青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

凜は風呂嫌い

2015-02-23 08:46:24 | 日記

昨日は、娘8歳が初めて1人で凜を散歩に連れて行きました。前々からクレヨンしんちゃんを観る度に「私もやってみたい」と言っていたのですが、心配だったのでリードを持つところから練習してもらいました。1ヶ月ほど私が付き添ってみて、大丈夫そうだったので、昨日初挑戦。無事に帰って来てくれましたよ。
帰ってから、月1恒例凜ちゃんお風呂タイム。毎回、私、娘、凜の2人+1匹で入ります。凜は無抵抗ですが、だからといって風呂好きな訳じゃ無いのです。その証拠に毎回風呂場で脱糞します…。それも小分けに何回も…。入浴後のドライヤーも苦手ですね。逃げ惑ってなかなかじっとしてくれません。そして、乾いたあとは、抜け毛が大量。柴犬って元々抜け毛が多い犬種なのですが、入浴後数日は半端じゃないですね。柴犬飼いの唯一の苦労だと思います。
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森岡賢さん

2015-02-22 09:51:10 | 日記
モリケンこと森岡賢さん。SOFT BALLETのキーボード、踊る方。ダンサーって言った方が良いのかな?電気グルーヴのピエール瀧の担当が「瀧」なように、モリケンも「森岡賢」なのかもしれない。ご尊父は昭和の名編曲家森岡賢一郎氏だ。
SOFT BALLET(ソフバ)のパブリックイメージを作り上げたのはモリケンといっても過言ではない。ソフバを知らない方でも当時の邦楽ロックを聴いていた方なら、モリケンの出で立ちは記憶の縁に引っかかっていたりするのだ。80~90年代にあのスタイルは強烈過ぎた。現在でも強烈である。ご本人は好きでやっているのだろうが、勇気のある方だと尊敬する。モリケンのダンスはソフバに欠かせない華であった。肉体が音楽になっているかのような実に楽しげな踊り方なのだ。あそこまで思い切りよく踊れるキーボード奏者はこれまでいなかったし今後も現れないと思う。
ソフバは、モリケンの楽曲とフジマキの楽曲では同じバントの音とは思えないほど個性がぶつかり合っていてそれが面白かったりするのだけど、ファンも二手に分かれていた。ちなみに私はモリケン派だ。彼の曲はメロディがしっかりしていて聴きやすい。そういう意味で私は音楽素人なのだ。素人の私にはモリケンの曲は新しい音に聴こえたけど、洋楽に詳しい方には「どっかで聞いたことがあるような気がする」音だったかもしれない。モリケンに限らず、当時のミュージシャンは洋楽の影響を強く受けている人が多かった。今の若いミュージシャンは邦楽育ちの方が多いように見受けられる。
遠藤さんについて語る予定だったのだが、モリケンが先になってしまった。遠藤さんの現状を考えると、ちょっと気持ちの整理が難しい…。
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自句の整理

2015-02-21 10:35:41 | 日記

俳句を長く続けている方は、自句の整理をどうされているのでしょうか?うちの母は、毎月投句した句は主宰に採って頂いた句と落とされた句に分けてノートに整理し、何故落とされたのかを研究しているそうなのです。
私などは、落とされた句には全く関心が持てないので、そのまま打遣らかしておいて、そんな句を作ったことすら忘れてしまう始末。たまに他の方から「○○さん(私の雅号)、こんな句を作ってたわよね?」などと言われることがあるのですが、評価されなかった句には愛着が持てないので、まず思い出せません。愛着云々ではなく、ダメな句を分析することで見えてくるものがあるはずなのですが、そこは性分と言いますか…勉強不足でいけませんね。
せめて採用された句だけでも整理しておこうと思い立ち、クローゼットの俳句雑誌を引っ張り出してみたのですが…。もう段ボールを運び出した時点でウンザリしちゃいましたよ。なんせ句歴15年なので結構な量なんですよね。このままでは徒に部屋を散らかしただけになってしまうので、しぶしぶパソコンに向かいましたが、もう二時間ほどで飽きてしまいました…。
気分転換にサーターアンダギーを揚げてみましたよ。レシピを知らないのでテキトーです。何となくそれっぽく仕上がった様な…。ちょっと火が強かったみたいなので、次回があったとしたらその点に注意ですね。
自句の整理は、少しずつとか思っていると絶対投げ出してしまうので、この土日で終わらせようと思っています。
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夜と霧

