こんな言葉があります。
「誕生日は祝わなくてもいい。粗末な食事でいい。この日こそは子どもが母をもっとも苦しめた日だから」
多かれ少なかれ、母親はわが子を苦労して、たいへん苦しんで、苦痛に耐え出産したのです。
いま、中学生になっている子どもの中には、たいへんな難産で産まれてきた場合もあったでしょう。
最近の映画、「ヒキタさん、ご懐妊ですよ」では、なかなか赤ちゃんが生まれない夫婦がやっと子どもを授かった喜びを描きました。
または、子宮外妊娠などによって、母子のどちらもが命の危険がある中、やっとつないだいのちをもつ子どもがいます。
さて、子どもの成長を考えたとき、親子のふれあいが大切なのはもちろんです。
しかし、忙しい現代社会では、実際に親と子がふれあう時間の確保は、かなり厳しいと言わざるをえません。
夕食を家族全員がそろって食べるという子は非常に少ないのです。
中学生には学習塾通いがある場合が多いのです。
お父さんやお母さんが仕事で帰宅していないという事情もあるでしょう。
なかなか、家族全員がそろわないというなかで、中学生は家庭生活を送っています。
ただし、こういった事情はあっても、子どもはけっして親への期待をなくしていたり、親が子どもへの期待をなくしているわけではないのです。
子と親のふれあいにより、生き方や社会というものを、子どもが親から学びとることはじっさいにあるのです。
そういった点で見ていくと、わが子を産んだ時の母親のたいへんさを子どもに語るということは、中学生が自分の存在の大切さを実感する機会となります。
「こんなに苦労して、わたしを産んでくれたのだから、心配はかけられない」と新たな思いになることになります。
あるいは、幼い頃は強度のアレルギー体質で、親は血がにじむような苦労をして、食事をコントロールした。ほとんど野菜だけ食べて中学生になった、救急で親が何度も病院へ連れて行ってくれたという生い立ちを語ってくれた生徒もいました。
子どもが非行や不適応など問題をかかえる場合、よく親が過保護だとか過干渉とか、放任しているからと言われる場合があります。
しかし、そういうことよりも、それらの子どもにとっては親の存在感が薄い場合が多いようです。
親の存在感とは、子どもが生きるときの「よりどころ」です。これは、接する時間が短いとか長いということとは無関係です。
また、事情により、親がひとりの場合、あるいは両親がおらず、児童養護施設などで暮らす子どもにとっては、親にかわる大人や集団が親がわりとして「よりどころ」になることができます。
思春期の中学生とは、自分が生まれ変わる時期であり、自分を変えるチャンスになる時期です。
自分の過去とか父母の過去と向き合い、自分の未来を生きるための「よりどころ」を求める時期です。
大人の切なる願いと、育てるというたいへんな努力があって、自分はいまここに生きているということを、子どもに知らせることができるのです。
どうか、中学生をお持ちの親御さんは、子どもの「よりどころ」となってもらえることを、私は願ってやみません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます