【学ばない人は、走らない風車】4065
明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
人はなぜ、学ばないといけないのか。
それは端的にいうと一度しか与えられていない人生を豊かに生きるためです。
いろいろなことを学ぶと新しい世界に出会い、歓びを感じることができます。
また、自分が苦難にぶつかったとき、「学び」は役立ちます。
ソクラテス、孔子、ブッダなどを知っていれば、後から、そうした偉人たちの囁(ささや)きが聞こえてくるはずです。
そして、歴史を学ぶと、過去にこんな苦労した人たちがいたということを知るだけでも、自分が生きる糧(かて)になります。
「学び」がないと、無味乾燥な毎日となり、何か空しさを感じてしまいます。
学んでいる姿というのは、言って見れば子供の頃に遊んだ風車(かざぐるま)みたいなものです。
走れば風車は風を受け回りますが、走らないと風車は回りません。
学ばない人は、走らない風車です。
風車が止まっている姿は、本来の輝きを失い、生き生きしません。
人は60歳あるいは65歳で定年を迎え、そして70歳、古希(こき)を迎えます。
子どもたちが大人になり、親の手から離れると、親には静かな時間が「ドン」と訪れます。
そのときに学んでも仕方がない、意味がないと思う人もいるかもしれません。
とすると、風車は回らない状態となります。
生きている実感がないままに、最後の10年、20年を過ごしてしまう、ということになりますと、ふと空しさを感じるのです。
その空しさを感じるというのは、人生にとって私はかなり危険なことだと思います。
若いときと、老齢になってから「空しい」と感じる場合とでは、違うからです。
成年期のとき、自分はこれからどうなっていくのだろうという不安があります。
そう考えたときに今の自分でいいのだろうか、苛立ちとともに虚無感が頭をもたげてきます。
しかし、中高年を過ぎて、老年期になってからの空しさは、まるで自分の人生のすべてが無意味なような錯覚に捉われて、鬱々たる寂しさを伴うわけです。
青年期の生命力溢れるゆえの空しさと、生命力が衰えてくる段階での空しさは質が違います。
「死」の不安も老年期には襲ってきます。
だから、こうした不安や空しさから抜け出し、自分が生きてきたプロセスを、ちゃんと肯定できるためにも、老年期に入っても学んでほしいと思います。
そうすることで、自分の人生に対して、いつまでも前向きになれます。
70歳、80歳になっても自分は学ぶ、勉強することに積極的になることです。
すると、それまでの自分の人生は良かったときっと思えるはずです。
『斎藤孝式 “学ぶ”ための教科書』辰巳出版
https://amzn.to/3jIoNG9
本書に、吉本隆明氏のこんな言葉が書いてあった。
『吉本隆明さんは「ひきこもれ/だいわ文庫)」で、技術や知識を身につけるためには何でも、10年やるのが大事だといっています。
10年やると、何でも物になるというのです。
熟練した職業人になるには、少しゆるんでいても、持続力があればいいというのです。
「のんびりやろうが、普通にやろうが、急いでやろうが、とにかく10年という持続性があれば、かならず職業として成立します。
面白くても面白くなくても、コツコツやる。
必死でがんばらなくったっていのです。
ひきこもってもいいし、アルバイトをやりながらでも何でもいいから、気がついた時から、興味のあることに関して「手を抜かず」ということをやっておく。
何はともあれ、熟練に向けて何かを始めるところにこぎつければこっちのものです」と吉本さんは主張しています。
そして、一人でまとまった時間を過ごすのがとても大事で、「一人で過ごす時間が“価値”を生み出す」と指摘しています。』
「10年、偉大なり。20年、恐るべし。30年、歴史なる。50年、神の如し。」という言葉がある。
鍵山秀三郎氏は、それを、「凡事徹底」、「凡を極めて非凡に至る」という言葉で表現している。
平凡なことでも、それを長くコツコツと継続すれば、やがて非凡の域に到達するということだ。
天才ならいざ知らず、多くの凡人たちにとって、継続は強力な武器となる。
まずは、10年続ける。
そして、20年、30年と継続することで、その才能も非凡に至る。
いくつになっても学び続ける人には、豊かな人生が待っている。
