goo blog サービス終了のお知らせ 

MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

美女の素姓?

2014-08-13 00:00:00 | その他の音楽記事

08/13          美女の素姓?




          これまでの 『その他の音楽記事』


                 謎の美女 出現
                規律違反の癒し?
                  美女の素姓?
                  喪服の美女
                 暴走 Viola 集団
                  俯瞰検閲集団

 

 

 展開部で唐突に現われた、謎の美女! そのときは、素性が
まるで不明でした。 ところが再び登場したコーダでは、多少の
手がかりを残していきました。

 曲は Beethoven の第3交響曲、その第Ⅰ楽章です。

 

 下にあるのは、そのときの音源と、9小節目以降の[譜例
です。 音量大きいのでご注意ください。

 

 手がかりと思われるのは、Violin が繰り返す3つの音符
した。 これが、やがてオーボエを中心とした美しいメロディー
に、徐々に移行していくように書かれているのです。

 同じ “手がかり” は、2つの Violin パートで繰り返されます。
それは、美女が消えた後のことです。




 この3音符は、すべて半音で下がり、上がる形ですね。 これ
は何に由来するのか? 主題の中のモティーフなのでしょうか。

 しかし、それを探し求めて提示部を見ても、直接の手がかりは
ありません…。 私の目に留まったのは、次のような箇所でした。


 まずは新しい音源と、小さくて見にくい[譜例です。 後に
“塗り絵” 入りの[譜例]があるので、ここでは漠然と眺める程度
で構いません。

 ここは提示部ですから、もちろん “謎の美女” は現われません。


 


 

 次は同じ音源と、“” 付きの[譜例]です。

 まず、力強い第一主題を受けて、オーボエが優しく歌います。

                                     


 先ほどのコーダでは、3音符半音で動いていました。 しかし
ここで主流となっている3音符は、まず上へ動き、それから下がり
ます。 それに半音だけとは限らず、全音の場合もあります。

 「ここでは、まだ早い。 手がかりを残したくないのさ。」

 作曲者の、そんな声が聞えてきそうです。


 “美女” の由来を示すものが、もう一つありました。 それ
はオーボエの 優しいモティーフ” です。

 下降音階ですが、それを受けるクラリネットやフルートの
場合は音階だけでなく、跳躍する音程も含まれています。

 オーボエは絶えず他をリードする立場を与えられている
だけでなく、その扱いも特別なようです。


 さて、私たちは上行音階を作ってみましょう。 同じリズムで!
すると、次のようになります。

 [譜例]と音源は、“美女” が初めて登場した際のものです。


 



 素性を隠して、展開部で登場した “美女”…。 使われている
2つのモティーフは、いずれも上下の向きが逆になっているの
で、たとえどんなに鋭い聴き手でも、それとは見破れないように
書かれていました。

 ところが前回もお読みいただいたとおり、その後のコーダで
は、Beethoven は敢えて手がかりを残しています。 これには
どういう意図があるのでしょうか?


 「展開部で新しい主題を作ってはいけない…だと!? そんな
規則が、一体どこにあるのかね。 私が用いたのは、既存の
モティーフだけではないか! それを組み合わせて、何が悪い
のかね。」

 …ですから、Beethoven 先生。 手がかりを置くなら、最初
に美女を登場させたときにしてくださいよ。 聴き手にとって
は、そのほうが親切でしょう…?


 「お前は馬鹿じゃのう。 それでは面白みが無いではないか!
批評家どもは騒ぐに決まっておるだろう。 〔あいつは規則違反
を犯した! 形式破壊した!〕…とな。 私は、ちゃんと規則に
従っているぞ。 私ほど規則に忠実な、古典的な作曲家はおら
ぬのに…。 それが看破できぬ輩どものために、私はわざわざ
種証しをしておいたのだ。 コーダの中でな。」

 …ははぁ、なるほどね。 でも一体なぜ、そんな物議を醸すよう
なことを、敢えてなさったんですか? それじゃ、反対派に口実を
与えるだけじゃないですか!?


 「それは、私の内的必然性が要求したからなのだ。 仕方
が無いであろう。 お前は先ほど、私の意図が理解できない
…と言ったな。 なぜコーダになってから、わざわざ手がかり
を残したのか。 私の “意図” の本質は、まだまだ別の所に
あるのだ。」

 “別の所”…ですって? 第Ⅰ楽章はソナタ形式だから、
提示部、展開部、再現部、コーダで終わりでしょ?



