宇宙人の独り言

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特別攻撃隊員の遺書

2010年08月03日 | 日記
 これからご紹介する「特別攻撃隊員の遺書」は、8月2日の記事「日本人の民族精神の純粋性」の続きです。



―――――特別攻撃隊員の遺書―――――――



☆ ・・・・・・
 翌二十四日より、出撃待機となる。しかし敵機動部隊はいまだ発見されない。市島は、その日の日記にこう記している。

 隣りの室では酒を飲んで騒いでいるが、それも又よし。俺は死するまで静かな気持でいたい。人間は死するまで精進をしつづけるべきだ。まして大和魂を代表する我々特攻隊員である。その名に恥じない行動を、最後まで堅持したい。私は自己の人生は、人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んで来たと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と、私を囲んでいた人々の美しい愛情のおかげであった。今限りなく美しい祖国にわが清き生命を捧げ得ることに、大きな誇りと喜びを感ずる。

 この日の夕刻、市島は、「徒然なるままにれんげ摘みに出掛けたが、今は捧げる人もなし。梨の花とともに包み、僅かに思い出を偲ぶ」とも認めている。
 その後、二十五、六、七日と待機が続いたが、二十八日、ついに偵察機が敵機動部隊を捕捉し、市島の属する神風特攻隊第五昭和隊に出撃命令が下った。市島は手早く父母宛の書簡を書きとめる。

 お父さん、お母さん、二十五年間誠に有難うございました。待望の機動部隊現われ、佳き日(天長節)を明日に控えた本日午後零時零分、必死必殺の攻撃をかけます。必ず敵艦を木ッ端微塵に砕かざれば死にません。父上の教訓「初心貫徹」を最後まで実行しますゆえ御安心ください。再びは生きて踏むことなき祖国の栄えを祈る気持で、一杯です。孝行できなかったことをお許し下さい。
お父さん、お母さん、弟妹、中村さん一家、市瀬、坂野、爆死せる篠崎の写真を懐ろに入れて突入します。
 私の成功をお祈り下さい。



☆ また、二十三歳で南西諸島方面にて特攻戦死した林市造も、出撃二日前に母あての切々たる書簡を書いている。

   お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
     親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何ときくらむ(吉田松陰)
 
  この歌がしみじみと思われます。
  ほんとに私は、幸福だったです。我ままばかりとおしましたね。けれども、あれも私の甘え心だと思って許して下さいね。
 晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
 母チャンが、私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでゆくのが、つらいです。

 特攻隊員にとって何がつらいといって、特攻隊員になったことと、出撃の日を告げることほどつらいことはないという。特攻隊員になったことを告げるということは、ごくごく近い将来に確実に死ぬということを告げることであり、出撃の日を告げるということは、自分の命日を知らせることと同じであった。
 そして、そのつらい事実を最愛の母に告げた時、ほとんどの特攻隊員は生への未練をきっぱりと絶ち切ったという。
 林もこの手紙の末尾で、本心を吐露して特攻への決意を固めている。

 お母さんは、偉い人ですね。私はいつも、どうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。お母さんは、苦しいことも身にひきうけてなされます。私のとてもまねのできないところです。
 お母さんの欠点は、子供をあまりかわいがりすぎられるところですが、これをいけないと言うのは無理ですね。私はこれが、すきなのですから。
 お母さんだけは、また私の兄弟たちは、そして私の友だちは、私を知ってくれるので、私は安心して征けます。
 私は、お母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りは、いつも神様はみそなわして下さいますから。
 この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね。もうすぐ死ぬということが、何だか人ごとのように感じられます。いつでもまた、お母さんにあえる気がするのです。逢えないなんて考えると、ほんとに悲しいですから。



