最近、長女と一緒に食事の支度をすることが多い。
以前から料理は時々手伝ってもらっていたのだが、途中で嫌になって(飽きて)くる長女をおだてたり叱ったりしながらやっていたため、長女と一緒にする料理はとても疲れた。
思えば、その頃の私は「長女に料理を教えなければいけない」と思い込んでいた。
教えなければいけないと思うから、私も疲れたし長女も嫌々ながらという感じになっていた。
しかし、今は私の気持ちが変化した。
「教えなければいけない」から「大変だから長女に手伝ってもらいたい。楽しいから長女と一緒に料理を作りたい」になった。
そうなると不思議なもので、多少の失敗くらい何とも思わなくなった。
それよりも長女が手伝ってくれるから楽になったし、一人で黙々と料理しているより、長女とおしゃべりしながらの方が楽しくなってきた。
「さぁ教えるか~」と気合を入れてから長女と一緒に料理を始めていた頃とは、格段に意識が変わった。疲れなくなったし、今度はアレを一緒に作ろうかな~と思って、一緒に料理ができることを楽しんでいる。
すると、長女の方にも変化が現れて、以前より嫌がらなくなって、むしろ嬉々として手伝ってくれるようになった。
今は、私が台所に立っているとやってきて、自分から手伝ってくれることも多くなった。
こんな長女の様子を見て「すごい子だな、優しい子だな、大人になったな」と思うことがよくある。
以上のような変化があった今日この頃だが、今朝は(薄々は勘づいていたが)ひとつ気づいたことがある。
それは「私の中にある、他と比較する心に気づく為に、長女がやって来てくれた」ということで、このことがはっきりわかった瞬間、長女に対する感謝と喜びが胸いっぱいに広がった。
長女が一歳頃から私はずっと他の子と比べては、焦ったり落ち込んだりしてきた。
そんな焦りや落ち込みは、学校教育が始まるとますます大きくなった。
他の子と比べては落ち込み、なんとか同じようにしなければいけないと焦った。
娘を連れてあちこち奔走し、ダメだと分かると落ち込み、そして他の子と比べてすべてが劣っているという発言をした教師に怒りをぶつけた。
この時は「なんてひどい教師なんだ」という怒りで目の前が真っ赤になった。(落ち込むと目の前が真っ暗になると言うが、怒りが最高潮になると目の前が真っ赤になるものだと、この時わかった)
しかし、私もこの先生と同じようなものだったと、今は思う。
なぜなら心の中では、ずっと他の子と長女を比べていたのだから。
長女本来の良さがたくさんあるのに、それを見ようとせず、みんなと同じようにできなければいけないと思っていたあの頃。
中学で特別支援に移るまでの間、私自身もがき苦しんだ時代だった。
でも、もがき苦しむということは決して悪いことではない。(その時は本当に苦しいが)
もがき苦しむことで水面に顔が出ることだってある。
もしかしたら次は陸に上がることだってできるかもしれない。
どちらにせよ、もがき苦しんだ先には、もっと楽に生きられる明るい光があるのだと今なら思える。
できれば、あの人やこの人のように何事もない平穏無事な人生を送りたいと思うが、比較する心がある限り心に平和は訪れないのではないだろうか。
あの人もこの人も平穏無事な人生を送っているように見えているだけで、実はもがいているのかもしれない。そんなことは外側から見ているだけではわからない。
すべては自分の中にある比較する心が作り出した苦しみだったのだと思う。
それにしても、日常生活の中には自分の持って生まれた課題と学びに満ちている。
今すぐに、今いる場所でたくさんの学びと気づきを得ることができる。
この世とは、つくづく面白い世界だと思う。