     [音源ページ ]  [音源ページ




規律違反の癒し?

2014-08-12 00:00:00 | その他の音楽記事

08/12         規律違反の癒し?




          これまでの 『その他の音楽記事』


                 謎の美女 出現
                規律違反の癒し?
                  美女の素姓?
                  喪服の美女
                 暴走 Viola 集団
                  俯瞰検閲集団

 

 

 弦楽四重奏曲『ラズモーフスキィ』第1番のお話をしている
うちに、またもお得意の “大脱線” です。 同じ作曲者の第3
交響曲に、突如現われた美女に目移り…。

 いや美しい旋律に、心を奪われてしまったのです。 それは
ソナタ形式で書かれた第Ⅰ楽章で、展開部の後半でした。

 

 前回と同じ音源ですが、音量大きいのでご注意ください。  

 

 

 これは、[音源]の最初から【38秒】のあたりですが、提示部では
まったく聞かれない旋律なのです。 Beethoven は形式を無視し、
勝手な主題を、それも展開部のような箇所で登場させてしまった
のでしょうか?

 まず全体をリードするのはオーボエ。 表情豊かな楽器です。
作曲者は、この美しい旋律に一目惚れし、我を忘れ、道を踏み
外してしまったのでしょうか?



 

 音楽は再現部、そしてコーダへと進んでいきます。 新しい音源
は、ちょうどコーダに入ったところからです。 次の[譜例]は、その
9小節目から始まります。 長い上に、小さくて申しわけありません。

 ここでも “謎の美女” が現われます。 それは、どういう形で登場
するか? つまり、「その前にどういう音楽が聞えるか」…に注目して
お聞きください。


 



 見にくくて、本当に済みません。 でもここには、作曲者
“仕掛け”あるのです。 一度聞いただけで、もしそれに
気付いたら、Beethoven は仰天するほど喜ぶことでしょう!


 今度は、この[譜例]に “塗り絵” を施してみました。

 そして同じ音源です。



 ご覧のとおり、色を塗ったのは3つの音符です。 半音
下がり、元の音に帰る。 その点で共通しています。

 “謎の美女” にも、同じ形が何度も現われています。
これは偶然でしょうか?


 今度は、3音符長さを見てみましょう。 まず Violin で
細かい16分音符が何度も出て来ました。

 そして、問題のメロディーは分音符ですね。 その直前
には、Vn.Ⅱ分音符で2回、間に入っています。 結局
全体の流れは、16分、8分、4分…と、長い音符へ徐々に
移行していることになります。

 

 またこの後、[音源]が終わる間際ですが、「2つの Violin 
16分音符で対話している」…様子が聞かれます。

 [音源]全体は “コーダの第1部分” に当りますが、まずこの
3音符が現われ、そしてまた締めくくられているのです。

 



 前回は、この “謎の美女” が最初に現われた展開部の様子
でしたが、そこでは 16分音符や8分音符はありませんでした。
4分音符が “メロディー” の中にあっただけです。


 この3つの音符は一体何なのでしょうか? それに、なぜ
コーダでは、“メロディー” の前後にも現われたのでしょうか?


 突然オーボエに現われた、女性的な “癒しの旋律”。 もし
これが無かったら、第Ⅰ楽章の奥深さは半減するかもしれま
せん。 でもそれは、厳格な “形式の論理” に反する…。

 それを Beethoven は、一体どう考えているのでしょうか?

 



       [音源ページ ]  [音源ページ



謎の美女 出現

2014-08-11 00:00:00 | その他の音楽記事

08/11          謎の美女 出現




          これまでの 『その他の音楽記事』


                 謎の美女 出現
                規律違反の癒し?
                  美女の素姓?
                  喪服の美女
                 暴走 Viola 集団
                  俯瞰検閲集団


 

 今回は、まず音源をお聞きいただきます。 最初の音量
大きいので、ご注意ください。

 

 「音量が大きいのは当然だよ。 だってあの有名な交響曲
じゃないか! 作曲者は同じだけどね。 ところで弦楽四重奏
『ラズモーフスキィ』第1番の話は、もう終わったの?」

