MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

河に託して

2013-12-18 00:00:00 | その他の音楽記事

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 前回の記事を書いた後、私は書庫のスコアをひっくり
返しました。 何冊も。 目的は研究ではなく、どこかに
挟み込んであるはずの “切り抜き” です。

 でも、ずいぶん昔のこと。 果たして残っているだろうか。
ちょっと調べたところ、やはり見当たりません。



 「やはり無いか…。」

 一旦諦め、数分後にもう一度、今度は丁寧にページ
を捲ったところ…。 ありました。 雑誌から切り取った、
二枚の紙が!




 内容は、交響詩『ヴルタヴァ』を巡って。

 筆者は菅野浩和。 出典の記録はありませんが、前後の
記事内容からして、『音楽の友』、1989年12月号と思われる。



 今から24年前の時代。 ベルリンの壁が崩壊したのが、同じ
年の11月9日。 ちょうどこの雑誌が発行された頃に当ります。

 当時は、まだ “チェコスロバキア社会主義共和国” という国家
体制。 国が分離し、チェコ共和国になったのが1993年です。



 そんな事情を念頭に、お読みください。





 交響詩『ヴルタヴァ』。 はて、聞いたことがありませんね。
誰が作曲した、どんな曲ですか、という質問がはねかえって
くるでしょう。

 「それは、わが国で『モルダウ』と呼ばれている曲のこと
です」…と答えますと、「それならよく知っています。 でも
どうして『モルダウ』と書かないんですか。 『ヴルタヴァ』
ってなんのことですか」と、重ねて問われるでしょう。」




 『モルダウ』はドイツ語ですから、チェコにとっては外国語
です。 チェコ語ですと『ヴルタヴァ』となるのです。 では、
どうして『モルダウ』というドイツ語が普及したのでしょうか。

 それは、この曲の作曲者スメタナが活躍していた時代は、
この国は独立国ではなくて、オーストリアの支配のもとに
ありました。 ゆえに、公用の言葉は原則として支配国の
言葉を使いますので、『モルダウ』となってしまったのです。




   



 でも、この名称で世界中に通用しているものを、いまさら
変える必要はないのではないか、という意見もあるでしょう。

 それは外側からこの国を眺めた場合の意見で、チェコの
人々にとっては、オーストリアの支配に屈していた時代に、
幾多の苦難を受け、時にはチェコ語を使うことにさえ圧迫が
加えられた時代もあったのですから、晴れて独立した今日、
チェコの川の名前をわざわざドイツ語で呼ぼうとは思わない
でしょう。




 チェコの産んだ世界的な名指揮者で、日本にも何度も来ている
ヴァーツラフ・ノイマンは、わが国のあるオーケストラに客演して
『ヴルタヴァ』を演奏したときに、次のように言ったそうです。

 「この曲の名前を、決して『モルダウ』と呼んでくれるな」と。



 うっかり日本のオーケストラ側が、言い馴れている『モルダウ』
を口にしたときの、ノイマンの悲しみと嘆きに、チェコの人たち
が独立後の今日でさえ、人名や地名のいくつかがドイツ語式
で世界に通用していることに、どんなに悲しい思いをしている
かが代弁されているようです。

 ついでながら “ドヴォルザーク” と、ドイツ語読みを頑として
改めない筋も、わが国には存在するのですから、ノイマンの
嘆きはまだ終わらないでしょう。




 さて、このヴルタヴァは、チェコを南北に貫いて流れ、
やがてプラハの市内を通り抜けたあげく、エルベ河に合流
する大河ですが、スメタナの交響詩では山の中の源流から、
やがて川幅を増して森や牧場を貫いて流れ、田舎で楽しげ
な婚礼の祝宴を祝福したり、月夜の水の精の優雅な踊りを
眺めたりしながら、古城を仰ぎ、急流で渦巻き、プラハを通り
抜けてゆくありさまを、魅力的なタッチで、生き生きと描いて
います。

 わが国では、この作品は川を描写した音楽と受け取られ
ているようですが、それも間違いではありません。




 しかしスメタナは、巧みに川をオーケストラで描写するだけを
目標として、この曲を書いたのでしょうか。 実は描写は方便
であって、彼の真意はもう少し深いところにあったようです。

