青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

ラピスラズリ

2016-11-28 07:11:27 | 日記
山尾悠子『ラピスラズリ』は、「銅板」、「閑日」、「竈の秋」、「トビアス」、「青金石」の五篇からなる連作小説。冬眠者と人形、使用人、それからゴーストが織りなす幻想世界は、真冬の晴天みたいに清澄で、肺が痛くなるほどの冷たい空気に支配されている。まさにこれからの季節にぴったりの本だ。

“われわれが眠りを選ぶのではなく、眠りがわれわれを好むのだ。逃れがたい婚姻の軛のように”

冬眠者という言葉に歓びを感じる。
私は、絵画でも小説でも眠っている人を描いた作品が好きだ。何故なら、どんな人間でも寝顔はそれなりに荘厳なものだから。そう感じるのは、延長上に死者への畏敬があるからかもしれない。
冬が来るたびに永い眠りにつき、春の訪れと共の再生する冬眠者は、植物のように静かで強かで、これこそが生物の正しい在り方なのではないかと思う。

未来の幻視。或いは遠い昔の思い出。長い年月をかけて眠りと再生を繰り返す種族の物語。
どんな話なのかと聞かれても具体的に説明することが難しい。せいぜい「長い詩のような」などとしか表現できない。それでも、銅版画・人形・冬眠者など手掛かりとなる(私好みの)ワードがある分、山尾作品の中では読みやすいと感じた。
書かれている内容は、物語に出てくる銅版画同様に偏執的な熱心さで描き込まれ、意味ありげなのにもどかしく意味の分からない部分もあるのだが、絵画を鑑賞する時の様な心持で正解を求めずに雰囲気を楽しめば良いのではないだろうか。

物語は、第一章「銅板」で、“わたし”が偶々入った深夜営業の画廊で三枚組の銅版画を眺めているところから始まる。

細い金縁で一枚ずつ額装された古色蒼然とした銅版画――それらは、店の奥でひっそりと掲げられ、小振りである上に説明のプレートもなく、ほとんどの客は見過ごしてしまうだろうと思われた。そのおよそ売る気があるとは思えない銅版画に見入っていた “わたし”に店主が声をかけてきた。

「画題をお知りになりたくはございませんか」

三葉の銅版画は、左から順に〈人形狂いの奥方への使い〉、〈冬眠室〉、〈使用人の反乱〉、そのようになっている。
“わたし”は、茫然とするほどひたすら眠く、店主は酷い睡眠不足を抱えているらしい。そんな眠たい二人によって、銅版画に描かれている冬眠者のものがたりが推理されていく。

“殺されたわけではない、生きたまま森の枯れ葉の海に埋め捨てられた冬眠者たちはその後どうなったのだろう。春が来るまでそのまま眠りつづけ、朽ち葉に覆われた湿っぽい腐葉土のなかに潜む蟲や微生物たちとおなじ種類の眠りを眠り、そして目覚めたときにもかれらは同じにんげんのままでいられたのだろうか。”

第二章「閑日」、第三章「竈の秋」の舞台は、三葉の銅版画の世界であるようだ。

冬眠者は卑しむべき労働を免れた支配階級である。
冬季を冬寝室で過ごす彼らは、使用人たちに身辺の世話をさせている。冬眠の間、老いや成長を止める彼らは同年代の他の者たちより若く見える上に免疫力も高い。医師も含めた使用人たちは、秋になると主一族の冬眠に備えて、栄養管理や屋敷の模様替えにてんてこ舞いになる。

くっきりと線引きされている彼我の差。
しかし、冬眠者が春になって永い眠りから覚醒する際には使用人たちの手を借りなければならない。もし、使用人たちが手を貸さなければどうなるのだろうか?

この二つの章は、ページ数も登場人物も多く、全体的に賑やかな雰囲気だ。
秋は一年のうちでもっとも豊饒な季節。
長い冬眠に備えて、冬眠者たちが栄養を蓄えるための御馳走をひっきりなしに作り続ける厨房の描写は実に活き活きしている。脂の爆ぜる骨付き肉や肉詰めパイ、軽焼きのパン、焦げ目をつけたキノコの香りなどが行間から漂ってくるようだ。

料理の他にも、様々な匂いが豊かさを演出している。
静謐な夜に屋敷の庭園を漂う雪の匂い、銀器に灯された蠟燭の匂い、落ち葉で覆われた湿っぽい腐葉土の匂い、密閉された温室の濃い植物の匂い…すべてが緩やかに郷愁のような快感を齎してくれる。

