雨、19度、84%
久しぶりに2冊続けて日本の本を読みました。日本の現存の小説家、作家の中で唯一初期の作品から読み続けていたのは堀江敏幸でした。4、5年前、なぜかこの作家の視線が女性的に感じて以来、ぴったりと新刊を求めなくなりました。丁度、女性雑誌などの連載の仕事が目に付くようになってからのことです。先日、新聞の書評に新刊「坂を見上げて」が載っていました。本屋に寄ったついでに手にとってみました。
フランス文学専攻の堀江敏幸ですが、初期の作品からして目線は常に日本的です。感覚の細やかさ、表現の優しさ、もしかしたら、私が知り得てないフランスの香りをまとっているのかもしれません。携帯が出てくる小説、言葉が乱れた小説はどんなにベストセラーになっても読みません。せっかく自分の目を通して読む本です、自分の時間を使う本ですから、好きなものだけで十分です。主人は私の本読みを評して、「役に立たない。」とおっしゃいます。もう一言、「身に付かない。」そうです。確かにその通り、作者と題名ぐらいは覚えていますが、主人公に至っては名前は全て覚えていません。そんな本読みが本を買うのを黙って横で見ている人はさぞ辛いでしょう。堀江敏幸の書くものは、澱がない、沈殿物がないさらったした感覚です。その上私が読みますから、読後しばらくすると、体の中から抜け出てしまいます。読んでいるその時が至福の感覚をもたらす時です。
「坂を見上げて」の前に買ったのは、柏木博「視覚の生命力」です。 この柏木博はデザイン批評、デザイン史の本をよく出しています。数冊過去に読んでいますが、本棚を探しても見つからない。どうも香港で全部始末してしまったようです。「視覚の生命力」は「視覚」つまり目で得られるものを時代的に追い、文学から室内デザインに至る幅広い範囲に及びます。画家の金子國義に始まり、6畳ひと間で最期を迎えた正岡子規、バウハウスの写真、デジタルカメラに至るまでのカメラ史、ウィリアムモリスの書物の書体、最後がつげ義春の漫画の世界です。この乱雑な項目の選択に不思議なものを感じます。私が物心ついて興味深く読んできたものがそこかしこに散らばっています。最近そんなことが日本ばかりか海外の本を読んでいてもよくあります。内容を確かめて買うわけではありません。歳を重ねた本読みはこうした興味の集堆積を経験していると思います。「視覚の生命力」自分の目線を確認すべき面白い本でした。
このすぐ後に読み始めた「坂を見上げて」、ここでまた正岡子規が出てきます。正岡子規の視線ではなく、正岡子規に送られた贈り物のことでした。子規の歌よりも人となりに興味があって、寺田寅彦や漱石を絡めながら伝記を読んだのは高校の頃でした。以来事あるごとに子規のことを読み続けています。全くジャンルの違う作者の本の中でこうして同じ人を題材に取り上げている、私の興味の先を読まれているかのようです。「坂を見上げて」は読後、坂の上を見上げている自分を想像しながらすっと風が吹くように留まらずに読めた本でした。
堀江敏幸の本は、背表紙がデビュー作の「おばらばん」を除いて白です。これはフランスの本に因んでいると聞きました。どの本もいい装丁です。
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