青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

ハロウィン2018

2018-10-29 07:34:46 | 日記

今年のハロウィンは、カボチャのモンブランタルトを作りました。
おかずは、海老フライと鶏の唐揚げ、カップキッシュ、パンプキンスープです。


去年モンブランのカップケーキを作った時には、モンブラン用の口金がなくて丸型の口金で代用したので、カボチャペーストを搾るのに時間がかかりました。今年はちゃんと専用の口金を使用したので去年よりは楽でしたよ。


タルト台はココア味にしました。
材料は、バター70g、砂糖50g、卵黄1個、薄力粉120g、アーモンドプードル40g、バニラエッセンス適量、純ココア20g
生地の作り方は、純ココアを混ぜる以外は、娘の誕生日に作った生チョコタルトと同じ。


タルト台が冷めてから、生クリームをレンズのようにこんもりと盛ります。
今回は生クリーム300g、砂糖30g使用しました。

カボチャペーストは、カボチャ260g、砂糖35g、バター40g、シナモン適量。
カボチャをレンジで柔らかくしてから裏ごしして、柔らかいうちにバター、砂糖、シナモンを加えて良く混ぜます。

食べてみて思ったのですけど、これ、生クリームを減らして、底にカスタードを敷いた方が良かったかもしれません。ちょっと生クリームの量が多くて胸焼けしてしまいました。


海老フライ&鶏の唐揚げ。
タルタルソースは玉葱のかわりに、6月に漬けたラッキョウを刻んで使いました。
海老フライを真っ直ぐ揚げるのは難しいですね。ちょっとグンニャリしてしまいました。


カップキッシュ。


マフィン型を使って焼きました。


パンプキンスープ。
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古典落語〔正〕

2018-10-25 07:31:55 | 日記
興津要編『古典落語〔正〕』は、「古典落語 上・下」(1972年刊)の合本。
「明烏」「三人旅」「厩火事」「千早振る」「そこつ長屋」「三方一両損」「たがや」「居残り佐平次」「目黒のさんま」「小言幸兵衛」「道具屋」「時そば」「芝浜」「寿限無」「三枚起請」「崇徳院」「野ざらし」「青菜」「らくだ」「がまの油」「子別れ」の21編を収録。

話芸を活字で読むのは正しい楽しみ方ではないかもしれないが、落語はある程度知識がないと笑いどころが理解できないので、予備知識を得るために本書を手にした。

巻末に収録されている興津要による「落語の歴史」は、落語初心者向けの良いガイドである。
〈らくご〉という読み方が完全に普及したのは昭和になってから、との解説には大変驚かされた。少なくとも江戸時代には普及していたと思っていたので…。

落語は江戸時代の初めは〈はなし〉といわれていた。
それが、天和・貞享(1681~88)以後は、上方中心に〈軽口〉〈軽口ばなし〉と呼ばれるようになる。上方用語である〈軽口〉時代は、明和・安永時代(1764~81)に上方文学に衰退とともに終わる。その後、舞台が主として江戸に移り、江戸小咄時代に入ると、〈落とし噺〉と呼ばれるようになった。
〈落語〉という文字が使用され始めたのは、天明年間(1781~89)からだが、当時は〈らくご〉とは読まず、〈おとしばなし〉と呼んでいたのだそうだ。落語ということばに歴史あり、である。

無論、落語そのものの歴史についての解説も丁寧である。
落語家の先祖は、なんと戦国時代のお伽衆まで遡れるのだ。
もっとも彼らの笑話『戯言養気集』(元和活字本)は、信長、秀吉、秀次などの武将に関するエピソードが多く、純粋の笑話ばかりではないのだけど。

テキストとして読むことにした本書であるが、ショートショート集としても秀逸であった。
くだらない馬鹿話から泣かせる人情噺まで古典落語の有名作を網羅している。並びも短めの噺から始まり、「らくだ」や「子別れ」など長めの噺を終わりの方に持ってきているのが、落語慣れしていない読者にはありがたい。