第四章「トビアス」は、いつの時代かわからない日本、古い運河に潮のにおいが混じる廃市が舞台。

いつきの一族は女子ばかりで、殆どの者が文盲だ。
彼女たちは皆メダイを持っている。メダイに刻まれている聖書を持って肩に小鳥を止まらせた聖人はきっとフランシスコ様で、でもなぜそのメダイが伝わっているのかは誰も説明できなかった。

たまきさんに連れて来られた山荘にあった食料は、加工用の苺だけだった。
ビニール越しの凍り付いた苺の感触は、寝室の扉の外で死んで固くなっている愛犬トビのことを連想させた。
いつきは眠りについた。春先になって目覚めたとき、迎えに来てくれたのはたまきさんではなかった。

落葉し続ける林をゴム人形を銜えて走り続ける犬のイメージは、林の空き地で枯れ葉の海に埋もれて春を待つたまきさんのイメージと交錯する。
長い髪を枯れ葉だらけにして、両手に持った何かを口に運んで食べようとするたまきさんの姿は、ほとんど現実の光景をとしていつきの目に浮かんだ。

おばあ様の法要でいつきが思い出すのは、哀れな犬やたまきさんのことばかりではなく、鍋いっぱいに煮蕩けていく苺ジャムの匂いであったりする。
アルマイトの鍋でぐつぐつと煮込む苺に大量の白い砂糖が湿って溶けていく。焦げ付くように甘くてくどい砂糖と苺の執拗な匂い。

食事とは、命をつなぐことに直結した行為だ。
たまきさんが口いっぱいに頬張って咀嚼しているそれは地中に腐った肉と骨のようでもあり、命の塊である腐葉土であるようにも思われた。

第五章「青金石」は、西暦1226年のある春の宵の話。

生涯最後の年を過ごしていたアッシジのフランチェスコの庵に一人の客が訪れる。
闇の中から現れた若者の顔に見覚えがあった。ブナの木が黄色くなった秋、細工師の親方と一緒にいた若者だ。若者は、キリスト降誕の場を再現する木彫り人形の一群を届けに来たのだ。

若者は人形を届けるのが遅れたことを詫びた。
親方は降誕祭の前に届けられるように仕事を進めていたのに、若者が冬の間寝ていたため彩色が間に合わなかったのだ、と。

病気ではないのだ。ブナやスズカケの葉が散るころになると眠りについしまう。その間は息をしていないと周りの者は言う。気味が悪いから納屋にでも行けと言われる。
洗礼を受けていないから呪われたのだと司祭に言われ、教会には一歩も踏み入れることが出来なかった。祭壇づくりの仕事がもらえたのはお慈悲。だから聖母様と赤子には触っていない。おれがつくった飾りを祭壇に上げたら罰が当たるから。
ずっとひとりでいて、ひとを恋うることもできない。冬の間は歳をとらないので、同い年の幼馴染たちより若いままだ。まだ薄ら寒い納屋で目覚め、空腹と人恋しさに震えながら春先の辻に出ると、道を行く人は皆、自分より幸せに見える。――おれは赦されますか。

そのとき、フランチェスコを動かしたのは筋道だった思考ではなく、また憐みや慈悲の感情だけでもなかった。静かな幸福感が胸に宿るのを彼は感じた。長い年月をかけてようやくここまで辿り着いたという安堵にもそれは似ていた。人生の様々な場面、遠い日々が気の遠くなるような懐かしさをもって一気に溢れ出したのだ。

若者は、ラ・ヴェルナ山のブナの木陰でフランチェスコが見た光輝くものと似たものを見知っていると言う。
浅い春、聖母の青を空に見た者は目覚めを告げる御使いを見ることがある。
その名をビザンチンよりもはるか当方では啓蟄と呼び、西では復活と呼ぶ。若者はこの春先にそれを見たのだ。
死をくぐり抜けて再生できたことの安堵とわずかな失望。体が悶える。最後に食事をしたのがいつだったか思い出せない。呼ばわっても応える者はいない。するとそれを見たのだ。
梁を漉して頭上から落ちる光の筋が数を増し、色に染まり、青い宝石の色の滝となった。それは天上の青、青金石の青だった。天が裂けて零れ落ちてくる光の束――輝く雲間から尖塔に降りる天使を見たのだ。

秋の枯れ葉に始まる春の目覚めのものがたり。
啓蟄の度に納屋で目覚める若者は、キリストの復活を再現しているかのようだ。
誰もが見ることが出来るわけではない啓蟄の天使を、呪われた者として教会に入ることすら許されない彼が見た。鳥たちが歓喜して小躍りし、囀り飛び立つ。フランチェスコが愛した雲雀だ。

第二章・第三章では、いつの時代・どこの国だか分からなかった物語の舞台が、第四章では、運河沿いの日本の廃市とやや具体的になり、最後の第五章では、西暦紀1226年という具体的な数字とアッシジのフランチェスコという実在の人物の名が出てくる。読後、深い落ち葉に沈められていた躰が急速に引き上げられたかのように、私の眼前に新世界が広がった。まるで長い冬眠から目覚めたように……。

