サマリヤの女性のお話は韓国語では「サマリヤ女人」となっています。
どんな女の人だったんでしょうか。
当時サマリヤ地方の人々は、エルサレムを中心に集まっていたユダヤ教の人たちからは「血の混じった奴」などと思われ、見下げられていました。
長いイスラエルの歴史の中で、かつて北イスラエルの首都だったサマリヤを征服した他民族アッシリヤがその地方に入植し住むようになったためです。
ユダヤの血を守ってない、混血と呼ばれたサマリヤの人たちは、正統派ユダ人たちからは口を聞いてもらえない立場に置かれました。
さらには、そのサマリヤ人の中でも、5人の男性と一緒に住んだり結婚したりした、もっとも居場所の無い女性と、イエス様が井戸でお話するという話がヨハネの4章に登場します。
会話は結構オカシイです。
イエス様「水をください」
女の人 「私はサマリヤ人です。どうして私にものを頼むんですか?」
イエス様「もし私が誰か知っていたら、あなたが私に水を求めたでしょうね。そしてあなたにその水を与えたでしょうに」
なんかかみ合わない会話です。
そしてそのイエス様がくれる水というのは「永遠に渇かない永遠の命の水がわき出る水」だという。
それは素敵。
女の人 「じゃあ、その水をください」
イエス様「じゃ、あなたの夫を呼んできなさい」
・・・イエス様、さっきから女の人の言葉を聞いて、答えているんですか。
会話はこんな感じでなんか面白い展開な訳ですけど、女の人にとっては「夫を呼んできなさい」っていうのは痛いところをつかれる質問だったようです。
何せ…5人と結婚したり関係を持ったけれど今一緒にいる人も夫ではない、
今の世でもちょっとびっくりです。
ギクッ
イエス様は、渇いた心を満たす水をあげようとしていた模様です。
井戸のそばで会話が始まり、女の人は水をくみに来ていた状況で。。。
もちろん、目に見える「水」の話から導入されていったわけですが、実はイエス様は心を潤す、しかも永遠の命につながる水をお話していたようです。
そしてその水をもらうためには、どうやら女の人が「ギクッ」って思うことに目を向ける必要があったようで。
私にも「うわ、それだけは触れないで欲しい」と思う恥ずかしい事や、人に知られて欲しくない過去や、傷や罪や痛みがあります。
イエス様はここで、真昼間砂漠の暑い場所で人目をかくれて、一人で来た女性に声を掛けました。弟子達には「食べるものを買ってきて」と頼んで町に使いにやって。
イエス様は、「ギクッ」と心を刺す質問をする時がありますが、それを、人にわざわざ分かるように大声で「あんた、こういう罪してるね?」なんていう風にもいわれない。全部知ってるのに、弱み握ってるような、デカイ顔もしない。
その後、女の人は、神を真実に礼拝するということをイエス様に教えられます。サマリヤだーエルサレムだーという先祖からの礼拝のしきたりではなく、心からの礼拝者となるということを神が求められる日が来るのだと。
また、イエス様の言葉を聞き、ユダヤ人たちが待っていたメシアなのではないかという感動を受けました。隠れて生きてきた彼女が、町に出て大声でイエス様に会ったことを証しした、というのがここに記されているあらすじです。
証し、というのは、時々カミングアウトも含みます。
どのようにして、キリストイエスと個人的な出会いを経験したか。
教会で聞いた聖書の言葉が、自分の人生に生き生きとした作用を及ぼした経験などを話すことが証しです。
女の人は、恥ずかしい、と思って生きてきたのに、町に出て行って人前でイエス様を語りました・・・。
サマリヤ人はその言葉でイエスを信じた、直にイエス様を町にお迎えして言葉を聞いてさらに多くの人がイエスを信じたと出てきます。
サマリヤ人たちは、同じユダヤ民族でありつつ、他民族虐げの中混血と呼ばれ、とつとう自分の民族からも「ハブ」られてしまいました・・・。
だけど、「渇き」があったんじゃないかなーと思います。
「霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がそのときです。」
サマリヤ人は礼拝を渇望したのに、山で礼拝をしては仲間のユダヤ人にバカにされ、だからと言ってエルサレムに上っていくわけにもいかず。礼拝を求めていたと思います。
私達って、毎週礼拝する中で、神様を渇望する霊とまことの礼拝をささげられているだろか。
カミングアウトして証しする、その動機には、かならず「イエス様がこの私に近づいて永遠の水を与えてくれた」という確信が必要です。
証しを聞いて、もしかしたら、「あの汚い生き方をしてた女が何を言ってんだい」と言った町の人もいたかもしれません。
けれど、「イエスを信じた」町の人たちの存在が大きく描かれています。
現在教会で、毎週礼拝をささげている人たちの間で、もしもサマリヤの女性のような人が変えられた人生を証しして、女がさらに日陰の存在になってしまうような人の目があったとしたら、霊とまことで礼拝する群れではないんだと思います。
霊とまことで礼拝をする人。。。でありたいです。
毎週礼拝のイスに座っているのに、
人の告白を聞いて、スキャンダルを聞くようにそれに耳を傾けたり、そんな目があったとすれば、それは、自分の満足のために礼拝に行っている人、エルサレムで礼拝できた今日は大満足な主日だなーと思うようなのとおんなじです。
恥ずかしい弱い私ですが、恥ずかしくない礼拝者になりたいと思いました。
どんな女の人だったんでしょうか。
当時サマリヤ地方の人々は、エルサレムを中心に集まっていたユダヤ教の人たちからは「血の混じった奴」などと思われ、見下げられていました。
長いイスラエルの歴史の中で、かつて北イスラエルの首都だったサマリヤを征服した他民族アッシリヤがその地方に入植し住むようになったためです。
