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MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

河に託して

2013-12-18 00:00:00 | その他の音楽記事

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                   河に託して
                   証し人たち




 前回の記事を書いた後、私は書庫のスコアをひっくり
返しました。 何冊も。 目的は研究ではなく、どこかに
挟み込んであるはずの “切り抜き” です。

 でも、ずいぶん昔のこと。 果たして残っているだろうか。
ちょっと調べたところ、やはり見当たりません。



 「やはり無いか…。」

 一旦諦め、数分後にもう一度、今度は丁寧にページ
を捲ったところ…。 ありました。 雑誌から切り取った、
二枚の紙が!




 内容は、交響詩『ヴルタヴァ』を巡って。

 筆者は菅野浩和。 出典の記録はありませんが、前後の
記事内容からして、『音楽の友』、1989年12月号と思われる。



 今から24年前の時代。 ベルリンの壁が崩壊したのが、同じ
年の11月9日。 ちょうどこの雑誌が発行された頃に当ります。

 当時は、まだ “チェコスロバキア社会主義共和国” という国家
体制。 国が分離し、チェコ共和国になったのが1993年です。



 そんな事情を念頭に、お読みください。





 交響詩『ヴルタヴァ』。 はて、聞いたことがありませんね。
誰が作曲した、どんな曲ですか、という質問がはねかえって
くるでしょう。

 「それは、わが国で『モルダウ』と呼ばれている曲のこと
です」…と答えますと、「それならよく知っています。 でも
どうして『モルダウ』と書かないんですか。 『ヴルタヴァ』
ってなんのことですか」と、重ねて問われるでしょう。」




 『モルダウ』はドイツ語ですから、チェコにとっては外国語
です。 チェコ語ですと『ヴルタヴァ』となるのです。 では、
どうして『モルダウ』というドイツ語が普及したのでしょうか。

 それは、この曲の作曲者スメタナが活躍していた時代は、
この国は独立国ではなくて、オーストリアの支配のもとに
ありました。 ゆえに、公用の言葉は原則として支配国の
言葉を使いますので、『モルダウ』となってしまったのです。




   



 でも、この名称で世界中に通用しているものを、いまさら
変える必要はないのではないか、という意見もあるでしょう。

 それは外側からこの国を眺めた場合の意見で、チェコの
人々にとっては、オーストリアの支配に屈していた時代に、
幾多の苦難を受け、時にはチェコ語を使うことにさえ圧迫が
加えられた時代もあったのですから、晴れて独立した今日、
チェコの川の名前をわざわざドイツ語で呼ぼうとは思わない
でしょう。




 チェコの産んだ世界的な名指揮者で、日本にも何度も来ている
ヴァーツラフ・ノイマンは、わが国のあるオーケストラに客演して
『ヴルタヴァ』を演奏したときに、次のように言ったそうです。

 「この曲の名前を、決して『モルダウ』と呼んでくれるな」と。



 うっかり日本のオーケストラ側が、言い馴れている『モルダウ』
を口にしたときの、ノイマンの悲しみと嘆きに、チェコの人たち
が独立後の今日でさえ、人名や地名のいくつかがドイツ語式
で世界に通用していることに、どんなに悲しい思いをしている
かが代弁されているようです。

 ついでながら “ドヴォルザーク” と、ドイツ語読みを頑として
改めない筋も、わが国には存在するのですから、ノイマンの
嘆きはまだ終わらないでしょう。




 さて、このヴルタヴァは、チェコを南北に貫いて流れ、
やがてプラハの市内を通り抜けたあげく、エルベ河に合流
する大河ですが、スメタナの交響詩では山の中の源流から、
やがて川幅を増して森や牧場を貫いて流れ、田舎で楽しげ
な婚礼の祝宴を祝福したり、月夜の水の精の優雅な踊りを
眺めたりしながら、古城を仰ぎ、急流で渦巻き、プラハを通り
抜けてゆくありさまを、魅力的なタッチで、生き生きと描いて
います。

 わが国では、この作品は川を描写した音楽と受け取られ
ているようですが、それも間違いではありません。




 しかしスメタナは、巧みに川をオーケストラで描写するだけを
目標として、この曲を書いたのでしょうか。 実は描写は方便
であって、彼の真意はもう少し深いところにあったようです。

 そのことを理解するためには、どうしてもこの曲を含む全六
曲の交響詩集わが祖国、全部を聞いてみないとなりません。

 全六曲のうち四曲までが、チェコの歴史を題材とする曲で、
その間に自然描写の二曲が含まれています。



 しかも歴史ものの四曲のうち、二曲『ヴィシェフラド』と『シャー
ルカ』は、中世の王朝史に題材が取られていますが、もう二曲
『ターボル』と『ブラニーク』は、チェコの民族の自立のための
戦士たちのことが扱われています。

