青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

最近の犬猫まとめ

2022-01-31 08:35:29 | 日記

最近犬猫の画像をアップしていないなということで、撮り溜めていた画像をちょっとまとめてみました。
子供の写真もですが、犬猫のも撮るだけ撮って満足してしまって、めったに整理しません(汗)


冬のうちはだいたいヒーターの前か、ソファーの上に集う犬猫。人間が畳に座っているというのに……。


写真マジックで蓬がやたら小さい。実物はもっと大きいです。


実際はこのくらい。凜ちゃんに足を乗せられています。


顔も乗せられる。


乗せ返す。


蓬と柏、どこを見ているの?


お盆猫。


凜ちゃんと。こちらも写真マジックで、前足がやたらと長い。


猫のミルフィーユ。


縦列駐車。


猫団子with凜。


買い物鞄に入る桜。


買い物鞄に入る柏。


ウロボロスのような桜と柏。猫は無限に猫に還るのです。


金魚も元気。


去年の秋に七匹貰ったメダカは、今は一匹しかいません。
さすがに寂しいので、暖かくなったら何匹か買い足そう。
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ひかりごけ

2022-01-21 08:40:51 | 日記
武田泰淳著『ひかりごけ』

“雪と氷に閉ざされた北海の洞窟の中で、生死の境においつめられた人間同士が相食むにいたる惨劇を通して、極限状況における人間心理を真正面から直視した問題作。”

昭和19年に北海道の羅臼で起きた人肉食事件をもとに描かれた作品だ。
この事件は、食人によって刑を科せられた初めての事件とされている。
物語は三部構成になっていて、第一部は羅臼を訪れた作家〈私〉の紀行文という形式で、第二部、第三部は「読む戯曲」という形式だ。第二部は事件当時の描写、第三部は裁判の描写が当てられている。

事件の唯一の生存者である船長は、「読む戯曲」の両方に登場するが、第一幕と第二幕では言葉遣いも知的レベルも異なる。そのくせ「俺は我慢している」という主張は一貫しているのが不気味だ。

人肉食はホラー漫画やモンド映画でなじみのテーマだが、武田はグロ描写を愉しむためにこの作品を描いたのではないだろう。
本書には、人肉を解体・調理したり喰らったりする場面は直接描かれていない。ショッキングなテーマに反して、ひどく内省的な作品だ。
人が人である限り決して超えてはならない一線とはなにか。人肉を喰った者の首のうしろに浮かぶの緑色の光が、人肉を喰っていない裁判長や傍聴人たちの首にも浮かび上がったのはなぜか。それは、人として生まれてきたことがすでに罪という徴なのか。観念的な言い回しが多く、最後まで読んでも明確な回答は得られなかった。

作家〈私〉は、小説の取材で知床半島の羅臼町を訪れた。
標津の駅から羅臼の港まで根室海峡を右に海べりを走るバスの窓からは、今はソ連(ロシア)の領土となった国後島が海面に伸びている姿が視界に入ってくる。ここは「国境」、海の向こうは「外国」なのだ。
〈私〉が訪れた九月には花も実もある美しい自然を楽しめる羅臼だが、真冬になると地は吹雪に曝され、海は流氷が覆い尽くす。そんな厳しい自然環境に置かれると、いやでも生死の境を意識しながら暮らすことになるのだろう。

この地で人肉食事件が起きたのは、厳冬の季節だった。
あの異常な事件を考えるうえで、この土地の地形と季節を失念するわけにはいかない。
羅臼という地名は、アイヌ語のラウシからきている。
その昔、アイヌ人はシカやクマを捕ると、必ずここで屠殺した。その臓腑や骨などが散乱していたことからつけられた地名だ。
アイヌ人は地形や生産そのままを地名にするのだが、これから語られる事件を思うと、まるで地名に呪いが宿ったような不気味さを感じる。

