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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

若狭三方縄文博物館 福井県若狭町

2017年08月29日 06時08分22秒 | 福井県
若狭地方に寄ったついでに気になっていた博物館を訪れました。

若狭三方縄文博物館

変わった建物で、すごく気になっていました。また、舞若道「三方五湖」PAからもよく見えるので、なおさらでした。
博物館では、丸木舟の展示が圧巻でした。縄文時代に使われていた舟がそのままみられるのはここだけでしょうか。とてもよかったです。また、縄文時代の生活の様子が分かりやすく展示されていて、勉強になりました。

丸木舟展示コーナー(若狭町歴史文化課「若狭三方縄文博物館・若狭町歴史文化館常設展示図録」より)

国吉城跡 福井県美浜町

2017年08月28日 21時07分11秒 | 福井県
久しぶりの投稿です。
あまりの久しぶりで、トップの記事が広告になってしまいました。
なかなか投稿できなかったので、犬山城からあと、どこを訪れたのかぼちぼちと投稿します。

7月には福井県若狭地方の国吉城に行きました。
国吉城は、以前堂谷山城などに登ったときに、ふもとの博物館が集合地になっていました。しかし、肝心の国吉城本体には登ったことがないので、一度登ってみたいと考えていました。

若狭国吉城博物館


国吉城址地形測量図(美浜町教育委員会「戦国若狭と国吉城~歴史編1~」より)

この国吉城博物館の左手に登城道があります。そして山の麓には城主居館跡がありました。

国吉城、城主居館跡(上から撮影)

さっそく山道を登っていきますと、本丸の手前に「伝二の丸」が見えました。

伝二の丸の食い違い虎口

伝二の丸を越えてさらに登りますと、本丸と2郭の間の堀切が見えました。

本丸と2郭の間の堀切(左が2郭、右が本丸です)

この堀切には墓石が使われていました。

堀切に使われていた墓石

本丸の虎口には石垣が見えました。

本丸虎口の石垣

石垣といってもとても低く、土塁が崩れるのを防ぐためのような感じでした。しかし、ここで石垣が使われていたということは、このお城の遺構がけっこう新しいだと感じました。

本丸から北西にかけてはいくつもの曲輪ができていました。
それぞれ趣があり、内枡形の虎口があったり、土塁が残っていたりしました。

5郭と6郭の間の土塁

若狭には山城が多く、これからも登っていきたいと思いました。

駈倉山(かりくらやま)砦跡 福井県美浜町

2017年03月23日 17時28分09秒 | 福井県
3月19日、若越城の会の山城見学会に行きました。目的地は駈倉山砦です。駈倉山城は、福井県美浜町にあります。


美浜町の位置(yahoo地図を元に作成しました。)


駈倉山砦の位置(城の会の資料より)
目的地の駈倉山砦は、図の右の中断の○です。似たような名前の砦が左上にあり、狩倉山(かりくらやま)砦といいます。

集合場所は国吉城歴史資料館です。そこから乗りあって織田(おりた)神社という所まで車で移動しました。ここからは徒歩で山登りです。駈倉山は標高約213メートル。「最初に難所があります。棄権していただく方はここで待っていてください」という説明がのっけからあって、ややびびりました。

織田神社駐車場での説明


最初の難所。
結構厳しい急斜面でした。しかし、棄権する方はいませんでした。さすがは城の会!

尾根線伝いに登っていきますと、ようやく砦の境界線である虎口の跡がありました。

食い違い虎口の跡

食い違い虎口からさらに登っていきますと曲輪のある所に行きます。
この砦は曲輪が一つです。


駈倉山砦縄張り図 (城の会の資料より)

まずは北虎口です。

北虎口 曲輪の方から写しました。
黄色い線は土塁で、外枡形の虎口となっていました。

曲輪の周りはぐるっと土塁で囲まれていました。

曲輪を囲んでいる土塁
曲輪は結構広く、多くの人数を収容することができたと思われます。

圧巻は東の虎口でした。

東虎口の一部
残念ながら虎口の一部しか撮影できませんでしたが、写真は虎口の南側の部分で、右端の土塁は曲輪と区切るものです。そのすぐ外側に堀が掘られています。案内の大野さんが立っている左側に馬出状の虎口が展開していました。かなり防御性の高い虎口になっていました。

曲輪の周りは腰曲輪が回っていました。

腰曲輪

なお、この城には鹿の糞が至る所にあり、鹿がここで木の芽や木の皮などを食べていると思われました。


駈倉山城について、これが朝倉氏の出城であるということが言われてきましたが、現状の遺構はそのまま朝倉氏が造ったままのものではなく、「賤ヶ岳の戦い」で豊臣方の将丹羽長秀によって造られたのではないかということを城の会の方々がさかんに議論しておられました。

堂谷山城址 福井県若狭町

2016年09月26日 12時02分25秒 | 福井県


地元の学習会に合流
9月25日(日)若狭国吉城歴史資料館主催の「堂谷山城跡探検会」に参加しました。この企画は、歴史資料館が「国吉城歴史講座」の一環として企画されたものです。この講座はすでに過去に3回企画されていて、今回は第4回目の講座となっていました。地域で活発に歴史の学習会が行われ、その地域の史跡を学ぶ活動が行われていることに感動しました。とてもいいことだと思いました。