五つの章の中で、第五章が一番古い時代を舞台としているのだろう。古い順に、第五章→第二章→第三章→第四章→第一章、だと思う。
第五章のアッシジのフランチェスコは、第四章のメダイのフランシスコ様だ。それに気づいた瞬間に、この物語が祝福の物語であることを知り、泣きたいような気持になった。

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柚子レモンジャムとパウンドケーキ

2016-11-24 07:13:21 | 日記

十月末に自宅の庭で採取したレモンを蜂蜜漬けにしたのですが、良い感じに漬かってきたので、パウンドケーキに使ってみました。
生地に蜂蜜レモン汁を練り込み、レモンの輪切りを飾りとして載せました。レモンの輪切りはまだ酸っぱかったので、グラニュー糖を振りかけて甘味を足しましたよ。


余ったレモンが傷む前に柚子と一緒にジャムにしました。
お隣さんに柚子を分けていただいた時には、今年こそはジャム以外に使いたいと思っていたのですが、一度に大量に消費する料理を思いつかず、結局今年もジャムになってしまったのでした。
中の袋と白いワタは苦味の素なので取り除いて、千切りにした皮と果汁に砂糖を加えてゆっくり煮込みました。
柚子レモンジャムはお湯割りにすると美味しいです。焼き菓子に練り込んでも可。チョコレートと相性が良いです。


火を入れた直後はこんな感じでした。
レモンは五個、柚子は十個使っています。
レモン・柚子ともまだ余っていますが、紅茶に使ったり、お風呂に使ったりで気が付いたら無くなっていると思います。
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邪眼 うまくいかない愛をめぐる4つの中篇

2016-11-21 07:20:00 | 日記
ジョイス・キャロル・オーツ著『邪眼 うまくいかない愛をめぐる4つの中篇』には、「邪眼」、「すぐそばに いつでも いつまでも」、「処刑」、「平床トレーラー」の四篇が収められている。夫婦、恋人、親子といった狭い人間関係の中で繰り広げられる愛憎劇は、濃密で息が詰まりそうになる。まさに、すぐそばに、いつでも発生し得る身近な狂気だ。

副題の原文は“Four Novellas of Love Gone Wrong”
四つの物語の愛は何れも極端に歪み、ねじくれている。個人から個人に向ける愛とは多かれ少なかれ執着を伴うものなので、”Gone Wrong”に陥りやすいのだろう。

「邪眼」
邪眼とは、邪視、魔眼、イーヴィルアイ(evil eye)とも言い、世界の広範囲に分布する民間伝承の一つ。悪意を持って相手を睨みつけることにより、対象者に呪いを掛ける。

主人公のマリアナは、両親を立て続けに亡くしたばかりの内向的な若い女性。
一人っ子で頼れる親戚も持たないマリアナは、天涯孤独に陥った己の境遇を受け止めきれず、情緒不安定な日々を送っていた。

そんな彼女に手を差し伸べてきたのが、職場の上司で舞台芸術界の大御所オースティン・モーアだった。
オースティンは、それまで殆ど交流のなかったマリアナを熱心に労り、短期間で距離を詰める。親しくなって六週間もしないうちに泊まるようになったオースティンの家には、ナザールという奇妙なお守りがあった。ナザールには邪眼を払う効力があるという。最初の妻イネスが置いていった物だ。

二人は僅か六ヶ月で結婚に至った。
三十歳の年の差、そして、三度の離婚歴のある男。マリアナに親しい人がいれば、危険だと忠告したに違いない。しかし、残念なことに彼女は孤独だった。
結婚した途端に、マリアナの人格を否定する態度をとり、些細なことに激高するようになったオースティン。
思えばおかしなことばかりだった。職場では温厚な人柄で知られる彼に、前妻たちとの間に設けた子供たちは悉く寄り付かない。プライベートで親しくしている友人もいない。彼は、身近な人間を隷属させることに快楽を感じる異常人格者だったのだ。

夫の顔色を窺いながら息をつめて暮らすマリアナ。
ある日のこと、夫の最初の妻イネスが姪のホーテンサを伴って泊まりに来る。
イネスと初めて顔を合わせたマリアナは驚愕した。イネスは隻眼だったのだ。気後れして上手くもてなせないマリアナは、息の詰まるような思いでディナーの席に着く。
一見和やかなように見えて、互いを牽制し合うオースティンとイネス。刺々しい態度を隠そうともしないホーテンサ。

