【風格とは、捨てても捨てても遺るもの】5326
奈良県立大学客員教授、岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…
風格とはいったい何であろうか。
『新選国語辞典』(小学館)によると、「1.ふうさいと品格。ひとがら。2.おもむき。味わ い」とある。
しかしどうも品格と風格は異なるものではないかと思う。
もちろん風格は品格を包含する、えも言われぬ有り様というか、醸し出される雰囲気というか、表現しがたい状態だ。
東大寺の長老で書画にも名高い清水公照(こうしょう)師は、しばしば焼き物で仏や人物を作られて、これを「泥仏(でいぶつ)」と呼んでおられた。
常識や思い込みを超越した、脱俗の泥仏は飄飄(ひょうひょう)としていて今も人気がある。
師の百の流儀をまとめた「泥仏放語集」に「ぼけにも風格」と書かれたものを見たことがある。
これを見た時、えも言われぬ感慨を覚えた。
人がたどって来た人生の果てに生ずるのが風格であって、その有り様はどれ一つとして同じものはなく、個々区々(まちまち)なのである。
つまりその人の人生の香りというか、結果の立ち姿である。
人生の舟に、知識や経験や想いを積めるだけ積んで川を下っていく。
しかし全てを持っては死ねないから、ある年齢に達した時は、これを捨てて行かねばならない。
昨今はやりの断捨離だ。
しかしいくら捨てて行っても、本当の事は遺(のこ)る。真実は遺る。
残り香(が)のように。
その残り香が美しいのである。
若い頃、献茶の担当をしていた。
神前への家元の御献茶が済んで、何席かある茶席廻りの時に、家元の内弟子のご老人のお供をした。
ご流派では名のある先生だから、その先生が席に入られるやいなや、席は静まり凛とした空気が漂った。
ところがその先生は、わざと寛(くつろ)がれ、お話も楽しいし、作法もサラリとこなされる。
茶杓の拝見などは、しっかりと要点を押さえつつも、型にとらわれる事もなく、自然で美しいものだった。
捨てた姿は美しい。
但しそれは修めて修めて、修め尽くした人が捨てた姿が美しいのであって、修めもせず、舟の荷物も少ない人が捨て去った後には、全く何も遣っていないのである。
中途半端に修めた人と、修め尽くした人とでは全く仕上がりが違うのである。
たどって来た先にあるもの、全てを呑みこんでから吐き出した後に遺るもの。
つまり人生の残り香と余韻こそが風格というものではなかろうか。
《風格とは、捨てても捨てても遺るもの》
『日本人よ、かくあれ』ウェッジ
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「別れたあとに、また会いたいと思うような余韻や余情を残す人は魅力的な人間である」(行徳哲男)
余韻とは、鐘の音などが消えたあとも、なお耳に残る響きのこと。
その一番中心にあるものが、なんともいえない温かでしみじみとした人間関係。
また、虚飾を捨て去ったあとに残るものが、「素朴愚拙」という魅力。
「素」とは、枝葉を取り払ったあとの、何も身につけていない魅力。
「朴」とは、朴訥とした、泥臭さのこと。
「愚」とは、よく見せようとか、かっこつけようとしない、バカになれる魅力。
「拙」とは、要領よくない、へたくその魅力。
なんともいえぬ残り香と余韻のある人…
人間としての「風格」を少しでも身につけたい。
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奈良県立大学客員教授、岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…
風格とはいったい何であろうか。
『新選国語辞典』(小学館)によると、「1.ふうさいと品格。ひとがら。2.おもむき。味わ い」とある。
しかしどうも品格と風格は異なるものではないかと思う。
もちろん風格は品格を包含する、えも言われぬ有り様というか、醸し出される雰囲気というか、表現しがたい状態だ。
東大寺の長老で書画にも名高い清水公照(こうしょう)師は、しばしば焼き物で仏や人物を作られて、これを「泥仏(でいぶつ)」と呼んでおられた。
常識や思い込みを超越した、脱俗の泥仏は飄飄(ひょうひょう)としていて今も人気がある。
師の百の流儀をまとめた「泥仏放語集」に「ぼけにも風格」と書かれたものを見たことがある。
これを見た時、えも言われぬ感慨を覚えた。
人がたどって来た人生の果てに生ずるのが風格であって、その有り様はどれ一つとして同じものはなく、個々区々(まちまち)なのである。
つまりその人の人生の香りというか、結果の立ち姿である。
人生の舟に、知識や経験や想いを積めるだけ積んで川を下っていく。
しかし全てを持っては死ねないから、ある年齢に達した時は、これを捨てて行かねばならない。
昨今はやりの断捨離だ。
しかしいくら捨てて行っても、本当の事は遺(のこ)る。真実は遺る。
残り香(が)のように。
その残り香が美しいのである。
若い頃、献茶の担当をしていた。
神前への家元の御献茶が済んで、何席かある茶席廻りの時に、家元の内弟子のご老人のお供をした。
ご流派では名のある先生だから、その先生が席に入られるやいなや、席は静まり凛とした空気が漂った。
ところがその先生は、わざと寛(くつろ)がれ、お話も楽しいし、作法もサラリとこなされる。
茶杓の拝見などは、しっかりと要点を押さえつつも、型にとらわれる事もなく、自然で美しいものだった。
捨てた姿は美しい。
但しそれは修めて修めて、修め尽くした人が捨てた姿が美しいのであって、修めもせず、舟の荷物も少ない人が捨て去った後には、全く何も遣っていないのである。
中途半端に修めた人と、修め尽くした人とでは全く仕上がりが違うのである。
たどって来た先にあるもの、全てを呑みこんでから吐き出した後に遺るもの。
つまり人生の残り香と余韻こそが風格というものではなかろうか。
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「別れたあとに、また会いたいと思うような余韻や余情を残す人は魅力的な人間である」(行徳哲男)
余韻とは、鐘の音などが消えたあとも、なお耳に残る響きのこと。
その一番中心にあるものが、なんともいえない温かでしみじみとした人間関係。
また、虚飾を捨て去ったあとに残るものが、「素朴愚拙」という魅力。
「素」とは、枝葉を取り払ったあとの、何も身につけていない魅力。
「朴」とは、朴訥とした、泥臭さのこと。
「愚」とは、よく見せようとか、かっこつけようとしない、バカになれる魅力。
「拙」とは、要領よくない、へたくその魅力。
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