2015-02-20 07:34:26 | 日記
『夜と霧』は、ヴィクトール・フランクルによる強制収容所の体験記録である。私が読んだのは、下山徳爾による旧訳の方だ。本書には限界状況における人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。
アウシュヴィッツ到着後、囚人は一人ひとり、親衛隊将校の前に出される。長身でエレガントな将校は無関心な様子で「右の肘を左の手で支えながら右手をあげ、そして右手の人差し指をほんの少し――或いは左、或いは右と(大部分右であったが)、――動かして指示を与えるのであった」。右は、ガスかまど行き。左は、強制労働。この瞬間から解放の日まで、囚人たちは日々刻々選抜され続けることになる。
囚人の大多数においては、ショックの最初の段階を経ると、無感覚、感情の鈍麻、内的な冷淡と無関心という現象がみられるようになる。無感動であることこそ、囚人の心をつつむ装甲であったのだ。
しかし、精神的に高い生活をしていた人間は、その繊細な感情素質にも拘らず、しばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく堪え得た。
ある時、フランクルと並んでいた一人の囚人が呟いた。
「なあ君、もしわれわれの女房がわれわれを見たとしたら!たぶん彼女の収容所はもっといいだろう。彼女が今われわれの状態を少しも知らないといいんだが。」
その瞬間、フランクルの前には彼の妻の面影が立ったのだ。限界状況においてさえ、人間は愛する人間の像に身を捧げることによって浄福になり得るのだということを知るのである。
また、若干の囚人における内面化の傾向は、芸術や自然に関する強烈な体験にもなっていった。そしてその体験が過酷な環境を忘れさせることもできたのである。彼らは極度の疲労や寒さにも拘らず労働後、日没の光景を見るためにバラックの外に出た。そして感動の沈黙が続いた数分後に、「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と口にしたのである。生に終止符を打たれた人間だからこそ、心から自然の美に魅了されたのだ。
収容所生活の凄まじさに心身を維持するためには囚人は生きるための生活目的を意識しなければならなかったのである。フランクルは、ニーチェの「何故生きるかを知っているものは、ほとんどあらゆる如何に生きるのか、に耐えうるのだ。」という言葉を引いている。
反対にその生活において何の目的も認めない人は、心身とも崩壊してしまう。ある囚人はスープと交換できる煙草を自ら吸い尽くしてしまい、また別の囚人は点呼の時間が近づいてもバラックの中で横たわることで自己を放棄してしまう。また、クリスマスに解放されるとの噂を信じ、期待を裏切られると、力尽きてしまう囚人も多かった。彼らの典型的な口のきき方は「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ」であった。
本書は、囚人を取り締まるために囚人の中から選ばれたカポーと呼ばれる者達の暴力を伝える一方で、親衛隊員の中にも自費で囚人のための薬を買い求めたり、自分の食べるはずだったパンを囚人に渡したりした善意の人がいたことも明記し、善悪の単純なレッテル貼りを避けている。
『夜と霧』は一民族に起きた悲劇の記録に留まらない。本書の目的は、ナチスの残虐性を告発することより、かかる極限状況の中でも高い精神を保ち続けた人々がいたという事実を示すことにあると思うのだ。生きることの意味は、自分が問うものではない。生きること自体が、自分に意味を問うてくる。フランクルはそう述べている。健康、家庭の幸福、職業的能力、財産、社会的地位、すべてを奪えたとしてもたったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは何者にも奪えない。
『夜と霧』は、生きることに難儀している人にとって大きな励ましとなる一冊である。我々の人生はどんな状況でも意味があるのだ。
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桜のこと

2015-02-19 08:39:12 | 日記

昨日、凜が4歳のお誕生日を迎えましたが、桜も今月で4歳です。体重は2.6kg。お野良さんだったので、誕生日はわかりません。獣医さんから、2月生まれだろうと言われたので、凜と一緒にお祝いしています。上の写真は、生後10ヶ月の頃のもの。今もあまり変わりません。隣の牡丹さんは4ヶ月くらい。
桜がうちに来たのは、生後6ヶ月くらいで夏でした。私が句会から帰って来たら、玄関で娘が、
「お母さん、猫がいるよ~。」
って騒いでいたんですよ。何のことかと思って居間に入ったら本当にいたんです。小さな錆色の猫が。何の警戒心もなく寛いでいました。そばに犬が居てもへっちゃら。今日来たばかりという雰囲気ではなかったです。主人に事情を訊いてみたら、
「庭の紫陽花の元に隠れていた。可愛かったから、オイデオイデしたら中に入って来た。」
とのことでした。入って来てしまったものは仕方がない。凜ともうまくやっていけそうだったので、うちで飼うことに決めました。検査のために動物病院に連れて行ったら、受付で名前を訊かれたので、思い付きで桜と命名しました。桜は、最初からトイレで用が足せました。もしかしたら、誰かに飼われていたことがあったのかもしれません。
主人も私も元来犬派なので、猫のことはよくわからなかったのですが、桜はあまり性格に癖のない子なので、何とかやってこれました。その後、11月に牡丹を飼うことになったのですが、牡丹の面倒は桜がみてくれたので、我々には苦労はなかったです。犬が面倒見の良いことは知っていたのですが、猫もそうなんですね~。
牡丹が生きていた頃にはあまり私の膝に乗って来なかった桜ですが、牡丹が亡くなってからは一転してものすごい甘えん坊になりました。私が座っている時には、大抵膝に乗ってきます。もしかしたら今までは、牡丹に遠慮していたのかな?我々も桜はお姉ちゃんだからと、ついつい牡丹を優先していたところがあったように思います。
猫は犬みたいにアピールしてきませんから、人間の方で彼女の気持ちに寄り添うように心がけないといけませんね。
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