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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

渡(わたり)城跡 岡崎市

2014年03月10日 17時24分09秒 | 岡崎市
 しばらく記事をアップしていませんでしたので、つなぎで今まで訪ねた所で、記事にしていないところを紹介したいと思います。


渡城址の石碑(右の柱状の石碑)

渡(わたり)城跡
 渡(わたり)城跡という史跡があります。矢作川の近くです。渡という名前にありますように、ここは、矢作川を渡る渡し舟が停まるところだと考えられます。渡し場として栄え、そこに城ができたのではないかと思われます。その城の主が鳥居氏なのです。


鳥居源七郎忠宗の石碑

家康の忠臣、鳥居氏
 鳥居氏の中の鳥居忠吉という人物は、その碑文によると、家康が今川家に人質として取られていたとき、岡崎に家康が帰ってきたときのために、兵器や兵糧蓄えていたそうです。また、忠吉の息子の元忠は、人質として今川にいた家康に仕え、関が原の合戦では、石田三成の大軍と戦って戦死したとして、「三河武士の鑑」となっているそうです。同じく、忠吉の息子の鳥居源七郎忠宗は、松平広忠に仕え、織田信秀が矢作川に攻めてきたときに、渡城近くで奮戦し、戦死しています。そして鳥居氏は代々松平、徳川氏に仕えた忠臣ということになっています。


渡古戦場跡

商売人、鳥居氏
 しかし、一方で鳥居氏は、三河一向一揆を記録した「永禄一揆由来」(勝鬘寺文書)に、三河一向一揆の発端の事件に関係した人物として登場します。

 家康尊公岡崎之御城主たりし時、渡リ村之住人鳥居等に分際宜き買人あり、本願寺宗徒也、古より今に至まて故有古跡大地とあれハ、守護不入にして、何事も他所の支配をうけさる故、野寺本證寺中を借り、家作をいたし、蔵を建、金銀米銭の走りを仕る処に、岡崎の御家中衆意恨有之方、寺中へ馬を乗り入れて、鳥居か庭に干し置し米穀等を散々に蹴散らかし、其他放埒の振舞、幾々度々に重なれハ、此段無念至極に存し、寺中の同宿・百姓等、鳥居一類相集リ、棒ちきりきを持て出、寺中ヘ入れしと追払ひ、乗り放置く馬を取、尾髪を切て追放せハ、勢いたけき武士なれ共、多数に不勢不叶して、我か身に疵を蒙らしと、放々逃てそ退そかる
(中略)
(岡崎家中の家臣たちは)右の恥辱を雪くべしと仰を蒙り、悦ひて人数を率し押寄セて、僧俗共ニ打着し、鳥居か庫蔵を打破り、財宝悉散乱し、金銀青銅を投捨つれは、本より下賎之者共、手々に取て逃にける、
(後略)
「永禄一揆由来」(勝鬘寺文書)


 「永禄一揆由来」によれば、鳥居等の一人は、羽振りのいい商人であり、守護不入の地である本證寺で、家作(アパート業?)や高利貸しなどを営んでいたようです。「渡り村の住人鳥居等」とあるので、上記鳥居忠吉となんらかの関係があるのではないかと想像されます。
 そして、この鳥居等の一人に対して岡崎の家中(家康の家臣)に「意恨有之方」がいたということです。おそらく、この家臣は鳥居さんに借金でもしていて、取り立てで責められていたのかもしれません。その「恨み」をはらそうと、「守護不入」の本證寺に乱入し、狼藉を働いたのです。しかも「幾々度々に重なれハ、」とあるように1回や2回でなかったようです。

一向一揆の力のもと
 狼藉を受けた鳥居さんは、「鳥居一類相集リ」とあるように、寺中には鳥居さんの家族やら親類やら奉公人やらが居り、一類を形成していたようです。鳥居一類によって家臣たちは、一度はやられてしまいますが、家康の「恥辱雪ぐべし」との許しを得て、逆切れをして、再び本證寺に乱入します。その時に「鳥居か庫蔵を打破り、財宝悉散乱し、金銀青銅を投捨つれは」とあるように、鳥居さんの財産をめちゃめちゃにしたようです。財宝の中で「青銅」とは何のことなのか、気になりますが、鳥居さんはけっこうな財産家であったようです。
 この時期、渡りでの収入や寺中での金融業はけっこう盛んだったことがうかがえます。家康に抵抗した三河一向一揆は、こうした力を背景にして起こったと考えられます。

