山尾悠子『ラピスラズリ』は、「銅板」、「閑日」、「竈の秋」、「トビアス」、「青金石」の五篇からなる連作小説。冬眠者と人形、使用人、それからゴーストが織りなす幻想世界は、真冬の晴天みたいに清澄で、肺が痛くなるほどの冷たい空気に支配されている。まさにこれからの季節にぴったりの本だ。
“われわれが眠りを選ぶのではなく、眠りがわれわれを好むのだ。逃れがたい婚姻の軛のように”
冬眠者という言葉に歓びを感じる。
私は、絵画でも小説でも眠っている人を描いた作品が好きだ。何故なら、どんな人間でも寝顔はそれなりに荘厳なものだから。そう感じるのは、延長上に死者への畏敬があるからかもしれない。
冬が来るたびに永い眠りにつき、春の訪れと共の再生する冬眠者は、植物のように静かで強かで、これこそが生物の正しい在り方なのではないかと思う。
未来の幻視。或いは遠い昔の思い出。長い年月をかけて眠りと再生を繰り返す種族の物語。
どんな話なのかと聞かれても具体的に説明することが難しい。せいぜい「長い詩のような」などとしか表現できない。それでも、銅版画・人形・冬眠者など手掛かりとなる(私好みの)ワードがある分、山尾作品の中では読みやすいと感じた。
書かれている内容は、物語に出てくる銅版画同様に偏執的な熱心さで描き込まれ、意味ありげなのにもどかしく意味の分からない部分もあるのだが、絵画を鑑賞する時の様な心持で正解を求めずに雰囲気を楽しめば良いのではないだろうか。
物語は、第一章「銅板」で、“わたし”が偶々入った深夜営業の画廊で三枚組の銅版画を眺めているところから始まる。
細い金縁で一枚ずつ額装された古色蒼然とした銅版画――それらは、店の奥でひっそりと掲げられ、小振りである上に説明のプレートもなく、ほとんどの客は見過ごしてしまうだろうと思われた。そのおよそ売る気があるとは思えない銅版画に見入っていた “わたし”に店主が声をかけてきた。
「画題をお知りになりたくはございませんか」
三葉の銅版画は、左から順に〈人形狂いの奥方への使い〉、〈冬眠室〉、〈使用人の反乱〉、そのようになっている。
“わたし”は、茫然とするほどひたすら眠く、店主は酷い睡眠不足を抱えているらしい。そんな眠たい二人によって、銅版画に描かれている冬眠者のものがたりが推理されていく。
“殺されたわけではない、生きたまま森の枯れ葉の海に埋め捨てられた冬眠者たちはその後どうなったのだろう。春が来るまでそのまま眠りつづけ、朽ち葉に覆われた湿っぽい腐葉土のなかに潜む蟲や微生物たちとおなじ種類の眠りを眠り、そして目覚めたときにもかれらは同じにんげんのままでいられたのだろうか。”
第二章「閑日」、第三章「竈の秋」の舞台は、三葉の銅版画の世界であるようだ。
冬眠者は卑しむべき労働を免れた支配階級である。
冬季を冬寝室で過ごす彼らは、使用人たちに身辺の世話をさせている。冬眠の間、老いや成長を止める彼らは同年代の他の者たちより若く見える上に免疫力も高い。医師も含めた使用人たちは、秋になると主一族の冬眠に備えて、栄養管理や屋敷の模様替えにてんてこ舞いになる。
くっきりと線引きされている彼我の差。
しかし、冬眠者が春になって永い眠りから覚醒する際には使用人たちの手を借りなければならない。もし、使用人たちが手を貸さなければどうなるのだろうか?