私のお気に入りは、「厩火事」「そこつ長屋」「らくだ」の3編だ。

「厩火事」は、働き者の髪結いの女が年下のヒモ亭主に惚れぬいていることから起こったもめ事が中心の話。

年上であるがゆえに若い亭主の愛情を信じ切れない女房が、それを仲人に相談する。
自分は亭主の不平を言うくせに、仲人が亭主をけなし始めると、途端に亭主の擁護にまわるのが、うざったくもあり可愛くもあり。
仲人から別れた方が良いと言われても、それが女房の欲しいアドバイスではないので、四の五の言って話が進まない。

そんな女房に、仲人は孔子の厩火事のエピソードを持ち出して亭主の心を試すように勧めてみるのだが、女房は孔子が何者か分かっていないので話が噛み合わない。そこで、仲人は孔子の話とはあべこべの内容の麹町の殿様の瀬戸物の話を聞かせる。女房の亭主が偶々瀬戸物愛好家なので、こちらの方が話の通りが良かった。
要するに、亭主の一番大事にしている瀬戸物をうっかりを装って割って、その時の亭主の反応で愛情が有無を探るという作戦なのだ。

一足先にうちへ行って、亭主に瀬戸物のことを聞かずに、女房の体の心配をするように言って欲しいと、仲人に工作を頼む女房のいじらしさに対して、亭主の放った一言が酷い。いっそ清々しいくらいのクズっぷりであるが、往々にして、この手の男には妙な愛嬌があるから女房と別れたとしても新たな寄生先には困らないし、絶対心を入れ替えてはくれないだろう。結局は惚れた方が負けというオチである。


「そこつ長屋」の原話は寛政頃の笑話本『絵本噺山科』にある。この話にいろいろ肉付けされて現在の「そこつ長屋」になった。

ある長屋に住む仲良し二人組のやり取りが主なのだけど、いっぽうがまめでそそっかしく、いっぽうが無精でそそっかしいという、ボケとボケの組み合わせなので、ありえないような内容の会話がスピーディに展開していく。収録作品の中で最も生で聞きたいと思ったのがこの噺だ。

兄貴(まめでそそっかしい方の男)が、雷門付近で、菰を被せられた行きだおれの死体を見かけて、こいつは熊の野郎(無精でそそっかしい方の男)に違いないと訴える。
この時点で既に一人合点ばかりで、何を言っているのかさっぱりだ。絡まれた番人らしき男の「わからない人が出て来たな…」「こまるな、この人は…」等のボヤキには全文同意である。

兄貴はまめな男らしくとっとと長屋に帰ると、寝ている熊公を叩き起こして、「おめえの死骸を引き取りに行くのさ」などと言い出す。
熊公の方は死んだ覚えがないので驚くが、兄貴から「驚いている場合じゃねえ」と急き立てられ、大勢の人々に注目されているのに恥らいながら、自分の死体を引き取りに来たと、番をしている男に申し出る。番人の「こまるな。おんなじような人がもう一人増えちまって…」とのボヤキには心の底から同情してしまう。

最後、自分の死骸(らしき行きだおれ)を抱きかかえた熊公の「抱かれてるのはたしかにおれだけれど、抱いているおれは、いったいどこのだれなんだろう」の台詞は最高に間抜けで、哲学的な風格すら漂わせている。お腹の底から笑える名作だ。


「らくだ」は、ホラー的な雰囲気の中で、裏長屋に住む庶民の生活を浮き彫りにした力作。
どんな人間でも酒を飲むとそれなりに変わるものだが、らくだの兄貴分とくず屋の性格が酒量に比例してじわじわと逆転していく描写には、得体の知れない滑稽味と不気味を覚える。

ある長屋に馬という名前の男が住んでいた。
この男は乱暴で金と酒にだらしなく、とてもではないが好人物とは言い難い。大きな図体でノソノソと動く姿は、本名の馬よりらくだを彷彿とさせるので、誰もがらくだと呼ぶのだった。

