以下の引用は、「ピグー税と汚染許可証」の続きです。
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.212 )
ピグー税と汚染許可証には、多くの共通点がある。両者の違いは、ピグー税は(政府が)汚染の価格を設定し、汚染許可証は(政府が)汚染の量を設定するところにある、と書かれています。
引用文中の図を示します。
★図7-4 ピグー税と汚染許可証の同等性
(a) ピグー税
汚染の価格
*
* xx
* xx
* xx
* xx
* xx ピグー税
P * xxxxxxxxxx●xxxxxxxxxxx
* :xx
* : xx
* : xx
* : xx
* : xx
* : 汚染権への需要
****************************
0 Q 汚染の量
(b) 汚染許可証
汚染の価格
* 汚染許可証の供給
* xx x
* xx x
* xx x
* xx x
* xxx
P *・・・・・・・・・・・・●
* x xx
* x xx
* x xx
* x xx
* x xx
* x 汚染権への需要
****************************
0 Q 汚染の量
要は、(汚染権に対する)需要と(政府または社会が認める汚染の)供給によって、汚染の価格と量が決定される以上、
ピグー税と汚染許可証の間には、本質的な差異はない、
ということのようです。
とすれば、ピグー税と汚染許可証、どちらの政策であっても大差はなく、どちらでもよい、ということになりそうですが、
同 ( p.213 )
政府には汚染の需要曲線がわからないので、ピグー税の場合、どれくらいの税率にすればよいのかがわからない。したがって汚染許可証のほうが優れているかもしれない、と書かれており、
著者の主張はもっともだと思います。
もともと、汚染権の「価格(税率)」を設定するか、汚染の「(許容)量」を設定するか、が政府に与えられている選択肢であるところ、
「汚染の減少」を目的として導入する政策である以上、普通に考えれば「(汚染の許容)量」を設定する、という発想になると思います。
したがって、ピグー税よりは、汚染許可証の販売のほうが優れている、とみてよいのではないかと思います。
ところで、汚染許可証には、次のような批判があるようです。
同 ( p.213 )
汚染許可証というアイデアには、カネさえ払えば環境を汚染してもよいのか、環境を「汚染する権利」などというものは認められない、という批判があると書かれています。
現実問題として環境汚染を「完全に」なくすことは不可能だと思いますし、汚染を「減らす」方法として、政府が「汚染許可証」を販売するという方法はきわめて有効(かつ効率的)だと思います。
したがって私は、「汚染許可証」を認めてよいと思いますが、
(感覚的に)どうしても認められない、というのであれば、汚染物質排出事業者にピグー税を課す方法によればよいと思います。ピグー税には「環境を汚染する権利」などという概念は(少なくとも表面的には)出てこないので、「汚染許可証」に反対する人であっても、ピグー税には賛成するのではないかと考えられるからです。
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.212 )
汚染許可証を用いて汚染を減少させる方法は、ピグー税を用いる方法とまったく違うようにみえるかもしれないが、実際には、二つの政策は多くの共通点をもっている。どちらのケースも、生業は汚染を排出するために支払いをする。ピグー税の場合には、汚染する企業は政府に税金を支払わなければならない。汚染許可証の場合には、汚染する企業は許可証を手に入れるために支払いをしなければならない(すでに許可証をもっている企業も、汚染するためには支払いをしなければならない。汚染の機会費用は、その許可証を公開市場で販売していれば得られたはずの金額である)。ピグー税と汚染許可証は、どちらも企業が汚染するのに費用がかかるようにすることで、汚染の外部性を内部化するのである。
二つの政策の類似性は汚染の市場を考察するとよくわかる。図7-4の二つのパネルには、汚染権の需要曲線が示されている。この曲線は、汚染の価格が低いほど、汚染する企業が増えることを示している。パネル(a)では、環境保護庁は汚染の価格を設定するのにピグー税を用いている。この場合、汚染する権利の供給曲線は完全に弾力的であり(企業は税金さえ支払えばどのような量でも汚染することができる)、需要曲線の位置が汚染の量を決定する。パネル(b)では、環境保護庁は汚染許可証を発行することで汚染の量を設定する。この場合、汚染する権利の供給曲線は完全に非弾力的であり(汚染の量は許可証の数で固定される)、需要曲線の位置が汚染の価格を決定する。したがって、汚染の需要関数がどのように与えられても、環境保護庁はピグー税によって価格を設定するか、汚染許可証によって汚染の量を設定することで、需要曲線上のどのような点にでも到達することができる。