〈私〉は地元の中学校の校長に案内され、ペキン岬のマッカウス洞窟にひかりごけを観に行った。ペキンとは北京のことではなく、アイヌ語で「裂けた岬」「明るい岬」などの意味だ。
道中で〈私〉は、校長から戦中に起きたある事件について聞かされる。
金緑色に発光するひかりごけに覆われた洞内で、昭和19年の厳冬、難破船の船員たちによって人肉食と殺人が行われたのだ。

“「その船長は、仲間の肉を喰って、自分だけは丸々と太って、羅臼へやって来たんですからね。全く凄い奴がいますよ」
彼はそう言って、おかしくてたまらぬ風に、笑いを噴き出しました。
「船長はだまっていたので、最初は誰にもわからなかったんですが、一人じゃなくて、二、三人食べたらしいんですよ。凄い奴ですよ」”

何がそんなに愉快なのか分からないが、事件を語る校長は終始あっけらかんとしている。

昭和19年12月。
吹雪と波濤のため錨も用を成さず、船は流される一方だった。
陸地が近いとの予感はあった。しかし、岩礁の多い海岸では、船は安全に着岸できない。船員たちは、最初にロープを胴に巻き付け海中に飛び込んだ者の先導で、ペキン岬に辿り着いた。
それから、唯一の生き残りである船長が羅臼から二十一粁離れたルシヤで発見されたのが、難破当日から二ヶ月目の二月の頭。それまでの間、彼らはどんな生活を送っていたのか。

救助された船長は羅臼町に送られ、旅館の一室に保護された。
天皇陛下のお役に立てるまでは死ねないという船長の生への執念は、戦時美談として村中に広がった。同情し感激した地元民の慰問は連日ひきも切らなかった。

五月になって、流氷に挟まったリンゴ箱が発見された。
箱の中には、ばらばらになった人骨や皮などが、ちょうど人体一個分詰め込まれていた。

“皮のついたままの頭蓋骨には、頭髪が二寸ばかり伸びている。手は手首から、足は足首から、それぞれ左右とも切断されたもの。骨はみな純白と化していて、ただ肋骨のみが、煮しめた如く色づいていた。箱の底に剥ぎとられた皮が二枚、一枚は胸から下腹部まで、一枚は肩から腰まで、なおそのほかに船長のネーム入りの背広上着一着が発見されました。”

こうして美談は事件となり、検事の一行が現場に急行した。
船長は、遭難して暫くの間は、西川という船員も生きていたこと。二人でカモメやトッカリ(アザラシ)などを捕まえて食い繋いでいたが、一月に入って西川が餓死してしまったこと。一人取り残された船長は、餓死することに耐えられず、西川の死体の肉で飢えをしのいだことを自白した。
日本の刑法には食人を罰する罪名がないので、船長は死体毀損及び死体遺棄の罪名で刑に服した。ここまでが、地元の郷土誌に記されている事件の概要だ。
しかし、船長以外に生存者がいないので、船長の自白が事実だとする決め手がない。発見されなかった他の船員たちの死体はどうなったのか。西川の死因は本当に餓死だったのか。
後半からは「読む戯曲」という形で、マッカウス洞窟で本当は何が起きたのかを推理小説的に想像していく。

第一幕「マッカウス洞窟の場」は、事件当時の船員たちのやり取りを描いている。

難破船の乗員のうち、洞窟まで逃げ込むことができたのは、船長、西川、八蔵、五助の四人だった。
四人のうち最も衰弱の激しかった五助がほどなくして死亡する。五助は死ぬ間際に自分が死んでも死体は喰わないで欲しいと願う。
船長は生き延びるために五助の死体を食べることを主張するが、八蔵と西川はそれに反対する。
八蔵は五助との約束を守り、五助の死体を食べなかったため餓死した。
船長と西川は五助の死体を食べたので生き延びることができた。
八蔵は衰弱極り死を待つばかりになった身で、西川にこんなことを語っていた。

“八蔵  (略)人の肉さ喰ったもんには、首のうしろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はひかりごけつうもんの光に似てるだと。”

その光の輪が、西川の首のうしろに見えると言う。
五助の死体を喰い尽くした船長は、八蔵が死ねば、自分と西川は死体を喰うだろうと予告した。

“船長  人の肉さ喰いたがらねえもんは、死ぬより仕方ねえだ。”

