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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

岩村城跡(女城主の城) 岐阜県恵那市

2017年06月13日 15時57分03秒 | 岐阜県
6月10日、岩村城跡に行きました。
岩村城は、石垣と女城主で有名なお城です。

女城主の城
女城主とはおつやといい、織田信長の叔母にあたる人です。おつやは、岩村城主遠山景任の妻として岩村城に入りました。しかし遠山氏は武田氏側として行動していたようです。元亀3年(1572)遠山景任は病死してしまいます。二人には子がありませんでした。そこで、おつやの甥である織田信長は自身の子御坊丸を遠山家の養子とし、おつやを後見人としました。ここに女城主おつやが誕生しました。また遠山氏は織田方に味方することになりました。

おつや(恵那市パンフレットより)

秋山虎繁と織田信長
しかし同じく元亀3年10月になると武田信玄が西上を開始します。岩村城には武田の家臣秋山虎繁が攻めてきました。女城主おつやは、織田信長の援軍を待ちながら抗戦しましたが、信長は浅井・朝倉との戦いに精一杯で美濃まで援軍を送ることができません。武田との戦いに抗しきれなくなったおつやは、元亀4年(1573)武田の将秋山虎繁と結婚することを条件に武田に下りました。岩村城には、秋山が入りました。織田信長にすれば、叔母のおつやに裏切られたことになります。
その後武田信玄が亡くなり、天正3年(1575)5月長篠の戦いで勝った織田信長が優勢になりました。岩村城には信長の息子信忠が攻めてきました。11月秋山虎繁は降参し、おつやとともに岐阜で処刑されてしまいました。

関ヶ原古戦場(9) 岐阜県

2017年05月12日 14時32分11秒 | 岐阜県
福島正則陣所跡
松尾山から降りたら、関ヶ原の南の方面を歩くことになります。まずは福島正則の陣所跡です。

福島正則陣所跡

案内板に残念ながら松尾山に発砲したとは書いてありませんでした。代わりに宇喜多秀家に向けて宣戦布告の意味で発砲したようです。

藤堂高虎・京極高知陣所跡
すぐ近くに藤堂高虎・京極高知陣所跡がありました。

藤堂高虎・京極高知陣所跡

ここにも藤堂陣や京極陣が松尾山に発砲したとは書いてありません。どうも、先に書いた話(家康が寝返りを促すため福島・藤堂・京極らに松尾山に向けて発砲させた)は私独自のもののようです。

西首塚
さて、そこから北の方に進み、国道21位号線を越えると西首塚という史跡がありました。

西首塚

西首塚の元は、関ヶ原の戦いの勝者である徳川家康が地元の武将竹中重門に戦死者の処理を命じ、竹中重門は西と東の2つ戦死者を弔う首塚をつくったそうです。西首塚は昭和6年に国指定されたそうです。関ヶ原の戦いでの戦死者は、ネットで約8千という数字も出ていますが、詳しい数字は分からないとしています。1万人ぐらいはいたのではないでしょうか。私もお参りしました。

さて、次に本多忠勝の陣所跡に行きたかったのですが、道を1本間違えてしまい、行きつくことはできませんでした。時間もかなり経過していて体も弱ってきましたので、そのままにしておくことにしました。

松平忠吉・井伊直政の陣所跡
いよいよ一巡して元の資料館に近づいてきました。東軍の先方隊松平忠吉・井伊直政の陣所跡が見えてきました。

井伊直政・松平忠吉陣所跡

東首塚
このすぐ隣に東首塚がありました。昭和6年に国に指定され、その時には「周囲5間(約9メートル)高さ5尺(約1.5メートル)の円塚」だったそうです。さらに東塚には大変立派な門が設置されていました。

東首塚の中心にあった「スダジイの古木」

東首塚の門

東首塚でもお参りし、ようやく元の資料館に戻ることができました。

以上を持ちまして関ヶ原古戦場めぐりは一応区切りとします。まだ東の南宮山方面が残っていますが、次回ということにします。家康の床几場(11時5分)から最後東首塚(16時16分)まで5時間余りを歩き、その間に松尾山(200メートル)の山登りもしたので、くたくたでした。