ピグー税と汚染許可証には、多くの共通点がある。両者の違いは、ピグー税は(政府が)汚染の価格を設定し、汚染許可証は(政府が)汚染の量を設定するところにある、と書かれています。
引用文中の図を示します。
★図7-4 ピグー税と汚染許可証の同等性
(a) ピグー税
汚染の価格
*
* xx
* xx
* xx
* xx
* xx ピグー税
P * xxxxxxxxxx●xxxxxxxxxxx
* :xx
* : xx
* : xx
* : xx
* : xx
* : 汚染権への需要
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0 Q 汚染の量
(b) 汚染許可証
汚染の価格
* 汚染許可証の供給
* xx x
* xx x
* xx x
* xx x
* xxx
P *・・・・・・・・・・・・●
* x xx
* x xx
* x xx
* x xx
* x xx
* x 汚染権への需要
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0 Q 汚染の量
要は、(汚染権に対する)需要と(政府または社会が認める汚染の)供給によって、汚染の価格と量が決定される以上、
ピグー税と汚染許可証の間には、本質的な差異はない、
ということのようです。
とすれば、ピグー税と汚染許可証、どちらの政策であっても大差はなく、どちらでもよい、ということになりそうですが、
同 ( p.213 )
しかしながら、状況によっては汚染許可証を販売するほうがピグー税を課すよりもすぐれているかもしれない。環境保護庁は600トン以上の汚水が川へ放出されることを望まないとしよう。しかし、環境保護庁には汚染の需要曲線がわからないので、どれくらいの税率にすればその目的を達成できるか確信をもてない。このような場合、環境保護庁は単に600トンの汚染許可証を競売にかければよい。その競売価格はピグー税の適切な大きさになる。
政府には汚染の需要曲線がわからないので、ピグー税の場合、どれくらいの税率にすればよいのかがわからない。したがって汚染許可証のほうが優れているかもしれない、と書かれており、
著者の主張はもっともだと思います。
もともと、汚染権の「価格(税率)」を設定するか、汚染の「(許容)量」を設定するか、が政府に与えられている選択肢であるところ、
「汚染の減少」を目的として導入する政策である以上、普通に考えれば「(汚染の許容)量」を設定する、という発想になると思います。
したがって、ピグー税よりは、汚染許可証の販売のほうが優れている、とみてよいのではないかと思います。
ところで、汚染許可証には、次のような批判があるようです。
同 ( p.213 )
「われわれは、代金を払わせて汚染する権利を与えることはできない。」エドモンド・マスキー前上院議員によるこのコメントは、一部の環境保護主義者の見解を代表している。きれいな空気ときれいな水は人間の基本的な権利であり、経済的な面から考えることによって価値を下げられるべきではない。きれいな空気ときれいな水にどのように価格をつけろというのか。環境は非常に重要であり、費用に関係なく最大限に守られるべきだというのが彼らの主張である。
経済学者はこの種の議論にはほとんど共感をもたない。経済学者にとってよい環境政策は、第1章で述べた経済学の十大原理の第1原理、すなわち、「人々はトレードオフに直面している」ということを理解することからはじまる。確かに、きれいな空気やきれいな水には価値がある。しかし、その価値は機会費用と比較されなければならない。すなわち、それらを手に入れる代わりに放棄しなければならないものと比較されなければならないのである。すべての汚染をなくすのは不可能である。すべての汚染を取り除こうとすれば、高い生活水準を享受することを可能にしてくれた多くの技術進歩が逆行してしまう。ほとんどの人は、環境をできるだけきれいにするためだといっても、貧弱な栄養や不十分な医療、みすぼらしい家で我慢しようとはしないだろう。
汚染許可証というアイデアには、カネさえ払えば環境を汚染してもよいのか、環境を「汚染する権利」などというものは認められない、という批判があると書かれています。
現実問題として環境汚染を「完全に」なくすことは不可能だと思いますし、汚染を「減らす」方法として、政府が「汚染許可証」を販売するという方法はきわめて有効(かつ効率的)だと思います。
したがって私は、「汚染許可証」を認めてよいと思いますが、
(感覚的に)どうしても認められない、というのであれば、汚染物質排出事業者にピグー税を課す方法によればよいと思います。ピグー税には「環境を汚染する権利」などという概念は(少なくとも表面的には)出てこないので、「汚染許可証」に反対する人であっても、ピグー税には賛成するのではないかと考えられるからです。