言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

臓器市場は存在すべきか

2011-07-23 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.183 )

 2001年4月12日、『ボストン・グローブ』紙の1面に「母の愛がどのようにして2人の命を救ったか」という見出しが躍った。同紙は、腎臓移植が必要な息子をもつスーザン・ステファンという名の女性の話を伝えた。彼女の腎臓が息子とは適合しないことが判明したとき、医者は彼女に奇抜な提案をした。もし、まったく赤の他人のために彼女が腎臓を提供してくれるのであれば、彼女の息子を臓器移植待ちのリストの1番目に載せようと提案したのである。彼女はその提案を受諾し、直ちに彼女の腎臓を別の人物に移植する手術と、彼女の息子が第三者提供の腎臓を移植するという二つの手術が執り行われた。
 医者の提案の巧妙さと、母親の行動の崇高さは疑う余地がない。しかしこの話は多くの興味深い問題をわれわれに投げかけている。もし母親が自分の腎臓と他人の腎臓を交換することが可能なら、病院は、たとえば腎臓を提供しなければとても受けられないような実験段階の高価なガン治療といった他の物と腎臓を交換することも認めるだろうか。あるいは、息子がその病院のメディカル・スクールに無料で通えるようにするために自分の腎臓を提供することも許されるだろうか。古いシェヴィからレクサスの新車に乗り換えるために腎臓を売って資金を得ることができるようにもすべきなのだろうか。
 公共政策では、人々は自分の臓器を売ることを当然許されていない。つまり、臓器市場では、政府がゼロという価格の上限を課している。そのため、上限価格に縛られている他の財の場合と同様に、臓器市場は供給不足に陥っている。ステファンのケースは、公共政策に反していない。なぜなら、そこではお金のやりとりがあったわけではないからである。
 多くの経済学者は、臓器市場を自由化することには大きな恩恵があると信じている。人々は二つの腎臓をもって生まれてくるが、一つでも事足りるだろう。その一方で、世間にはきちんと機能する腎臓をもたないために病に苦しむ人々もいる。市場での取引が明らかに利益をもたらすにもかかわらず、取引が許されていない現状は悲惨である。腎臓移植を受けるためには、平均して3年半待たなければならず、腎臓提供者がみつからないために死んでいくアメリカ人は毎年約6000人もいる。もし、腎臓が必要な人たちが、二つ腎臓をもつ人から一つを買うことができたなら、価格は需要と供給が均衡するように上昇するだろう。臓器市場が自由化されれば、売り手側は新たな現金を手にすることができ、買い手は自分の命を救う臓器を買うことができるため、両者ともよりよい暮らしが送れるだろう。そして、腎臓の供給不足も解消されるだろう。
 このような市場が存在することは効率的な資源配分につながるが、公平性を懸念する声もある。すなわち、臓器市場が自由化されると、臓器を最も欲し、かつ支払能力のある人から順に臓器が配分されるので、貧しい人の犠牲の上に裕福な人が恩恵を受けるという主張である。しかし、現在のシステムもまた公平といえるのだろうか。機能する腎臓を一つも手に入れることができずに死んでいく人々がいる一方で、ほとんどの人はあまり必要としない余分な臓器をもって生活している。これで公平といえるだろうか。


 母親が自分の腎臓を第三者に提供する代わりに、彼女の息子に別の第三者からの腎臓が移植された話を一般化すれば、臓器(売買)市場は存在すべきだということになる、と書かれています。



 著者の主張には、説得力があります。

 しかし、一般的には、臓器売買は倫理にもとると考えられています。私もこのような感覚を共有しています。

 たしかに著者の挙げている実例には、倫理上の問題はないでしょう。だからこそ、著者は「医者の提案の巧妙さと、母親の行動の崇高さは疑う余地がない」と書いているわけですが、

 この話を一般化して、ただちに臓器売買を認めてよいのかは、じっくり考えてみる必要がありそうです。



 著者は、「臓器市場が自由化されると、臓器を最も欲し、かつ支払能力のある人から順に臓器が配分されるので、貧しい人の犠牲の上に裕福な人が恩恵を受ける」ことになる、と「公平性」を懸念する意見(反対意見)がある、と述べていますが、

