MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

意に介さない天才

2013-10-10 00:00:00 | その他の音楽記事

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 23歳のヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナは、4歳年上の
ヴィルヘルミーネ (ミンナ) と結婚しました。

 場所はケーニヒスベルク郊外の小さな教会。 彼は当地の
劇場の音楽監督に就任していました。



 二人の結婚生活は不幸に終わります。 特にミンナにとって。

 それは、避けられなかったのでしょうか。 またミンナとは、
どのような女性だったのでしょうか?



 以下は、何度かご紹介した『ワーグナーの世界』 (オードリー・
ウィリアムソン 著、中矢 一義 訳、1976年、東京創元社) (以後、*1
約す)
からの引用です。




 1834年、マグデブルク劇場の音楽監督として契約したワーグ
ナーは、その劇場の美人女優ミンナ・プラナーと激しい恋に落ち
て、1836年11月24日彼女と結婚したのである。

 家庭という点からみれば、ふたりともこの結婚を維持すべく長い
間努力を重ね、過労と経済的に追いつめられていたワーグナー
にとっていくらか報いられるところがあったけれども、知性という
点からすれば、ちぐはぐな悲惨な結び付きだった。

 ワーグナーの硬いコンクリートを思わせる本質的エゴイズムと
芸術的な誠実さだけが、おそらく彼を安易な成功にひざを屈する
ことから救ったのである。

 借金はかさむうえに、ミンナからは、もはや大衆の要求に迎合
した初期の “通俗的な” スタイルによるオペラを書くことができな
い理由をまったく理解してもらえなかったにもかかわらず。 (*1




 二人の間のやり取り。 それは今となっては不明ですが、
辛うじて残っているのが、作曲家自身が書いた手紙です。

 ここではそのうち、ミンナに宛てたものの一部を見てみたい
と思います。



 なおミンナが作曲家に宛てたものは、今日では残っている
ものは皆無に近いでしょう。 作曲家の死を看取ったコジマ
の手で、取捨選択の上、処分されて。

 以下は、『音楽家の恋文』 (クルト・バ―レン 著、池内 紀 訳、
1996年、西村書店) (以後、*2 と約す)
からの引用です。




 「君は、人生はぼくに捧げたいが、しかし劇場での経歴は
捧げるつもりはなく、それがぼくたちを分け隔てる前に、ぼく
がそれを踏みにじっている、というわけだ。 誓っていうが、
ミンナ、ぼくは君の舞台生活など少しも意に介していないし、
そんなもののために二人の愛を犠牲にする前に、即座に君
を劇場から完全に奪いとり、その場で600ターラーの月給
つきで君と結婚する。」

 1835年11月7日、マグデブルク (*2




 「もう決して邪悪な猜疑、邪悪ないさかいを、ぼくの口から
聞くことはあるまい。 ぼくは生涯、君の騎士となり、保護者
となろう。」

 1835年11月11日 (*2




 「夏の終わりにケーニヒスベルクへいき、君と急いで結婚し、
それから一年以内に、一緒にベルリンへもどる。 おそらく君
はそのとき劇場にかかわる必要はまったくないだろうと思う。
そのときまでに作品もいくらかできているはずだから。」

 1836年5月24日、ベルリン (*2




 「名誉、名声、黄金、絢爛たる美がぼくに手招きしてくれます
ように。 … 君は知っているに違いないが、ぼくほど愛した者
は誰もいない
のだから。 君ほど愛された者も誰もいない!!」

 1836年5月27日、ベルリン (*2

 (下線は、原文にあるものです。)




 「おお今、この今、君をかたわらにおき、君を感じ、君の
眼差しのなかに身を沈め、君のいとしい身体と婚礼をあげ、
ぼくの苦しみすべてを甘美なる抱擁の中で溶かすのだ!」

 1836年6月1日、ベルリン (*2




 権力、影響力、支配へのかぎりない望みが彼を揺さぶって
いたが、そのための道を彼はまだ知らなかった。 しかしそう
した力を夢みて、手にする前からすでにそれを感じていたの
である。

 その道をみつけ、切りひらくためなら、何はばかるところ
なかった。 もらえるところから金をもらい、それを返さねば
ならないとは考えなかった。 まさに生きのびて、決断の日
のために力を蓄えたいと思っていた。 ミンナという女性を
強引に腕に抱きしめ、自分のなかで彼女の情熱の炎を燃え
あがらせようとした。 その情熱で、彼はいつの日か、燃え
上がるような音楽 (*) を書くことになる。

