言語空間+備忘録

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ピグー税と汚染許可証を比べれば

2011-07-29 | 日記
 以下の引用は、「ピグー税と汚染許可証」の続きです。



N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.212 )

 汚染許可証を用いて汚染を減少させる方法は、ピグー税を用いる方法とまったく違うようにみえるかもしれないが、実際には、二つの政策は多くの共通点をもっている。どちらのケースも、生業は汚染を排出するために支払いをする。ピグー税の場合には、汚染する企業は政府に税金を支払わなければならない。汚染許可証の場合には、汚染する企業は許可証を手に入れるために支払いをしなければならない(すでに許可証をもっている企業も、汚染するためには支払いをしなければならない。汚染の機会費用は、その許可証を公開市場で販売していれば得られたはずの金額である)。ピグー税と汚染許可証は、どちらも企業が汚染するのに費用がかかるようにすることで、汚染の外部性を内部化するのである。
 二つの政策の類似性は汚染の市場を考察するとよくわかる。図7-4の二つのパネルには、汚染権の需要曲線が示されている。この曲線は、汚染の価格が低いほど、汚染する企業が増えることを示している。パネル(a)では、環境保護庁は汚染の価格を設定するのにピグー税を用いている。この場合、汚染する権利の供給曲線は完全に弾力的であり(企業は税金さえ支払えばどのような量でも汚染することができる)、需要曲線の位置が汚染の量を決定する。パネル(b)では、環境保護庁は汚染許可証を発行することで汚染の量を設定する。この場合、汚染する権利の供給曲線は完全に非弾力的であり(汚染の量は許可証の数で固定される)、需要曲線の位置が汚染の価格を決定する。したがって、汚染の需要関数がどのように与えられても、環境保護庁はピグー税によって価格を設定するか、汚染許可証によって汚染の量を設定することで、需要曲線上のどのような点にでも到達することができる。


 ピグー税と汚染許可証には、多くの共通点がある。両者の違いは、ピグー税は(政府が)汚染の価格を設定し、汚染許可証は(政府が)汚染の量を設定するところにある、と書かれています。



 引用文中の図を示します。



★図7-4 ピグー税と汚染許可証の同等性

(a) ピグー税

 汚染の価格
   *           
   * xx           
   *  xx          
   *   xx         
   *    xx        
   *     xx    ピグー税
 P * xxxxxxxxxx●xxxxxxxxxxx 
   *      :xx     
   *      : xx    
   *      :  xx   
   *      :   xx  
   *      :    xx 
   *      : 汚染権への需要
   ****************************
  0       Q     汚染の量


(b) 汚染許可証

 汚染の価格
   *     汚染許可証の供給
   * xx    x       
   *  xx   x       
   *   xx  x       
   *    xx x       
   *     xxx    
 P *・・・・・・・・・・・・●      
   *      x xx     
   *      x  xx    
   *      x   xx   
   *      x    xx  
   *      x     xx 
   *      x  汚染権への需要
   ****************************
  0       Q     汚染の量



 要は、(汚染権に対する)需要と(政府または社会が認める汚染の)供給によって、汚染の価格と量が決定される以上、

   ピグー税と汚染許可証の間には、本質的な差異はない、

ということのようです。

 とすれば、ピグー税と汚染許可証、どちらの政策であっても大差はなく、どちらでもよい、ということになりそうですが、



同 ( p.213 )

 しかしながら、状況によっては汚染許可証を販売するほうがピグー税を課すよりもすぐれているかもしれない。環境保護庁は600トン以上の汚水が川へ放出されることを望まないとしよう。しかし、環境保護庁には汚染の需要曲線がわからないので、どれくらいの税率にすればその目的を達成できるか確信をもてない。このような場合、環境保護庁は単に600トンの汚染許可証を競売にかければよい。その競売価格はピグー税の適切な大きさになる。


 政府には汚染の需要曲線がわからないので、ピグー税の場合、どれくらいの税率にすればよいのかがわからない。したがって汚染許可証のほうが優れているかもしれない、と書かれており、



 著者の主張はもっともだと思います。



 もともと、汚染権の「価格(税率)」を設定するか、汚染の「(許容)量」を設定するか、が政府に与えられている選択肢であるところ、

 「汚染の減少」を目的として導入する政策である以上、普通に考えれば「(汚染の許容)量」を設定する、という発想になると思います。

 したがって、ピグー税よりは、汚染許可証の販売のほうが優れている、とみてよいのではないかと思います。



 ところで、汚染許可証には、次のような批判があるようです。



同 ( p.213 )