この二つの章は、ページ数も登場人物も多く、全体的に賑やかな雰囲気だ。
秋は一年のうちでもっとも豊饒な季節。
長い冬眠に備えて、冬眠者たちが栄養を蓄えるための御馳走をひっきりなしに作り続ける厨房の描写は実に活き活きしている。脂の爆ぜる骨付き肉や肉詰めパイ、軽焼きのパン、焦げ目をつけたキノコの香りなどが行間から漂ってくるようだ。
料理の他にも、様々な匂いが豊かさを演出している。
静謐な夜に屋敷の庭園を漂う雪の匂い、銀器に灯された蠟燭の匂い、落ち葉で覆われた湿っぽい腐葉土の匂い、密閉された温室の濃い植物の匂い…すべてが緩やかに郷愁のような快感を齎してくれる。
第四章「トビアス」は、いつの時代かわからない日本、古い運河に潮のにおいが混じる廃市が舞台。
いつきの一族は女子ばかりで、殆どの者が文盲だ。
彼女たちは皆メダイを持っている。メダイに刻まれている聖書を持って肩に小鳥を止まらせた聖人はきっとフランシスコ様で、でもなぜそのメダイが伝わっているのかは誰も説明できなかった。
たまきさんに連れて来られた山荘にあった食料は、加工用の苺だけだった。
ビニール越しの凍り付いた苺の感触は、寝室の扉の外で死んで固くなっている愛犬トビのことを連想させた。
いつきは眠りについた。春先になって目覚めたとき、迎えに来てくれたのはたまきさんではなかった。
落葉し続ける林をゴム人形を銜えて走り続ける犬のイメージは、林の空き地で枯れ葉の海に埋もれて春を待つたまきさんのイメージと交錯する。
長い髪を枯れ葉だらけにして、両手に持った何かを口に運んで食べようとするたまきさんの姿は、ほとんど現実の光景をとしていつきの目に浮かんだ。
おばあ様の法要でいつきが思い出すのは、哀れな犬やたまきさんのことばかりではなく、鍋いっぱいに煮蕩けていく苺ジャムの匂いであったりする。
アルマイトの鍋でぐつぐつと煮込む苺に大量の白い砂糖が湿って溶けていく。焦げ付くように甘くてくどい砂糖と苺の執拗な匂い。
食事とは、命をつなぐことに直結した行為だ。
たまきさんが口いっぱいに頬張って咀嚼しているそれは地中に腐った肉と骨のようでもあり、命の塊である腐葉土であるようにも思われた。
第五章「青金石」は、西暦1226年のある春の宵の話。
生涯最後の年を過ごしていたアッシジのフランチェスコの庵に一人の客が訪れる。
闇の中から現れた若者の顔に見覚えがあった。ブナの木が黄色くなった秋、細工師の親方と一緒にいた若者だ。若者は、キリスト降誕の場を再現する木彫り人形の一群を届けに来たのだ。
若者は人形を届けるのが遅れたことを詫びた。
親方は降誕祭の前に届けられるように仕事を進めていたのに、若者が冬の間寝ていたため彩色が間に合わなかったのだ、と。
病気ではないのだ。ブナやスズカケの葉が散るころになると眠りについしまう。その間は息をしていないと周りの者は言う。気味が悪いから納屋にでも行けと言われる。
洗礼を受けていないから呪われたのだと司祭に言われ、教会には一歩も踏み入れることが出来なかった。祭壇づくりの仕事がもらえたのはお慈悲。だから聖母様と赤子には触っていない。おれがつくった飾りを祭壇に上げたら罰が当たるから。
ずっとひとりでいて、ひとを恋うることもできない。冬の間は歳をとらないので、同い年の幼馴染たちより若いままだ。まだ薄ら寒い納屋で目覚め、空腹と人恋しさに震えながら春先の辻に出ると、道を行く人は皆、自分より幸せに見える。――おれは赦されますか。