 貧しい者も富める者も、ともに(ほとんど)移植を受けられない現状に比べれば、すくなくとも富める者は(十分に)移植を受けられるほうがマシではないかと思います。これは「不公平である」とも考えられますが、「社会の(ほぼ)全員が移植を受けられない」現状に比べれば、「助かる人の数が増える」ので、売買を認めてよいのではないかと思います。

 また、臓器売買を認めれば、貧しい人も利益を受けます。なぜなら余分な臓器を売ることが認められ、金銭を得る手段が多様化するからです。



 とすれば、(多くの)経済学者と同様に、臓器売買を認めてよい、とも考えられます。

 ところで、上記の話で重要なのは、移植された臓器が「腎臓」だったというところです。これが「心臓」であれば話はまったく異なってきます。腎臓は二つあるが、心臓は一つしかないからです。

 とすると、臓器提供者の生死に(ほとんど)影響のない臓器の場合には、売買を認めてもよいのではないか、とも考えられます。



 この話(引用)を読み、私は、上記のように考えたのですが、

 この問題は倫理的に十分な検討をする必要があると思われます。機会を改めて、さらに考えたいと思います。



■関連記事
 「家賃規制の効果

goo ブログのベトナム語表示

2011-07-22 | 日記
 このところ、ベトナム語について調べています。

 この記事は、このブログでベトナム語が正しく表示されるか、確かめるための実験記事です。



Xin chào ông!
  こんにちは!

Ông có phải là người Việt không?
  あなたはベトナム人ですか?

Tôi là người Nhât.
  私は日本人です。

Tạm biệt.
  さようなら。



 経済学についての更新を中断したわけではありません。今日か明日、経済学についての記事をアップします。



■関連記事
 「gooブログの外国語表示



■追記
 ベトナム語が正しく表示されています。

橋下知事の勝訴が確定 (山口県光市母子殺害事件弁護団側が敗訴)

2011-07-19 | 日記
時事ドットコム」の「橋下知事への賠償命令取り消し=光市事件弁護士の敗訴確定-最高裁」( 2011/07/15-20:07 )

 弁護士資格を持つ橋下徹大阪府知事が就任前、山口県光市母子殺害事件の弁護団への懲戒請求をテレビ番組で呼び掛けたことで、業務に支障が出たとして、弁護士4人が橋下氏に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は15日、橋下氏に賠償を命じた一、二審判決を取り消し、請求を棄却した。原告弁護士側の逆転敗訴が確定した。


 橋下徹大阪府知事が勝訴したようです。当然の判決だと思います。



 この判決の詳細は、下記の報道をご参照ください。

 なお、私は「山口県光市母子殺害事件の弁護団」のメンバーのうち、一部の弁護士とは面識があり、その弁護士さんの考えかたや性格・人間性等を詳しく知っています。それらを踏まえた私の意見は、記事末尾の「関連記事」で示している記事(の一部)に記載しています。よろしければ、関連記事もぜひ、ご覧ください。



YOMIURI ONLINE」の「懲戒呼びかけ、橋下氏逆転勝訴…最高裁判決」( 2011年7月16日01時48分 )

 橋下徹・大阪府知事にテレビ番組で懲戒請求を呼びかけられ、業務を妨害されたとして、山口県光市母子殺害事件の弁護団の弁護士ら4人が橋下知事に計約1300万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が15日、最高裁第2小法廷であった。

 竹内行夫裁判長は「配慮に欠ける軽率な言動だったが、違法とまでは言えない」と述べ、橋下知事に計360万円の賠償を命じた2審・広島高裁判決を破棄し、原告の請求を棄却した。

 橋下知事は、知事就任前の2007年5月に出演したテレビ番組で、被告の元少年(30)が殺意などについて否認に転じたことを巡り、「弁護士が主張を組み立てたとしか考えられない」「許せないと思うなら懲戒請求を」と発言。その後、4人に対して計約2500件の懲戒請求が寄せられた。