 
 「われわれは、代金を払わせて汚染する権利を与えることはできない。」エドモンド・マスキー前上院議員によるこのコメントは、一部の環境保護主義者の見解を代表している。きれいな空気ときれいな水は人間の基本的な権利であり、経済的な面から考えることによって価値を下げられるべきではない。きれいな空気ときれいな水にどのように価格をつけろというのか。環境は非常に重要であり、費用に関係なく最大限に守られるべきだというのが彼らの主張である。
 経済学者はこの種の議論にはほとんど共感をもたない。経済学者にとってよい環境政策は、第1章で述べた経済学の十大原理の第1原理、すなわち、「人々はトレードオフに直面している」ということを理解することからはじまる。確かに、きれいな空気やきれいな水には価値がある。しかし、その価値は機会費用と比較されなければならない。すなわち、それらを手に入れる代わりに放棄しなければならないものと比較されなければならないのである。すべての汚染をなくすのは不可能である。すべての汚染を取り除こうとすれば、高い生活水準を享受することを可能にしてくれた多くの技術進歩が逆行してしまう。ほとんどの人は、環境をできるだけきれいにするためだといっても、貧弱な栄養や不十分な医療、みすぼらしい家で我慢しようとはしないだろう。


 汚染許可証というアイデアには、カネさえ払えば環境を汚染してもよいのか、環境を「汚染する権利」などというものは認められない、という批判があると書かれています。



 現実問題として環境汚染を「完全に」なくすことは不可能だと思いますし、汚染を「減らす」方法として、政府が「汚染許可証」を販売するという方法はきわめて有効(かつ効率的)だと思います。

 したがって私は、「汚染許可証」を認めてよいと思いますが、

 (感覚的に)どうしても認められない、というのであれば、汚染物質排出事業者にピグー税を課す方法によればよいと思います。ピグー税には「環境を汚染する権利」などという概念は(少なくとも表面的には)出てこないので、「汚染許可証」に反対する人であっても、ピグー税には賛成するのではないかと考えられるからです。

ピグー税と汚染許可証

2011-07-29 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.207 )

 外部性のために市場で非効率的な資源配分が生じるときに、政府が対応できる方法は二つある。指導・監督政策は行動を直接規制する。市場重視政策は、民間の意思決定者が自分で問題を解決するインセンティブを与える。


 外部性の問題に対処するには二通りの方法がある。一つは規制(指導・監督政策)、一つは市場重視政策である、と書かれています。



 規制については「あきらか」なので、市場重視政策についての部分を引用します。



同 ( p.208 )

 政府は外部への対応として、行動を規制するのではなく市場重視政策を用いて、私的インセンティブと社会的効率性を整合的にすることもできる。たとえば、すでにみたように、政府は負の外部性をもつ活動に課税し、正の外部性をもつ活動に補助を与えることによって、外部性を内部化することができる。負の外部性の影響を矯正するための課税は、早くからそれを提唱していた経済学者アーサー・ピグー(1877~1959年)の名前をとって、ピグー税と呼ばれる。
 ピグー税は規制よりも小さい社会的費用で汚染を減少させることができるため、経済学者は汚染に対処する方法として規制よりもピグー税がよいと考えている。その理由を理解するために、一つの例を考えてみよう。
 製紙工場と製鉄工場の二つの工場が毎年500トンの汚水を川に垂れ流しているとしよう。環境保護庁は汚水の量を減少させる方針を定め、二つの解決法を検討する。

  • 規制:環境保護庁は、二つの工場に汚水の排出量を年間300トンまで減少するように命じることができる。
  • ピグー税:環境保護庁は、二つの工場に汚水の排出1トンにつき5万ドルの税を課すことができる。