 こうした歴史ものを一、三、五、六曲目に置き、その間の二曲
目、四曲目にチェコの風土をテーマとした『ヴルタヴァ』と『チェコ
の牧場と木立』(わが国では『ボヘミアの森と草原より』で通用)が置かれ
ています。

 こうした一連の作品集を眺めて気がつくことは、スメタナは歴史
と風土の両面から祖国を讃えようとしているということです。




 すでに記したように、スメタナの生涯は、祖国は独立国では
ありませんでした。 オーストリアの支配はある時は強く、ある
時は弱まりもしましたが、そうした体制のもとにあって、自民族
の歴史や祖国の風土を讃えることは、愛国、独立運動とつなが
る行為だったのです。

 彼が『わが祖国』を作曲したのは、1874年から79年にかけて
ですが、第一曲目の作曲中に聴覚の異常を覚え、やがて完全
に聞こえなくなってゆくという、音楽家としては致命的な悲劇の
中に、彼はこれらの交響詩を書きすすめていったのでした。




 『ヴルタヴァ』は『ヴィシェフラド』の次に置かれていますが、
『ヴィシェフラド』では、中世チェコ王国のプシェミスル朝
栄枯盛衰を語る吟遊詩人の調べが、基調になっています。
というのは時間的に、かつての独立時代のチェコの歴史を
辿ってみた音楽です。

 これに対して、二曲目の『ヴルタヴァ』は地理的に、チェコ
を山岳地帯から首都のプラハを貫流する、いわば、チェコの
動脈のような河に託して、縦に辿ってみたことになります。



 



 そして “ヴルタヴァ” に沿ってチェコを貫きながら、沿岸に田園
地帯も、月夜の水の精の幻想も、そして素朴な農民たちの生活
も織りこんで、この国土のさまざまに対する、限りない愛着と讃美
を、存分に歌いあげていきます。

 そのあげく、曲の終わりの方に、一曲目の『ヴィシェフラド』の
テーマが出てきますが、この時ヴルタヴァはヴィシェフラドの岩
山の下を流れることを暗示するほかに、言外に込められている
意義として、ヴィシェフラドに象徴されるチェコの歴史をも貫流し
て、ヴルタヴァが流れていることも感じさせます。




 スメタナは、この作品を完成してからわずか五年後には廃人
同様となり、最後は精神病院で死を迎えるという悲惨な終末で
したが、彼の運命が明から暗に転ずる時期に書かれたこれら
の作品が、表面的な描写音楽であるはずはありません。

 彼はこれら六曲を、プラハ市民に献呈したことも象徴的です。
スメタナが、いかにチェコの人々を愛していたかをうかがうこと
ができます。



 ゆえにこの作品は、プラハ市民の精神的な財産となり、今日
世界の音楽祭中でとりわけ人気の高い “プラハの春” の、開
会の日の演奏曲目は、毎年この作品に固定されているのも、
今日の同市民たちが、いかにこの音楽に愛着を持ち、誇りと
しているかが分かるようです。

 さらに、プラハの市民たちにとどまらず、チェコの人たちは
誰でも、この音楽を自分たちの象徴のように考えています。

 クラシックの音楽だからクラシック-ファンだけのものでは
なく、チェコの人々すべてが愛着を寄せているのです。

 なんとすばらしいことではありませんか。

                 (題字とカット・今枝靖固)





 以上の内容は、読点を補い、段落を細分化するなどした
上、“ヴィシェフラ” を “ヴィシェフラ” に変更したほかは
原文のとおりです。




               『わが祖国』



       [音源ページ ]  [音源ページ




表記にも願いが

2013-12-17 00:00:00 | その他の音楽記事

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                   証し人たち




 並んでいるのは、チェコ語で表記された人名で、
すべて音楽家。 ご存じの名前も多いでしょう。

 今回は、出来るだけ原語の発音に近く読んで
みましょう。 どうなるでしょうか?



     František Benda

     Jan Ladislav Dussek

     Bedřich Smetana

     Antonín Leopold Dvořák

     Zdeněk Fibich

     Vítezslav Novák

     Otakar Ševčík

     Leoš Janáček

     Julius Arnošt Vilém Fučík

     Josef Suk

     Bohuslav Martinů

     Zuzana Růžičková

     Jan Horák





 それでは、日本語で表記した一例です。



 František Benda

 フランティシェク・ベンダ


    (1709年11月22日 - 1786年3月7日)



 Jan Ladislav Dussek

 ヤン・ラディスラフ・ドゥシー


    (1760 - 1812年)



 Bedřich Smetana

 ベドジフ・スメタナ


    (1824年3月2日 - 1884年5月12日)



 Antonín Leopold Dvořák

 アントニーン・レオポルト・ドヴォジャーク


    (1841年9月8日 - 1904年5月1日)



 Zdeněk Fibich

 ズデニェク・フィビ


    (1850年12月21日 - 1900年10月15日)