ある日の昼過ぎ、らくだの住む長屋を訪ねた兄貴分が、布団の中で死んでいるらくだを発見する。
さっそく葬式の算段を立て始めた兄貴分。そこへ運悪くやって来たくず屋にらくだの持ち物を売り払おうとするが、この家にはガラクタしかないと言われてしまう。
そこで、兄貴分はまだ仕事中だと渋るくず屋の商売道具を取り上げて、脅したりすかしたりしながら、月番や大家のもとに出向いて香典と酒と煮しめをせびってくるように言い含める。しかし、らくだの心証は死してなお最悪なため、誰からも一銭も出してもらえなかった。

すると、兄貴分は口から血反吐を垂れ流しているらくだの死骸をくず屋に背負わせて、いいように処置をつけてくれないなら座敷で死骸にかんかんのうを踊らせる、と脅して来いと言い出すのだった。
これに参った大家たちから目当ての金品をせしめるのに成功した兄貴分は、今度は同じやりかたで八百屋から早桶代わりの四斗樽を手に入れようとする。これにも成功した二人は、樽に死骸を放り込むと酒盛りを始めるのだが…。

飲むほどに酔うほどに性格の入れ替わっていく二人の人物の会話の推移は、短編小説としても傑作なのだが、落語は一人の落語家が演じるもの。よほどの巧手でなければ、耳で聞いただけで、この噺の可笑しさ怖さを観客に理解させるのは難しいだろう。
血を吐いて死んでいるらくだの死骸発見から始まって、死骸を背負って踊らせるという不謹慎。途中で落っことした死骸と間違えて樽に突っ込んだ願人坊主を火にかけてしまうという恐ろしい展開。「あつい、あつい、あつ、あつ、あつ…」と騒ぐ願人坊主を見ながら、「ここは、日本一の火屋(ひや)だ」「ああ、冷酒(ひや)でもいいからもう一ぱい」と、火葬と酒をかけて締める狂ったオチまで、落語としては長い噺でありながらすべてが笑える無駄のない構成である。
ところで、らくだの死骸が踊らされたかんかんのう踊りとは、唐人踊りとも言われ、江戸時代後期に流行した異風な踊りのことなのだそうだ。兄貴分とくず屋がらくだの死骸を人形の様に操りながら、手拍子を叩いて謳っている様子を想像すると、おおらかな時代だったのだなあと、妙に感心してしまうのだった。
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娘誕生日2018

2018-10-22 07:34:02 | 日記

24日は娘コメガネの誕生日なのですけど、その頃に夫が出張の予定なので、日曜日に誕生日のお祝いをしました。
今年は生チョコタルトと、手毬寿司、アボカドとサーモンのサラダです。


焼き上がったばかりのタルト台。
バター70g、砂糖50g、卵黄1個、薄力粉120g、アーモンドプードル40g、バニラエッセンス適量。生地をこねてから冷蔵庫で1時間以上寝かし、延べ棒で伸ばした生地をタルトの型に張り付けてから更に小一時間冷蔵庫に寝かせて、重しを乗せて170度に温めたオーブンで25分焼きました。


板チョコ3枚、生クリーム200ml、純ココア大匙二杯をなめらかになるまで弱火にかけてから、タルト台に流し込み冷蔵庫で覚まします。


これで終わりでもいいのですが、今回はお誕生日ケーキなので生クリームと緑色と黄色のキウイをトッピングしました。


手毬寿司はお刺身セットを使いました。


サラダは、レタス、ブロッコリースプラウト、キュウリ、ミニトマト、サーモン、アボカドです。
ドレッシングは、マヨネーズ1とめんつゆ1に山葵を混ぜて作りました。


今年のプレゼントはベレー帽です。土曜日に買いに行きました。
帽子専門店なので品ぞろえは豊富でしたが、コメガネが選んだのはベーシックな色味とデザイン。長く使いたいからだそうです。何か嬉しいことを言ってくれますね。

この日はついでに私のコンタクトレンズも買い替えたのですが、そっちの方がコメガネのベレー帽より高くて申し訳なかったです。すっごい乱視なので店頭に置いてなくて、お取り寄せになってしまいましたし。
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むずかしい愛

