所。居住する城主はいない。
廃城 賤ケ岳の合戦の終了後に廃城か。
史跡の価値 この看板に「本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の標式遺構として重要であること、遺構が良好に遺存していることなどから、史跡に指定して保存を図るものである。」とありました。

標式遺構というのは、詳しくは分かりませんが、遺存の状況が良好というのはうれしいです。

玄蕃尾城縄張り図(現地案内板)

玄蕃尾城跡(1) アクセス 福井県敦賀市

2017年12月19日 06時57分00秒 | 福井県
道がむずかしい
11月25日、金沢に用ができ、ちょうど出かけるついでに玄蕃尾城を見ておこうと思い立ちました。
玄蕃尾城への道は、分かりにくいので、事前に調べました。すると、米原の方から行くときには、県道140号線を走り、柳瀬トンネルを抜けたところで右に曲がるということでした。


県道140号から玄蕃尾城への入り口(地理院地図で作成)

しかし、この入り口は小さく大変分かりにくいものでした。小さな標識が立っているとのことでした。実際グーグルで調べると、小さな標識を確認することができました。これは必ず見落とすに違いないと思いました。そこで、この標識が確実に見えるように、米原側ではなく、敦賀側から140号線に入り、柳瀬トンネルのところで、左折することにしました。


柳瀬トンネル近くの分岐点の様子(敦賀側から見た画像、Googleストリートビユーより作成)

ここの所をクリアすれば、あとは一本道でした。ただし11月の下旬で天候は曇り時々雨で、道には落葉樹の枯れ葉がびっしりと敷き詰められていました。雨で湿り気を帯びていて、ゆっくり走行しましたが、車体に枯れ葉がいっぱい付着してしまいました。
細い一本道は、小さな駐車場まで続いています。


小さな駐車場

駐車場には、先客がありました。地元の人でしょうか、山歩きの方が数名降りてきました。「道はどうですか。」「そんなにぬかるんではいないよ」と親切に教えてくれました。「へえ、さすが山城ベスト1だけのことはある。見学者が一人ということはないんだ」などと、独りごとを言いながら、登っていきました。ここから20分歩で玄蕃尾城に行くことができます。
城が分からない
しかし、詰めが甘いのでしょうか。道に迷ってしまいました。


分かれ道の看板

10分ほどで、上の写真のような看板がありましたが、左側の上り道に気が付かず、看板のすぐ近くで矢印を見たものですから、左上の矢印は、「左斜めに直進」右上の矢印は「右折」(おそらく右に下っていくと、行市山砦というのがあるのだろう)と思い込みました。
行けども行けども玄蕃尾城はありません。そればかりか城らしきものすらありません。30分ほど歩いていると、今度は道が下ってきました。これは、道に迷ったに違いない。残念だけどあきらめようかと思い、来た道を今度はひたすら戻っていきました。
そしてようやく先ほどの看板のところまで戻り、じっくり辺りを見ますと、なんと山を登る道があるではないですか。偶然にも人が下りてきました。「ここに違いない」と、やっとの思いで玄蕃尾城にたどり着くことができました。

玄蕃尾城 続く