 Vítezslav Novák

 ヴィーチェスラフ・ノヴァーク


    (1870年 - 1949年)



 Otakar Ševčík

 オタカール・シェフチー


    (1852年3月22日 - 1934年1月18日)



 Leoš Janáček

 レオシュ・ヤナーェク


    (1854年7月3日 - 1928年8月12日)



 Julius Arnošt Vilém Fučík

 ユリウス・アルノシュト・ヴィレーム・フーク


    (1872年6月18日 - 1916年9月15日)



 Josef Suk

 ヨフ・


    (1874年1月4日 - 1935年5月29日)



 Bohuslav Martinů

 ボフスラフ・マルティヌー


    (1890年12月8日 - 1959年8月28日)



 Zuzana Růžičková

 ズザナ・ルージコヴァ


    (1927年1月14日 - )



 Jan Horák

 ヤン・ホラーク


    (1943年8月2日 - 2009年1月18日)




 「初めて見る読み方だ。」

 そんな名前も、幾つかあったのではないでしょうか。



 私たちにとって特に難しいのが、子音ですね。 同じ字体
でも、言語によっては極めて大きな差が生じます。



 “ch” は、強いて書けば “”。 “チ” でも “ヒ” でも
ありません。

 “č” は “”。 “ス” ではなくて。

 “še” は “シェ”。




 そして大問題なのが “ř” でしょう。

 上には “ベドフ” (Bedřich Smetana)、そして
“ドヴォャーク” (Dvořák) と書いてあります。



 通称の “ドヴォルザーク” に、まったく根拠が無い
ことは、この場でも以前から触れてきました。

 それに、“アントン” では、ドイツ語かロシア語に
なってしまう。 かつての “支配側言語” です。




 それでは、前々回ご紹介したムジカ・ボヘミカ
は、どう書いてあるか?

 2002年以来のライブラリーページには、“ドヴォ
ジャーク”。 しかし、最新のチラシの表記では “ドヴォ
ジャーク” です。



   

        (表)               (裏)




 この ř” の音。 解説を見ただけでは、私には
解りません。

 wikipediaの音源]で何度聴いても駄目でした。
解るのは、「“ル” が聞こえない」…ことだけ…。



 そこで、ホラークさんのご家族に尋ねてみました。

 なんでも、「巻き舌の “r” を発音するつもりで、歯
の間から、強く息を押し出す」…のだそうです。



 でも私がやってみると、「それは喉の音。 違いますよ!」

 必死になればなるほど、うまく行かない。



 これ、チェコでもお子さんたちには難しいそうです。 じゃあ、
私が出来なくてもしょうがないか…。

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 実は、[ムジカ・ボヘミカ]が、チラシに “ドヴォジャーク”
と表記したのは、今回が初めてなのだそうです。

 それはなぜ?



 ホラークさんにとっては、元々 “ドヴォジャーク” だったの
ですから、「急にそうしたくなった」…とは考えられません。

 ひょっとすると、そうしたくても出来なかった、裏の事情が
あるのではないでしょうか。



 「何年かかっても、いつかは実現したい。」

 その願いの途上で、ホラ―クさんは5年前に旅立たれました。



 そもそも “ドヴォルザーク” と表記し始めたのは、誰なのか?

 今となっては、もちろん解りませんが、最初に表記する人間
の責任は重大です。 これは、訳語でも、また音韻に関しても
同じです。

 もちろんチェコのかたがたは、赦してくれるでしょう。 我々
が正確に発音できなくても。 なにしろ難しい音ですから。



 でも、「“ř” とあるから、どうせ “r” と似たようなものだろう」
…と考えてしまうと、それは違うようです。

 ご家族も言っておられました。 「“r” に見えても、“r” の
音はまったく鳴りません。」



 “少しでも近い発音を。 出来ないなりに。” そう努力する
ことが、その言語に対する敬意でしょう。 ましてや固有名詞、
それも人名ですから。

 こんなに親しまれている作曲家なのに…。 せめて表記に
携わる人間だけでも…。



 そしてそれは、その言葉を使うかたがたに
対する敬意でもあります。

 おおげさに言えば、相互理解を深めるため
の “一歩” ではないでしょうか。




 スメタナの、あのわが祖国。 2曲目の題名
が『ヴルタヴァ』となったのは、喜ばしい限りです。

 私が幼年時代から親しんだのは、『モルダウ』
…。 しかし、ドイツ語ですから。



 「お願いですから、皆さん。 “モルダウ” とは
言わないでください。」



 指揮者のヴァーツラフ・ノイマンが来日し、日本フィルの
リハーサルで “懇願” してから、40年ほどかかりました。

 “ヴルタヴァ” が、インターネットで市民権を得るまでに。



 関連記事 『頭の体操 (37) 漢字クイズ 問題/解答』 ~ (26) ヴルターヴァ

         ただし、この “ター” はそれほど長くありません。
          「軽いアクセントがある」程度に考えてください。





 ドヴォルザークのページでも、改善の兆しが見られない
わけではありませんね。 先ほどの正確な発音も、ここに
ありましたし。

 しかし、その肖像画の下には、出生地が “ミュールハウゼン・
アン・デア・モルダウ” と書いてあります。 立派なドイツ語で。



 もっとも、当時はオーストリア領だったから、仕方が無いね。

 チェコ語のページでは、ちゃんと “Nelahozeves” って記載
があるから、まあいいか…。




 でも、この地名、何て読むの?