☆ この無私の心を鮮明に書き残した遺書がある。陸軍特攻隊第61振武隊の一員として、二十五歳で沖縄方面海域にて特攻散華した若杉潤二郎の母あての遺書である。

  母上様
  先日は突然帰つて驚きの事だつたらうと想ひます。早速お便り差上げようと思ひ乍らさて改つて書く事もなく過して来ました。何の親孝行も出来ず心苦しく思ひます。二十六年幸せだつたと心から思ひます。有難う御座いました。
  自分も小隊長として可愛い部下三名、十九と二十の若武者を引きつれて突撃して征きます。花はつぼみと言ひますが本当に清らかなものです。篠原、田中、山本の三伍長です。 この手紙がつく頃は見事戦果をあげてみせます。自分よりこの三人の可愛い部下の為祈つてやつて下さい。
 くれぐれもお身ご大切に長命を祈つて居ります。お元気でお元気でお過し下さる様。
 では征きます。必ずやりますからご心配なく。
    皇国の弥栄祈り  玉と散る
      心のうちぞ  たのしかりける



☆ 神風特攻隊第十八金剛隊の一員として、二十三歳でフィリピン方面で散華した市川猛は、母あてにつぎの遺書を残している。

 天の優しい御恵みと思ひますが、本日出撃の予定が、天候不良のため明日に延期され、おかげで心のこもる千人針が私の手に入りました。
 嬉しく身につけ南の決戦場にまゐります。
 私は千人針はとてもまにあはないだらうと断念してゐたのですが、いよいよ出撃の幾時間か前に私の手に入りました。
 また好物たくさん、ありがたさで一杯でした。可愛い私の教へ子の練習生にもやり、一緒に喰べて別れました。
 母上様よりの「御守護札」肌身はなさず持つて、任務に向つてまゐります。では御礼まで。



☆ また、神風特攻隊第一神雷隊の一員として、十八歳で九州沖にて散華した有末辰三の両親あての遺書も清冽な感動を呼ぶ。

 走り書き、ご免下さい。私は今度、幸い攻撃に出陣することになりました。僅か十八年の歳月とはいへ、普通の人々とは別な種々の苦労もし、楽しいこともありました。
 父母上には、色々と心配のかけ通しでしたが、見事に散る日が来ました。小野川の小池兵曹も散つていきました。私も後を継いで、敵陣に突撃するつもりです。豊橋まで一緒だつた上の山の佐藤栄之助も散りました。では長いこと書けませんからこれくらゐで。
 ではさらば、お元気で。
 必ずや皇国は、永久に栄えることを確信します。

 有末が参加した第一神雷攻撃隊とは、米戦闘機の搭乗員からワンショット・ライターと笑い物にされたほど炎上しやすい一式陸上攻撃機を母機として、人間爆弾桜花を発進させる特殊特攻部隊で、桜花発進に成功したとしても鈍足の母機もほぼ百パーセント撃墜されるといった決死部隊である。
 しかし有末は、その隊員であることに誇りこそ持て、恐怖心などはいささかも持っていない。・・・



☆ 台湾の第八飛行師団特攻隊の一員で、二十五歳で沖縄奥武島付近で特攻死した安原正文は出撃五日前、妹千鶴子につぎの遺書を残している。

  沢山貰った御手紙は、みなポケットに入れて持って行きます。
  御守袋(御人形の寝てゐる)も忘れずに連れて行きます。
  コリントももう出来なくなりましたが、これからは兄ちゃん御星様の仲間に入つて、千鶴ちやんが、立派な人になるのを見守つてゐます。
  泣いたりなどしないで、朗らかに笑つて、兄ちゃんが手柄を立てるのを祈つて下さい。
  御父さんや御母さんの云ひつけを守って、立派な人になつてください。      
  さやうなら



☆ もう一つ、父と妹に残した哀切な遺書がある。回天特別攻撃隊菊水隊の一員として、二十六歳でカロリン諸島ウルシー海域にて特攻散華した今西太一の遺書である。

 お父様、フミちやん。太一は本日、回天特別攻撃隊の一員として出撃します。・・・・・最後のお別れを充分にして来る様にと家に帰して戴いたとき、実のところはもつともつと苦しいものだろうと予想して居つたのであります。しかしこの攻撃をかけるのが、決して特別のものでなく、日本の今日としては当たり前のことであると信じてゐる私には何等悲壮な感じも起らず、あの様な楽しい時をもちました。・・・・・何も申上げられなかつたことは申訳ないこととも思ひますが、これだけはお許し下さい。

