箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

声をあげることができる

2024年10月31日 06時22分00秒 | 教育・子育てあれこれ

芸術や芸能、演劇の世界で、最近はセクハラやパワハラを訴える告発があい次いでいます。



スタジオや劇場、稽古場の閉じられた空間で、「先生と生徒」や「先輩と後輩」といった上下関係のある者だけでレッスンや稽古、練習が行われていることが、ハラスメントが生む背景の一つと考えることができます。



舞台芸術の世界では、幼少期から演技やダンスを学ぶことが多く、長年続いている師弟関係かあり、それが「指導」なのか「力」なのかを判断するのが難しい場合があります。


演劇の世界でも、俳優を稽古で極限まで追い込むことで、最高位の演技を引き出す演出家や監督もいます。


被害を受けた側が「おかしい」と思っても、第三者がいない閉鎖的な空間や上下関係から声をあげられません。

   




舞台芸術、芸能の持続的な発展のためには、ダンサーや俳優といった表現者らが相談できる窓口を設け、精神的にも経済的にも安心して創作活動に取り組める健全な環境が、いま不可欠になります。








まわりまわって自分にもどる

2024年10月30日 08時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ


たらいに水をいっぱいに張り、一枚の葉っぱを浮かべます。


両手で、「こっちへ来て」と水をかき寄せと、葉っぱは向こうへ遠ざかります。


反対に「あっちへ行け」と水を両手で押すと、葉っぱはこちらへやって来ます。  


これは「たらいの水」という教えです。


商売なら、まわりまわって利益はいずれ自分に返ってきます。


それが自然の摂理であり、人の心も同じです。


「私が、私が」と我が強いと結果的にあまり自分の利益にならないようです。


でも、相手に貢献する気持ちになると巡り巡って自分のためになる」という教えです。


人を育てるということ

2024年10月29日 07時43分00秒 | 教育・子育てあれこれ
いまの公立学校の教員不足は、深刻さを増しています。

病休や育休をとる教員が出て、欠員が生じると、その代替教員が見つからない場合が増えています。

教員の任用は、自治体の教育委員会内の教職員人事を所管する部署(教職員人事課など)が行います。

しかし、その部署に登録している任用可能者リストに登録が無いというのが実状なのです。

また、メディアが教員不足を問題として報道するとき、ひとことで「先生が見つからない」と、ひとくくりにして伝えます。

しかし、「見つからない」のは事実なのですが、実際はとくに中高の場合は、担当教科が関係しており、そう単純なものではありません。

たとえば、中学校の国語の教員が欠員になると、国語の教員免許をもつ人がいないから、理科の教員を補充するいうことにはなりません。

そうなると、たとえば技術科などはもともと教員免許をもつ人自体が全国に少ないので、教育委員会への登録者がゼロの場合もあるのです。

小学校なら教科は関係ないとはいえ、いまは小学校でも教科担任制が増えています。

そこで、教職員人事課などは学校からの配置要請を受け代替教員を必死になって探しますが、見つからないとうのが現実なのです。

公立学校の教員採用試験の倍率は、2000年度の13.3倍のピークからずっと減り続け、2023年度には過去最低の3.4倍となりました。


教員が不足する理由の一つに、過労働で「ブラック」という評判が定着してしまい職業として人気が薄くなっていることにあります。


ですから、全体を平均して採用試験の倍率を算出すると、下がり続けているのはたしかです。


しかし、校種・教科ごとにみていくと、合格しやすいとはけっして言えない校種・教科もあり、合格は難関な場合もあります。


さいわい採用試験に合格できた教員、つまり「教諭」は学校現場に翌年4月から配置されていきます。


合格できなくても、臨時的に任用される教員、つまり「講師」も、自治体ごとの過欠員状況に応じて4月当初から配置されていきます。


しかし、年度途中からの配置には、任用可能登録者リストへの登録者から教職員人事課が採用しますが、その登録者が細っていて、人が見つからないのです。


したがって、おもに教諭に欠員が出たときの穴埋めができにくくなっているのです


「教師はブラック労働」というイメージが定着してしまった教育現場の問題のしわ寄せは、着実に子どもたちへと向かいます。