 いえいえ、今回もちゃんと最後に出て来ます。 しばらく、
この交響曲の話題にお付き合いください。


 それにしても、表現の幅が広いですね。 全オーケストラの
ff で始まった音楽は、緊迫の度を深め、破局を迎えて中断
します。 それを癒すかのように現われたのは、オーボエを
中心とする美しいテーマです。 木管と弦によるは、この
後もしばらく続きます。

 これをスコアで見たのが次の譜例です。 オーボエのライン
目ですね。 細かく見ていただく必要は、まったくあり
ません。 音の上下の動きだけ、ただ漠然と眺めてください。

 [同じ音源です。 ソナタ形式で書かれた第Ⅰ楽章で、
その展開部に当る部分です。



 さて、今回この部分を取り上げたのには、わけがあります。
私は先ほど “美しいテーマ” と書いてしまいましたが、果たし
てその表現が正しいかどうか…。

 なぜなら、これは第一主題でも第二主題でもないからです。
おまけ展開部の、それも後半になって初めて登場した旋律
なのです。


 新しいテーマが展開部で登場? 実はこれ、しばしば
物議を醸す場所です。 この美しいメロディーは “ソナタ
形式” の観点からは、どう位置付けられるのか? 極端
場合は、次のような記述さえ見かけます。

 「これは展開部になって現われた、第三主題なのである。
Beethoven は後に “第九” で、交響曲の形式を破壊した
とも言えるのだから、ここではソナタ形式の論理を無視し
と考えても不思議は無い。」


 事の真偽は別として、展開部は本来 “主題を登場させる”
場所ではありません。 提示部で現われた主題を、通常は
分解し、モティーフ同士を反復、多用、対立させる部分です。
単純な遊戯から、深遠な思索に至るまで、その次元は多様
で、作曲家の腕の見せ所とも言えるのが、この展開部です。

 果たして Beethoven は、その厳格な “形式の論理” を
無視してまで、女性的な “癒しの旋律” を、ここで必要と
したのでしょうか?



 

 『ラズモーフスキィ』第1番に戻りましょう。 実はそこでも
同じような事例が見られます。 やはりソナタ形式第Ⅰ
楽章で、展開部の後半です。

 演奏例の音源]は、これが Vn.Ⅰに現われる部分から
始まります。



 Beethoven がここでも登場させている、新しい “テーマ”。
以下にご覧いただく譜例は、いずれもチェロによる第一
主題、第二主題ですが、類似性は見られません。


 

 

 

 第3交響曲の完成は1804年、『ラズモーフスキィ』シリーズは
1806年に出版されており、いずれも “構成を重んじるとされる
中期” の作品です。 作曲時期は 34~36歳の年に当ります。


 「“第九” によって交響曲の形式を破壊した」…はるか以前に、
Beethoven はソナタ形式を破壊してしまっていたのでしょうか?

 たとえ、内的な必然性があったとは言え。

 



        [音源ページ ]  [音源ページ



傷を抱えて生きた巨匠

2014-01-05 00:00:00 | その他の音楽記事

01/05       傷を抱えて生きた巨匠



          これまでの 『その他の音楽記事』




 珠玉の作品で親しまれている、フリッツ・クライスラー



 名演奏家であると同時に、優れた作曲家でした。 近来で
は、“それを両立させた最後の例” と言われることもある。

 奏でる音色は、この上なく甘かったとか。 あいにく録音は
どれも古く、その美しさが充分伝わって来ません。 まことに
残念です。




 クライスラーと言えば、次のエピソードが有名ですね。

 [ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験を受けた
こともあったが、「音楽的に粗野」、「初見演奏が不得手」と
いう理由で落とされている。] wikipedia より



 これは、23~24歳の頃の話ですが、そのときの審査員
は、一体誰だったのでしょう? 知りたくもなります。

 wikipedia の英語ページ]には、次の記載内容があり
ます。 ただし、信憑性は “今一” ですが。



 "He was turned down by the concertmaster Arnold Rosé.
It is easy to understand why upon hearing a recording of
the Rosé Quartet? Rosé was sparing in his use of vibrato,
so Kreisler would not have blended well with the orchestra's
violin section."