 これじゃ “藪蛇” だな。



 最後になって墓穴を掘った私でした…。



 後日、ムジカ・ボヘミカの演奏会プログラムには、

「プラハ近郊のネラホゼヴェス」…とありました。




色トリドリ

2013-12-16 00:00:00 | その他の音楽記事

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                   証し人たち




 ヤン・ホラークさんが生まれたのはモラヴィア地方。

 千年以上前には、モラヴィア王国として栄えていました。
最盛期の領土は、現在のチェコ、ハンガリー、ブルガリア
の全土を含む、広大な地域に及びました。



 王国はマジャール人の侵略によって滅亡し、以後、他国
の支配を長く受け続ける。 ハンガリー、オーストリア…。

 今日ではチェコの一部になっていますが、文化的、特に
音楽面では、ハンガリーの影響がとても強い地域です。



 そしてモラヴィアといえば、忘れることの出来ないのが、
ヤナーチェクでしょう。




 手元にあるホラークさんのCDの中には、ヤナーチェクの作品、
草かげの小径にてが入っています。



 この曲集は、性格の異なる小曲から成っていますが、最後の
3曲に共通するテーマは、自身の家族の死です。 長女オルガ
は病に倒れ、21歳の若さで亡くなりました。



          

             (wikipedia より)



 それは、この曲集の、第8~10曲に当ります。




 第8曲 『こんなにひどくおびえて』。

 2/4拍子、Andante、ホ短調。

 たどたどしい旋律からは、死の床での激しい感情の起伏が
聞き取れます。 高揚と沈鬱。 病と戦うオルガ。 悲しみに
沈むオルガ。 そして、心臓の鼓動。




 第9曲 『涙ながらに』。

 2/4拍子、Larghetto、変ト長調。

 オルガは、やがて絶望し、諦めを口にします。
傍らで言葉少なに見守る、父レオシュ。




 第10曲 『みみずくは飛び去らなかった』。

 2/4拍子、嬰ハ短調、Andante。



 「モラヴィア地方にあるシレジア地域では、“病人のいる家
にみみずくが飛んでくると、それは死を招く不吉な知らせを
意味する” という言い伝えがあります。」

 これはホラークさんのご家族が教えてくれた内容で、以下
の 「 」 内も同じです。



 「みみずくを払いのけようとする手の動きを、最初の6連符
で表わしているが、それを無視するかのように、“みみずく”
のテーマが3度音程で鳴きながら登場します。」

 “Do# ~ La#”、“Do# Do# Do# Do# ~ La#”。 “カッコウ” に
似ている短3度ですが、音楽全体の響きは、不吉で恐ろしい。



 「やがてコラール調の “祈り” のテーマが現われ、みみずくと
祈りが交錯しながら曲は進んでいきます。 最後のページでは、
この曲の中で一番のフォルテが “祈り” のテーマに与えられ、
叫びのようになります。 しかし結局は “みみずく” のテーマが
居座り、曲集全体を締めくくります。」



 “飛び去らなかった” は、そういう意味なんですね…。

 この題名からしても、作曲者の願いが絶望に終る
のが感じられます。




 詳細は、ヤナーチェクの作品とモラヴィア民謡の関連性を探る
をお読みください。




 「ピアノの技法としては大きな目立ったテクニックがある
わけでもないのですが、逆にその少ない音の中で色々な
表現をするので、誤魔化しが利きに くい曲だと思います。」

 「ヤナーチェクは、人の喋ってるイントネーションや、鳥の
鳴き声、風の音などを、聞こえたままに五線譜に書き取り、
それをメロディにしてよく作曲を行う人だったようです。」



 その態度は、この重大な局面を迎えても同じでした。

 病床のオルガの言葉。 そして、ため息までも、彼は
文字や音符として残しています。




 鳥の声を題材にした作曲家…。 たくさんいますよね。

 古くは Rameau、Vivaldi。 また Beethoven や Mahler
は、交響曲の中でも用いました。



 Ravel の バレェ音楽 『ダフニスとクロエ』では、朝の
爽やかな小鳥たちの声。 Respighi の 組曲 『鳥』。



 そして、あの Olivier Messiaen の作品では、鳥の
声が極めて頻繁に登場します。 時には神秘主義的
な宗教性まで帯び、恍惚感へと高まる。

         関連記事 星、鳥の声



 しかし、このヤナーチェクの作品では、いかに恐ろしい
意味を “鳥” が持っていることか…。

 同じ “鳥の声” でも、色彩や明暗は様々です。




         『草かげの小径にて』

           音源ページ




チェコからの声

2013-12-15 00:00:00 | その他の音楽記事

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                   河に託して
                   証し人たち