わたしは教員を志望する大学生を育てる仕事に従事しています。


「ブラック」と言われる昨今の教職ではありますが、それだけにとらわれない教師のやりがいを、自身の経験を通して伝えています。


それは、「やりがいがあるから厳しい労働に耐えなさい」というのではありません。


待遇改善、業務の適正化はもちろん必要ですが、人を育てることがどれほど尊いことか、大切な役割であるか、その魅力がもっと社会に認知されるべきだと考えています。






みんなの幸福を願うこと

2024年10月28日 06時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ
ジャン・ジャック・ルソーは、『社会契約論』で有名ですが、さまざまなジャンルの思想に影響を与えた18世紀のフランスの哲学者です。

彼は教育の分野でも、卓越した教育観を示しており、わたしもその思想を研究しました。

ルソーの教育観をひとことでいうと、「消極的教育」という考え方になります。 大人の役割は、それを援助することにあるというものです。

これは、教育のなかでも、とくに保育の場での実践理論に、現在もいかされています。

さて、そのルソーは、教育のジャンルを超えて次のような言葉も残しています。

一般的に、人間の意志は、常に正しく、常に公の利益をめざす」

人は、何か行動を起こそうというときには、「これは正しい行動だろうか」「この行動は、みんなのために役立つだろうか」ということを、念頭に置いておくことが大切です


自分の利益のためだけに行動するのではなく、みんなの幸福を思い、みんなのために貢献することを大切にして、行動していくほうがいいということです。


それは、結局その人自身の幸福につながるのです。





ひたむきな花 山茶花

2024年10月27日 18時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ
最近は、公園などでたき火をすると怒られますし、する人もいません。

童謡「たき火」の歌も昔の時代背景をもとにつくられました。

ですから、童謡はふるくから多くの人びとや子どもにうたわれてきましたが、時代の変化とともにあわなくなるともあります。

いまの子どもがたき火と聞いても、知らない子が多いのではないかと思います。

ただ、この歌の2番では、次のような歌詞があります。


さざんか さざんか 咲いた道
たきびだ たきびだ 落ち葉たき
・・・・・

街中でのたき火はなくなりましたが、さざんか(山茶花)はいまも健在です。

冷たい木枯らし1号の北風を受けても、耐えて花を咲かせます。

その意味で、花言葉は「ひたむきな愛」、「謙虚」などになります。

山茶花と椿は姿形がよく似ています。

でも、花の咲く時期がちがいます。

また、椿は落花のとき。花ごとポトリと落ちますが、山茶花は花びらが一枚ずつおちます。

さらに、葉の周りにギザギザがあるのが山茶花であり、椿の葉にはありません。

秋の日暮れは釣瓶落とし。

凛とした山茶花の花を見かけたら、移りゆく季節を想うことができます。



望むならば夫婦別姓が名のれるように

2024年10月26日 07時01分00秒 | 教育・子育てあれこれ
ずっと以前から、大阪府で学校での人権教育を推進する女性教員のなかには、夫婦別姓で過ごす人も珍しくはありませんでした。

それは、男性中心の家父長制度に疑問をもち、夫婦別姓で職場で通していて、周りからも認められてきました。

また、家父長制への疑問から、教員が自身の家族の呼称を、あえて嫁と言わず妻、主人と言わず夫と表現する場合もあります。

とくに、ぜったいにそう言わなければならないという縛りはありません。

教員個人の意思でそのように呼び、まわりの人もその呼称を使う、使わないについて、柔軟な扱いでした。

わたしは先日高校の同窓会に出ましたが、女性の同期生はわたしの年齢層では結婚している人がほとんどでした。

姓がかわっているため、誰が誰かを思い出すのに一苦労しました。

私自身、夫婦別姓へのこだわりは以前からあまりなく過ごしてきました。

同じ姓であることが家族としての絆という主張がありますが、家庭が円満なら別姓でも全く問題ないと思います。


また、夫婦別姓の問題点として「子どもがとまどう、かわいそう」という意見が出ますが、夫婦別姓で過ごしている人の例をみれば、子どもは何も困っているとは思えません。



世間一般に視点を移すならば、希望すれば夫婦が結婚後も従来の姓(名字)を名乗ることができる「選択的夫婦別姓制度」の実現を巡っては約30年間、動かずに棚上げにされてきました。