そのとき、フランチェスコを動かしたのは筋道だった思考ではなく、また憐みや慈悲の感情だけでもなかった。静かな幸福感が胸に宿るのを彼は感じた。長い年月をかけてようやくここまで辿り着いたという安堵にもそれは似ていた。人生の様々な場面、遠い日々が気の遠くなるような懐かしさをもって一気に溢れ出したのだ。
若者は、ラ・ヴェルナ山のブナの木陰でフランチェスコが見た光輝くものと似たものを見知っていると言う。
浅い春、聖母の青を空に見た者は目覚めを告げる御使いを見ることがある。
その名をビザンチンよりもはるか当方では啓蟄と呼び、西では復活と呼ぶ。若者はこの春先にそれを見たのだ。
死をくぐり抜けて再生できたことの安堵とわずかな失望。体が悶える。最後に食事をしたのがいつだったか思い出せない。呼ばわっても応える者はいない。するとそれを見たのだ。
梁を漉して頭上から落ちる光の筋が数を増し、色に染まり、青い宝石の色の滝となった。それは天上の青、青金石の青だった。天が裂けて零れ落ちてくる光の束――輝く雲間から尖塔に降りる天使を見たのだ。
秋の枯れ葉に始まる春の目覚めのものがたり。
啓蟄の度に納屋で目覚める若者は、キリストの復活を再現しているかのようだ。
誰もが見ることが出来るわけではない啓蟄の天使を、呪われた者として教会に入ることすら許されない彼が見た。鳥たちが歓喜して小躍りし、囀り飛び立つ。フランチェスコが愛した雲雀だ。
第二章・第三章では、いつの時代・どこの国だか分からなかった物語の舞台が、第四章では、運河沿いの日本の廃市とやや具体的になり、最後の第五章では、西暦紀1226年という具体的な数字とアッシジのフランチェスコという実在の人物の名が出てくる。読後、深い落ち葉に沈められていた躰が急速に引き上げられたかのように、私の眼前に新世界が広がった。まるで長い冬眠から目覚めたように……。
五つの章の中で、第五章が一番古い時代を舞台としているのだろう。古い順に、第五章→第二章→第三章→第四章→第一章、だと思う。
第五章のアッシジのフランチェスコは、第四章のメダイのフランシスコ様だ。それに気づいた瞬間に、この物語が祝福の物語であることを知り、泣きたいような気持になった。
“われわれが眠りを選ぶのではなく、眠りがわれわれを好むのだ。逃れがたい婚姻の軛のように”
冬眠者という言葉に歓びを感じる。
私は、絵画でも小説でも眠っている人を描いた作品が好きだ。何故なら、どんな人間でも寝顔はそれなりに荘厳なものだから。そう感じるのは、延長上に死者への畏敬があるからかもしれない。
冬が来るたびに永い眠りにつき、春の訪れと共の再生する冬眠者は、植物のように静かで強かで、これこそが生物の正しい在り方なのではないかと思う。
未来の幻視。或いは遠い昔の思い出。長い年月をかけて眠りと再生を繰り返す種族の物語。
どんな話なのかと聞かれても具体的に説明することが難しい。せいぜい「長い詩のような」などとしか表現できない。それでも、銅版画・人形・冬眠者など手掛かりとなる(私好みの)ワードがある分、山尾作品の中では読みやすいと感じた。
書かれている内容は、物語に出てくる銅版画同様に偏執的な熱心さで描き込まれ、意味ありげなのにもどかしく意味の分からない部分もあるのだが、絵画を鑑賞する時の様な心持で正解を求めずに雰囲気を楽しめば良いのではないだろうか。
物語は、第一章「銅板」で、“わたし”が偶々入った深夜営業の画廊で三枚組の銅版画を眺めているところから始まる。
細い金縁で一枚ずつ額装された古色蒼然とした銅版画――それらは、店の奥でひっそりと掲げられ、小振りである上に説明のプレートもなく、ほとんどの客は見過ごしてしまうだろうと思われた。そのおよそ売る気があるとは思えない銅版画に見入っていた “わたし”に店主が声をかけてきた。