 先日、ある演奏会のチラシをいただきました。



   

        (表)               (裏)




 [第29回ピアノ演奏会  ヤン ホラーク 教授 メモリアル]




 チラシの裏には、次のように書かれています。



 「ヤン ホラーク先生 (1943~2009) は、1971年に来日
以来38年間にわたり、武蔵野音楽大学教授として教鞭
をとり、教育者や演奏家として活躍する多くの門下生を
輩出すると共に、優れたピアニストとして日本の音楽界
に大きな記録を残されました。」

 「とりわけ母国チェコの音楽を、演奏会や楽譜出版、
放送等を通して広く紹介した功績は大きく、なかでも
1985年に門下生を母体として結成された、チェコの
音楽を意味する研究団体 “ムジカ・ボヘミカ” は、
今日まで定期的に数多くの演奏会や研究会を開催
してまいりました。」

 「ホラーク先生と共に歩んだ、我が国におけるチェコ
音楽の啓蒙活動が、確かな地歩を築いたことと信じ、
今後も更に続けて研鑽してまいります。」




 この[ムジカ・ボヘミカ]のホームページ。 読むと、その
活動は、かつては3つの分野から成り立っていました。




 今回のような “演奏会”。 それは、ホラークさんの
教えを直接受けたかたがたの、“研鑽の場” でもある
ことが解ります。

 「先生の教えをさらに広げよう。」 その姿勢が、師
の没後も含め、30年も続いていることに驚きますね。



         メールでのお問い合わせ]




 オープン-レクチャー-シリーズ

 これは、ホラーク先生の体調悪化に伴い、
2007年12月が最後になってしまいました。




 ライブラリー

 ここで見られるのは、チェコの作曲家によるピアノ
作品。 その所蔵楽譜です。

 検索してみると、数々の楽譜が校訂、解説入りで
出版されていることが解ります。




 ホラークさんが旅立たれてから、もう5年になる。

 当時ネット上には、その功績とお人柄を偲ぶ声が
広く飛び交っていたのを、はっきり覚えています。



 その折には、私も記事を書きましたが、今でも
検索して読まれることが、大変多い。

    関連記事 ヤン・ホラークさんを悼む



 この記事では、直接、間接に教えを受けた
かたがたの声を、一部紹介してあります。




 なお、当時は見つけられなかったのですが、以下のような
記事もありました。 リンク切れに備えて、一部を引用、転載
させていただきます。




       訃報:ヤン・ホラークさん65歳 より



 「18日、脳腫瘍のため死去。 葬儀は23日正午、東京都練馬区
小竹町1の61の1の江古田斎場。 喪主は妻ホラーク道子さん。」



 【経歴】 : 1943年、旧チェコスロヴァキアに生れる。 チェコ
国立オストラヴァ音楽院でピアノ、作曲を学び、更に同校卒業後、
プラハ音楽アカデミーのピアノ科に入学し、ピアノをフランチシェク・
ラウフ教授とダグマル・バロコヴァー女史に、バロック音楽をスザナ
・ルージチコヴァ女史に師事して研鑽を積む。

 1962年および1963年ブラチスラヴァ芸術家コンクール第1位、
マリエンバード・ショパンコンクール入賞。 1970年、チェコ新人
演奏会コンクールに入賞後オーケストラとの協演、リサイタルや
室内楽の分野において広く活躍する。

 1971年、武蔵野音楽大学の客員教授として来日。 全国各地で
のソロリサイタル、オーケストラとの協演、テレビ、FM出演を始め、
アンサンブルピアニストとしても弦、管楽器、歌の著名な音楽家
たちと共演する等、各方面で活躍。 バロックからロマン派音楽を
中心として現代作品まで幅広いレパートリーを持ち、チェコの音楽
作品の紹介にも大きな貢献をしている。 武蔵野音楽大学教授。



 《ひとこと》 : ホラーク先生が、買い物袋をぶら下げて、
自転車に乗って、片足こぎで武蔵野音大のゲストハウス
(練馬区桜台にあり、隣地は音大附属第二幼稚園)に
帰られる姿を、たけみの高校時代に何度も見たものです。