しかし、いまの10~20代の若い世代は一人っ子が多く、一人っ子同士のカップルもおり「名字を変えると名義変更がたいへんで、仕事に支障が出る」という人がいます。


その場合は、自分がしたくない改姓を相手に押しつけられないと悩む人がいるでしょう。


また、「先祖代々受け継いだ名字を自分の代で絶やす罪悪感がある」として結婚に二の足を踏む人もいるでしょう。


もう、夫婦制度には限界がきています。ところが、国や行政は婚活事業に予算を割いており、優先順位を間違えているとも考えます。


選択的夫婦別姓制度は、すぐにでも法制化されるべきでしょう。







被爆者の言葉にはリアリティがある

2024年10月25日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ


このたび、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞したニュースが報じらました。

 

長年の活動が認められたことに喜びを感じます。


中学校での長崎修学旅行を通して、平和学習を実践してきた自身の経験からも、受賞された人びとの喜びが伝わってきます。


唯一の被爆国の当事者として、体験を証言してきた、とくに広島・長崎の被爆者は、高齢になりながらも、大きな喜びをかみしめておられるでしょう。


原子爆弾の恐ろしさや核兵器の危険性は、実際に被爆した人でしかわからないという見方もでます。


事実、アメリカ国内では核兵器について、必要とする人びとも一定数存在します。


広島の被爆体験の証言者が、アメリカで退役軍人らを前に話した際には、聴衆のなかから「核兵器は使うべきでないが、持ってもよい」という発言がありました。

また、「世界のならず者のリーダーを制御でき、すばらしい抑止力だ」と主張した人もいました。

必ずしも核兵器に反対でなく、その必要性を説いたり、条件付き賛成をする意見の潮流のなかで、今回のノーベル平和賞は、被爆者の活動のエネルギーとなるでしょう。

いま、核戦争の危機が高まる情勢をみたとき、被爆者の言葉にはリアリティがあるのです。まず被爆の実相を知ることが不可欠です。






負担を減らす工夫を PTA活動

2024年10月24日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ

PTA不要論やPTA解散論が、近年出ています。

役員や委員のなりてが少ないのです。

子どものためのPTAなのに、地域差はあるとしても、平日や土日の膨大な時間をPTAの業務に割き、親は家庭で子どもと過ごす時間が減ります。


そのため、PTA活動への負担感が高まるのです。


学校行事への協力は、PTAに求められる業務の一つです。


たとえばPTAでは、運動会では受付と周囲の警備を担うことが多くあります。

学校の教職員はなかなかそちらへ回すことはできない状況です。


そこで、保護者か朝の受付や、わが子の参加する競技を外した時間に業務につきます。


保護者が乗ってくる自転車の整理や学校周囲の見回りが必要とされ、結構な数の保護者が「動員」されます。


手順の習熟や穴が開いた際の補充にまわるなど、段取りや運営の手間もかかります。


そんな場合には、なんでも保護者でなく、PTA予算を使い、警備を外部委託するなどの工夫をしていくといいでしょう。


できるだけ、負担感を減らしてPTA活動を存続していくのがいいと、わたしは考えます。








全体から個別へチェンジ

2024年10月23日 07時37分00秒 | 教育・子育てあれこれ

行政が発出する、通知文などの文書には、しばしばとても長い文章が並ぶことがよくあります。

たとえば、令和5年4月28日に出された「5類感染症への移行後の学校における新型コロナウイルス感染症対策について(通知)」の通知文の中に、次の一文が出てきます。