「画題をお知りになりたくはございませんか」
三葉の銅版画は、左から順に〈人形狂いの奥方への使い〉、〈冬眠室〉、〈使用人の反乱〉、そのようになっている。
“わたし”は、茫然とするほどひたすら眠く、店主は酷い睡眠不足を抱えているらしい。そんな眠たい二人によって、銅版画に描かれている冬眠者のものがたりが推理されていく。
“殺されたわけではない、生きたまま森の枯れ葉の海に埋め捨てられた冬眠者たちはその後どうなったのだろう。春が来るまでそのまま眠りつづけ、朽ち葉に覆われた湿っぽい腐葉土のなかに潜む蟲や微生物たちとおなじ種類の眠りを眠り、そして目覚めたときにもかれらは同じにんげんのままでいられたのだろうか。”
第二章「閑日」、第三章「竈の秋」の舞台は、三葉の銅版画の世界であるようだ。
冬眠者は卑しむべき労働を免れた支配階級である。
冬季を冬寝室で過ごす彼らは、使用人たちに身辺の世話をさせている。冬眠の間、老いや成長を止める彼らは同年代の他の者たちより若く見える上に免疫力も高い。医師も含めた使用人たちは、秋になると主一族の冬眠に備えて、栄養管理や屋敷の模様替えにてんてこ舞いになる。
くっきりと線引きされている彼我の差。
しかし、冬眠者が春になって永い眠りから覚醒する際には使用人たちの手を借りなければならない。もし、使用人たちが手を貸さなければどうなるのだろうか?
この二つの章は、ページ数も登場人物も多く、全体的に賑やかな雰囲気だ。
秋は一年のうちでもっとも豊饒な季節。
長い冬眠に備えて、冬眠者たちが栄養を蓄えるための御馳走をひっきりなしに作り続ける厨房の描写は実に活き活きしている。脂の爆ぜる骨付き肉や肉詰めパイ、軽焼きのパン、焦げ目をつけたキノコの香りなどが行間から漂ってくるようだ。
料理の他にも、様々な匂いが豊かさを演出している。
静謐な夜に屋敷の庭園を漂う雪の匂い、銀器に灯された蠟燭の匂い、落ち葉で覆われた湿っぽい腐葉土の匂い、密閉された温室の濃い植物の匂い…すべてが緩やかに郷愁のような快感を齎してくれる。
第四章「トビアス」は、いつの時代かわからない日本、古い運河に潮のにおいが混じる廃市が舞台。
いつきの一族は女子ばかりで、殆どの者が文盲だ。
彼女たちは皆メダイを持っている。メダイに刻まれている聖書を持って肩に小鳥を止まらせた聖人はきっとフランシスコ様で、でもなぜそのメダイが伝わっているのかは誰も説明できなかった。
たまきさんに連れて来られた山荘にあった食料は、加工用の苺だけだった。
ビニール越しの凍り付いた苺の感触は、寝室の扉の外で死んで固くなっている愛犬トビのことを連想させた。
いつきは眠りについた。春先になって目覚めたとき、迎えに来てくれたのはたまきさんではなかった。
落葉し続ける林をゴム人形を銜えて走り続ける犬のイメージは、林の空き地で枯れ葉の海に埋もれて春を待つたまきさんのイメージと交錯する。
長い髪を枯れ葉だらけにして、両手に持った何かを口に運んで食べようとするたまきさんの姿は、ほとんど現実の光景をとしていつきの目に浮かんだ。
おばあ様の法要でいつきが思い出すのは、哀れな犬やたまきさんのことばかりではなく、鍋いっぱいに煮蕩けていく苺ジャムの匂いであったりする。
アルマイトの鍋でぐつぐつと煮込む苺に大量の白い砂糖が湿って溶けていく。焦げ付くように甘くてくどい砂糖と苺の執拗な匂い。
食事とは、命をつなぐことに直結した行為だ。