 特攻は特別な攻撃方法ではないと悟ったとき、真の特攻隊員になるという。戦場では多くの人命が日々失われてゆく。いかなる死に方であれ、己の本分を尽くして死ぬならば、それが軍人の本望というものなのである。



☆ 神風特攻隊第一筑波隊員として、二十二歳で南西諸島海域にて特攻戦死した大田博英は母久子に、つぎの遺書を残している。

 母上様、御無沙汰致しました。書かう書かうと想いながらも母様の心配されるのがつらくて。而し最後と思へば、矢張り筆を執りました。
 今更何も申し上げる事はありませんが一つだけお礼申さねばなりません。と云ひますのは、あれ程事故の多い搭乗員となり、又其の中の戦闘機乗りとなつたのに事故を一度も起こさなかつたことです。何時も母様のお守りを飛行服の中に入れてゐたお陰と感謝してゐます。而し今度だけは目的が征つて還らぬものです。見事敵艦を轟沈する為に神様の御守 りを願ひ、見事見事目的が果たせる様。
 長くなりました。私の遺品の整理も残してゐますので。
 くれぐれもお元気でさようなら。



☆ 本書(知覧特別攻撃隊 村永薫編)には、知覧特別攻撃隊の様々な遺文が掲載されているが、その中でももっともユニークなのが、北海道出身の前田啓という二十三歳の少尉が書いたつぎの短文である。


       俺が死んだら
         何人泣くべ


  本書の編者は、この短文につぎのようなコメントを加えている。
――「俺が死んだら何人泣くべ」とは、なんと冗談めいた言葉でしょう。このようなジョークの絶筆が、平和会館には数多く展示されています。出撃の前夜、毛布を頭までかぶり、思う存分涙を流した勇士もいたそうです。枕は涙でびしょぬれになっていたと聞きます。だが、思う存分泣いた勇士は、あくる日はからりと晴れたかろやかな気分となり、このようなジョークを書いたのでした。
 ――
 あまりに悲しみが深いと涙も出ぬといわれる。二十歳になるやならずで、しかも健康この上ない精神と肉体を持ちつつ、なお死なねばならぬとしたら、もはやその悲しみは笑いをとばすしかあるまい。それには強靭な精神力を必要とするが、幸い特攻隊員には、飛行気乗りとしての猛訓練に耐えたという自信と、自分の死が祖国防衛の強力な礎になるという堅固な使命感をもっており、それが特攻隊員の精神をも強靭なものとするのである。



☆ 特攻隊員の遺書はその結末が一大悲劇であるがゆえに強く胸を打つものがあるが、出撃当日に記された遺書となると、その感がいっそう深い。
  たとえば十九歳で特攻散華した熊本出身の山下孝之は、つぎのような遺書を母と姉弟に残している。

  只今元気旺盛、出発時刻を待って居ります。愈々此の世とお別れです。お母さん、必ず立派に体当たり致します。
  昭和二十年五月二十五日八時。これが私が空母に突入する時です。今日も飛行場まで遠い所の人々が、私たち特攻隊の為に慰問に来て下さいました。丁度お母さんの様な人でした。 別れの時は見えなくなるまで見送りました。
  二十四日七時半、八代上空で偏向し故郷の上空を通ったのです。
  では、お母さん、私は笑って元気で征きます。
  長い間御世話になりました。妙子姉さん、緑姉さん、武よ。元気で暮らして下さい。
  お母さん、お体大切に。私は最後にお母さんが何時も言われる御念仏を唱えながら空母に突入します。
  南無阿弥陀仏

  出撃直前だというのに、この遺書は楷書できちんと書かれている。心気の乱れというものがまったくない。特攻隊員の落ち着いた平常心というものがここからもはっきり読みとれ、見事なものである。
  つぎの遺書は、母は母でも継母に書かれた遺書である。書いたのは十八歳で散華した相花信夫という若者である。

  母上お元気ですか
  永い間本当に有難うございました
  我六歳の時より育て下されし母
  継母とは言え此の種の母にある如き
  不祥事は一度たりとてなく
  慈しみ育て下されし母
  有難い母 尊い母

  俺は幸福であった
  遂に最後迄「お母さん」と呼ばさりし俺
  幾度か思い切って呼ばんとしたが
  何と意志薄弱な俺だったろう
  母上お許し下さい
  さぞ淋しかったでしょう
  今こそ大声で呼ばして頂きます
  お母さん お母さん お母さんと