 同小法廷は「橋下氏は懲戒請求を勧めただけで、多くの懲戒請求が行われたのは、発言に共感した視聴者が多かったためだ」などと指摘。また、懲戒請求の内容がほぼ同一だったため、原告らが所属する広島弁護士会が請求についての調査を一括して行ったことなどから、「原告らの業務に大きな支障が生じたとは言えない」とした。

 2審判決は「橋下氏の発言で、弁護団は心身の負担を伴う対応を余儀なくさせられた」として、不法行為の成立を認めていた。

 判決を受け、橋下知事は「きちんと判断していただき、ありがたい。最後に頼れるのは最高裁だとつくづく感じた」と話した。一方、原告代理人の島方時夫弁護士は「刑事弁護をする人はバッシングを受けても我慢しなければならないのか」と不満を述べた。




毎日新聞」の「弁護士懲戒呼びかけ:橋下大阪知事が逆転勝訴 最高裁判決」( 2011年7月15日 16時25分- 最終更新 7月15日 20時43分 )

 橋下徹大阪府知事が知事就任前、テレビ番組で山口県光市母子殺害事件の被告弁護団に対する懲戒請求を呼び掛けたことを巡り、弁護団メンバーら4人が損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は15日「懲戒呼び掛けは不法行為に当たらない」と判断し、橋下氏に360万円の支払いを命じた2審判決を破棄し、請求を棄却した。橋下氏の逆転勝訴が確定した。

 小法廷は、橋下氏の発言を「慎重な配慮を欠いた軽率な行為で、言葉遣いも不適切だった」と批判する一方「表現行為の一環に過ぎず、視聴者自身の判断に基づく行動を促したに過ぎない」と述べた。そのうえで「(懲戒請求が殺到して)弁護団に一定の負担はあったが、弁護士業務に多大な支障が生じたとは言えない」として、弁護団側の精神的苦痛は受忍限度を超えていないと結論付けた。

 橋下氏は07年5月、民放番組で被告少年(事件当時)の犯行動機を「失った母への恋しさからくる母胎回帰」と主張した弁護団を批判。「許せないと思うなら、一斉に弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい」などと発言した結果、08年1月までに4人に約2500件の懲戒請求が寄せられた。

 1審の広島地裁判決(08年10月)は「発言の一部は名誉毀損(きそん)に当たり、懲戒請求の呼び掛けも不法行為になる」と判断して800万円の賠償を命じたが、2審の広島高裁判決(09年7月)は名誉毀損を否定し、懲戒請求の呼び掛けに限って賠償を命じていた。【伊藤一郎】

 ◇弁護士の懲戒制度

 弁護士には「弁護士自治」が認められ、懲戒処分は行政庁ではなく、所属する弁護士会が行う。外部から懲戒請求があった場合、各弁護士会は専門の委員会で(1)審査すべき事案か(2)処分すべきか--を審査する。懲戒処分は軽い順に戒告、業務停止、退会命令、除名の4種類。昨年1年間に各地の弁護士会に寄せられた懲戒請求は1849件で、弁護士80人が処分された。




■関連記事
 「橋下徹弁護士が懲戒処分 (光市母子殺害事件弁護団事件)
 「日弁連会長の「懲戒請求をどんどん出して下さい」発言について
 「弁護士法 56 条に定める「品位を失うべき非行」の基準
 「弁護士懲戒制度は不公平である
 「弁護士懲戒委員会のメンバー構成には問題がある
 「弁護士自治を弱めてもよいかもしれない
 「こぐま弁護士を怒鳴りつけたのは弁護士ではないか
 「改革が必要なのは検察庁だけではない

消費者余剰と生産者余剰

2011-07-19 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.167 )

