競馬、ボートレースを知らない方はまったく興味の湧かない?話かも知れませんが…
自分はボートレースのお蔭で生活できた。山口県の田舎町から、
突発的に大阪へ出てきて、プロボウラーを目指したが挫折。
親類の叔父さんに住之江競艇場に連れて行ってもらい、
そこで拾った専門紙、「競艇ダービー」の記者募集を見て応募。
それが適職だったのか、33歳で編集長までになった。
山口県での生活はダーク一色だった。工業高校を卒業し、
土方まがいの仕事を2転、3転、毎日が汗と酒と、喧嘩である。
将来を絶望して、突発的に夜行列車に飛び乗り、悶々とした気分で
朝5時に大阪に着いた。しかし、大阪に着くと、例えは悪いが、
監獄から脱走したような気分になった。その時の清々しさは今も忘れない。
編集長になってからは精力的に仕事をこなした。ある時、
尼崎競艇場の施行者である尼崎市から、パンフレットの
依頼があつた。半年後に笹川賞(ボートレースのスペシャ
ルグレード競走・競馬で言えば有馬記念に相当する)があるが、
その公認パンフレットを依頼されたのだ。
その宣伝課の担当者は、俺の能力をいつも買ってくれていた。
ボートレース尼崎で初めてパーフェクト予想達成してから、
何かと目を掛けてくれていた。「Mちゃん、市の仕事やから、
色々手続きはあるけど、君が素晴らしい企画を提示してくれたら、
この話は一発で決まる」と、言ってくれた。猶予は一週間、
考えに考え、メインの企画は、「競艇界の王者・松井繁VS競馬の貴公子・武豊」の対談とした。
今でこそ、各業界の付き合いはフリーになっているが、
当時は異種競技の選手が対談するなんて、まず考えられなかった。
「この企画、本当に実現可能か?」と、担当者。俺の企画案を通したものの、
不安になったのである。
松井繁選手、武豊騎手ともに多忙である。特に武騎手は馬の調教などで、
可能日は月、火曜日だけと言うことが分かった。その日に松井選手が
空いているかどうか、この確率は極めて低い。競馬関係者の友人がいて、
まずは武騎手の可能日を聞いてもらった。そのあと、松井選手に
電話するのである。それがなかなか合わない…。一種のノイローゼ状態になった。
締切日が迫ってきた。その日は友人の息子さんの結婚式があり、
福井県の芦原温泉のホテルにいた。そこで歌を歌ったが、集中できない。
しかし、披露宴が終わったころに、両者のスケジュールが合ったという
電話があった。「よし、今日は飲むぞ!」と、その夜は、ウィスキーの
ボトル一本を空けたのを覚えている。
さて、待望のご対面だ。これは今も鮮明に記憶している。会場は、
大津市、プリンスホテルのスイートルーム。司会は、「神田川」、
「やさしい悪魔」、「メランコリー」などで知られる作詞家の
喜多条忠先生に依頼した。まず松井選手が登場し、続いて武騎手が現れ、
無事30階のスイートルームに案内した。そこでプロカメラマンを
待機させ、まずは、二人に握手をしてもらった。その時のお二人の笑顔、
光輝く握手のシーンは素晴らしかった。それを見た途端、
俺はよろよろと近くのソファーに座りこんでしまった。
その握手の写真をテレホンカードプレゼントにしたら、毎日何百通もの
応募はがきが会社に届いた。全国に配布したパンフレットはすぐになくなり、
追加要請が殺到したと言う。「笹川賞」は売れに売れ、
売上新記録だったから、毎日飲む酒が美味かった…。
その「栄光」から13年もの時が経ったのである。
この前、少し嫌な事があり、久しぶりに昔よく通ったスナックを訪れた。
そこで隣の若い男が俺の顔を見て、「お久しぶりです」と言った。
もう10年以上前になるから、最初はなかなか思いだせなかった。
しかし、その男が、「これをいただきました」と、松井選手と、
武騎手が握手しているテレフォンカードを見せてくれた。それで一気に記憶が甦った。
確か、パンフレット完成の打ち上げでみんなとこのスナックへ来た時、
ちょうど彼が一人で飲んでいて、「これはプレミアものの
テレフォンカードだから!」と、一枚プレゼントしたのだった。
そのカードを今も財布の中に、新品同様に保管していたのだった。
「これだけは手放さないつもりです」と、彼はいい笑顔を見せた。
「よし、飲もう。今日は俺に任せてくれ!」と、未だに独身だと言う彼と、明け方近くまで飲んだ。
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