各都道府県教育委員会教育長におかれては所管の学校(専修学校高等課程を含む。以下同じ。)及び域内の市(指定都市を除く。)区町村教育委員会に対して、各指定都市教育委員会教育長におかれては所管の学校に対して、各都道府県知事及び小中高等学校を設置する学校設置会社を所轄する構造改革特別区域法(平成 14 年法律第 189 号)第 12 条第1項の認定を受けた各地方公共団体の長におかれては所轄の学校及び学校法人等並びに域内の市(指定都市及び中核市を除く。)区町村長に対して、各指定都市・中核市市長におかれては所管の認定こども園に対して、附属学校を置く各国公立大学法人の長におかれてはその管下の学校に対して、各文部科学大臣所轄学校法人理事長におかれてはその設置する学校に対して、厚生労働省社会・援護局長におかれては所管の専修学校高等課程に対して、周知されるようお願いします。

これは一文にまとめてあり、息継ぎなしで文頭から文末まで読むことは、誰もできません。

国の教育行政であるので、全国津々浦々のさまざまな種類の学校のすべてに行き渡る必要があります。

あれもこれもとなるので、どうしても長くなるのです。

この例が示すように、国や政治家は全体がよければいいという「全体最適」を求めます。

それに対して国民はあくまで自分の生活が良くなること、つまり「個別最適」を切望しています。

どちらがいいとか悪いという問題ではありません。

ですから、政治家がしょっちゅう口にする「国民の皆様の信頼を得るために」という言葉の裏には、どんな国民を念頭に置かれているのかを考えないといけません。

たとえば政府はいま貯蓄するより投資することを国民に求めています。

若い人たちが少額投資非課税制度を利用してリスクをふまえながらも、ある金融商品を買うようになると、政治家は「若者が投資に目覚めた」と喜びます。

でも実態は、給料だけでは最低限の生活どまりと考え、生活不安から投資に向かうのです。

先行きが不透明で不安な若者たち、不安定な非正規雇用の人などは、生活の安定を得るために、「なんとか」という思いで、貯蓄より投資に向いています。


目覚めたというような余裕ある心理ではありません。


つまり政府は、全体が良ければいいという「全体最適」を求めているのに対し、国民はあくまで自分の生活が良くなること、つまり「個別最適」を切望しています。


政治家は国民個々の切実さやたいへんさを実感として受け止め、そのためにどんな政策が必要かを考えないといけません。


そして、弱者を救済するためのきめ細かい対応が今、いちばん求められていることです。


日本の経済政策には今までずっと「個別最適」の視点がありませんでした。だからこそいわゆる「バラマキ政策」ばかりが行われてきたのです。


高度成長期には「全体最適」を求めればよかったのです。


しかしいまは全体がよければいいというよりも、苦しみや困難、痛みある部分を個別に見極め、手当てすることが求められているのです。





ギャルを謳歌した時代

2024年10月22日 04時22分00秒 | 教育・子育てあれこれ
いまの小中高生の仲間関係の特徴は、集団内、グループ内での同調圧力が強くはたらくという点にあります。

いわゆる「空気を読み」、自分だけがちがうことをしないとか、ちがう意見や考え方を表明せず、グループの決定から、外れないようにして、あわせるという傾向が見受けられます。

そのように、周りからどう見られるかを気にする人間関係の時代です。


一方、平成の頃に盛んだったギャル文化はいまの10代の仲間関係を考える時、特筆に値すると、わたしは考えます。


平成時代にわたしが勤務していた中学校には、コギャルのような女子グループがありました。


彼女たちは学年の他の生徒から外れて行動することがよくありました。


校外学習で神戸三宮の街中を引率する機会がありましたが、海外ブランドの店の前を通ると立ち止まり、服やバッグに興味を示し、動こうとしません。


教師からすれば、手のかかるグループでした。




しかし、今になって思えば、当時のギャルは自分が好きだと思ったことを貫いて、仲間を大切にしました。


おしなべて、当時のギャルは白いルーズソックスに短いスカートを履いていることが多くありました。


また、ギャルメイクはチョコレート色くらい濃いファンデーションで粧い、バサバサのつけまつげをつけてパラパラを踊るなど、周りからどう思われるかなどは気にしないのでした。