 あなたがエルヴィス・プレスリーの未使用のファーストアルバムをもっているとしよう。あなたはエルヴィスのファンではないので、それを売ることにした。売却の一つの方法は競売を開催することである。
 ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人のエルヴィスファンが競売に現れたとする。4人ともそのアルバムを欲しがっているが、支払ってもよいと思っている金額にはそれぞれ上限がある。表6-1は、それぞれが支払ってもよいと思っている最高価格を示している。それぞれの買い手の最高額をその人の支払許容額と呼ぶ。支払許容額は、買い手の財に対する評価額を測っている。それぞれの買い手は、アルバムの価格が自分の支払許容額よりも低ければ購入しようとし、高ければ購入を見送り、等しければ購入してもしなくても構わない。




 文中の表6-1を示し、引用を続けます。



表6-1 4人の潜在的な買い手の支払許容額

買い手   支払許容額(ドル)
ジョン      100
ポール       80
ジョージ      70
リンゴ       50



同 ( p.168 )

 アルバムを売るにあたって、競売を低い価格、たとえば10ドルからはじめたとしよう。4人とももっと支払ってもよいと思っているので、価格はすぐにつり上がる。競売は、ジョンが80ドル(あるいはそれよりも少しだけ高い価格)をつけたときに終わる。ポール、ジョージ、リンゴは80ドルは超える金額を支払う気はないので、この時点までに競売から脱落する。ジョンは、あなたに80ドル支払うのと引換えにアルバムを得る。アルバムを最も高い価格で評価した買い手がそれを購入することに注意しよう。
 ジョンはエルヴィス・プレスリーのアルバムを手に入れることでどのような便益を得るのだろうか。ある意味では、ジョンは安い買い物をしたといえる。彼は100ドル支払う意志があったにもかかわらず、80ドルの支払いですんだからである。このとき、ジョンは20ドルの消費者余剰を得たという。消費者余剰とは、ある財に対して買い手が支払ってもよいと思っている金額から、実際に買い手が支払った金額を差し引いたものである。
 消費者余剰は、買い手が市場に参加することで得られる便益を測る尺度である。この例では、ジョンは100ドルの評価をした財に80ドルしか支払わなかったので、競売に参加することによって20ドルの便益を得た。ポール、ジョージ、リンゴは競売から消費者余剰をまったく得ていない。彼らはアルバムを入手できず、何の支払いもしていないからである。
 ここで、やや異なる例を考えてみよう。あなたが同一のエルヴィス・プレスリーのアルバムを2枚売りに出すとどうなるだろうか。ここでも、4人の買い手に対して競売をするとしよう。簡単化のために、どちらのアルバムも同じ価格で売られ、2枚とも購入したいと思っている人はいないとする。そうすると、買い手が2人になるまで価格は上昇する。
 このケースでは、ジョンとポールが70ドル(あるいはそれよりも少しだけ高い価格)をつけたときに競売が終わりになる。ジョンとポールはこの価格で喜んでアルバムを購入しようとし、ジョージとリンゴはそれ以上の価格をつけるつもりはない。ジョンとポールはそれぞれ、支払許容額から実際の価格を差し引いた金額に等しい消費者余剰を得ている。ジョンの消費者余剰をアルバムが1枚しかないケースと比較すると、同じものに対して少ない金額しか支払っていないので、ジョンの消費者余剰は増大する。市場における総消費者余剰は40ドルである。


 消費者余剰の考えかたが説明されています。



 ここで、この考えかたを拡張します。下図において、価格が P0 のときの総消費者余剰は ### で塗り潰された部分(三角形)の面積であることはあきらかです。


 価格
   *xx      
   *##xx    
   *####xx   
   *######xx  
   *########xx 
   *##########xx         
 P0 *############xx       
   *       xx   
   *        xx     
   *         xx←需要曲線
   *          xx
   ****************************
  0             数量



同 ( p.170 )

 この例から得られる教訓は、すべての需要曲線に当てはまる。すなわち、需要曲線よりも下で価格よりも上の部分の面積は、市場の消費者余剰になる。なぜならば、需要曲線の高さは支払許容額を表し、買い手が財にどれだけの価値をつけるかを示しているからである。支払許容額と市場価格との差はそれぞれの買い手の消費者余剰である。したがって、需要曲線よりも下で価格よりも上の部分の総面積は、財やサービスに対する市場におけるすべての買い手の消費者余剰の合計となる。