上和田の大久保一族 岡崎市

2014年01月23日 19時08分06秒 | 岡崎市
 小豆坂の戦いで、家康が上和田の大久保一族に対して針崎勝鬘寺の押さえとしたという記事があります。上和田は、代々大久保一族の居城だったようです。

上和田にある大久保一族の石碑(8月に撮影しました)

大久保一族の家族関係
 上和田にこもっていた武士たちは、「松平記」では、以下のように記しています。(赤色が大久保一族です。)

大久保五郎右衛門忠俊、同甚四郎忠員、同新八郎忠勝、同弥三郎忠政、同新七郎、同弥八、同甚右衛門、同三助忠吉、同喜六忠豊、同与一(忠益)、同新蔵忠寄、同与次郎、同九八郎筒井甚六忠光、杉浦八郎五勝吉、同弥七、杉山久内、同市助、市川理兵衛、田井善(彦)次郎が日々敵と競り合っていた。


大久保一族の家族関係は図のようになります。

大久保彦左衛門も上和田生まれ
 一心太助の物語や天下のご意見番として有名な大久保彦左衛門という人が江戸時代初期にいますが、三河一向一揆のときは、三歳だったそうです。後に「三河物語」を子孫のために残す人です。

小豆坂(あずきざか)古戦場跡 岡崎市

2014年01月19日 09時30分06秒 | 岡崎市
小豆坂というところ
 小豆坂という地名が岡崎市に有ることは、知人が岡崎の同名の小学校、小豆坂小学校に勤めていたことで知りました。その次に織田信秀(信長の父)と今川義元がこの地で戦っていることで知りました。「信長公記」のはじめの方にその記事が記載されています。そして三河一向一揆の中でも小豆坂が出てきました。

小豆坂古戦場の碑

戦いについての案内板

一揆勢の敗北を決定付けた小豆坂の戦い
 小豆坂の戦いは、「松平記」では、以下のように記述されています。(現代語文に直し、文章を細かく分けてみました。)
・そのころ、家康の伯父水野藤十郎忠重は、兄の下野守信元と仲が良くなかった。
・藤十郎は、三河の国の鷲塚というところで浪人をしていた。相婿(藤十郎の嫁の姉妹の婿)の水野太郎作正重、村越又十郎と三人は一揆が起こったことを聞いて気がかりと思い、見舞いに来たところ、
・このようにいろんなところで、戦が起こっているのに、どうしてこれが見捨てておかれようかと、水野藤十郎は先鋒の集団に加わり、数度の手柄を立てたのである。
・その時分佐々木上宮寺の一揆勢の後方支援隊として、一揆勢は岡、大平へ動いた。
・馬場小平太、石川新九郎正綱、同新七郎親綱、矢田作十郎助吉が大将であった。天野三兵と馬場小平太が槍を合わせ、天野が馬場小平太をつき伏して首を取った。一揆勢はこれを見て戦意を失い、引き返した。
・家康は、大久保一族を針崎勝鬘寺の押さえとしておき、大久保弥三郎計忠政を案内として、『盗木を直に小豆坂へあかり給へハ』、
・一揆勢が引き返していく道で行き会い、合戦をし敵を多く討ち取った。
・一揆どもはかなわず引いていった。
・石川新七は、赤の具足に金の団扇の指物で、最後尾を退却していった。家康の家来たちは、これを討とうと考えた。
・他のひとは山にのがれ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎吉実、波切孫七郎は本道をしずしずと『除く』ところを水野藤十郎が追い詰め、石川新七だと見ると「返せ」と言葉を掛けてついてかかった。
・石川新七は取って返し、お互いに突きあっていたが、水野藤十郎が石川をつき伏せ、団扇を添えて名を上げた。
・大見藤六は水野太郎作につき伏せられ、佐橋甚五郎もここで討たれてしまった。波切孫七郎は、家康自身が追いかけ、鑓で後ろを二回ついたが、傷が浅く引き払って逃げていってしまった。
・味方はみな本陣に帰った。