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明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
人はなぜ、学ばないといけないのか。
それは端的にいうと一度しか与えられていない人生を豊かに生きるためです。
いろいろなことを学ぶと新しい世界に出会い、歓びを感じることができます。
また、自分が苦難にぶつかったとき、「学び」は役立ちます。
ソクラテス、孔子、ブッダなどを知っていれば、後から、そうした偉人たちの囁(ささや)きが聞こえてくるはずです。
そして、歴史を学ぶと、過去にこんな苦労した人たちがいたということを知るだけでも、自分が生きる糧(かて)になります。
「学び」がないと、無味乾燥な毎日となり、何か空しさを感じてしまいます。
学んでいる姿というのは、言って見れば子供の頃に遊んだ風車(かざぐるま)みたいなものです。
走れば風車は風を受け回りますが、走らないと風車は回りません。
学ばない人は、走らない風車です。
風車が止まっている姿は、本来の輝きを失い、生き生きしません。
人は60歳あるいは65歳で定年を迎え、そして70歳、古希(こき)を迎えます。
子どもたちが大人になり、親の手から離れると、親には静かな時間が「ドン」と訪れます。
そのときに学んでも仕方がない、意味がないと思う人もいるかもしれません。
とすると、風車は回らない状態となります。
生きている実感がないままに、最後の10年、20年を過ごしてしまう、ということになりますと、ふと空しさを感じるのです。
その空しさを感じるというのは、人生にとって私はかなり危険なことだと思います。
若いときと、老齢になってから「空しい」と感じる場合とでは、違うからです。
成年期のとき、自分はこれからどうなっていくのだろうという不安があります。
そう考えたときに今の自分でいいのだろうか、苛立ちとともに虚無感が頭をもたげてきます。
しかし、中高年を過ぎて、老年期になってからの空しさは、まるで自分の人生のすべてが無意味なような錯覚に捉われて、鬱々たる寂しさを伴うわけです。
青年期の生命力溢れるゆえの空しさと、生命力が衰えてくる段階での空しさは質が違います。
「死」の不安も老年期には襲ってきます。
だから、こうした不安や空しさから抜け出し、自分が生きてきたプロセスを、ちゃんと肯定できるためにも、老年期に入っても学んでほしいと思います。
そうすることで、自分の人生に対して、いつまでも前向きになれます。
70歳、80歳になっても自分は学ぶ、勉強することに積極的になることです。
すると、それまでの自分の人生は良かったときっと思えるはずです。
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本書に、吉本隆明氏のこんな言葉が書いてあった。
『吉本隆明さんは「ひきこもれ/だいわ文庫)」で、技術や知識を身につけるためには何でも、10年やるのが大事だといっています。
10年やると、何でも物になるというのです。
熟練した職業人になるには、少しゆるんでいても、持続力があればいいというのです。
「のんびりやろうが、普通にやろうが、急いでやろうが、とにかく10年という持続性があれば、かならず職業として成立します。
面白くても面白くなくても、コツコツやる。
必死でがんばらなくったっていのです。
ひきこもってもいいし、アルバイトをやりながらでも何でもいいから、気がついた時から、興味のあることに関して「手を抜かず」ということをやっておく。
何はともあれ、熟練に向けて何かを始めるところにこぎつければこっちのものです」と吉本さんは主張しています。
そして、一人でまとまった時間を過ごすのがとても大事で、「一人で過ごす時間が“価値”を生み出す」と指摘しています。』
「10年、偉大なり。20年、恐るべし。30年、歴史なる。50年、神の如し。」という言葉がある。
鍵山秀三郎氏は、それを、「凡事徹底」、「凡を極めて非凡に至る」という言葉で表現している。
平凡なことでも、それを長くコツコツと継続すれば、やがて非凡の域に到達するということだ。
天才ならいざ知らず、多くの凡人たちにとって、継続は強力な武器となる。
まずは、10年続ける。
そして、20年、30年と継続することで、その才能も非凡に至る。
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