規制は汚水の量の水準を指示するのに対し、ピグー税は工場所有者に汚染を減少させる経済的インセンティブを与える。どちらの解決法がよいだろうか。
 ほとんどの経済学者はピグー税がよいと考える。まず指摘できるのは、汚染の全般的水準を減少させる方法として、ピグー税は規制とほぼ同じくらい有効だということである。環境保護庁は税率を適切な水準に設定することにより、汚染をどのような水準にでもすることができる。税率が高いほど汚染は減少する。実際、もし税率が非常に高ければ、工場は完全に閉鎖され、汚染はゼロになるだろう。
 ピグー税がよいと経済学者が考えるのは、汚染をより効率的に減らせるからである。規制は各工場に汚染を同じ量だけ減らすことを要求するが、一律に減らすこと
は必ずしも水をきれいにするための最も安価な方法ではない。製紙工場のほうが製鉄工場よりも汚染を減らす費用が小さい可能性もある。もしそうであれば、製紙工場はピグー税への対応として、税を避けるために汚染を相当減少させるだろう。それに対して、製鉄工場は汚染をあまり減らさず、税金を支払う形で対応するだろう。
 本質的に、ピグー税とは汚染する権利に価格をつけることである。ちょうど市場がある財を最も高く評価する買い手にその財を配分するように、ピグー税は汚染を減少させる費用が最も高い工場に汚染を配分する。環境保護庁がどのように汚染の水準を設定しても、ピグー税を用いると最も小さい総費用で目標に到達できるのである。
 経済学者はまた、ピグー税が環境にもよいと主張する。規制の指導・監督政策では、工場が300トンという汚水の目標に到達してしまうと、それ以上汚染の排出を減らそうとする理由がなくなる。これに対して、課税では、工場は汚染の排出をさらに減らす技術を開発するインセンティブをもつ。汚染をあまり排出しない技術があれば、工場が支払わなければならない税額が減少するからである。
 ピグー税は他の税とはあまり似ていない。ほとんどの税はインセンティブを歪め、資源配分を社会的に最適な状態から乖離させる。経済的福祉の減少、すなわち消費者余剰と生産者余剰の減少は、政府が得る収入を上回り、死荷重を発生させる。対照的に、外部性が存在する場合、社会はその影響を受ける周囲の人々の厚生にも配慮する。ピグー税は、外部性が存在しても当事者のインセンティブを修正し、資源配分を社会的に最適な状態に近づける。このように、ピグー税は政府に収入をもたらしながら、経済効率を高めるのである(課税の影響および死荷重については、ミクロ編第8章を参照のこと)。


 市場を重視して外部性に対応する方法として、ピグー税がある。ピグー税とは、課税によって負の外部性を内部化する税である、と書かれています。



 著者によれば、ピグー税の利点は
  1. 汚染を効率的に減らせる(汚染を減らす費用が小さい分野ほど汚染が減る)
  2. どこまでも汚染を減らそうとするインセンティブが生じる
  3. 政府に税収をもたらしつつ、効率効率を高める効果をもつ
です。

 こんな素晴らしい方法があるなら、採用しない手はありません。



同 ( p.211 )

 製紙工場と製鉄工場の例に戻ろう。経済学者のアドバイスにもかかわらず、環境保護庁が規制を採用し、各企業に汚水を毎年300トンまで減少させるように命じたとしよう。規制が実施され、二つの企業が規制に従った後のある日、両社がある提案をもって環境保護庁を訪れた。製鉄工場は汚水の排出を100トン増やすことを望んでいる。製紙工場は、もし製鉄工場が5万ドルを支払ってくれるならば、汚水の排出をさらに100トン減らすことに同意している。環境保護庁は二つの工場がこのような取引をすることを許可するべきだろうか。
 経済の効率性の観点からは、この取引を認めることはよい政策である。それぞれの工場の所有者は自発的にその取引に合意しているので、取引は両者の厚生を改善するはずである。そのうえ、汚染の総量は同じなので、その取引による新たな外部効果は生まれない。したがって、製紙工場が製鉄工場に汚染する権利を販売するのを認めることは社会的厚生を高める。
 同じ論理は、汚染する権利をある企業から他の企業へと自発的に移転させるすべての場合に当てはまる。もし環境保護庁がこうした取引を企業に認めるならば、それは本質的に、汚染許可証という一つの新しい希少な資源を創出したことになる。汚染許可証を取引する市場がいつかは発達し、その市場は需要と供給の作用に統治されるだろう。見えざる手は、この新しい市場が汚染権を効率的に配分することを保証するだろう。高い費用をかけないと汚染を減少できない企業は、汚染許可証に大金を支払ってもよいと考えるだろう。低い費用で汚染を減少できる企業は、手元にあるだけの許可証を販売したいと思うだろう。
 汚染許可証の市場を認める一つの利点は、汚染許可証が最初にどの企業に配分されていても、経済効率性の観点からは問題にならないことである。この結論の背後にある論理は、コースの定理の背後にある論理とよく似ている。汚染を最も容易に減少できる企業は、手に入る許可証をすべて販売しようとするだろうし、高い費用をかけないと汚染を減少できない企業は、必要なだけの許可証を購入しようとするだろう。汚染権の自由な市場がある限り、許可証が最初にどのように配分されていても、最終的な配分は効率的になるだろう。


 市場を重視して外部性に対応する方法としては、ほかにも汚染許可証がある。環境を汚染する権利(汚染権)を認め、その許可証(汚染許可証)の売買を認めることで、ピグー税と同様の効果が得られる、と書かれています。



 「環境を汚染する権利」という概念は、なんとなくしっくりきませんが、主張の趣旨はわかります。



 ピグー税も汚染許可証も、規制よりは「よい方法」だと思いますが、

 ピグー税と汚染許可証とでは、どちらの方法が優れているのでしょうか。これについては、次回にまわします。



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