 個人的な師弟関係はありませんでしたが、たけみの姉の
友人数名と、たけみの友人(25歳で夭折した男性ピアニスト)
などが、ホラーク先生の弟子でした。

 たけみのチェコ好きに関して、最後のダメ押しとなった方
でもあります。 ご冥福をお祈り申し上げます。




 “たけみ” は、筆者のお名前のようですね。 貴重な一文
をありがとうございました。




 「ホラーク先生の教えを絶やすまい。」

 関係者のかたがたの、熱意とご苦労を思います。



 生前のホラークさんには、お目にかかる機会がなかった私。
もちろんピアニストではないのですが。

 そんな私には、一体何が出来るのか、今後も考えてみたい。




作品に塗り込んだ人生

2013-10-14 00:00:00 | その他の音楽記事

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 〔それにしても、原題が『ヴェーヌスベルク』ではね…。
『タンホイザー』とは、えらい違いだわ。〕

 「そうではない。 『タンホイザーとヴァルトブルクの
歌合戦』だよ。 二つの伝説から着想を得たから。」

 〔はいはい、わかりました。〕



 「『歌合戦』のほうには、『ローエングリン』の説話の一つも
含まれている。 ただし今日伝わっている主なものとは、違う
ところが多いのだ。」

 〔それがきっかけで興味を持ったのね? ローエングリンに、
あなたは。 “私の名、氏、素性を決して尋ねてはならない”…。
そう念を押されていたのに、エルザは背いてしまった。 白鳥
の騎士との誓約にね…。 私には近寄りがたい存在だわ。
あまりに神がかっていて。]



 「高邁な精神を求めて昇りつめた、一人の悩める人間
と解釈することも出来るよ。」

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 「それに、こういう卑近な一面もあるのだ。」



 ワーグナーはローエングリンの “質問の禁止” について、
「彼は自分を信じてくれる女性を求めた。 一切の説明や
弁明ぬきで、無条件に自分を愛してくれる女性を求めた」、
だから名前や素性にまつわる質問を封じたのだ、と注釈を
加えている。 (*1

 (『知られざるワーグナー』 (三光 長治 著、1997年、法政大学
出版局) (以後、*1 と約す)





 [女からすれば “言い訳” よ。 最初から去るつもりの、ね。]

 「男は余計な話はしたくない…。 女は詮索好きだからな。」
 
 〔失礼ね、話をすることが愛なのよ、女にとっては。 それに
私、そんなに根掘り葉掘り、訊かなかったわ。〕

 「そうだったかな…。」



 〔ただ、あなたの継父ガイヤーには興味があったの。
私も女優、同じ俳優としてよ。 私の舞台人生を踏み
にじったこと、まさかあなたは忘れてないでしょうね。〕

 「…。」




 それに、“実父” カール・フリードリヒのほうも、熱烈な演劇
愛好家であり、素人俳優でもあった。 そのため、リヒアルト
の兄や姉たちも演劇に心ひかれていたのも、当然といえる。
したがって、遺伝という点に関しては、いずれの父親候補者
の間にも、ほとんど選ぶところがない。 ただ、ガイヤーの
祖先をたどってみると、演奏家が何人かいるという…。

 ガイヤーは、実技に劣らず理論にも興味をいだく、優れた
性格俳優であり、ドレスデンをはじめとする数多くの地方
都市で、その作品がいくつか上演されたことのある、二流
劇作家でもあった。 彼が亡くなったのはリヒアルトがまだ
6歳のときだったが、彼の影響は、まだ俳優になりたてで
苦闘中のワーグナー一家に、依然として浸透していた。

 そしてその家庭における議論が、この聡明な少年のうち
に、演劇改革と劇演出に対する、熱烈な興味を掻きたてた
ことは間違いない。 (*2

 (『ワーグナーの世界』 (オードリー・ウィリアムソン 著、
中矢 一義 訳、1976年、東京創元社) (以後、*2 と約す)





 「そのとおりだ。 私は彼に感謝している。それは折
に触れて公言してきた。」

 〔そう? 実はね、訊きたいことがあったの、あなた
と一緒に暮らしていたときに。 …といっても、一軒の
家の上と下で、半別居状態だったけど。〕

 「…何かね…。」



 〔あなたの『ニーベルンゲンの指輪』に登場する、
ミーメのことよ。〕




 「……ああ、あの鍛冶屋のミーメかい。」

 〔養父としてジークフリートを育てるけど、結局彼に
殺されちゃうでしょ? 父親殺しよね。〕

 「…それは、ミーメが先に殺意を抱き、それがバレて
しまったからだ。 悪いのは息子のほうではない。」



 〔でもね、なぜわざわざそういう設定にしたの?
私には疑問なのよ。〕

 「あれはな、ただユダヤ人を皮肉っているだけだ。」




 ミーメが小人族としてその存在を矮小化されているのは、
ひょっとすると、彼らがユダヤ人のカリカチュアであるため
かもしれない。 私がそのように推測する根拠の一つは、
ミーメの語りにある。

 ユダヤ嫌いのワーグナーは、『音楽におけるユダヤ性』と
題する論文のなかで、ユダヤ人の話ぶりに言及し、それが
非ユダヤ人にとってはなはだしく耳ざわりであると言って
いる。 ユダヤ人が金切り声で “混乱した駄弁” を弄する
ことに嫌悪感を唆られるというのだが、黄色い声を張り上げ
て、あらぬことを口走るミーメの語り口は、その見本になり
はしないか。 (*1