2018-10-19 09:28:46 | 日記
カルヴィーノ『むずかしい愛』は、「ある兵士の冒険」「ある悪党の冒険」「ある海水浴客の冒険」「ある会社員の冒険」「ある写真家の冒険」「ある旅行者の冒険」「ある読者の冒険」「ある近視男の冒険」「ある妻の冒険」「あり夫婦の冒険」「ある詩人の冒険」「あるスキーヤーの冒険」の12編からなる短編集。

12編すべてが三人称で主人公の愛にまつわる冒険を描いている。
それは傍目には冒険と呼ぶのが気恥ずかしいほどの日常のささやかなずれでしかないのだけど、主人公の心には消えない爪痕を残す。
カルヴィーノにとっては不在を語ることこそが愛を語る唯一の方法だ。
『むずかしい愛』に収められた12編はすべてが陰画としての愛、愛の不在を証明するための試みなのかもしれない。
愛は成就したと思った次の瞬間にはもう消えかかっていて、日々の中で残酷に砕け散っていく。無言の悲しみが凝集する。
描かれているのは恋愛の幻滅と倦怠、移ろいやすさだ。恋愛において誰もが感じるコミュニケーションの難しさをカルヴィーノは難しいのではなく、不可能なのだと考えているらしい。
とはいえ、本作の読後感は不思議と悪くないのだった。寧ろ、人は愛がなくても生きていける、愛に囚われて生きなくてもいいのだという、妙な解放感が得られた。


「ある兵士の冒険」は、汽車で未亡人風の女と乗り合わせたある歩兵の物語。

トマーグラが乗っている車室に背の高い豊満な女が入ってくる。その車室はがら空きなのに、彼女は何故かトマーグラの隣に腰を下ろす。
年の頃は30代。彼女の落ち着いた態度と安っぽい香水の匂いは、トマーグラに何かを期待させる。

汽車が揺れるたびに二人の肉体は触れたり離れたりするが、彼女は表情一つ変えない。トマーグラは何とかして彼女にメッセージを伝えてみようと決心する。
トマーグラはズボンのポケットに入れた手を布越しに彼女の太腿に押し付けてみる。そうして、辛抱を重ね、慎重に慎重を期して、徐々に接触を大胆なものにしていく。彼の手はもはや汽車の揺れを言い訳に出来ないほど際どい部分に触れていたが、彼女は不快なそぶりを見せない。

何か決定的な行動に出てみるだけの価値があるような気がしてくるが、相手がポケットの中の探し物をしていると信じているような気もする。或いは他の乗客に配慮して我慢しているのかもしれない。若しくは大騒ぎをする決定的な機会を窺っているのかも。
彼女はバッグの留め金を所在なげに開けたり掛けたりしている。
これは何かのメッセージだろうか。トマーグラは彼女の意図を測りかね、期待と恐怖の間を激しく揺れ動くのだった。


「ある会社員の冒険」は、一夜の不倫に浮かれた会社員が翌日には憂鬱に苛まされる物語。

エンリーコ・ニューイはふとした成り行きから美しい奥方と関係を持った。
浮かれたエンリーコは、カフェや床屋に寄って店員たちに昨夜のアバンチュールを仄めかしてみるが、悉く会話が噛み合わない。消化不良のエンリーコは、誰かに話をすることで自分の幸せな気持ちを伝えたいという欲求に駆られていく。

エンリーコが通りを歩いているとお誂え向きの人物と出会う。
十年ぶりに顔を合わせたその男、バルデッタは、かつてはエンリーコの遊び仲間だった。バルデッタになら、多少大げさに昨夜のアバンチュールを話して聞かせたって構わないだろう。彼はエンリーコが今の気分を思う存分ぶつけるには理想的な人物だった。
ところが、予想に反して既に妻子持ちのバルデッタは、エンリーコの情事になどまるで関心を示さない。バルデッタからひとしきり仕事と家族の愚痴を聞かされ、彼と別れるころには、エンリーコは後悔の念に襲われていた。あのバルデッタとなら穏やかでちょっと皮肉な男っぽい会話が交わせると思っていたのに。

