10/12 天才の道具
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すべてが彼には結局のところ唯一の目的、すなわち作品
のための手段にすぎなかった。 目的は手段を正当化する
だろうか? ふつうの道徳観念はこの問いをきっぱりと否定
する。 しかしヴァーグナーはふつうの人間ではない。 (*1)
(『音楽家の恋文』 (クルト・バ―レン 著、池内 紀 訳、1996年、
西村書店) より引用。 (以後、*1 と約す)
「音楽家の恋文…? 何だ、これは!? そんな書物が
刊行されておるのか。」
「ふつうの人間ではない…だと? 吾輩が異常な人間
で、“非道徳的” だとでも言うのか…。」
彼は天才であり、とてつもない任務をはたさねばならない
のである。 彼がすべてを唯一の目的に従属させるとき、
それも無意識にやっているのだとすれば、彼を非難する
ことができるだろうか。 (*1)
「そのとおりである。 我が生涯の任務は、音楽を巡る
諸芸術の全体的革命だ。 歌劇、楽劇などという名称は、
吾輩が目指す包括的芸術を表わすには足らん。」
「それを思えば、金持ちが吾輩に出資するのは当然の
ことであろうが。 “貸す” などというケチな根性にしがみ
付いているようでは、我が称賛を得られぬぞ。」
「しかしこの書物。 我が書簡をよくも集めたものだ。 それ
だけではない。 著者のやつまで勝手なことを書きおって…。」
ヴァーグナーは一人の人間、それも若く魅力的な女性が、
かたく内に秘めた、音楽的想念を察知し、理解してくれるの
をはじめて知った。
…1857年のチューリヒ … 登場人物は今や45歳になった
音楽家と、若く才気あふれる美しい女性、非常に気高い心の
もち主で演劇に深い理解を示すオットー・ヴェーゼンドンク、
そしてミンナの四人である。
彼女は自分よりも若く美しく、幸福な “ライヴァル” をただ
みつめ、彼女が自分の “所有物” と思いこんでいた男性を
めぐる、絶望的な闘いをはじめるしかなかった。 (*1)
「ああ、マティルデ…!」
〔なに、読んでるのよ、リヒャルト。〕
「……おお! ヴィルヘルミーネ!! そんな所にいたのか…。」
〔閉じなくてもいいのよ、その本。 ちゃんと聞えたんだから。
“音楽的想念を察知、理解してくれるのをはじめて知った”…。〕
「そ、それは、お前のことだよ。」
〔嘘おっしゃい。 ああ、マティルデ…って叫んだじゃない!
人を騙すのもいい加減になさい。〕
「……。」
〔その本、こっちへ寄こしなさい! …なになに?〕
1854年に彼が『ヴァルキューレ』を作曲し始めたとき、
彼はスコアの一カ所に以下の文字を書き入れている。
“G・S・M” - マティルデに祝福あれ - である。 (*1)
「それは勝手な解釈で、我が心情を正しく伝えては
おらぬ。 Mは、ほら、お前のことだよ、ミンナ。」
〔もうたくさんよ………!〕
「…それなら、こっちの本を見てごらん。 お前に
好意的なことが書いてあるぞ。」
ワーグナーの死後現われた多くの伝記は、この楽匠をあまり
に英雄視するために、ミンナの不幸な立場に、充分の理解と
同情を示していない。
年上で、病身であった彼女は、猜疑と嫉妬に身だしなみを
忘れ、ワーグナーの天才を充分に理解しなかったが、彼女の
堪えねばならぬ苦労は、並大抵のものではなかった。 若い
時から自分の誇大な計画を実現しようとして、大金を使って
は借金に苦しんだ…
…彼の気性は移りやすく、また極端に走り、好悪の変化も
早かった。 内気で静かなミンナの性格とは、正反対だった
のである。 (*2)
(『リヒャルト・ワーグナーの芸術』 新版 (渡辺 護 著、1987年、
音楽之友社) (以後、*2 と約す)
〔本当に? 私のこと、そう書いてあるの?〕
「この侮露愚の読者も、みんな信じてしまうな…。」
〔…で、その先は何て書いてあるの?〕
ミンナより前にも、ワーグナーに二、三の恋愛体験はあった。
初恋は1826年、13歳のときで…。 青年時代の、このほかの
女性とのたわむれは述べる必要もない。
ミンナとの愛も、大きな苦悩なしに結ばれてしまい、創作とは
あまり関係がない。 その後も彼は創作の問題について彼女
と語ることがほとんどなかった。 (*2)
〔まあ! 創作とはあまり関係がない…ですって……。〕
「…いや、その、“無関係の関係” というやつだよ。」
〔私も、“作品のための手段” にすぎなかったのね。 でも、
創作とは無関係の存在…だなんて…。 ひどいわ。 あんな
に強引に付き纏われ、こっちは舞台生活を諦め、貧乏暮らし
に堪え、夜逃げまで一緒にしたっていうのに!〕
「……。」
〔やっと『リエンツィ』が成功した夜のこと、覚えてる? あなた
のベッドに月桂樹の葉まで敷いて、私、心からお祝いしたのよ。
でも、あなたはまったく気付いてくれなかった…。 (*1)〕
「成功は、私の作品を大衆が正しく理解したからではない。」
〔ドレスデン蜂起でお尋ね者になったときだって、私ヴァイマル
まで追いかけて行ったのよ。 ほら、リスト先生のところに隠れ
てたでしょ? あのときだって、私を邪魔者扱いして、一人だけ
でチューリヒへ逃げてしまった…。 (*1)〕
「二人では目に着きやすいからだと説明したろう。」
〔いいじゃないの、スイスなんだから。 私、泣きながらリスト
先生のお世話になったのよ。 (*1)〕
「…。」
〔やっとチューリヒで一緒になれたと思ったら、そこには
あのM.がいて…。 私はただ、幸せそうな “お二人” を
見せつけられるだけ…。 心臓は悪化し、神経をやられ、
泣きながらミュンヘンへ逃げ帰るしかなかった!〕
「以後、月々の仕送りは、ほとんど遅れずに…。」
〔…“ぼくは君の騎士、保護者となろう” (*1)…
なんて、よくも言えたものよ…。〕
「それは結婚前の話だ…。」
〔私は、一体、あなたの何だったの?〕