☆ 「特攻隊員の命の声が聞こえる」(神坂次郎 著)より

 「実は、阪神大震災で、すごく感動したことがあるのです。家の下敷きになって動けなくなった女子中学生が、家に火の手が迫って来た時、必死で助け出そうとしている母親に向かって『おかあちゃんは、早よ逃げて』と叫んだというのですね。そして、いよいよ火が迫ってきた時、母親の背中に小さな声で『さよなら』って・・・」
 
 この文章はさらにこう続く。
 「戦後五十年たって『飽食の時代』といわれる現代でも、特攻に散った若者たちと変わらぬ素晴らしい精神(こころ)は死滅していないんだと、この話を知った時、心がふるえました。どんな時代になっても、素晴らしい人というのはいるのですね。誰に教えられたのでもないのに、この女子中学生は、人生のぎりぎりのところで、『さよなら』といえる。そんな母への思いやりが素晴らしいし、それが堪らなく、いじらしく、悲しい」
 『特攻隊員の命の声が聞こえる』(神坂次郎、PHP研究所)は、己れの命と引きかえに祖国を守らんと決意した若き特攻隊員への熱き思いを綴った鎮魂の書である。
 
 ・・・著者は言う。
 「戦争の中で、特攻に倒れた若者たちは、人間の尊厳というか、生きる誇りというか、そんな原点を、自分の命を捨てて、私たちに見せてくれたのではないかと思うのです。その意味で阪神大震災で死んでいったあの女子中学生も同じです。彼らのいのちの存在を決して忘れてはならないと、勁く思います」


〔以上参考:北影雄幸著「特攻の本」〕



 北影氏は「あとがき」で次のように書いています。
  


 あとがきより

  ・・・・・・・・
 もし特攻隊がなければ、かの大戦は日本の単なる惨めな敗戦に終わったであろう。だが、特攻隊の奮戦により、かの戦争は日本民族の一大叙事詩と化した。これが戦後日本の復興にとって計り知れない力となり、さらには二十一世紀の新生日本を創出する、原動力ともなる。その意味からも、特攻隊の現代史意義はいささかも色褪せていない。
 歴史とは、それぞれの国家に固有のものである。そして歴史的事実というものは否定しようがない。日本史は大東亜戦争という悲痛な過去を体験し、三百万人もの同胞が非命に斃れた。その尊い犠牲のもとに現在の平和があることを片時も忘れてはならない。
 ことに特攻隊に象徴されるように、多くの若者たちが祖国愛と同胞愛に燃えて出陣し、圧倒的な物量を誇る敵と戦い、その多くが野戦に斃れたのである。この悲痛な歴史的事実を風化させてはならない。
 平和の尊さは戦争と対置させることにより鮮明に浮き彫りになる。現在の日本の平和を尊いと思うなら、その平和な日本を建設しようと念願して黙々と戦場に赴き、そこで非命に斃れた多くの将兵の真情を解さなければならない。そうすることによって初めて平和の尊さと生命(いのち)の重さというものが実感できるからである。


 最後に、このような記録を書き残してくれた北影雄幸氏に感謝申し上げます。


 合掌
                                         
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日本人の民族精神の純粋性

2010年08月02日 | 日記
 まもなく8月15日がやってくる。終戦記念日である。
 昭和20年のこの日に太平洋戦争(第二次世界大戦)が終了した。
 この戦争による犠牲者は、戦死者約212万人、空襲による死者約24万人といわれている。
 この戦死者の中に、いわゆる特攻攻撃で亡くなった二十歳前後のうら若き特攻隊員が含まれている。

 日本では、バブルがはじけて失われた10年、とよくいわれる。
 こんにち政府は日本経済はデフレから脱却したというが、日経平均株価は10,000円を割り、物価は下がるのに、物は売れないデフレ基調は依然として続いている。まったく出口がみえない。
 貧富の格差は広がり、失業者は増え、自殺者は年間3万人を超えている。そして、生活保護の受給者もどんどん増えている。そのうち、日本でも餓死者がでてくるのではないか。