 さて、ここで買い手と売り手を逆にした場合、すなわち「生産者余剰」について考えます。同様の思考過程を経れば、価格が P0 のときの総生産者余剰は ### で塗り潰された部分(三角形)の面積であることはあきらかです。



 価格
   *          供給曲線 
   *         xx     
   *        xx      
   *       xx       
 P0 *############xx        
   *##########xx 
   *########xx  
   *######xx    
   *####xx     
   *##xx      
   *xx       
   ****************************
  0              数量



 ここで、総消費者余剰のグラフと総生産者余剰のグラフを合成すれば、次のようになります。下図において、### で塗り潰された部分(三角形)の面積は、総消費者余剰と総生産者余剰の合計です。



 価格
   *xx          供給曲線
   *##xx         xx 
   *####xx       xx  
   *######xx     xx   
   *########xx   xx    
   *##########xx xx     
 P0 *############xx      
   *##########xx xx     
   *########xx   xx    
   *######xx     xx   
   *####xx       xx  
   *##xx         xx 
   *xx          需要曲線
   ****************************
  0              数量



 上記、合成グラフを見てみると、需要曲線と供給曲線の交点、すなわち市場で決定された価格・数量のときに「総消費者余剰と総生産者余剰の合計」が最大になることもあきらかです。

 以上により、「経済学の十大原理」の1つ、「通常、市場は経済活動を組織する良策である」は完全に説明された、とみてよいと思います。

奢侈税を支払うのは誰か

2011-07-19 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.148 )

 1990年に、アメリカの議会はヨット、自家用飛行機、毛皮、宝石、高級車といった品目に対する奢侈税を新たに採択した。新しい奢侈税の目的は、税を最も容易に支払うことができる人たちから収入を調達することにあった。そのような贅沢品を買うことができるのは金持ちのみなので、贅沢品への課税は金持ちに課税する論理的な方法であると考えられた。
 しかしながら、需要と供給の作用が働きはじめると、その結果は議会が意図したものとまったく異なってきた。たとえば、ヨットの市場を考えてみよう。ヨットに対する需要はきわめて弾力的である。百万長者はヨットを買わなくても全然構わない。そのお金でもっと大きい家を買ったり、ヨーロッパでバカンスを楽しんだり、あるいは相続人に巨額の資産を残すこともできるのである。対照的に、ヨットの供給は、少なくとも短期においては比較的非弾力的である。ヨットの工場は代替的な用途に簡単に転換できず、ヨットを製造する労働者は市場状態の変化に反応して進んで転職しようとはしない。
 このケースでは、われわれの分析は明確な予測ができる。需要が弾力的で供給が非弾力的であれば、税の負担は主として供給者にかかる。すなわち、ヨットへの課税は主としてヨットを製造する企業と労働者に負担をかける。なぜなら、彼らの生産物の価格が下落するという結果に終わるからである。しかしながら、労働者は豊かではない。したがって、奢侈税は金持ちよりも中流階級により大きな負担をかける。
 奢侈税の帰着に関する想定が間違っていたことは、税が施行されるとすぐに明らかになった。贅沢品の供給者は、いかに経済的な困難を経験したかを議員たちに十分に認識させた。その結果、議会は奢侈税の大部分を1993年に廃止した。


 奢侈税を支払うのは労働者(=生産者)である、と書かれています。



 著者の主張は、「増税・贅沢税のもたらす結果」で引用した本の著者(経済学者ら)の主張と同じです。

 であるならば、この部分は引用しなくともよい、とも考えられるのですが、ところが異なっています。

 実際には、両方の根拠があり、たんに著者は「論理展開の都合上、片方の根拠のみを示した」とも考えられますが、

 2種類の(異なった観点による)根拠があることは重要であると考えられるので、今回は上記の引用をしています。



 なお、(贅沢税導入後の)台湾の不動産価格動向については、現在調査中です。