N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.183 )
母親が自分の腎臓を第三者に提供する代わりに、彼女の息子に別の第三者からの腎臓が移植された話を一般化すれば、臓器(売買)市場は存在すべきだということになる、と書かれています。
著者の主張には、説得力があります。
しかし、一般的には、臓器売買は倫理にもとると考えられています。私もこのような感覚を共有しています。
たしかに著者の挙げている実例には、倫理上の問題はないでしょう。だからこそ、著者は「医者の提案の巧妙さと、母親の行動の崇高さは疑う余地がない」と書いているわけですが、
この話を一般化して、ただちに臓器売買を認めてよいのかは、じっくり考えてみる必要がありそうです。
著者は、「臓器市場が自由化されると、臓器を最も欲し、かつ支払能力のある人から順に臓器が配分されるので、貧しい人の犠牲の上に裕福な人が恩恵を受ける」ことになる、と「公平性」を懸念する意見(反対意見)がある、と述べていますが、
貧しい者も富める者も、ともに(ほとんど)移植を受けられない現状に比べれば、すくなくとも富める者は(十分に)移植を受けられるほうがマシではないかと思います。これは「不公平である」とも考えられますが、「社会の(ほぼ)全員が移植を受けられない」現状に比べれば、「助かる人の数が増える」ので、売買を認めてよいのではないかと思います。
また、臓器売買を認めれば、貧しい人も利益を受けます。なぜなら余分な臓器を売ることが認められ、金銭を得る手段が多様化するからです。
とすれば、(多くの)経済学者と同様に、臓器売買を認めてよい、とも考えられます。
ところで、上記の話で重要なのは、移植された臓器が「腎臓」だったというところです。これが「心臓」であれば話はまったく異なってきます。腎臓は二つあるが、心臓は一つしかないからです。
とすると、臓器提供者の生死に(ほとんど)影響のない臓器の場合には、売買を認めてもよいのではないか、とも考えられます。
この話(引用)を読み、私は、上記のように考えたのですが、
この問題は倫理的に十分な検討をする必要があると思われます。機会を改めて、さらに考えたいと思います。
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2001年4月12日、『ボストン・グローブ』紙の1面に「母の愛がどのようにして2人の命を救ったか」という見出しが躍った。同紙は、腎臓移植が必要な息子をもつスーザン・ステファンという名の女性の話を伝えた。彼女の腎臓が息子とは適合しないことが判明したとき、医者は彼女に奇抜な提案をした。もし、まったく赤の他人のために彼女が腎臓を提供してくれるのであれば、彼女の息子を臓器移植待ちのリストの1番目に載せようと提案したのである。彼女はその提案を受諾し、直ちに彼女の腎臓を別の人物に移植する手術と、彼女の息子が第三者提供の腎臓を移植するという二つの手術が執り行われた。
医者の提案の巧妙さと、母親の行動の崇高さは疑う余地がない。しかしこの話は多くの興味深い問題をわれわれに投げかけている。もし母親が自分の腎臓と他人の腎臓を交換することが可能なら、病院は、たとえば腎臓を提供しなければとても受けられないような実験段階の高価なガン治療といった他の物と腎臓を交換することも認めるだろうか。あるいは、息子がその病院のメディカル・スクールに無料で通えるようにするために自分の腎臓を提供することも許されるだろうか。古いシェヴィからレクサスの新車に乗り換えるために腎臓を売って資金を得ることができるようにもすべきなのだろうか。
公共政策では、人々は自分の臓器を売ることを当然許されていない。つまり、臓器市場では、政府がゼロという価格の上限を課している。そのため、上限価格に縛られている他の財の場合と同様に、臓器市場は供給不足に陥っている。ステファンのケースは、公共政策に反していない。なぜなら、そこではお金のやりとりがあったわけではないからである。
多くの経済学者は、臓器市場を自由化することには大きな恩恵があると信じている。人々は二つの腎臓をもって生まれてくるが、一つでも事足りるだろう。その一方で、世間にはきちんと機能する腎臓をもたないために病に苦しむ人々もいる。市場での取引が明らかに利益をもたらすにもかかわらず、取引が許されていない現状は悲惨である。腎臓移植を受けるためには、平均して3年半待たなければならず、腎臓提供者がみつからないために死んでいくアメリカ人は毎年約6000人もいる。もし、腎臓が必要な人たちが、二つ腎臓をもつ人から一つを買うことができたなら、価格は需要と供給が均衡するように上昇するだろう。臓器市場が自由化されれば、売り手側は新たな現金を手にすることができ、買い手は自分の命を救う臓器を買うことができるため、両者ともよりよい暮らしが送れるだろう。そして、腎臓の供給不足も解消されるだろう。
このような市場が存在することは効率的な資源配分につながるが、公平性を懸念する声もある。すなわち、臓器市場が自由化されると、臓器を最も欲し、かつ支払能力のある人から順に臓器が配分されるので、貧しい人の犠牲の上に裕福な人が恩恵を受けるという主張である。しかし、現在のシステムもまた公平といえるのだろうか。機能する腎臓を一つも手に入れることができずに死んでいく人々がいる一方で、ほとんどの人はあまり必要としない余分な臓器をもって生活している。これで公平といえるだろうか。
母親が自分の腎臓を第三者に提供する代わりに、彼女の息子に別の第三者からの腎臓が移植された話を一般化すれば、臓器(売買)市場は存在すべきだということになる、と書かれています。
著者の主張には、説得力があります。
しかし、一般的には、臓器売買は倫理にもとると考えられています。私もこのような感覚を共有しています。
たしかに著者の挙げている実例には、倫理上の問題はないでしょう。だからこそ、著者は「医者の提案の巧妙さと、母親の行動の崇高さは疑う余地がない」と書いているわけですが、
この話を一般化して、ただちに臓器売買を認めてよいのかは、じっくり考えてみる必要がありそうです。
著者は、「臓器市場が自由化されると、臓器を最も欲し、かつ支払能力のある人から順に臓器が配分されるので、貧しい人の犠牲の上に裕福な人が恩恵を受ける」ことになる、と「公平性」を懸念する意見(反対意見)がある、と述べていますが、
貧しい者も富める者も、ともに(ほとんど)移植を受けられない現状に比べれば、すくなくとも富める者は(十分に)移植を受けられるほうがマシではないかと思います。これは「不公平である」とも考えられますが、「社会の(ほぼ)全員が移植を受けられない」現状に比べれば、「助かる人の数が増える」ので、売買を認めてよいのではないかと思います。
また、臓器売買を認めれば、貧しい人も利益を受けます。なぜなら余分な臓器を売ることが認められ、金銭を得る手段が多様化するからです。
とすれば、(多くの)経済学者と同様に、臓器売買を認めてよい、とも考えられます。
ところで、上記の話で重要なのは、移植された臓器が「腎臓」だったというところです。これが「心臓」であれば話はまったく異なってきます。腎臓は二つあるが、心臓は一つしかないからです。
とすると、臓器提供者の生死に(ほとんど)影響のない臓器の場合には、売買を認めてもよいのではないか、とも考えられます。
この話(引用)を読み、私は、上記のように考えたのですが、
この問題は倫理的に十分な検討をする必要があると思われます。機会を改めて、さらに考えたいと思います。
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