関ヶ原古戦場(8) 岐阜県

2017年05月10日 05時40分18秒 | 岐阜県
脇坂安治陣所跡
大谷刑部吉継の墓にお参りした後は松尾山に向かいました。途中脇坂安治という武将の陣所跡がありました。

脇坂安治陣所跡

松尾山の北側の麓です。どんな武将か知りませんでしたが、案内板を読むと案の定小早川秀秋とともに東軍に寝返ったとありました。

陣所跡に土塁か?
この陣所跡を見回ると北側に土塁のようなものが見受けられました。後世に造られたものかも知れませんし、土塁とは違う構造物かも知れません。しかし陣所なので、こういう土塁状のものを周りにめぐらしていてもおかしくはないと思いました。

脇坂安治陣所北側の様子

苦しかった松尾山登山
いよいよ松尾山です。案内マップには「山麓駐車場から約2キロ、高低差約200メートル徒歩40分」とありましたので、40分ならたいしたことないかと思いましたが、高低差200メートルを40分で登るというのは、後で考えると結構きついことなんだと思いました。実際きつかったです。何度も休憩しました。特にその日は、急に暑くなった日で4月中旬なのに20度を超える気温でした。また、3時間ぐらい関ヶ原を歩いて巡った後の登山ということもあり、ふらふらでした。

松尾山
何はともあれ松尾山に登りました。入り口に看板があり、そこには「松尾山城」とありました。

松尾山入口の看板

看板によると応永年間に富島氏によって築城され、織田信長、浅井長政等に管理されながら最終的に関ヶ原で小早川秀秋の陣所となったようです。

松尾山からの眺め

徳川家康の威嚇射撃を考える
松尾山から関ヶ原全体を見ることができました。

小早川秀秋はここから戦いの趨勢を見極めていたのでしょう。一説に徳川家康は、内通していたにもかかわらず、いっこうに東軍として軍事行動を起こさない小早川秀秋を見て、威嚇射撃をしたと言われています。

しかし、家康本陣から松尾山までは地図で測っても2.2キロあります。とうてい届きません。鉄砲の射程距離が最大で400メートルぐらいしかないからです。実際登ってみて、それは実感します。

もし本陣から射撃をすれば、松尾山までの間に陣を取っている福島正則、藤堂高虎らの陣を背後から射撃することになり、東軍は大混乱に陥ってしまいます。ということは、徳川家康本陣からではなく東軍の松尾山に近い陣所からの射撃だったと思われます。

つまり、徳川家康は関ヶ原北西の石田三成、小西行長、宇喜多秀家らと黒田長政、井伊直政、松平忠吉らの戦闘がなかなか決着がつかないのを見て小早川秀秋に寝返りを催促するために、松尾山近くに布陣していた福島正則、藤堂高虎、京極高知らに発砲を命じたということでしょうか。

福島正則陣所から松尾山まで約1.5キロなので、半分ぐらいは届いたことになります。ちょうど脇坂安治の陣所のあたりぐらいは届いています。(約500メートル)

一番驚いたのは、脇坂安治でしょう。小早川秀秋が動かないのでどう動くかずっと松尾山を見守っていたら急に背後の福島正則から射撃されたのですから。「なんで、福島正則が俺たちに攻撃してくるのだ?東軍につくという密約ができているのに。これはぐずぐずしていると、西軍とみなして攻撃するぞ、早く東軍として参陣しろという合図か。」と思ったかどうかは分かりませんが、決断に迫られたのは間違いないと思います。なので、小早川秀秋より先に脇坂安治が大谷吉継に向けて攻撃を開始したのかもしれません。それを見て小早川秀秋も松尾山から西軍攻撃を開始したということが考えられます。

松尾山は山城だ
それはさておき、この松尾山陣所跡よく見ると周りに土塁があります。頂きがおそらく主郭と思われますので、この土塁は主郭を防御するためのものと思われます。