 とはいっても、いまの日本は焼け野原となった終戦直後に比べるとその豊かさは天と地の違いだ。
 ここまで経済大国となった現在の日本は、太平洋戦争で戦って、亡くなった戦死者の尊い尊い犠牲のうえに築かれたものだ。わたしたちは、このことを決して忘れてはならないと思います。

 そこで、今回は特攻で亡くなった特攻隊員について鎮魂を込めてご紹介します。


  
 特攻隊が初めて出撃したのは、昭和19年10月のレイテ沖海戦の時であった。その攻撃が極めて有効であることを知った日本軍上層部は、以後、特攻を最重要戦術として位置づけ、恒常的に特攻攻撃を繰り返すことになる。
昭和20年1月に、比島リンガエン湾に上陸した連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥も、特攻の猛威を目の当たりにする。

 アメリカからみて、この神風特攻の脅威に、ベイツという海軍中将はこう述べている。
「日本の空軍が頑強であることはあらかじめ知っていたけれども、こんなに頑強だとは思わなかった。日本の奴らに、神風特攻攻撃がこのように多くの人々を殺し、多くの艦を撃破していることを寸時も考えさせてはならない。だから、われわれは艦が神風機の攻撃を受けても、航行できるかぎり現場に留まって、日本人にその効果を知らせてはならない」
 事実アメリカ軍は、神風特攻のあまりの猛攻に恐怖し、沖縄戦で勝利を確実なものにするまで、神風による甚大な被害を国内では公表しなかった、という。
 とにかく、前線にいる米軍将兵は極度に神風を恐怖したらしい。

 沖縄戦を取材した米従軍記者ハンソン・ボールドウィンは、特攻機に襲われた米艦の悲痛な状況を次のようにルポしている。
「悪天候が時々休息を与えてくれる以外には、自殺機が連日襲ってくるために、過去40日間は、将兵は休む暇がなかった。眠るといっても、それは夢まぼろしの状態で身体を横にするに過ぎない。
 照準機の上に頭を垂れて、がっくりと寄りかかっている将兵が甲板のいたるところに見られる。そして艦長たちの目は真っ赤で、頬はこけ、命令はとげとげしくなっている」
 
 さらに同記者は、米艦の将兵が神風をいかに恐怖したかをつぎのように記している。
「敵の暗号を解読して、敵の攻撃があることが前夜に拡声器で予報されるのを聞くと、兵員たちの中にはかんしゃくを起こして、″もう止めてくれ″と怒鳴るものすらある。全員がまさしくヒステリーになりつつある」
 神風特攻のたび重なる猛攻のため、精神に異常をきたした米兵も少なからずいたという。 カミカゼ・アタックはそれほどまでに、連合軍将兵を恐怖させたのである。

 
 また『カミカゼ』という著書をもつ米ジャーナリスト、A・バーカーは、神風特攻に関してつぎのように語っている。
「西欧人の目には、天皇と国家のために、よろこんで自己の生命を捧げるように、国民を慎重な考慮の末に利用した軍部の指導は最も卑しむべき野蛮な行為であったと映っている。しかし、連合国軍は、神風特別攻撃隊員たちを尊敬している。それはおそらく彼らが特別攻撃で手痛い打撃を受けたためであろう」
 その戦法の善悪は置くとして、「連合軍は、神風特別攻撃隊員たちを尊敬している」という言葉は、おそらく特攻隊員に捧げ得る最大の賛辞であろう。

 
 このような外国人から見た特攻という異様な攻撃法を論ずるとき、見逃せない書物が一冊ある。
 フランス人ジャーナリスト、ベルナール・ミローの記した『神風』(内藤一郎訳、早川書房)である。
 本書はまず、次の文章で始まる。
 ――すべては1944年、10月25日に始まった。いや、より正確にいうなら、全世界はこの日驚くべきニュースに接したのである。新聞とラジオは、日本軍の飛行機がレイテ沖でアメリカ海軍艦船に決然たる体あたり攻撃を敢行し、大損害を与えたことを報じた。ニュースの解説者たちは、これらの攻撃が秩序だてて実行されたもののように見えることから、これが日本軍司令官の命令に発したものであろうということを力説した。このときをもって、太平洋戦争の局面はまったく異常な展開を見せることになったのである。この日以降、それは世界戦史のいかなる戦闘にも似つかぬものと化した。

