瑠璃光寺の紅葉
曹洞宗。山号は保寧山。
守護大名・大内氏の家臣・陶(すえ)弘房は主君・大内政弘と共に応仁の乱で戦い、応仁2年(1468年)京都・相国寺で戦死。夫人の仁保氏が文明3年(1471年)に吉敷(よしき)郡仁保庄に安養寺を建立した。後、寺領が狭いため隣山に寺を建て、弘房の持仏・薬師如来を移し、安養寺を廃して保寧山瑠璃光寺と号した。
萩 焼
萩焼(はぎやき)は山口県萩市一帯で焼かれる陶器。一部長門市・山口市にも窯元が ある。長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれる。 古くから「一楽 二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物である。
紙すき
【水に解かれた繊維をシート状にする作業です。乾いたものが紙です。】 木枠にスノコを取り付けた簀桁で舟水をすくいます。 前後左右に揺り動かしながら水をろ過します。
津和野には紙すき場がいくつかあります。国土交通省の一級河川水質調査で全国一の水質と認定された清流、高津川の恩恵でしょう。紙作りに水は欠かせません。かつて、石州和紙と呼ばれるこの地方の和紙は津和野藩の大きな財源であったようです。現在も伝統工芸として残っています。
地頭職吉見氏の着任と津和野城の完成
弘 安5(1282) 年、元寇警備のため能登から石見に入部した地頭職吉見頼行は着任後、津和野城の築城にかかり、正中(1324)年、二代頼直の代に約30年の月日をかけて 本格的な山城を完成させた。その後、吉見氏は大内氏家老としてその傘下に入るが、主家の大内義隆が家来の陶晴賢に討たれてしまう。10代吉見正頼は、弘治3(1557)年に毛利元就と計り、陶晴賢を滅ぼし、以来、吉見氏は代々毛利氏の部将として西石見二郡、長門阿武郡を所領する。吉見氏時代の末期、津和野は中世の市場的集落から近世の城下町形成へと進みつつあった。
殿町の掘割
古い歴史をもつ城下町・津和野。その中でも殿町通りなどは最も古いたたずまいを残しています。津和野カトリック教会、藩校養老館跡、郡役所跡など史跡が集中しており、郷土料理の店や土産店なども多いエリアです。
また、土塀に面した通りの掘割には大小様々の鯉がこの付近だけで700匹余り放流され、訪れる人の目を楽しませてくれます。夜にはライトアップが施れ、夜の景観も美しい。6月上旬~中旬には約3,000本もの花菖蒲を観賞できます。
瑠璃光寺の五重塔
五重塔. 国宝。大内文化の最高傑作といわれる。室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の 建立。屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺の ものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。