ある意味で、一般からは「突き抜けた」文化を醸し出し、青春を楽しんでいるという感覚でした。


今の子は、型にはまった礼儀正しさかありますが、みんなが同じような性格や行動です。それで毎日を楽しんでいるのだろうかと疑問思うこともあります。


(おそらく、「楽しい?」と尋ねると「楽しい」と答えるでしょうが。それが「普通」だと思っている。)


ギャル文化に、懐かしさを覚える今日この頃です。


通級指導とは

2024年10月21日 06時28分00秒 | 教育・子育てあれこれ

発達障害などがある小中高校生は、特別支援学級には在籍せず、◯年◯組という学級(いわゆる通常学級)に在籍ます。


しかし、一定の支援は必要となるため、一部の授業を別室で受ける支援体制があります。その支援とは「通級指導」といいますが、いまそののニーズが高まっています。


その通級指導を推進する根底にある考え方は、以前は(周りにとって)「困った子」と言われがちだった子どもは、実は(本人が)「困っている子」であるという見方-考え方なのです。


そして、発達障害の児童生徒は、その傾向があるいわゆる「グレーゾーン」の児童生徒を含め、いま「特別な支援が必要な子」と捉えられるようになっています。


では、具体的に、通級指導とはどのような指導なのでしょうか、また、現状での課題にはどのようなことがあるのでしょうか。


たとえば読み書きに困難を感じている学習障害の子は週1回の通級の時間になると、通級教室にやってきて、通級担当教員から個別指導をうけます。


漢字を書くのが苦手な子には、その子に適した工夫をこらした支援により、自己肯定感を高め、学ぶ意欲を引き出します。


またクラスには、対人関係での緊張が強く、集団の中で意見が言いにくい、言葉を使い伝えることが難しい子がいます。


そのような子を別教室に抜き出し、通級担当教員が一対一の学習指導をします。


さらに、ほかのクラスから同じ時間に通級教室に来ている別の子とグループで活動したりもします。


対話をもとに、本人の願いや思いを受け止め、受容されているという子どもの感覚や気持ちを高めていきます。それが他の人とコミュニケーションをしたいという意欲につながっていきます。


通級指導を受けるようになり、児童生徒は成長していきます。

授業中に勝手に発言したり、手をあげ続けたりして、クラスの全体の状況にそぐわない行動がなくなっていくことがあります。


通級指導で発言すべきタイミングを教えてもらったことでクラスメートと同じような行動が取れるようになるからです。


そもそも、通級指導は学校教育法を根拠とする特別支援教育の指導の一つです。


1993年に制度化されました。対象となるのは、言語障害、自閉症、情緒障害、弱視、難聴、学習障害(LD)、注意久陥多動性障(ADHD)、肢体不自由、病弱・身体虚弱などの児童生徒です。


しかし、通級指導を必要とする児童生徒が増加しており、教員不足の現状のもと、指導をする教員を十分に確保できないという問題点が現れてきています。


増加しているというのは、ずっと以前は発達障害の子に光が当たらず、その支援がないまま通常学級の一斉指導で過ごしていたからです。


また、わが子を通級へ通わせることをためらう保護者の理解を深めることも課題です。














子どもは社会全体で育てる 保育者は要

2024年10月20日 05時37分00秒 | 教育・子育てあれこれ

学校の教員を志願する学生が最近減っていることは、メディアでよく取り上げられます。

でもじつは、保育士や幼稚園教諭をめざす学生も減っているのです。


私立大学の一般選抜の志願者でみると、2023年度の教員養成系志願者は前年度(2022年度)のマイナス87・9%です。ところが、保育系はマイナス83・9%で、減少率をみると保育系の方が深刻であるといえます。


このように、保育士や幼稚園教諭をめざす学生が、いま減少傾向にあります。


保育士養成の大学や短大はここ5年間で22校が閉校しました。

また2025年度に学生を募集停止をする大学・短大23校のうち19校に保育科や幼稚園教育科があります。


少子化のため大学志願者数そのものは減少していて、そのなかでも保育や幼児教育への志願者の減り幅はさらに大きいのです。



ただ、教育関係者わたしとしては、保育の仕事に就きたいという子は少なくないというのが実感です。

実際に、将来になりたい職業ランキングで保育士・幼稚園教諭は小学生で4位、中学生で5位と回答しているように、依然として人気があります。


でも、大学進学となると他の道を選ぶ生徒が多いのです。一昔前前と違い、大学の学部・学科の多様化が示しているようにそれだけ選択肢が増えています。


高校の先生や親から、「保育はブラックだよ。給料が安いのに仕事がきついよ」と助言されることもあるようです。大学進学のときのそれら大人のアドバイスは進路選択にけっこう影響するようです。


また、家族のなかの子どもの数が少なくなり、

「子どもが好きだから」「弟や妹といっしょの時間を過ごしてきたので」という経験をしていないことも、保育士幼稚園教諭の志願者減少に拍車をかけているようです。


さらに大学在学中をみても、保育職への就職を希望し大学に入学した学生でも、一般就職に変更する場合も少なくないようです。

保育園実習や幼稚園実習で、現場のたいへんさを肌で感じ、「わたし一人でこんなにたくさんの子どもを見る自信はありません」と就職先を変えるのです。


加えて、バスの「置き去り事件」では、最近保育者に実刑判決が出ています。

保育現場の人手不足など厳しい現状が報道され志願者が減っているのが現状です。


「保育者の給料が安い」とよく指摘されますが、保育者の処選改善はここ数年かなり進んでいます。ただ、人員の配置は大きな課題です。


こども家庭庁は今年度、4・5歳児の配置基準を

76年ぶりに見直しました。

保育士1人で受け持つ人数を30人から25人に改正し、3歳児も20入から15人に減らしました。

さらに2025年以降、1歳児も6人から5人に改善する方向で検討しています。


しかし、それでもなお日本の保育士の配置基準は、世界的には不十分です。昨今のように災害が多発するこの日本で、保育者1人で1歳児6人を連れて避難できるでしょうか。答えは明白です。


保育者は、人間の成長にかかわりを持たせてもらうことができる素晴らしい尊い仕事です。

子どもたちの成長に伴走できる喜びや、親御さんとともに喜びあえます。親御さんに感謝される幸せを味わえます。


育て支援の専門職として、高い専門性を持つ保育者がいかに重要であり、保育職の魅力というものが社会全体に十分に伝わっていくことを願います。そして、社会全体で子どもを育てていくのが今という時代です。


納得のいかない学校のきまり

2024年10月19日 05時42分00秒 | 教育・子育てあれこれ



校則に意味のないものがあるという議論がされる場合が、しばしばあります。

当の中高生からよく出される疑問です。

「この校則って、意味あるの?」

そのきまりができた経過や理由、どういうつもりで作ったのかという意図を知ることは大切です。


そのとき、理由を聞いても納得できないことが多いかもしれません。


それはなぜでしょうか。


一つには、立場や考えに違いがあるからです。


たとえば、廊下は走らないというきまりがあります。


人と人がぶつかって大きな事故が起こるから納得、という人もいます。


校長や教員なら、そう思うでしょう。とくに校長は最終責任をとるので、わたしもそう考えます。


でも、ときどきなら、そんなきまりはいらない、と思う人もいるでしょう。


生徒の中には、そう思う人がいても不思議ではないです。


これは、事故をどのくらい避けたいか、事故が起こったらどれほどたいへんかの評価が人によってちがうからです。


そのように学校の校則については、納得しあうのに難しい場合があります。


もう一つは、昔は納得できる理由があったが時代の移り変わりとともに状況が変わってしまった場合です。


理由がないのにきまりだけが残るのはおかしいと思う人はいるでしょう。


でも、きまりを変えるのには時間と労力が必要になります。


新しいきまりが前のものよりよいものになるかはわからないこともあります。


さらに、もう一回作るのはたいへんなので、前のきまりがそのまま残っているという事情があります。




半額は不平等なのか

2024年10月18日 06時43分00秒 | 教育・子育てあれこれ
ある焼き肉チェーは、今年9月2日から9月12日まで、食べ放題コースを女性には半額にするキャンペーンを実施しました。


そのことをSNSでは、

「男性を差別している」

「性差別を肯定しているのでないか」と非難する書き込みがならんでいます。


その一方で、

「批判している人たちは何か損をしたたのか」「男女差別というよりは、身体的特徴に基づいた区別だと思う」と擁護する声もあります。


食べ放題の女性半額は、差別になるのでしょうか。


どう考えればいいのでしょうか。


この課題には、様々な観点や見方・考え方かあり、どの観点で見るかにによって、考えが変わり、スッキリとせず、モヤモヤ感が残るのです。



女性だけが安くなることが不合理だという言論に対しては、店側からは次のような釈明もあります。


家族やカップルで入店すると、女性の食べ放題料金が半額になるので、合計の飲食代金が安くなり、男性も助かるのです」という考えです。


一見、男性に対する気配りが感じられそうです。


しかし、それなら男性の一人焼肉はメリットがなく、損をするじゃないかという不満が起きてきます。


また、別の意見として、ジェンダー平等の視点で考える人は、男性にも小食の人はいるし、女性にも大食いはいる。


だから個人差があることを考慮せず、男性はよく食べ、女性はあまり食べないというきめつけと思い込みから女性だけを半額にするのは合理的ではない。


このように、スッキリと決めるに難しい問題なのです。


では、食べるお客さん側がお金をどれだけ持っているかという尺度として賃金に目をむければどうでしょうか。


日本では、平均賃金は男性の方が高いですが、もっと所得の多い女性もいる。


だから、性別という属性だけで、半額にするという差をつけると、その属性内の多様性や不平等という問題がどうしても湧き上がってくるのです


さらに、今の時代は短くてわかりやすいキャッチャブルなフレーズで表現するのがウケます。


SNSでは、すぐに黒か白をつくり、「いいね」をたくさんもらい、自分に賛同してくれる人を増やそうとします。


でも、ものごとはそんなに簡単に、ぜったい正しい、ぜったいまちがっているとはならないのです。


どんな条件のもとで、どんな文脈のなかで、話されたり、提案されたりしたのか、それによって様々なのです。


いろいろな見方・考え方を踏まえながら、この場合、あの場合の、もっとも望ましい答えを見いだしていく努力が重要ではないでしょうか。




一生学び続けたい

2024年10月17日 05時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今、「学び直し」をする人が増えています。


ことわっておきますがわたしは、学び直しと言う言葉にいい印象はもっていません。


学生時代に学習したことが不十分なので学び直すというイメージをもつからです。


大阪府立高校で普通科から学科を、多部制単位制「クリエイティブスクール」と改編した高校がありました。


一定の受験者を集めることができ、必要な定員を確保できいました。


ところが、10年ほど前に大阪府教育委員会の方針により、クリエイティブスクールを「エンパワメントスクール」と改称しました。


そのエンパワメントスクールのキャッチフレーズを小中9年間の学び直しとして打ちだしましたが、それ以来受験者が定員割れを毎年起こす学校になりました。


これは、新しく高校生活をスタートしようという時期に、「あなたは学び直しだ」と言われているようで、「クリエイティブ=創造.新しいものを生み出す」とは対象的に、ネガティブなイメージを連想するからです。





その点で、今の社会人のリカレント教育や生涯学習を「学び直し」とネーミングするのは不適切だと、わたしは考えるのです。


自分を豊かにするために学び続けるのが、いまのリカレント学習の本質です。


名前や名称は、その体を表すので、どう呼ぶかはけっこう大切です。


今のリカレント学習は、「もう一度学びたい。知識や教養を深めたい」という知的欲求にかられて、大学や大学院などで学ぶ機会を得るというものです。学び直しではないのです。


古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「いみじくも言いました。


すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。


すなわち、学ぶことによって新しい知識や技能を得たいと思うことは、人間がもつ自然な本能なのです。