6月10日、岩村城跡に行きました。
岩村城は、石垣と女城主で有名なお城です。
女城主の城
女城主とはおつやといい、織田信長の叔母にあたる人です。おつやは、岩村城主遠山景任の妻として岩村城に入りました。しかし遠山氏は武田氏側として行動していたようです。元亀3年(1572)遠山景任は病死してしまいます。二人には子がありませんでした。そこで、おつやの甥である織田信長は自身の子御坊丸を遠山家の養子とし、おつやを後見人としました。ここに女城主おつやが誕生しました。また遠山氏は織田方に味方することになりました。
おつや(恵那市パンフレットより)
秋山虎繁と織田信長
しかし同じく元亀3年10月になると武田信玄が西上を開始します。岩村城には武田の家臣秋山虎繁が攻めてきました。女城主おつやは、織田信長の援軍を待ちながら抗戦しましたが、信長は浅井・朝倉との戦いに精一杯で美濃まで援軍を送ることができません。武田との戦いに抗しきれなくなったおつやは、元亀4年(1573)武田の将秋山虎繁と結婚することを条件に武田に下りました。岩村城には、秋山が入りました。織田信長にすれば、叔母のおつやに裏切られたことになります。
その後武田信玄が亡くなり、天正3年(1575)5月長篠の戦いで勝った織田信長が優勢になりました。岩村城には信長の息子信忠が攻めてきました。11月秋山虎繁は降参し、おつやとともに岐阜で処刑されてしまいました。
岩村城は、石垣と女城主で有名なお城です。
女城主の城
女城主とはおつやといい、織田信長の叔母にあたる人です。おつやは、岩村城主遠山景任の妻として岩村城に入りました。しかし遠山氏は武田氏側として行動していたようです。元亀3年(1572)遠山景任は病死してしまいます。二人には子がありませんでした。そこで、おつやの甥である織田信長は自身の子御坊丸を遠山家の養子とし、おつやを後見人としました。ここに女城主おつやが誕生しました。また遠山氏は織田方に味方することになりました。
おつや(恵那市パンフレットより)
秋山虎繁と織田信長
しかし同じく元亀3年10月になると武田信玄が西上を開始します。岩村城には武田の家臣秋山虎繁が攻めてきました。女城主おつやは、織田信長の援軍を待ちながら抗戦しましたが、信長は浅井・朝倉との戦いに精一杯で美濃まで援軍を送ることができません。武田との戦いに抗しきれなくなったおつやは、元亀4年(1573)武田の将秋山虎繁と結婚することを条件に武田に下りました。岩村城には、秋山が入りました。織田信長にすれば、叔母のおつやに裏切られたことになります。
その後武田信玄が亡くなり、天正3年(1575)5月長篠の戦いで勝った織田信長が優勢になりました。岩村城には信長の息子信忠が攻めてきました。11月秋山虎繁は降参し、おつやとともに岐阜で処刑されてしまいました。
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