“西川  おめえは、仲間が死んでも悲しくはねえだか。”

“船長  悲しがっても、死ぬものが助かるわけじゃねえ。”

西川は「おらイヤだ。おらイヤだ」と抗議したが、それでも八蔵が死ぬと、その肉を喰ってしまった。
十日後、八蔵の肉が尽き、寒気はますます強くなった。
しかし、船長の生への執念は少しも衰えなかった。一方で、西川は仲間の肉を喰った恥ずかしさにすすり泣き、半ば生の拠りどころを失っているのだった。
西川は、船長が八蔵が死ぬのを待ちながら、八蔵の肉で何日生き延びることができるか計算していたことを知っている。なので、二人きりになった今、船長が自分を殺して喰う気ではないかと恐れる。が、船長は、「殺す必要はない」と告げる。

“船長  死ぬのを待っているわけじゃねえべさ。ただ待っているだけだわさ。待っていると、おめえが死ぬだよ。”

そして、「殺すよりなお悪い」と激高する西川にむかって、「俺は我慢してる」と何度も何度も言うのだ。

“船長  俺は我慢してるさ。我慢できねえこっても、我慢してるさ。これだけ我慢するな、容易なこってねえさ。”

“船長  (略)俺だって、何を我慢してんのかわからねえくれえ、我慢してんのよ。”

西川は、船長に喰われるくらいならフカの餌になった方がましだと海に飛び込もうとする。
船長は、西川を捕まえ殺害する。西川の死体を引きずる船長の首のうしろに、緑色の輪が輝いている。

飢餓の極みに達して犯す罪のうち、以下のどこまでが人として許されるのか。

1・単なる殺人
2・人肉食を目的に犯す殺人
3・人肉食を目的に犯した殺人の後、人肉は食べない。
4・人肉食を目的に犯した殺人の後、人肉を食べる。
5・殺人は犯さず、自然死の人肉を食べる。

二人の食人者のうち、西川は5に該当し、船長は2と4に該当する。
西川には感じない生理的な嫌悪感を船長に感じるのは、4を犯した者と、その他を犯した者との間には越えられない差があるからだ。ここが人間と異形の者との分岐点なのだろう。
食人を目的に殺人を犯し、犠牲者の肉を喰った者にだけ感じる異形感、その正体が何なのか。
船長は西川と口論になった時、2ページに渡って「俺は我慢している」と連呼しているのだが、船長の真意は共に食人を経験をしている西川にさえ欠片も伝わらない。
船長は、この「俺は我慢している」という主張を第二幕でも続けている。
この主張を極限の飢えも人肉食も経験していない裁判長や検事はどう受け止めるのか。

第二幕「法廷の場」は、第一幕より六ヶ月経過した法廷が舞台。
船長はマッカウス洞窟で犯した罪によって裁判にかけられている。
船長の話し言葉は、訛りの強かった第一幕とは異なり、標準語になっている。また、彼の顔は、作家〈私〉をマッカウス洞窟に案内した中学校の校長に酷似している。

検事は以下のように糾弾する。

“検事  同じやむを得ざる事情のもとにあっても、五助ならびに八蔵は、敢えて人肉を食べることなくして死亡したではないか。また西川は、船長と同様、人肉を食べはしたが、それを恥じて、海中に身を投ぜんとして、船長に殺害されたのである。この三名の被害者は、それぞれ程度の差こそあれ、人間的反省、人間的苦悩を示して死亡したのに反し、ただ一人被告のみは、最後まで、何ら反省もすることなく生き残った。あまつさえ、犯罪発覚後も、平然としてその罪を後悔する様子が見えない。”

この後、船長が人肉食を拒絶する八蔵や西川に対して愛国心を云々したことへの批判が続くのだが、そこはこの時代の人特有の感覚なので置いておく。
時代を問わず多くの人にとって船長の行為が受け入れがたいのは、上に抜粋したところに理由があるのだろう。
四人の船員のうち、船長ただ一人が、食人を恥じることなく、更には生きている仲間を殺害してまでこれを喰らった。そして、心情を問うても、「私は我慢をしています」とばかり言う。この態度が、検事をして「傲慢」「盗人猛々しい」と言わしめるのだ。