ユダヤの血を守ってない、混血と呼ばれたサマリヤの人たちは、正統派ユダ人たちからは口を聞いてもらえない立場に置かれました。
さらには、そのサマリヤ人の中でも、5人の男性と一緒に住んだり結婚したりした、もっとも居場所の無い女性と、イエス様が井戸でお話するという話がヨハネの4章に登場します。
会話は結構オカシイです。
イエス様「水をください」
女の人 「私はサマリヤ人です。どうして私にものを頼むんですか?」
イエス様「もし私が誰か知っていたら、あなたが私に水を求めたでしょうね。そしてあなたにその水を与えたでしょうに」
なんかかみ合わない会話です。
そしてそのイエス様がくれる水というのは「永遠に渇かない永遠の命の水がわき出る水」だという。
それは素敵。
女の人 「じゃあ、その水をください」
イエス様「じゃ、あなたの夫を呼んできなさい」
・・・イエス様、さっきから女の人の言葉を聞いて、答えているんですか。
会話はこんな感じでなんか面白い展開な訳ですけど、女の人にとっては「夫を呼んできなさい」っていうのは痛いところをつかれる質問だったようです。
何せ…5人と結婚したり関係を持ったけれど今一緒にいる人も夫ではない、
今の世でもちょっとびっくりです。
ギクッ
イエス様は、渇いた心を満たす水をあげようとしていた模様です。
井戸のそばで会話が始まり、女の人は水をくみに来ていた状況で。。。
もちろん、目に見える「水」の話から導入されていったわけですが、実はイエス様は心を潤す、しかも永遠の命につながる水をお話していたようです。
そしてその水をもらうためには、どうやら女の人が「ギクッ」って思うことに目を向ける必要があったようで。
私にも「うわ、それだけは触れないで欲しい」と思う恥ずかしい事や、人に知られて欲しくない過去や、傷や罪や痛みがあります。
イエス様はここで、真昼間砂漠の暑い場所で人目をかくれて、一人で来た女性に声を掛けました。弟子達には「食べるものを買ってきて」と頼んで町に使いにやって。
イエス様は、「ギクッ」と心を刺す質問をする時がありますが、それを、人にわざわざ分かるように大声で「あんた、こういう罪してるね?」なんていう風にもいわれない。全部知ってるのに、弱み握ってるような、デカイ顔もしない。
その後、女の人は、神を真実に礼拝するということをイエス様に教えられます。サマリヤだーエルサレムだーという先祖からの礼拝のしきたりではなく、心からの礼拝者となるということを神が求められる日が来るのだと。
また、イエス様の言葉を聞き、ユダヤ人たちが待っていたメシアなのではないかという感動を受けました。隠れて生きてきた彼女が、町に出て大声でイエス様に会ったことを証しした、というのがここに記されているあらすじです。
証し、というのは、時々カミングアウトも含みます。
どのようにして、キリストイエスと個人的な出会いを経験したか。
教会で聞いた聖書の言葉が、自分の人生に生き生きとした作用を及ぼした経験などを話すことが証しです。
女の人は、恥ずかしい、と思って生きてきたのに、町に出て行って人前でイエス様を語りました・・・。
サマリヤ人はその言葉でイエスを信じた、直にイエス様を町にお迎えして言葉を聞いてさらに多くの人がイエスを信じたと出てきます。
サマリヤ人たちは、同じユダヤ民族でありつつ、他民族虐げの中混血と呼ばれ、とつとう自分の民族からも「ハブ」られてしまいました・・・。
だけど、「渇き」があったんじゃないかなーと思います。
「霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がそのときです。」
サマリヤ人は礼拝を渇望したのに、山で礼拝をしては仲間のユダヤ人にバカにされ、だからと言ってエルサレムに上っていくわけにもいかず。礼拝を求めていたと思います。
私達って、毎週礼拝する中で、神様を渇望する霊とまことの礼拝をささげられているだろか。
カミングアウトして証しする、その動機には、かならず「イエス様がこの私に近づいて永遠の水を与えてくれた」という確信が必要です。
証しを聞いて、もしかしたら、「あの汚い生き方をしてた女が何を言ってんだい」と言った町の人もいたかもしれません。
けれど、「イエスを信じた」町の人たちの存在が大きく描かれています。
現在教会で、毎週礼拝をささげている人たちの間で、もしもサマリヤの女性のような人が変えられた人生を証しして、女がさらに日陰の存在になってしまうような人の目があったとしたら、霊とまことで礼拝する群れではないんだと思います。
霊とまことで礼拝をする人。。。でありたいです。
毎週礼拝のイスに座っているのに、
人の告白を聞いて、スキャンダルを聞くようにそれに耳を傾けたり、そんな目があったとすれば、それは、自分の満足のために礼拝に行っている人、エルサレムで礼拝できた今日は大満足な主日だなーと思うようなのとおんなじです。
恥ずかしい弱い私ですが、恥ずかしくない礼拝者になりたいと思いました。
あたらしい、いのちにふれたサマリアの女の人の表情が見えるような気がしました。
世に疎外されている人こそ・・・
俺は真の礼拝者だと自負している人よりも、礼拝者であるんじゃないか。と思ったのです。
砕かれた悔いた心をさげすまれない。
神様の求めている礼拝者になりたいです。
人に言えない生い立ちを証するって素晴らしいよね。
人に言えない生い立ちを単に告白するだけに終始しては意味がありません。証しというからには、何を証言しているのかを、する人も聞く人も霊的に開かれてないといかんと思います。だから祈りが必要だと思います。
深くていっぱい発見があると思いますよ!!!
めっちありがとう。