国吉城歴史資料館の案内チラシ

9時集合でした。場所は資料館です。

国吉城歴史資料館

資料館から堂谷山城址のすぐ近くの駐車場まで乗り合わせていきました。その駐車場は大変狭く、数台の車が止められるだけでした。

堂谷山城址近くの駐車場

そこから、いよいよ登城です。まさに登りました。

登城の様子。大変急な上り坂でした。この坂を登ったところが土塁になっていました。


堂谷山城址イメージ

南東に伸びる長い土塁
ようやく城址南側の土塁までたどり着きました。

城址南側土塁 土塁は北東側に長く築かれ、南西側にはありませんでした。

そこからは舞鶴若狭道が眼下に見下ろせる素晴らしい眺めでした。


石垣の跡の石が散在する主郭
この土塁に沿って緩やかに登っていきますと、主郭になります。主郭には石がごろごろしていました。石垣の跡だそうです。案内の方のお話では一部積みあがっている個所もあるので、石垣として積みあがったものが何らかの事情で崩れ、散乱したのではないかということです。また、その事情とは大きな地震ではないかということでした。

主郭付近に散在する石

その石の中には墓石も利用されていました。


主郭を守る大きな横堀
圧巻は西側の横堀でした。大変深い堀で主郭を防衛するのに十分なものでした。

西側の横堀 この堀は西側から北側にかけて巡らされていました。

主郭に天守台か
また主郭①は、穴倉のようになっていて、案内の人は、天守台であったかもしれないと言っていました。

主郭①の内側

この後、山を下り、見学会は終了しました。

はるばる若狭に来たかいがあったと思いました。

朝倉山城址 福井県福井市

2016年05月16日 15時32分18秒 | 福井県
5月15日、私がお世話になっています「若越城の会」の総会がありました。総会では今年の秋の見学会について愛知県を中心に行われることが報告されました。名古屋城や小牧山城、岡崎城、長篠城などを見て回る予定です。

さて、総会の後は山城の見学会です。今回は、福井市の朝倉山城址です。

朝倉山城の位置(地理院地図より)
朝倉山城とは

棗(なつめ)公民館より朝倉山を臨む。

「『越前古今城址考』に『四天王覚書朝倉玄蕃助景連 深坂村ヨリ九町計南方山上二十五間四方計之所掻上之形有 自福井四里半計』とある。朝倉景連は朝倉氏の一族で、一乗谷奉行衆の一人である。また、永禄4年(1561)朝倉義景がこの近くの三里浜で犬追物を興業した際奉行を勤めた。「朝倉始末記」には「・・・天正3年(1575)深坂の朝倉山を城郭に拵える」とあり、織田信長の越前侵攻に対して一揆勢が立て籠もったことが知られる。なお、この北麓、五斗坂の登り口を通称「輪ノ内」と呼び居館跡とされる。(現地案内板より)

城を築いたひとは朝倉玄蕃助景連という人らしいです。景連は、一乗谷朝倉氏の家臣だったようです。また、天正3年信長の越前一向一揆攻めの時に朝倉山に城が構えられたようです。

「同三年(天正三年)アラタマノ年立帰テ二月中旬ニモ成ケレバ・・・・然レバ、信長殿越州ヘ進発アルベキトテ、敦賀・若州・丹後ノ兵船ヲモヨヲシ、棗浦・湊浦ヘ可被寄ノ由風聞シキリナル間、然ラバ城郭を構ヘラルベキトテ、大将筑後ノ法橋豊原寺ヨリ下向アリ。湊児嶋九郎兵衛尉処二被居ケリ。其威勢諸人群集少縁ナラズ。即安嶋浦ノ三保嶋、又三郷ノ高山・浅蔵山ヲ城ニゾ拵ラレケル。・・・」
越州軍記四(日本思想体系17 「蓮如 一向一揆」 岩波書店)

天正3年、信長が越前攻めを計画しているとの噂が広がり、その対策として一向宗の大将下間筑後守が築城したようです。(少なくとも朝倉景連の城が改築されたようです。)同時に、雄島、高須山にも築いたようです。本文にもあるように、海上の守りとして造られたようです。

福井臨工
棗(なつめ)公民館を出発点に登城開始です。その横に面白い建物がありました。

棗住民センター・福井臨工記念館

「福井臨工」という言葉を見て、たいへん懐かしさがこみ上げてきました。ずいぶん前に、「数十億円の釣り堀」として有名になった場所です。税金をたくさん使って工場を誘致し、ここに臨海工業地帯を造ろうという計画がありましたが、結局工場誘致はほとんどなく、巨大な防波堤が残って、それが、釣り人の間で格好の釣り場となったことから、このように言われたらしいです。
この棗地域も福井臨工と関わりがあったようです。


登山道案内


朝倉山城址概要現 地案内板(赤い字等は書き加えました)

石垣跡
さて、この山城の一番の見どころは、石垣跡です。


本曲輪北の切岸に石垣の跡らしいものがありました。これは、石垣の跡であると、城の会の方は説明しておられました。よく見ると、あちこちに石垣の石らしきものがごろごろしています。また、その東側には大手の虎口があったのではないかともおっしゃっていました。

大手虎口にも石垣

手を広げて虎口の大きさを説明している城の会の方


また、この地は太平洋戦争中は「防空監視哨」でもありました。その施設を造るときに、石垣を除去したのではないかとも話されていました。

展望台
さて、本曲輪には展望台がありました。


その展望台に上ってみますと、大変良い景色が見られました。

日本海が一望のもとに見られました。

このことから、この城はやはり日本海の見張り台のような役割をもっていたと思いました。また、この城の南側にはいくつもの腰曲輪があり、一揆勢が立て籠もるのにはふさわしい構造になっていることもわかりました。