 すべてが彼には結局のところ唯一の目的、すなわち作品
のための手段にすぎなかった。 目的は手段を正当化する
だろうか? ふつうの道徳観念はこの問いをきっぱりと否定
する。 しかしヴァーグナ―はふつうの人間ではない。 彼
は天才であり、とてつもない任務をはたさねばならないので
ある。 彼がすべてを唯一の目的に従属させるとき、それも
無意識にやっているのだとすれば、彼を非難することができ
るだろうか。 (*2



 (*) 『タンホイザー』、『ヴァルキューレ』など、激しい情愛
を描いた作品を指しているのでしょう。 おっと、後者は別
の女性が関連したか?

 なお、この著者は男性です。




 その年の秋、二人は結婚式を挙げました。 しかしミンナは、
僅か半年でヴァーグナの下を去ります。 幼い娘と共に…。

 彼女には不幸な過去がありました。 15歳のとき、怪しげ
な男に誘惑されて…。 その娘をミンナは、表向きは “妹”
と呼んでいました。 自身の死のときまで。



 さてヴァーグナは、ミンナの行く先を調べ上げ、ドレスデン
の両親の家にいることを突き止めると、次のような手紙を
送ります。




 「わが善良なる愛する、愛するミンナ! 君はぼくの妻と
なり、そしてぼくから逃げ去った!」

 「ミンナ、君のもとにもどる前に、まだ、このうえなく真剣に
いうべきことばがある。 君がぼくの妻となったのは、ぼくが
生涯で最高に不幸な状態にあったときだった。 君はぼくと
ともに不幸と困窮を背負いこんでしまった。 それが君の素敵
で素晴らしいところだった。 君は、ぼくの残酷な態度を非難
しているわけだが、残念ながら君にはその権利がある。 …」

 「もう一度ぼくを信頼し愛する事ができるかどうか、自分の
心と相談してほしい。 もしできぬのなら、明日の朝ぼくが君
を訪ねたとき、ぼくを突き出してくれ。」

 1837年6月20日、ベルリン (*2




 ヴァーグナは、7月にリガの劇場と契約しました。

 1837年10月、ミンナは舞台生活から引退します。
二人は、もう一度一緒に暮らし始めました。




 秋、夫妻はリガへ移り、リヒアルトは二年間その地の劇場
の音楽監督にとどまって、… この過重な分量の仕事も、彼
が第三作目のオペラ『リエンツィ』に着手する妨げにはならな
かった。 … 劇場での務めによって強いられる、作曲とは無
関係な仕事、増大する借金の重荷、それにすでに彼の結婚
生活に伴っていたところの、彼がのちに述べた言葉でいえば、
“家庭的苦難の数々” とに苦しめられていたので、彼はこの
歴史小説への逃避の中に唯一の心の安らぎを見出したの
だった。 …

 1839年、ワーグナーがリガを去らねばならなくなったの
は、ほかでもない、被債権者としての立場が危険なもの
になったからだった。 妻のほかにセント・バーナード犬
のロバ―というやっかいなものまで引き連れてロンドン
経由でパリへ行くつもりで…。 (*1




 債権者の監視が厳しかったので、夫妻は “変装までした”。
また犬は、彼にとって終生お気に入りの動物でした。




 なお、ミンナの人柄に触れて、渡辺護氏は次のように記して
います。



 ミンナはワーグナーを愛していたのだろうか?

 暖かい心をもったこの理知的な女性は、何よりもこの貧乏な
音楽家の、不安な生活に同情した。 そして、この年下の男の
はげしい、官能的な愛をうけ入れたのであろう。

 しかし、この異常な天才の心の奥にひそむ、真の苦悩と不安
を救済することはできなかったのである。

 (『リヒャルト・ワーグナーの芸術』 新版 (渡辺 護 著、1987年、
音楽之友社)
より)




 さて、彼の舞台作品を年代別に大きく分けると、前半期
には次のような作品が見られます。



 (1) 『妖精』、『恋愛禁制』、『リエンツィ』。

 (2) 『オランダ人』、『タンホイザー』、『ローエングリン』。



 ちょうどミンナと知り合った頃 (1834年) に始まり、
ドレスデン蜂起事件で逃亡、別離を余儀なくされる
(1848年) までの時期に当ります。




 さて、リヒャルトの父親問題が、要因の一つとなって生まれた
作品…。

 私は前回そう書いたのですが、今回は触れていませんね…。