エンリーコは急いで仕事に向かった。
彼は、他人に我が身の出来事を話して聞かせるなんて、まるで子供じみていて、自分の性格にも習慣にもそぐわないことだったな、と考えてみた。そうして自分と折り合いをつけて、自尊心を取り戻してから、勤務に就いた。

勤務中もエンリーコの頭はあの美しい女性でいっぱいだった。誰と何を話していても、うわの空で、現在には何の望みも抱かず、狂おしい愛の記憶に耽っていた。
しかし、それは誰とも共有できない感情だった。
まるで砂漠にいるようだった。経験したことは決して等身大になり得ないのだろうか、自分が到達した充足感を表現するなんてことは、暗示をもってしても、ましてや直截な言葉をもってしても、それに頭の中でだって、どのみち不可能ではないだろうか。
それを思うと、エンリーコの記憶の中で幸福な感覚が一つ一つ消えていくようだった。


「ある写真家の冒険」は、家族の写真撮影に夢中な友人たちを皮肉な目で見ていた独身男が恋人の写真撮影に夢中になる物語。

アントニーノ・パラッジは写真を撮らないせいで、友人や同僚と付き合っていても次第に孤独感を覚えるようになった。
同世代の連中が一人また一人と結婚し、家庭を築いていったのに、アントニーノは相変わらず独身を通していた。

家庭を持つことと写真撮影、この二つの間には対物レンズに対する情熱が、往々にして親になることの副次的な結果としての生理学的ともいえる自然な形で生じるという点において、疑いのない関連が介在している。独身者のアントニーノはそこに偶像崇拝・家庭・狂気という道程の一局面を見ていた。
写真とは一日の移ろいやすい連続性から、時間のコマ切れを取り出そうとする試みなのだ。
生身の人間が撮った自然でさり気ない写真を好むことが、逆にさり気なさを殺し、写された現在を忽ち郷愁を伴う過去にしてしまう。だから写真は撮られた瞬間から追悼の匂いがするのだ。

アントニーノは、ビーチェという恋人が出来ると彼女の撮影の為に機材をそろえる。
彼は写真を撮るという行為に哲学的な意味を探しながら、恋人に様々なポーズを取らせる。彼は彼女の姿が彼の視界に侵入し、視界を覆い尽して、その都度その都度、押し寄せる断片的なイメージで視界を奪い、時間と空間とを一つの完成した形の中に集めてゆくのを感じた。
しかし、彼にとっては単に彼女が問題という訳ではないのだった。
何でもいい、誰でもいい、撮ろうと決めたら、ずっとそれだけを、あらゆる時間を取り続けなければならない、写真が何か意味を持つとすれば、それは想定できるすべての像を取りつくした時なのだった。
彼女は素直に協力していたが、やがて彼のもとを去ってしまう。
吸い殻が山のようになった灰皿、乱れたベッド、彼は彼女の不在を示す物を取り続けた。それは郷愁を伴う愛の亡骸だった。
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運動会2018

2018-10-16 07:06:23 | 日記

先週土曜日は娘コメガネの学校の運動会でした。


今回はコロッケ弁当です。
ミニコロッケ、マカロニサラダ、魚肉ソーセージとチーズのクルクル巻きとプチトマトのピンチョス、卵焼き、おにぎり。デザートは柿です。
コメガネは六年生なので、今回が小学校最後の運動会だったのですが、夫は金曜日のうちに出張先から戻れなかったので、見に行くことが出来ず残念がっていましたよ。インフラ関係のお仕事なので、急な予定の変更は仕方ないのですが。
コメガネは、金曜日の時点では、「お父さんか来なくても平気」なんて強がっていましたが、本当は寂しかったようで、当日の朝には「ショックなもんなだねぇ」とショボくれていました。何日も前から自分の参加する競技の見易いポジションについて色々言っていましたので、お父さんにも見て欲しかったようです。

今年は生憎の曇天でしたが、運動会が終わるまでは雨が降らなくて良かったです。
コメガネは赤組で、徒競走、ムカデ競争、大玉転がし、ジェンカ、綱引き、組体操&ダンスの六種類に出場しました。


準備体操。


応援。


徒競走。


ムカデ競争。


綱引き。








組体操&ダンス。
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