いったい船長は何を我慢しているのか。
第一幕では、寒さ、飢え、仲間の肉を喰ったこと、助かるあてのないこと、すべてをひっくるめて、自分が何を我慢しているのかわからないくらい我慢していると語っていた船長だが、第二幕では、もう少し理知的な言い回しで、自分の内面を語れるようになっている。
船長は裁判を我慢していると言う。裁判の何を我慢し、何を望んでいるのか。

“船長  理由は、検事殿が、他人の肉を食べたこともないし、他人から自分の肉を食べられたこともないからです。”

“船長  いいえ、それはちがいます。私はただ、他人の肉を食べた者か、他人に食べられてしまった者に、裁かれたいと申上げているだけです。”

“船長  私を食べてもらうことですよ。私が五助と八蔵と西川にしたように、私の肉をすっかり食べてもらうことですよ。あなたには、おできにならないでしょう。(略)”

“船長  ちがいますよ。あなたは人の肉を食べるような人じゃありませんよ。あなたは検事殿ですよ。立派な人ですよ。みな立派な人ばかりですよ。食べた男は私一人ですよ。私一人が食べただけですよ。誰もほかの人は、食べていませんよ。”

そして、船長はあの光の輪の話をする。
検事は世迷言を言うな、そんなものは見えないと言うが、船長はもっと近くに寄ってよく見て下さいと言う。

“船長  光の輪のついた者には、見えないんですよ。あれをやったものには見えないんですよ。”

“弁護人  しかし、俺にも見えないんだがな。“

“船長  あなたに見えない?いいえ、そんなはずはありません。”

“弁護人  検事にも裁判長にも、見えないんだぜ。”

そう言われて、船長に近づく人々の首のうしろには緑色の光の輪が見える。その光の輪は彼ら自身には見えていない。

人肉を喰った者にだけ現われる緑色の光の輪。
それは、食人者自身には見ることができない。その現象が、人肉を喰ったことのない人々にまで起きている。
彼らは食人に匹敵する罪を犯したのだろうか?
それは、人肉を喰ったこともなければ、喰われたこともないくせに、食人者を裁こうとしたことだろうか?己の罪深さを知らずに生きていることもまた罪なのか?人としてこの世に存在していること自体が罪なのか?
でも、船長は、「あの方(天皇)と私とそう違った人間とは思われないのですが」「あの方だって、我慢していられるだけじゃないでしょうか」とまで言っている。こうなると話が飛躍しているように感じる。

これが、今年最初に読んだ本だ。
年の初めに、人肉食がテーマの本ってどうなのと思わなくもない。船長の言わんとすることについて、ぼんやりと理解できた気はするが、具体的な文章に起こすことはできなかった。大岡昇平の『野火』同様、この物語の根底には宗教がある。そこになじみのない者には、届きそうで届かない境地なのかもしれない。
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合格祈願(寒川神社)

2022-01-17 08:25:20 | 日記

先週末に、寒川神社に娘コメガネの高校受験の合格祈願に行ってきました。
今年もコロナ感染を恐れて正月休みの初詣をやめていたので、今回が初詣みたいなものでもあります。














正月に比べるとだいぶ参拝客が少なかったです。コロナと関係なく、来年もこのくらいの時期に初詣でいい気がしました。


今年の迎春ねぶたは、「風神雷神~厄難消除~」
八方除の寒川神社に、風神雷神。禍事・災難除けに最強の組み合わせじゃないですか。


授与所でお守りや破魔矢を購入。


絵馬に合格祈願を書き込みました。


恒例の買い食い。
たこ焼き屋に並ぶコメガネ。今年もこういう状況ですから、持って帰ってから食べました。


購入したもの色々。


寅年の破魔矢。


学業成就や合格祈願のお守り達。


八福餅と寅年の土鈴。


八福餅は名称も中身も、お伊勢さんの赤福に酷似しています。全国の大きな神社に似たようなお餅が売ってそう。
八は八方除の八ですが、末広がりでもあり縁起がいいですね。今年はコメガネの受験が控えているので、いつもに増してゲン担ぎ。