たまきさんが口いっぱいに頬張って咀嚼しているそれは地中に腐った肉と骨のようでもあり、命の塊である腐葉土であるようにも思われた。
第五章「青金石」は、西暦1226年のある春の宵の話。
生涯最後の年を過ごしていたアッシジのフランチェスコの庵に一人の客が訪れる。
闇の中から現れた若者の顔に見覚えがあった。ブナの木が黄色くなった秋、細工師の親方と一緒にいた若者だ。若者は、キリスト降誕の場を再現する木彫り人形の一群を届けに来たのだ。
若者は人形を届けるのが遅れたことを詫びた。
親方は降誕祭の前に届けられるように仕事を進めていたのに、若者が冬の間寝ていたため彩色が間に合わなかったのだ、と。
病気ではないのだ。ブナやスズカケの葉が散るころになると眠りについしまう。その間は息をしていないと周りの者は言う。気味が悪いから納屋にでも行けと言われる。
洗礼を受けていないから呪われたのだと司祭に言われ、教会には一歩も踏み入れることが出来なかった。祭壇づくりの仕事がもらえたのはお慈悲。だから聖母様と赤子には触っていない。おれがつくった飾りを祭壇に上げたら罰が当たるから。
ずっとひとりでいて、ひとを恋うることもできない。冬の間は歳をとらないので、同い年の幼馴染たちより若いままだ。まだ薄ら寒い納屋で目覚め、空腹と人恋しさに震えながら春先の辻に出ると、道を行く人は皆、自分より幸せに見える。――おれは赦されますか。
そのとき、フランチェスコを動かしたのは筋道だった思考ではなく、また憐みや慈悲の感情だけでもなかった。静かな幸福感が胸に宿るのを彼は感じた。長い年月をかけてようやくここまで辿り着いたという安堵にもそれは似ていた。人生の様々な場面、遠い日々が気の遠くなるような懐かしさをもって一気に溢れ出したのだ。
若者は、ラ・ヴェルナ山のブナの木陰でフランチェスコが見た光輝くものと似たものを見知っていると言う。
浅い春、聖母の青を空に見た者は目覚めを告げる御使いを見ることがある。
その名をビザンチンよりもはるか当方では啓蟄と呼び、西では復活と呼ぶ。若者はこの春先にそれを見たのだ。
死をくぐり抜けて再生できたことの安堵とわずかな失望。体が悶える。最後に食事をしたのがいつだったか思い出せない。呼ばわっても応える者はいない。するとそれを見たのだ。
梁を漉して頭上から落ちる光の筋が数を増し、色に染まり、青い宝石の色の滝となった。それは天上の青、青金石の青だった。天が裂けて零れ落ちてくる光の束――輝く雲間から尖塔に降りる天使を見たのだ。
秋の枯れ葉に始まる春の目覚めのものがたり。
啓蟄の度に納屋で目覚める若者は、キリストの復活を再現しているかのようだ。
誰もが見ることが出来るわけではない啓蟄の天使を、呪われた者として教会に入ることすら許されない彼が見た。鳥たちが歓喜して小躍りし、囀り飛び立つ。フランチェスコが愛した雲雀だ。
第二章・第三章では、いつの時代・どこの国だか分からなかった物語の舞台が、第四章では、運河沿いの日本の廃市とやや具体的になり、最後の第五章では、西暦紀1226年という具体的な数字とアッシジのフランチェスコという実在の人物の名が出てくる。読後、深い落ち葉に沈められていた躰が急速に引き上げられたかのように、私の眼前に新世界が広がった。まるで長い冬眠から目覚めたように……。
五つの章の中で、第五章が一番古い時代を舞台としているのだろう。古い順に、第五章→第二章→第三章→第四章→第一章、だと思う。
第五章のアッシジのフランチェスコは、第四章のメダイのフランシスコ様だ。それに気づいた瞬間に、この物語が祝福の物語であることを知り、泣きたいような気持になった。