現地の案内板でも
 現地の案内板にも以下のように記されていました。
永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めることになった。

 つまり、小豆坂の戦いでの敗戦により一揆勢の劣勢が決定的となり、以後「和睦」へと推移していったのです。

いろいろな疑問が
しかし、地図で確認すると、いろいろと疑問が出てきます。

・水野藤十郎は陣中見舞いをしに、どこへ出向いたか。
・家康は、どこから大平・岡に向かったか。
・一揆勢は、上宮寺の後詰として大平・岡に向かっているが、上宮寺の先鋒隊は、どこで戦いをしていたのか。

 など、小豆坂の戦いは、それに至る過程がよく分かりません。
 しかし、一揆勢の武士、馬場小平太がまず討ち取られ、石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七郎などが、討ち取られたり、傷を負ったりしたことで、一揆勢は大きな痛手を受けたものと思われます。

上宮寺 如光  岡崎市

2013年12月26日 21時04分48秒 | 岡崎市
如光弟子帳
 岡崎上宮寺は、三河一向一揆の拠点のひとつです。又、当時三河三ヶ寺と呼ばれていたうちの一つです。どれくらいの門徒があったのか、分かる資料があります。先日(12月1日)に行われた三河一向一揆講演会(青木馨氏の講演)で、一つの資料が紹介されました。「如光弟子帳(にょこうでしちょう)」というものです。

如光弟子帳(インターネットから)

三河、尾張、伊勢3国で105箇所の道場が上宮寺の弟子
 資料には、
 「上宮寺第30代如光(?-1467)の17回忌である文明16年(1484)11月1日に本願寺8代蓮如によって執筆されたと伝えられる上宮寺の末寺帳である。料紙は楮紙で、白紙1枚を含み15紙からなり、墨付き8丁。平成の修復時に本紙右側に付された補紙の部分に胡蝶綴じの綴じ糸の痕跡が確認されている。
 本書の内容は、最初に『三河国佐々木の郷上宮寺開□之事』とあり、第24代連順から如光を経て如順に至る上宮寺歴代の法名と命日を記し、次いで三河を中心とし、尾張、伊勢三国の道場105箇所を記している。中世寺院の教線伸展状況を知る唯一の同時代資料であり、三河一向一揆の拠点となる上宮寺の基盤、今日の東海地方における本願寺教団が形成される状況を如実に示す重要資料である。」

 と、説明がありました。つまり、上宮寺の基礎を築いたのは、どうやら第30代如光のようなのです。

12月1日講演会の資料の中に記された上宮寺関係の道場一覧

 如光とはどんな人物なのか、大変興味を持ちました。

妙源寺 岡崎市

2013年12月14日 17時04分08秒 | 岡崎市
家康から「源」をもらい、明眼寺から妙源寺へ
 さらに、家康側についたお寺があります。こちらのほうが有名です。桑子の妙源寺です。もともとは明眼寺という字だったようです。寺内の案内板に三河一向一揆で家康側についたので、家康から「源」(源氏の源という意味でしょうか)の字をいただき、妙源寺と改めたとあります。

妙源寺 本堂

 徳川氏の庇護を受けた証として葵のご紋がありました。



 妙源寺を開いたのは、安藤信平と言うこの地域の在地武士のようです。1235年に親鸞を柳堂に招いて説法を受け、浄土真宗に帰依したそうです。

妙源寺 柳堂 聖徳太子の像があるそうです。

上宮寺を見張る見張り台?
 三河一向一揆当時を偲ばせるような山門がありました。山門と言うより見張り台のように見えました。


桑子と上宮寺(佐々木)は、目と鼻の先です。


 この見張り台から上宮寺の様子を見張り動きがあれば岡崎に知らせていたのではないでしょうか。

真宗でも武士のお墓が
 裏の方にまわりましたら、大きなお墓がありました。

 どれがどれだかはっきり私には分かりませんが、ネットで調べたところ、安藤直次、本多忠豊、本多忠高、高木正清、平岩親吉、長坂血槍九朗のお墓らしいです。先日の講演会で青木馨氏は浄土真宗では菩提寺としての働きはないと言っていて、しかしなお「桑子は例外です。」と言っていました。真宗高田派のお寺ですが、武士のお墓を守ることもしたようです。