 ミローは、特攻隊員の不浄不屈の勇気、純粋な祖国愛、崇高な自己犠牲の精神を高く評価するものであるが、特攻の本質をつぎのように捉えている。

 ―――日本の自殺攻撃の本質的な特徴は、単に多数の敵を自分同様の死にひきずりこもうとして、生きた人間が一種の人間爆弾と化して敵にとびかかるという、その行為にあるのではない。その真の特徴は、この行動を成就するために、決行に先んじて数日前、ときとしては数週間前、数ヵ月も前からあらかじめその決心がなされていたという点にある。

 ―――ごく近い将来に、死という生の終着点を自ら作り、その日のために残された己れの人生を凝縮して生きるということは、並大抵の神経でできることではない。きわめて強靭な精神力を必要とする。
 
 そこでミローは、「この特殊な点こそが、我々西欧人にとっては最も受け容れがたい点である」として、その理由をつぎのように説明する。

 ―――それは我々の生活信条、道徳、思想といったものとまさに正反対で、真向から対立してしまうことだからである。我々の世界には、いまだかつてこれと同様のことも似たようなことも事実としてあったためしをきかない。あらかじめ熟慮されていた計画的な死。

 ―――くり返していうが、これは決して行為ではない
 そうしたものの美学は我々を感動させることはあっても、我々の精神にとってはそのようなことは思いもつかぬことであり、絶対にあり得ないことである。

 
 ここが特攻隊員の真情を理解するポイントである。特攻隊員になることは強制ではなく、自らの意志に基づく志願をその本義としたのである。それであるからこそ、特攻は後世の日本人の魂を激しく揺さぶるのである。特攻が強制によって行われたのなら、誰もこれほど感動するはずがない。特攻隊員の自己犠牲の美しさが、後世の日本人の心の琴線に激しく触れたのである。

 そしてこのミローを深く感動させたのが、特攻隊の出撃風景である。まずミローは、特攻第一号である敷島隊の出撃をこう描写する。

 ――整備員が暖機運転を終わった。いよいよ出撃である。そしてこれが日本の特攻隊の最初の出撃となったのであった。定刻に敷島隊は離陸を開始した。基地の全員が眼に涙をたたえてこの出撃を見送った。この平然として確実に定められた死に向かって出発してゆく人々を、どのように感嘆しても感嘆しすぎることはなかったであろう。

 ――十死零生の出撃など、西欧の軍隊には絶対あり得ないことである。ミローが深い感動をもって、この出撃風景を描いたであろうことは想像に難くない。
 特攻隊員の日常を調べつくしたミローには、「特攻を志願して許された者たちは、この日まで実に平静な日々を過ごしてきていた。彼らの日常の生活態度は、どうみても死があと旬日に迫っている人たちとは思われなかった」という深い感慨がある。そしてミローは、こう記す。

 ――最後の使命を帯びて飛びたつ前に、特攻パイロットは身辺を整理し、家族に遺書をしたためて頭髪や爪を封入し、所持品を残留する人々に分かち与えた。そしていよいよの出撃に際しては、操縦席から笑顔でもってさらばの合図に手を振り、そして離陸していった。これは出撃を見送る人にこらえ切れぬ感動をさそうものであったが、読者は考えてもみられたい。いったいこのような態度が、狂気のとりこになった者とか、過剰な興奮にのぼせきった人間などにとれるものであろうか。

 ――しかもこれらの特攻隊員がさらに深くミローを感銘させたのは、彼らが特攻隊の一員であることをいささかも特権とは思わず、出撃までの日々を淡々とかつ質素に送ったということである。

 ――特攻隊員は出撃の離陸のその瞬間まで、粗末な給養で、苦行僧同然の生活を送っていたのである。だが誰も不満を訴える者はいなかった。いや真実、誰も不満をおぼえていなかったようである。
 残り少ないこの世での生活とあっては、それをできるだけ快適なものとするために、彼らはあらゆる贅沢と自由を要求して然るべきだったろう。だが誰もそうはしなかった。彼らは物質から超脱していた。