 〔このミーメはテノールよね。 それも甲高い声だわ。〕

 「ユダヤの金融資本を、私が目の敵にしていた (*1
だけだ。 同じ本にそう書いてあるだろう。」

 〔そうね。 でも、こうも書いてあるわよ。〕




 母と再婚した養父ガイアーは、もしかするとユダヤ系かも
知れなかった。 14歳まで戸籍上ガイアーを名乗っていた
ワーグナーは、養父が実父かも知れないという疑惑に悩ま
されたが、自身がユダヤ系かも知れないという、もう一つの
疑惑がそれに絡んでいた。 (*1




 「そんなこと、思い出させるな! 混乱してしまうじゃないか…。」

 〔水面に映った自分の顔を眺めて、自分は父に “似ていない”
と悩む場面があるわよね。 ジークフリートが。]

 「……。」



 [どっちでも同じなのよ、似ていてもそうでなくても。 どの
みち、苦しむことになってたんじゃないの? あなたは!〕

 「何を言うか! 頭が痛くなってきた…。」



 〔…可哀そうに…。 ジークフリートも、ミーメも、
そしてあなたも。 ある種の自己懲罰ね。]

 「勝手な解釈をするな!」




 [でもそれだけじゃないの。 それは、
“ミーメ” っていう言葉よ。〕

 「………。」



 〔“Mime” は、英語の “Pantomime” よね? そう、パント
マイム、無言劇のこと。 そして、それを演じる役者の意味
にもなる。 つまり、“俳優” のことよ。〕



 「………それは…、偶然の一致だ…。」

 [そんなこと、ないでしょ。 あなたは芸術に対しては誠実
な人だから。 解る人には解るように書いたはずよ。]




 ガイヤーが俳優としては背が低く、声が細かったことに災
されて、英雄的な役柄につけなかったことも、興味深いこと
である。 というのは、背丈と声量に恵まれなかったことが、
おそらく、リヒアルト・ワーグナーを舞台から遠ざけた大きな
要因だったから。 (*2




 〔あなたは167cm。 劇中のミーメは、地下で
あくせく働く、小人族の出身だったわね。]

 「…そうだ。」

 [でも、なぜジークフリートに殺されちゃうの?
それにはね、こういう説だってあるほどなのよ。〕




 精神分析学では、エディプス・コンプレックスということを
述べる。 これは、息子が母を愛するあまり、無意識的に
父親に対して敵意をいだくことをいう。 ワーグナーの作品
には、義父または養父に対する、一種のエディプス・コンプ
レックスが現われている。 (*3

 (『リヒャルト・ワーグナーの芸術』 新版 (渡辺 護 著、1987年、
音楽之友社) (以後、*3 と約す)





 [エルザは、追いつめられて尋ねてしまった。 そして全て
を失い、崩れ落ちて息絶えた。 私もね、本当はもっと訊き
たかったのよ、あなたの身の上話を。 でも、あまり触れら
れたくないように感じたの。]

 「ああ…。」

 [それも父親のことだけじゃないわ。 お母さんがどんな人
なのか、私には今でもよくわからないのよ。]




 ワーグナーの、母親ヨハンナに対する印象も独特であった。
彼は母親自身には、それほど大きな愛情を持っていなかった
らしい。

 母親から愛憮されたというような記憶はないと、彼自身言って
いる。 彼は13歳のとき、母親と別れて住むようになったから、
現実の母親について、くわしい記憶のないのも無理はない。 …

 思春期に母親から離れていた彼は、母と女性とを結合して憧憬
の対象とすることを知っていた。 ジークフリートも、パルシファル
も、女性の愛を知ったときに、母を呼ばうのである。 (*3




 〔そうね。 私は4歳だけ年上の妻だった。 私なり
に努力はしたわ。 ああ、あのパリの極貧時代…。
こんなことを書いてくれた人もいるのよ…。〕




 むずかる赤ん坊のワーグナーを、両腕にかかえてあやす母親
に見立てたスケッチ画 (1841年頃) が残っている。 苦しい世帯の
やりくりの中で、ミンナは、もてなし上手の主婦であったばかりで
なく、わがまま放題の夫に対しては、意外にも包容力のある、
母性としての一面をそなえた、良き伴侶だったのである。 (*1




 [よく聴いてちょうだいね。 あなたがローエングリン伝説に
初めて触れたとき、どんなに驚いたか、自分で覚えてる?
私には想像がつくわ。]

 「そんな昔のこと、覚えておらん…。」

 [“決して私の名、氏、素性を尋ねてはならぬ”。 この
一方的な宣告を読んだときの衝撃よ。]