 「クライスラー受け入れに反対したのは、コンサート-マスター
アルノルト・ロゼである。 ロゼ四重奏団の録音を聴けば、
なるほど頷けるであろう。 そのヴィブラートは控えめである。
よってクライスラーは、このオーケストラのヴァイオリン-セク
ションにはあまり溶け込めなかったであろう。」 (拙訳)



 もっとも彼が団員になっていたら、その生涯は、まったく
違ったものになっていたはずです。 今日親しまれている
幾多の名曲が、果たして生まれたかどうか。




 これより早く20歳の年、彼はオーストリア帝国の将校となって
いました。 “ヴァイオリンの神童” としての期待を振り捨てて。

 しかし家庭の事情もあったのか、翌年には軍歴を離れます。
再び演奏の世界に生きようと決心した、フリッツ…。



 自身の言葉によれば、「引きこもること8週間、私は長足の
進歩を遂げ、機敏な手の動きを取り戻した。」…そうです。

 そして再開された演奏活動…。 上記の “落第” は、その
矢先の出来事でした。




 オーディションに落ちたクライスラー。 しかし奇妙なのは、
同じヴィーン-フィルのソリストとして登場していることです。

 指揮者はハンス・リヒター。 1898年のことですから、この
“落第” と、ほぼ同じ時期に当る。



 翌1899年には、アルトゥール・ニキシュ指揮するベルリン-
フィルと共演し、名声はいよいよ高まります。 やがて二度の
大戦を経て、最後は新大陸へ。

 ソリストとしても不動の地位を築いたがゆえに、その美しい
作品の数々が、今日まで親しまれることになったのでしょう。




 しかし、彼に付き纏っていた “不運” は、一時の落第だけで
はありません。

 それは怪我との闘い。 原因は、戦争、そして交通事故です。



 肉体のどの部分に、いつ、どんな傷を負ったのか? 詳細
は確かめられませんでした。 しかし晩年の交通事故では、
視力障害や突発的な記憶喪失などの “後遺症” があったと
も書かれている。

 功成り、名を遂げた後は、窮する若手演奏家に、様々な形
で愛の手を差し伸べたと言われます。 一例は、その名器の
コレクション
(ドイツ語ページ) 。 それを惜し気も無く貸し与え、
時には寄贈したそうです。




 彼が最後に聴衆の前に姿を現わしたのは、72歳となった
1947年、カーネギー-ホールでの演奏会です。 1950年には
完全に引退してしまいました。

 1955年、80歳の誕生日を迎える頃には、ほぼ盲目となって
おり、聴覚もほとんど失っていたようです。 そして、あと数日
で87歳を迎えようという1962年の1月、ニュー-ヨークで亡くな
りました。



 しかし、「交通事故に遭い、死去した」…という[wikipedia
日本語版]の記述は、定かではありません。

 別の資料を総合すると、「老衰によって心不全が悪化し、
入院後、数日して亡くなった。」…ことになります。




 演奏例の音源]は、愛の悲しみで、ピアノは H.さん。
ある祝宴の席で演奏したものです。



 音量が小さいのは、低質の録音機器や、その位置のせい
だけではありません。 終始、弱い音で弾こうと努めたから。
小さめの音量のままお聴きいただければ幸いです。

 その場で、急に “大きくした” 箇所もありましたが。




        Wedding_148




証し人たち

2013-12-19 00:00:00 | その他の音楽記事

12/19          証し人たち



          これまでの 『その他の音楽記事』




                関連記事

               ヤン・ホラークさんを悼む
                  チェコからの声
                    色トリドリ
                 表記にも願いが
                   河に託して
                   証し人たち




    「ヴルタヴァ川は聖ヤン (ヨハネ) の急流で渦を巻く。

   そこを抜けると、川幅が広がりながらヴィシェフラド

   の傍を流れてプラハへと流れる。 そして長い流れ

   を経て、最後はラベ川 (ドイツ語名エルベ川) へと消えて

   いく。」



    これは、交響詩『ヴルタヴァ』の解説ページに
   書かれた一節です。




     「ヴルタヴァは、ヴィシェフラドに象徴される
    チェコの歴史をも貫流して流れている。」

     こちらは、菅野浩和の一文でした。

          関連記事 河に託して




 “ヤン” は、Jan Horák さんのお名前でもあります。




 「誰からもそう言われていましたが、やはり誠実な
人間だったと思います。 家族に対しても、音楽に
対しても、言葉少なかったですが、誠実でした。」

 ご家族が語る、ホラ―クさんの横顔です。



 「お酒が大好きで、食べるのが大好きなの
はチェコ人らしいところでしたが、チェコ人の
同級生にお会いしても、こうなんです。

 “ホンザ (ヤンの愛称です) はチェコ 人らしく
なくて真面目だった!”」



 愛称のほうが長い。 それに、
チェコ人は真面目じゃないって!?