 ――人間の精神の高貴さというものは、こういう時に現れてくるのである。日本の軍人はいわゆる軍人勅諭により、高潔な精神と質素な生きざまを求められた。特攻隊員たちは誇りをもってその要求に答えた。若いながらも彼らがいかにも日本軍人らしい清冽なる印象をわれわれにもたらすのもそのためである。
・・・それゆえに、特攻隊員は己れを律すること誰よりも厳しくして、軍人としての清冽な人格の陶冶に努めたのである。このような修養、研鑽が周囲の人々に影響を与えぬはずがない。
 その点をミローは、つぎのように記している。

 ――神風精神のみなぎりは、他の方面にも深い影響を及ぼしていた。特攻パイロットと行動をともにできないもの、たとえば主計科や軍医科や整備兵、それに滑走路補修の施設隊員たちも、みな共通の感動をもっていた。彼らは特攻パイロットたちが出撃までのこの世の生を享受できるようにと、自分たちなりに考え得るすべてのことをした。彼らの自らに休息を課さない働きだけが、特攻パイロットに捧げ得る唯一のプレゼントなのであった。また、彼らの希望をおくパイロットに対するねぎらいと感謝の表現なのであった。

 さらにミローは、特攻隊員を取りまく人々の特攻隊員に対する畏敬と感謝のこもった奉仕をつぎのように記している。

 ――彼らは自分たちの食糧をけずって特攻隊員にまわした。さらに職掌をこえてできるかぎり特攻隊員の便宜をはかった。サービスはベッドのあげおろしから部屋の掃除にまで及んだ。
 特攻隊員でない者にとって、特攻隊員たちは生きながらの神であり、敬うべく、奉仕すべき存在であった。彼らは隊員に感謝し、かつ肉弾攻撃を実行できない自分たちを卑下していた。その気持ちを彼らはサービスにこめたのである。これは整備兵だろうと主計兵だろうとみな同じであった。整備兵たちは、離陸前の最後の瞬間まで機体にとりついた。

 ――彼らにとって特攻隊員たちは祖国の守護神であった。祖国のために命を捨てんとする特攻隊員たちを、すでに生身の人間というよりも、神の領域に一歩足を踏み入れた高貴な英雄として、彼らは崇敬したのである。

 特攻隊員が歴史上のあらゆる英雄と大きく異なる点は、彼らが無名の英雄であったことであり、彼らの無私、無償の行為は、地位とか名誉とか財産とかとはまったく無縁で、ミローいうところの「言葉の最も高貴な意味において英雄」であったということである。

 ミローにとって、特攻は「偉大なる純粋性の発露」であった。しかも日本人にしか為し得ぬ発露である。

 ・・・祖国日本が危急存亡の秋に立ち到ると、多くの若者たちは自ら望んで特攻を志願した。いわば日本人の精神の純粋性がここで一気に噴出したのである。
換言すれば特攻とは、特攻隊員個々人というよりも、日本人が本来的にもつ民族精神の純粋性の偉大な発露だったのである。そして、この純粋性の発露は国境を越えて、多くの人々に深い感銘を与えた。その点をミローは、こう記している。

 ――たしかに我々西欧人は戦術的自殺行為などという観念を容認することができない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到底できないのである。彼らを活気づけていた論理がどうであれ、彼らの勇気、決意、自己犠牲には、感嘆を禁じ得ないし、また禁ずべきではない。彼らは人間というものがそのようであり得ることの可能なことを、はっきりと我々に示してくれているのである。

 ――彼ら(特攻隊)の採った手段があまりにも過剰でかつ恐ろしいものだったにしても、これら日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの使命を、とり出して見せてくれたのである。

 ――特攻を単なる美談、英雄譚とみては、ほとんど意味がない。特攻という歴史的事実は、そのように矮小化して把握するべきではなく、精神の純粋性といった人間性の尊厳を世界の精神史に鮮烈に刻みつけた一大モニュメントとして把握するとき、特攻は世界史的意味においても、充分すぎるほどの現代的意義を持つものなのである。

合掌                                       

〔以上参考:北影雄幸著「特攻の本」〕
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