松尾山城の主郭土塁

土塁はぐるっと主郭を取り囲んでいました。そして南側には枡形の虎口がありました。

主郭南枡形虎口

さらにこの虎口を南の方に下っていきますと、土橋らしきものもありました。

土橋

また腰曲輪や土塁、堀切なども確認でき、りっぱな山城であることが分かりました。

土塁の跡

山を降りるときも気を付けて見てみますと道の脇に曲輪があり、土塁を確認することができました。

降り道の右側にあった曲輪と土塁

松尾山はただの陣所と思っていましたが、今まで山城を見てきた経験が生かされて立派な山城であることが分かり、大変有意義でした。ふらふらになりながらも登った甲斐がありました。

関ヶ原古戦場(7) 岐阜県

2017年05月09日 15時32分06秒 | 岐阜県
大谷吉継
西軍の武将といえば石田三成に次いで大谷吉継です。

大谷吉継(片岡愛之助 NHK大河ドラマ「真田丸」より)

大谷吉継は画像にもあるように顔を隠すような頭巾をしていたようです。それは顔が崩れるような病を患っていたからだそうです。(ハンセン病や目の病気等の説があります)関ヶ原の戦い当時もこのような格好で出陣したのでしょうか。

大谷吉継の墓

宇喜多秀家の天満山からさらに西の方へ歩き、山を登っていきますと大谷吉継の墓があります。墓の傍らにはこんな掲示がありました。

文部省の立て札

文部省(現文科省)です。国の史跡なのです。しかも昭和14年とありますから、戦前からの史跡だったのです。

大谷吉継陣所跡
この墓から少し下ったところに大谷吉継の陣所跡がありました。

大谷吉継陣所跡

ここからは小早川秀秋の松尾山が見えます。というより松尾山が見えるこの位置に大谷吉継は陣を取ったのでしょう。

大谷吉継陣所跡から見る松尾山

石田三成といい、大谷吉継といい、早くから史跡として認められている感じがします。これは「反徳川」である明治政府(それに連なる戦前の政府)が顕彰の意味も込めてやったのでしょうか。そんな感想を持ちました。

関ヶ原古戦場(6) 岐阜県

2017年05月08日 14時29分05秒 | 岐阜県
GWは皆さん、楽しめましたか。天気にも恵まれ、よい行楽ができたのではないでしょうか。
さて
久しぶりの投稿です。しつこく関ヶ原を掲載します。
関ヶ原の戦い開戦の地
先に「決戦の地」というのがありましたが、「開戦の地」というのもありました。案内板によれば、

「雨があがり、霧が晴れ始めた午前8時ごろ、東軍の松平忠吉と井伊直政が抜け駆けして宇喜多隊に発砲。天下の派遣をかけた国内最大級の戦いが、ここ関ヶ原で繰り広げられることとなった。」
そうです。


関ヶ原の戦い開戦の地の石碑

小西行長陣所跡
この地の西には天満山があり、その北側に小西行長隊が陣を取っていました。

小西行長陣所跡

案内板によれば、
「午前8時頃に開戦を告げる烽火を上げると、寺沢広高や戸川逵安(みちやす)らと戦ったが、攻め込まれ切り崩されてしまう。小早川秀秋の寝返りによって西軍諸隊は動揺し総崩れとなり、小西隊も敗走。行長自身は春日(揖斐川町)方面へ敗走した。」
そうです。
キリシタン大名であるため自害することはできず、敗走中に捕縛され、10月に三成とともに処刑されたそうです。

天満山

宇喜多秀家陣所跡
この天満山には宇喜多秀家が陣を取っていました。

宇喜多秀家陣所跡


宇喜多秀家陣所となった天満神社

宇喜多秀家も小早川秀家の裏切りで切り崩され、関ヶ原から薩摩まで落ちのびましたが、後に徳川に引き渡され、八丈島に流されました。なんと秀家はそこで84歳まで生きたということです。

小西行長、宇喜多秀家ら西軍は、小早川秀家の裏切りによって切り崩されたとということです。