 「私自身には関係ない。」

 [もしあなたが訊かれたとしたら、少なくとも父親に関しては
決して答えたくなかったはずよ。 私にも、ほかの初対面の人
にもね。 もちろん、伝説とは別の意味でよ。]




 ローエングリンが、わが身に流れる血は純潔で高貴である
というとき、そこにワーグナー自身の切なる夢を語っているの
ではなかろうか。 (*3




 [エルザは禁を犯し、すべてを失った。 私は出来るだけ尋ね
ないように努め、賢い妻であろうとしたけど、駄目だった。 結果
として、やはり同じ思いをすることになったのよ。]

 「ミンナ…。」

 [母親の愛憮の記憶が無いんですって? あなたは10人兄妹
の9番目よね。 わずかな残りも、6歳のときに亡くなった継父が
持っていってしまった。 “継父が憎い、甘えさせない母親が憎い、
女性が憎い、特に年上の!”]

 「もう止めてくれ…。」



 [そうね、あなたはあの強靭なブリュンヒルデからも、すべてを
取り去ってしまった。 神の娘として誉れ高い女性が、行きずり
の男の手にかかる仕打ちを受けるかもしれなかった。 それも、
父ヴォータンの罰でね。 これは私が見ても惨めすぎるわよ。]

 「もういい、ミンナ…。」

 [まずは、ヴァルキューレとしての神性を剥奪されたんだわ。]




 作者は…それだけの強さを身に備えた彼女から、奪えるだけの
ものを奪い、彼女を精神的にも肉体的にも、徹底的に痛めつけて
いる。 サディズムという表現を使いたくなるほど、とことんいじめ
抜いている。

 彼女は丸裸の無一物の状態にまで突き落とされた。 神々から
授かった秘宝の知恵まで、ジークフリートに授けた彼女は、愛する
男に向かって、あなたにさしあげるのはもう何もないと嘆いている。
彼女に残されたのはジークフリートへの愛だけだったが、その愛
までむざんに裏切られた。 (*1




 [私、ブリュンヒルデの立場がよくわかるのよ。 私が失ったの
は、舞台生活と、あなたの愛だけでしょうけど。]

 「……。」

 [あ、私の舞台衣装や結婚指輪もあったわね。 みんなパリの
質屋で流れちゃったの、覚えてる? そういえば、ブリュンヒルデ
も指輪、盗られちゃうのよね、騙されたジークフリートに。 彼が
変装用に使ったのは、“隠れ頭巾” だったわ。]



 「無関係だ。 そうではなく…。」
 
 [それとも、私もモデルの一人なのかしら? だったら、どういう
つもりで、あなたはそうしたの?]




 コジマは彼の夜ごとの夢も丹念に記録しているが、その大半
は悪夢である。 彼を夜な夜な苦しめた悪夢は、深淵を孕んだ
波乱万丈の生涯の、余震や余波の類だった。 同義的に多くの
罪を重ねたことについての、当人の無意識裡の自覚の現われ
だった。 (*1)




 [晩年は悪夢に苦しんだ…? あなたも少しは変わったの?]

 「…。」



 [もういいわ、お邪魔しました…。 静かに休んでいるところに、
突然、ね。 私はこれで消えますから。]




 ミンナとの官能的な体験と、マティルデとの世俗をはなれた
詩の世界の後に、コジマのかたわらでヴァーグナーは、創作
の最後の円熟期につながる理解に満ちたおだやかな家庭を
みいだした。 そして世俗の評価の頂点に達する。 …

 しかしそれらすべてにもかかわらず、なおもヴァーグナーは
世俗の情熱から解き放たれなかった。 …

 ちょうど『パルジファル』に取りくんでいた。 第二幕の官能的
な雰囲気は遠き日の思い出によるばかりでなく、ユーディット・
ゴーティエとの新たな体験にも負っている。 (*4

 (『音楽家の恋文』 (クルト・バ―レン 著、池内 紀 訳、1996年、
西村書店) より引用。 (以後、*4 と約す)





 おお、わが愛しきユーディト! …

 聞いてください! 私のために絹地をさがしてみてくれませんか。
地が黄色のサテンで  できるかぎり淡い  花々の  バラの花
の懸華装飾がついていて、あまり大柄すぎず…。

 これもすべて、パルジファルとのよき午前のためなのです……。

                1877年   (*4




 数十枚もの便箋が布地や香水の注文でうめられている。
一方、同じ時期に成立した『パルジファル』については、
ごくごくまれにしかふれられていない。 こうした指摘も、
ヴァーグナーという人物のほぼ完全なイメージを描くのに
必要である。 (*4




 ヴァーグナはこの1877年には64歳、ユーディトは28歳でした。



 なお、この『パルジファル』の中には、有名な聖金曜日の
音楽
があります。 そこでは、自作の『タンホイザー』で用い
られた “懺悔のモティーフ” が引用されています。

 なんともはや…。 言葉がありません。