 「自分には本当に厳しかったので、何十年もずっと弾いて
いる曲でも一切妥協することなく常に練習していて、本当に
文字どおり、ずっと練習している人…という印象です。」

 ……。



 「丸い風貌と、必要以上に丁寧な敬語で喋る日本語が
相まって、マスコットキャラクター的な不動の立ち位置を、
大学では得ていたように思います。」

 そうですか……。




 「“ずっと練習している” なんて…。 子供の頃、とても
じゃないけど、こんなのは真似出来ないと思っていまし
たが、大人になってみて、なおのこと、そう思います。」

 ご自身ピアニストの、ご子息のお言葉です。



 「それから、人格的にも非常に出来た人だったと思います。
僕が反抗期の頃にでも、よくレッスンをしてくれたのですが、
あの態度の生徒に対してもレッスンを淡々とこなすのは、
相当な精神力だったのではないかなと、今は思います。」



 ご家族の間で教え、教えられるのは、とても難しい
でしょうね。 近しい間柄だけに。

 「本人は、“アラブの王様の子供をお預かりしている
つもりで頑張った” と、後に語っていましたが。」

 ハハハ…。




 ホラ―クさんは、病院の一室から旅立たれました。
もちろんそこには、愛する楽器、ピアノが無い。

 しかし、どうしても弾きたかったのでしょう。 ご家族
に頼んで、楽器を病室に入れてもらったのです。



 考えた末、ご家族が用意したのは電子ピアノでした。

 もちろん、音漏れを防ぐための、最善の措置です。



 スピーカーの音量を絞って、ホラ―クさんは弾かれた
のでしょうか? それとも、ヘッド-フォンを当てて…。



 その楽器に、実は私も先日お世話になりました。
ひょんなことからですが。

 そんな偶然もあった。





 最後にご紹介するのは、生きた証という随筆です。

         トップページは、私の書棚です。

 万一のリンク切れに備え、勝手ながら全文を転載させていただきました。





 ピアニストとして活躍し、多くのファンから愛された
ヤン・ホラーク氏が、去る1月18日、脳腫瘍のために
逝去なさいました。



 ホラーク氏は旧チェコスロヴァキア生まれ、チェコ、オストラヴァ
音楽院を経て、プラハ音楽アカデミーピアノ科をご卒業、芸術家
コンクール、ショパンコンクール、チェコ新人演奏家コンクール
などにおいて次々と優勝を果たされた後、1971年には武蔵野
音楽大学から客員教授として招かれ来日されました。

 日本国内においても、オーケストラとの協演、室内楽、ソロ-
リサイタルなど、幅広く演奏活動を繰り広げられると共に、大学
では多くの日本人学生の指導にあたり、また日本音楽コンクー
ルの審査員としても大きな功績を残されました。 母国チェコの
音楽の紹介や、バロック音楽からロマン派、そして現代音楽に
いたるまで、その幅広いレパートリィは多くの音楽ファンを魅了
してきました。



 1月23日におこなわれた葬儀には、大変な数の音楽関係者や
教え子達が参列し、生前のホラーク氏の優しいお人柄を偲びま
した。 告別式の会場には、故人ご自身が演奏されたピアノ曲
が絶え間なく流れ、在りし日のご活躍のようすがDVDの映像で
映し出されるなど、参列した者の心に深い感動を残す音楽葬と
なりました。




 私が “ピアニスト、ヤン・ホラーク” というお名前を、初めて目に
したのは、1970年代の後半頃、ホラーク氏が来日されて数年後
のことでした。 当時私は30代の終わり近く、娘は小学校の2年
生か3年生だったと思います。

