ああ、悪口が止まらない・・・。
微笑んでいる地蔵にも、ますます可笑しくなっていく父にも、
父から訳もなく責め立てられ、怒ることさえ忘れ戸惑うかずこに対し、
私までもが苛立ち、きつく当たるようになっていった。
ダメだ。
違うんだ。
心では止めようとしても、
「どうして、お皿がこんな所にあるの?
父さん、だから母さんにやらせるなって言ってんの。
あんた、病気でもないのに、どうして病気のかずこさんを使うの?
そんなことしてて、恥ずかしいと思わないの?
ああ、もうっ!
かずこさんは触らないで。
何も触らないで!
あっちいっててよ!!」
と叫んでいた。
叫びながら、
母を担当するケアマネージャーに言った自分の言葉が脳内に響く。
『私は、母の笑顔を守りたいです。』
そのはずが、今かずこは私に怒鳴られ、しょんぼりと自室へ歩いていく。
「あっ・・・」
はっと我に返り自分に言い聞かせる。
違う。 こんなんじゃダメ。
気を取り直そうと息を深く吸うと、
悪臭はますます体内に染みこんで来る。
部屋の中は、荒れ放題だ。
床には、かずこの食べこぼしたカスが無数に転がっている。
拾わないと。
掃除しなきゃ。
動こうとしても、どこから手を付けたらいいか分からないほど荒んだ部屋を見て
途方に暮れた。
かずこのとこ行って、笑わせないと・・・。
「かーずこさん?ごめんね。」
「わしよぉ」
「うん?」
「あのクソじじぃ、こらしめたるでな。いっひっひっひ。」
困ったような、ハの字まゆ毛のまま、笑うかずこに、
「あははは、笑った。かずこさんが笑ったぁ。」
と言ったら、涙がこぼれた。
この頃、私も父のように、まったく眠れなくなっていた。
まともな食事も摂った記憶がない。
体のあちこちに湿疹ができ、肌荒れも酷い。
怒りや苛立ち、焦燥感で疲れ果てているくせに、
血液は怒り狂ったように沸騰している。
そういえば、一年前、見ず知らずの老人が枕元に現れたことがあった。
あれはきっと、かずこのお祖父さんだ。
老人は、いろんな話を聞かせてくれたはずだが、
覚えているのは1つだけだった。
『いいか、稲川さん(父)の因縁と向き合ってはいかんぞ。
おまえの手には負えるものじゃない。
お前の命が取られる。』
1年前は、あの老人の言葉の意味が分からなかった。
けれど、今なら、
「こういうことか…。」
悪霊は、何もない所に忍び込んでは来られない。
人の憎悪や苦しみを見つけた時、その傷口に入り込み、共鳴し悪霊となる。
憎悪や苦しみが深ければ深いほど、巣食いやすい。
「あたし、もしかして、
父さんに憑いたヤバい何某かと共鳴している?』
だったら、これ以上アイツと向き合ってはダメだ。
自分の心と向き合わなければ。
それ以来、意識すればするほど、
自分の狂気と正気が交錯し、
凄まじいストレスで頻繁な動悸で立てなくなるほどの眩暈に襲われる。
「あぁ…あたし、死ぬかも。」
そんな最中、実家で唯一まともだったのは、かずこだった。
現状を説明したって、理解など出来ない認知症患者が、
「おまえ、えらい顔しとるぞ。
病気やないか?わし、病院連れてったる。」
と、私を気遣い、
理不尽に怒鳴り散らす父にさえも、
酒の入ったグラスを倒せば、咄嗟に塗れた箇所を拭いてやる。
しかし、そこは認知症のおかげで、
かずこが拭き取るために手に持ったのはサランラップだった。
かずこはサランラップが液体を吸い取らないことも、
理解できないほど進行している。
サランラップで丁寧に拭き取ろうとするかずこに、
まともじゃなくなっている父は、気付かない。
まったく、まともじゃない光景だ。
しかし、幸い、私はぎりぎり気が付いた!
「優しいね、かずこさん・・・」
かずこは、いつだって、
「あんなクソじじぃ、はよ死ねばええのに」っと笑いながら言う。
死ねばいいなんて言うくせに、こんな時は咄嗟に手を差し出す。
この優しさは、なんだ?
私は、かずこの行動が、この世の中で極めて純粋なもののように感じた。
まるで、幼子か、野良猫だ。
心が鎮まって行く。
かずこだって、何から何まで介助が要るほど、
絶望的にボケているというのに。
その時、自分の体臭と悪臭が混ざり合う汚れた空気の中、
私の鼻腔の奥の悪臭が消えた。
そんなわけで、私は翌日、急いで、
「たーしゅけてー、お姉ちゃーーーん」
と、姉に泣きついてみた。
この期に及んでも、やはり他力だ。
不思議なことだが、今まで、
誰かに相談するという発想が浮かばなかったのだ。
悪臭が消え、ようやく正気に戻ったのかもしれない。
姉は、
「そんなことになってたの?もっと早く言ってくれればいいのにぃ」
と言って、すぐに動いてくれた。
そのおかげで、詳細は言えないが、 やはりラッキーなことに、
私にへばり付いていた何某かは一掃してもらえた。
そして、その翌朝、実家へ行ってみると、
荒れ果てていた部屋もベランダも、綺麗に掃除されていた。
どう考えても、父の仕業だ。
かずこでは難しい。
綺麗好きな父にしか出来ない完璧な仕事。
ほとんど寝たきりだったはずの父が、久しぶりに掃除をした。
そして、
「おぉ、淳子か。いっつも、ありがとな」
と穏やかな顔で言った。
昨日までの亡霊みたいな父とは、まるで別人で、私は逆に引いてしまった。
父に憑りつく何某かは、家系での深い因縁のあるものらしい。
それを完全に祓う事は難しいとのことだ。
今は、そいつを鎮めた状態らしいが、
かずこが長年苦しんでいた因縁というのは、おそらく、そいつだ。
だから、私はまだ気が抜けない。
けれど、父はあの数か月をすっかり忘れている様子だ。
「認知症? これこそ、本格的に認知症なのでは?」
あるいは、やっぱり悪霊に乗っ取られていたからなのか?
そう思うと、さらに、いろんな意味で気が抜けない。
現在も時々、父がアイツと戦っているように独り言を言ってる時がある。
アイツとは、悪霊であり、けれど自分の中の弱い自分でもある。
私も、今回の事で、自分の中の弱い自分を思い知った。
そして再び、あの悪臭が漂ってきた時、
それは悪霊だけのせいではなく、自分の弱さが招いたことなのだと、
肝に銘じておこうと思った次第だ。
本当に怖いのは、
見えもしない、何者かも知らない何某かなんかじゃない・・・のかもしれない。
「た~しゅけるら~」
おっと、のんちゃん、どうしたの?
のん「かかぁ・・・のん、もうだめら」
のん「笑ってる場合らないら。かかぁったら!」
「怖いのは、人間の心よ。
あんただって、いつ、あたしから目を逸らすようになるか、
分かったもんじゃないわ。
あたしはね、そういう人間を何人も見て来たのだから」