metch Happy days

クリスチャンで、韓国で神学を学んでいるめっちの毎日の成長をつづるブログ

死海写本とキリスト教の起源

2008-04-20 18:04:34 | クリスチャンとしての私
死海写本の展示会があって、金曜日の午後に彼と一緒に見て来ました。
彼の神学大学の学生証で二人とも割引で入れました。

死海周辺から出土した聖書の写本の切れ端みたいなものを展示してありました。羊皮紙、パピルス、金属板に彫られた聖書のみ言葉たち。
つぼなどに入れられた状態で巻物として出土したりするようです。
聖書のどの箇所なのかとかも表示してありますが、びりびりだったり、巻物だったら、まともに残っている状態で、三分の一くらいの部分が風雨などに浸食されてなくなっている状態。
切れ端だったら、ホントちり紙程度だったりもしていました。

これを発見して、どこの聖書箇所なのかしらべたり、他の写本との違いや歴史などを調べたりするっていうのはものすごい作業だろうと思う。

聖書という書物が、今普通の本の形になって売られていて、読めるってのがすごい歴史的遺産なんだと思います。
今までは自分のクリスチャンとしての指針や、生活適用のための神様の指針だと思ってたけど、すごい遺産であるってこともまた、100%の事実なんですねぇ。
それを改めて感じました。

神様の歴史の中におかれた「私」。
こんな私に聖書を教えてくれてご自分をあらわしてくださった神様ってすごい^^
神様のLOVEを感じちゃいます。

モーセ五書の時代から考えると(旧約の初め部分)ものものものすごい月日が経ってるわけで、自分の存在は神様の歴史から見ると「秒」くらいの割合に見えちゃったりもします。神様の目から見た時計は、そんな動き方じゃないのかもしれないけど、とにかく、私の一生は歴史の中では短いと思う。

だけど、その一生の中で、神様を愛して、従うようにするときに、神様は後の時代の祝福と幸せを約束して結んでくださるんだよね。
ダビデの神様への愛が、後の時代の祝福になったように…。

ということで、
こんな短い地上での命かもしれませんが、私がこの地上をよく生きられるように神様がしてくださるあらゆる配慮にうれしくなりました。
愛する人もいて、愛してくれる人もいて。

死海写本のメッセージの中に、今日の私も生きている。