 幼稚園の頃にピアノを始めた娘は、お近くにお住いの先生の
もとに、毎週楽しくお稽古に通っていました。 その頃、娘が
次々と弾けるようになっていくピアノ曲の数々は、私にとって
まさに人生の希望であり、憧れでもありました。



 ちょうど4歳で終戦を迎えた私の少女時代には、学校での音楽
の授業以外に、音楽とふれる機会は皆無で、ピアノという楽器で
さえ、学校の講堂においてあった軍艦のような古いグランドピアノ
を遠くから眺めていたにすぎませんでした。

 そんな私にとって、幼い娘のために最初に買ってあげたアップ
ライトピアノの鍵盤にふれて、聞き覚えた歌の旋律を弾いてみる
時など、美しい音色は歌の翼となって大空をかけめぐり、胸の高
なるのをおぼえたものでした。




 ある日のこと、偶々セールスマンが我が家に届けにきたピアノ
レコード全集
のパンフレットを見ているうちに、こんな名曲を是非
娘に聞かせてやりたい、もちろん私も聞きたいと、決して安価で
なかった全集を衝動的に購入することになりました。

 レコード10枚がセットになっていたその全集には、古典音楽
から現代曲まで、誰もが知っている有名なピアノ曲がたくさん
収められていました。 ピアノの演奏をなさっていたのは、どこ
かで名前を聞いたことがあったり、何かの本でお名前を拝見
したことがあった、10名の有名なピアニストの方達でしたが、
その中のお一人に、来日まだ間もなかったヤン・ホラーク氏
がおられました。



 レコード全集には、立派な解説パンフレットが添えられていて、
そこには演奏者の写真入りで、興味深いインタヴュー記事が
掲載されていました。 もう処分してしまったのか、それとも物置
のどこかに埋もれているのか、そのパンフレットの1冊の中に、
ホラーク氏が日本人の奥様と並んで写真におさまっておられた
ことが、不思議なことに今でも私の記憶に残っているのです。



 もちろん、ヤン・ホラークというお名前は、当時の私にとって、
縁もゆかりもない、自分とは別世界に住むお人のものでしか
なく、それは映画スターや各界の著名人の名前を眺めるのに
も似て、はるかな遠い存在であったことは言うまでもありませ
んでした。 自分の娘がやがてクラシック音楽の道を目指す
ことになるなどと、夢にも思っていない時代のことでした。





              この頃のホラ―クさん




 今にして思えば、人間の出会いとは、天の定めた不思議な
運命の糸に手繰られていくもののようで、実はヤン・ホラーク
先生は、娘の大学院時代の恩師でいらっしゃいました。 音
楽大学での4年間の勉強を終えて、さらに大学院への進学
を希望していた娘に、ある日、大学時代の教授がご紹介くだ
さったお方が、何とあのヤン・ホラーク氏だったのです。



 「紹介状を書きますので、何曲かを持参して、ホラーク先生を
訪ねなさい。」と言われた時には、娘も私も一瞬教授の言葉が
すーっと宙に舞いあがり、自分達の耳を疑ってしまいました。

 10数年前に、ひょんなきっかけで手にしたレコード全集のこと
や、その解説のパンフレットの中で、お写真を拝見したことの
ある憧れのお人のことが、ぱあっと脳裏をかけめぐり、私は胸
がどきどきするばかりでした。



 大学入学の頃までは、娘が新しい先生のもとへうかがう
たびに、必ず一緒に付き添ってご挨拶をするようにしてきた
私も、さすがに大学卒業後まで親が顔を出しては過保護す
ぎると遠慮し、ホラーク先生のお宅には、娘一人で行かせる
ことにしました。 外国のお方に娘を託すことになった私達
両親の気持を、どうしたら一番綺麗に伝えることが出来るか
と、さんざん心を砕いた末に、私は両手いっぱいの黄色い
バラの花束を持って行かせることに決めました。

 何かのご縁があって、すばらしいピアニストの先生にご指導
をいただくことになった娘のことを案じて、はらはらどきどきし
ながら帰宅を待っていた私達は、先生がバラの花束の贈り物
を大喜びしてくださったという娘の報告を聞いて、それまでの
心配が跡かたもなく消えていくのを感じました。