寅年の土鈴はコロンと丸っこい形で可愛い。


コメガネさんのたこ焼きとイチゴ飴。
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金柑マーマレード2022

2022-01-14 08:24:10 | 日記

金柑を収穫しました。
例年は2月の頭頃が収穫時期なのですが、今年は色づくのが早かったです。ちなみに去年は実の生育が悪くて、確か3月に入ってからの収穫でした。






去年に比べると実の数が多かったです。
途中で雪をかぶりましたが、元気元気。プランターの草花は花びらが凍って、おひたしみたいに萎びてしましましたが、果樹は強いですね。

約1300g収穫。残りの実は、庭に来る鳥たちに提供したり、生食したり。我が家の金柑は糖度高めなので、生食にもできます。


実を洗ってヘタを取ってから、半分に切って爪楊枝で中の種を取り出し、乱切りにしました。切り方は毎年気分次第で、去年は千切りだったと思います。
鍋に移してから、砂糖500gを全体にまぶし、水分が出るまで放置。


砂糖が完全に溶けてから、弱火でゆっくり煮詰めました。


冷めてから、すぐに使う分はパックに入れました。残りはジップロックに入れ、冷凍保存。



さっそく、金柑オートミールクッキーを焼きました。
残りのマーマレードも主にお菓子に使う予定です。
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レモンの焼き菓子や林檎の焼き菓子など

2022-01-11 09:11:15 | 日記
晩秋に収穫したレモンをジャムにして、お菓子作りに利用しました。
去年は豊作だったのでジャムの量も多く、まだ冷凍庫に幾らか残っています。


毎年のお約束、レモンパイ。
いつもはレモンカードを使っていますが、今回はカスタード&レモンジャムです。
レモンジャムを消費したい一心だったのですが、こちらの方が家族に好評でした。


180度のオーブンで重石を乗せたパイシートを焼いている間に、カスタードを作ります。


焼いたパイシートの上に、カスタード、レモンジャムの順で乗せます。


その後、メレンゲを角が立つようにたっぷり乗せ、200度のオーブンで焼き目が強くつきすぎないように様子を見ながら焼きます。


焼きあがった直後。
冷めるとちょっとメレンゲが萎んじゃうのが残念。


パイシートとカスタードが余ったので、イチゴジャムを使ってカップ状のパイも焼きました。


焼いたらイチゴジャムが溢れていました。ちょっと乗せすぎたかな。


紅茶とレモンジャムのパウンドケーキです。
上にレモンの蜂蜜漬けを乗せたのですが、これが家族からあまり評判が良くなくて。
次に作る時には乗せるのはやめておこう。


生地の上にいきなりレモンを乗せると沈んでしまうので、まずは乗せずに焼き始め、表面がやや固くなってからレモンを乗せて焼き上げました。


断面。


レモンジャム入りオートミールクッキー。


焼く前はこんな感じ。

レモンばかりでは飽きるので、林檎の焼き菓子も作っています。


林檎パイです。


イチョウ切りにした林檎を甘く煮詰め、シナモンパウダーを効かせました。


パイシートに卵黄を塗って焼きます。


林檎ケーキです。
初めて作りましたけど、私はタルトタタンの方が好きですね。


生地の上にスライスした林檎を乗せてオーブンで焼きます。


こちらも、焼きあがってからシナモンパウダーをたくさんかけました。


夫が会社帰りに中華街で買ってきてくれた肉まん。


夫が蒸してくれたサツマイモ。
小一時間かけて丁寧に蒸しているので、とても甘い。


今の時期のおやつと言えば、おぜんざい。


おやつとは違いますが、おせちのために作ったチャーシューが余っていたので、ラーメンやチャーハンに使いました。
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