 そのことを理解するためには、どうしてもこの曲を含む全六
曲の交響詩集わが祖国、全部を聞いてみないとなりません。

 全六曲のうち四曲までが、チェコの歴史を題材とする曲で、
その間に自然描写の二曲が含まれています。



 しかも歴史ものの四曲のうち、二曲『ヴィシェフラド』と『シャー
ルカ』は、中世の王朝史に題材が取られていますが、もう二曲
『ターボル』と『ブラニーク』は、チェコの民族の自立のための
戦士たちのことが扱われています。

 こうした歴史ものを一、三、五、六曲目に置き、その間の二曲
目、四曲目にチェコの風土をテーマとした『ヴルタヴァ』と『チェコ
の牧場と木立』(わが国では『ボヘミアの森と草原より』で通用)が置かれ
ています。

 こうした一連の作品集を眺めて気がつくことは、スメタナは歴史
と風土の両面から祖国を讃えようとしているということです。




 すでに記したように、スメタナの生涯は、祖国は独立国では
ありませんでした。 オーストリアの支配はある時は強く、ある
時は弱まりもしましたが、そうした体制のもとにあって、自民族
の歴史や祖国の風土を讃えることは、愛国、独立運動とつなが
る行為だったのです。

 彼が『わが祖国』を作曲したのは、1874年から79年にかけて
ですが、第一曲目の作曲中に聴覚の異常を覚え、やがて完全
に聞こえなくなってゆくという、音楽家としては致命的な悲劇の
中に、彼はこれらの交響詩を書きすすめていったのでした。




 『ヴルタヴァ』は『ヴィシェフラド』の次に置かれていますが、
『ヴィシェフラド』では、中世チェコ王国のプシェミスル朝
栄枯盛衰を語る吟遊詩人の調べが、基調になっています。
というのは時間的に、かつての独立時代のチェコの歴史を
辿ってみた音楽です。

 これに対して、二曲目の『ヴルタヴァ』は地理的に、チェコ
を山岳地帯から首都のプラハを貫流する、いわば、チェコの
動脈のような河に託して、縦に辿ってみたことになります。



 



 そして “ヴルタヴァ” に沿ってチェコを貫きながら、沿岸に田園
地帯も、月夜の水の精の幻想も、そして素朴な農民たちの生活
も織りこんで、この国土のさまざまに対する、限りない愛着と讃美
を、存分に歌いあげていきます。

 そのあげく、曲の終わりの方に、一曲目の『ヴィシェフラド』の
テーマが出てきますが、この時ヴルタヴァはヴィシェフラドの岩
山の下を流れることを暗示するほかに、言外に込められている
意義として、ヴィシェフラドに象徴されるチェコの歴史をも貫流し
て、ヴルタヴァが流れていることも感じさせます。




 スメタナは、この作品を完成してからわずか五年後には廃人
同様となり、最後は精神病院で死を迎えるという悲惨な終末で
したが、彼の運命が明から暗に転ずる時期に書かれたこれら
の作品が、表面的な描写音楽であるはずはありません。

 彼はこれら六曲を、プラハ市民に献呈したことも象徴的です。
スメタナが、いかにチェコの人々を愛していたかをうかがうこと
ができます。



 ゆえにこの作品は、プラハ市民の精神的な財産となり、今日
世界の音楽祭中でとりわけ人気の高い “プラハの春” の、開
会の日の演奏曲目は、毎年この作品に固定されているのも、
今日の同市民たちが、いかにこの音楽に愛着を持ち、誇りと
しているかが分かるようです。

 さらに、プラハの市民たちにとどまらず、チェコの人たちは
誰でも、この音楽を自分たちの象徴のように考えています。

 クラシックの音楽だからクラシック-ファンだけのものでは
なく、チェコの人々すべてが愛着を寄せているのです。

 なんとすばらしいことではありませんか。

                 (題字とカット・今枝靖固)





 以上の内容は、読点を補い、段落を細分化するなどした
上、“ヴィシェフラ” を “ヴィシェフラ” に変更したほかは
原文のとおりです。




               『わが祖国』



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