 大学院での2年間は、遠くから祈るような気持で娘を見守る
ばかりで、私がホラーク先生と言葉を交わしたことは一度も
ありませんでした。 大学院の卒業式の日、娘から紹介され
て深々とお辞儀をした私に、先生はその1週間ほど前に私が
書き送った英文の御礼状のことを、「Beautiful English」だった
と、英語と日本語を織り交ぜながら、にこやかにおっしゃいま
した。

 後にも先にも、私がピアニスト、ヤン・ホラーク氏と言葉を交わ
したのは、その一瞬だけのことで、とてもノーブルなお顔立ちで
あったことと、綺麗な目をしたお方だったということを記憶に残し
ているばかりです。




 葬儀の日に、会場に流れていたDVDの映像は、ホラーク先生
が緊急手術を前にして、最後のお仕事として舞台に立たれた
チャリティコンサートの日の記録でした。 ご子息と共にピアノ
演奏をされたこの日のコンサートは、カンボジアの子供達に
学校を寄贈するためのチャリティコンサート
で、舞台のそで
には万一に備えて主治医が待機しておられました。

 すでに脳腫瘍のために、先生はピアノの鍵盤が二重にも三重
にも見えるほどの状態であられたにもかかわらず、最後の一音
まで一糸乱れぬ完璧な演奏を為し遂げられました。 最後のコン
サートを無事に演奏し終えられた先生は、その足で入院、そして
緊急手術となりました。



 葬儀の日に、このコンサートの一部始終をうかがい、DVDの
映像を拝見した教え子達は、誰もが感動で言葉を失いました。
演奏家として、最後まで真摯な姿勢を貫かれた先生の生きざま
をお手本にして、そのご遺志を継いで生きていくことこそ、何よ
りの供養になると、みんなで心に誓いあいました。

 帰路の電車の中では、ユーモアにあふれ、茶目っけたっぷり
だった先生の思い出話が後を絶たず、教え子達は、あんなこと
があった、こんなこともあったと、お腹をかかえて笑いころげ、
笑いながらいつしか涙が頬を流れ落ちて、誰もがハンカチに
顔をうずめてしまいました。




 葬儀の翌日、ピアノのレッスンのために我が家にやってきた娘
が、食事中に懐かしい先生の思い出話を聞かせてくれました。



 「ホラーク先生って、すごく上手な生徒にも、それほどでもない
生徒にも、本当に分けへだてなく温かい言葉を忘れない先生だ
ったの。 あれは大学院に進級して何度目かの試験の時だった
かしら…もう死ぬほど猛練習して、それなりに自信を持って演奏
に臨んだのに、ちょっとしたところで失敗した私は、それがどんな
些細なミスであったとしても、自分で自分が許せなくて、舞台を
おりてから号泣しちゃったのよね。 そうしたらホラーク先生が、

 『ゆかさん、どうして泣きますか? 綺麗なところ、いっぱい
いっぱいありました。 よい演奏でした。 泣くこといりません。』

って慰めてくださって・・・先生の片言の日本語が、とっても
懐かしい!



 ポワティエの夏季大学に参加するために、私がフランスに
行くって言った時にも、指導をうける先方の先生について、
細々と教えてくださったり、どんな曲を持っていったらよいか、
どんな準備をして行ったらよいか、親身にアドヴァイスして
くださったし・・・

 そうそう、結婚してから後、まだ子供が生まれないうち
にって、ソロリサイタルを開いたでしょう? あの時も、
演奏するラベルやドビュッシーの曲を、それはそれは
丹念に見ていただいたの・・・



 ふりかえると、感情的になるとか、言葉を荒げるよう
なことが一度もない先生でいらっしゃったわ・・・。」




 思い出を語りながら、時折言葉に詰まって涙ぐんで
いた娘が、やがて真顔になってきっぱりと言いました。




 「夏のゆめ会コンサートには、ホラーク先生に特訓していただ
いたことのある思い出の曲の中から選曲することに決めたの。
先生への追悼をこめて、一生懸命に弾こうと思う。 先生はもう
この世にいらっしゃらないけれど、楽譜を開けば、そこには先生
のご注意が全部書きこんであるんだもの・・・先生の言葉に耳
を傾けて、精一杯真摯に演奏することが、私に出来る一番の
供養よね。



 きっと先生はもっともっとピアノをお弾きになりたかったと思う
し、もっともっと私達に教えてくださりたかったに違いないのに
……どんなに無念でいらっしゃったか、それを思うと胸が苦しく
って……私が今こうして健康に恵まれ、弾こうと思えばいくらで
も弾けることに感謝しなければいけないのよね。



 最後の舞台となったチャリティコンサートでの演奏を聴いて、
“音楽と共に生きる” ってどういうことなのか、よくわかった気
がしたの。 先生は、演奏家として何を目指して生きていこう
となさっていたのか、そして音楽を教えてきた多くの弟子達
に、どんなことを言い残しておきたかったのか、その深い心
を感じることが出来たような気がするの・・・。」




 娘の話を聞いていて、私は深く心をうたれました。 恩師の
死を通して、人生の真髄の一端にふれることになった娘の
言葉は、もう若くない私にも、今一度襟を正して人生を考え
させる力を持っていました。

 神様は私達一人一人の身の丈に応じた何かを必ず授けて
くださっていること、そして人生の限られた時間を生きるあいだ
に、それぞれが必ず何かの “生きた証” をこの地に残していく
ことが出来るように、多くの機会を用意してくださっていること
を、あらためて心に刻みました。

 私達は往々にして、何かを成し遂げることにエネルギー
を傾けるよりも、何かをすることが出来なかった言い訳を
探すことに、一生懸命エネルギーを費やしてしまいますが、
言い訳だけに終わるには、人生はあまりにも魅力にあふれ、
“いつかそのうちに” と悠長なことを言うには、私達に与え
られている人生の時間が短かすぎます。




 「ひさしぶりに会った同級生達は、誰もが母親として一番忙しい
時代を生きていて、演奏が出来ない言い訳を数え始めればきりが
ないの。 結婚して家庭を築いた以上、家族の誰か一人を生かす
ために、他の家族が犠牲になることは許されないことでしょう?

 それでも、家族の協力を得ながら、何とか音楽と共に生きて
いこうねって、あらためて誓いあったのよ。 弾けない言い訳を
探すエネルギーがあるなら、それをすべて弾くエネルギーに
変えていこうって…その決意を先生の霊前で誓い合ったの。」

と、娘は爽やかな笑顔で言い切りました。




 この世に残していく “生きた証” とは、名誉でも、財産でも、
人との競争でもなく、もっと謙虚でもっとつつましく、人生の
一瞬一瞬を、ひたすら誠実に生きる姿勢なのだと思いました。

 ヤン・ホラーク氏の “生きた証” とは、世界的なコンクールで
優勝をなさったことや、多くのレコードやCDを残されたこと、
さまざまな音楽活動を通して、日本の音楽界に築かれたその
不動の地位などとは別に、神様から与えられたその音楽の
天分を、世界の多くの人々に還元していこうとなさった、高邁
な理念にあったことを理解することが出来ました。




 “生きた証” を残すために、神様が私にお与えに
なったものは何だったのでしょうか。 私の身の丈
にあった贈り物とは何だったのでしょうか。



 夫の死から10年、それまで手紙や葉書を書く以外にペン
持つことのなかった私が、唯ひたすら彼の思い出を書き続け
てきたのは、彼が生きた証を書き残してあげたい一心からで
した。 書いても書いても、まだ書き残したことがあるような気
がして、こんなに長い年月、ペンを捨てることが出来なかった
私は、一生懸命に彼の生きた足跡を書き記しながら、実は
そのことが、私自身の生きてきた10年をも書き残している
ことに気づいていませんでした。

 神様が私にくださったもの、それは書くということであったの
かもしれません。 一人の男性の妻であった私、二人の子供
達を育てた母親の私、そして今では4人の可愛い孫達の祖母
である以外に、社会的に何か特別のことを成し遂げたわけで
もない平凡な人生の中で、愛情のすべてを傾けて守り続けて
きた家族のことを書き残すことだけが、ひょっとすると、私の
身の丈にあう “生きた証” になるような気がしています。



 人生とは不思議なご縁の綾が織りなす舞台にも似て、最後
の幕がおりる瞬間まで、そこで何を演じるのか、観客に何を
伝えるのか、人さまざまの “生きた証” は、まさにそれ自身
が芸術なのだと思いました。