草臥れたのかオースティンは、早々に寝室に入った。
すると、それを見計らったかのようにイネスはマリアナに近づいてきて、ある打ち明け話を始めたのだった…。

「すぐそばに いつでも いつまでも」
男性との交際経験のない内気な少女リズベスは、図書館でハンサムな少年デスモンドに声をかけられる。気さくで知的なデスモンドに忽ち夢中になったリズベスは、彼をボーフレンドとして家族に紹介する。母はデスモンドを気に入ったが、姉は彼を毛嫌いした。
友人たちはリズベスが変わったと噂し、教師はボーイフレンドから虐待されていないかと心配した。

最初はデスモンドを庇っていたリズベスも、デスモンドの極端な距離の詰め方と支配的な態度に恐怖を覚えるようになる。リズベスが、二人きりになるのを断ると、デスモンドはストーカーの本性を露わにしてきた。

手紙や隠し撮り写真が送られてきた。愛犬が行方不明になった。
リズベスは誰にも相談できなかった。こんな男と関わってしまった不注意を非難されるのではないか?家族の反応を考えると、とにかく怖かった。

そんなある日、学校帰りにリズベスはデスモンドに待ち伏せされた。
デスモンドは、その場で動けなくなるリズベスをリトル・ヒューロン湖までドライブに誘うのだった…。

この二作は、内気で男性経験の無い、もしくは少ない若い女性と、一見魅力的な男性という組み合わせが共通している。
無力で相談できる人のいない若い女性は、他人を支配したがる男性からすれば格好の餌食なのだろう。彼らが捕食者の本能で大勢の女性の中から犠牲者を選び出し、退路を断ち、電光石火の速さで支配する様は、なかなか鮮やかである意味感心してしまう。
「邪眼」は、美しいがどこか不気味なナザールと隻眼の老美女イネス、そして、イネスに付き従う醜女の姪という組み合わせがミステリアス。
「すぐそばに いつでも いつまでも」は、最後まで読むとタイトルの意味が分かって、じわりと嫌な気持ちになること請け合いだ。

「処刑」
大学の交流会で散財を重ねるバートは、ついに両親からカードの使用を止められてしまう。
己の来し方を反省せず、ひたすら両親を恨むバートは、実家に忍び込み、両親を斧で襲撃する。

本人は周到に計画したつもりだったが、犯行は杜撰だった。
父親は即死した。しかし、母親が意識を失う直前に、犯人は息子だと証言したため、バートは、あっという間に逮捕されてしまう。アリバイ証言を頼んでいた交流会のメンバーからも見捨てられ、バートは裁判にかけられることになった。

ところが、意識を取り戻した母親が突如証言を翻したため、事件は思わぬ顛末を迎えることとなる…。

バートは、自意識過剰と自己卑下の間を絶えず行き来する愚かな人物で、全く共感できない。ただ、彼のあまりに自己中心的な内面の描写は、こういう輩が殺人に奔るのだな、と興味深かった。
彼の両親もまた然り。こういう連中が、殺人犯を生み育ててしまうのだな、という見本のようなダメ親だ。
父親は、長年金の力で息子の不始末を隠蔽し続け、手に負えなくなると放り出そうとする無責任な人物。母親も盲目的に息子を溺愛するばかり。どちらも息子をまともに育てようとする気概がない。息子と両親は、実質的にはお互いを潰し合う加害者同士だ。事件に他人が巻き込まれなくて、本当に良かったと思う。
なお、服役を免れたのにタイトルが「処刑」なのは、読めば理解出来るはず。

「平床トレーラー」
アート系の財団に努める29歳のセシリアは、男性に触れられると恐怖と嫌悪を抑えられなくなる。そのため、これまで付き合ってきた男性からは、最終的には不躾な態度を取られた。そのことで少なからず傷ついてきた。

Nだけは違った。
40前半で離婚歴があるが、社会的に成功した魅力的な男性。彼だけが、セシリアの心を解きほぐしした。

セシリアは、Nに少しずつ秘密を打ち明けていく。
それは、セシリアが小学校に上がる前から6年も続いた秘密の行為だ。神経質な母親や怒りっぽい父親には到底聞かせられなかった。教師、友達、親友にさえ話せなかった。

親戚の多い、裕福な一族。
その中で権力を持つGは、セシリアの祖父だ。Gは息子であるセシリアの父を愛さず、セシリア以外の孫にも興味を持たなかった。

Gは言った。
〈これは私たちの秘密だ。どんなに楽しくても内緒にしなきゃダメだよ〉
疑われたことは一度もない。セシリアはずっと、自分は特別だと思い込まされて育った。それが秘訣だった。

セシリアは、自分だけがGに依怙贔屓されることが誇らしかった。
〈彼は姉たちをかわいがったりはしない。姉たちは年上だったし、かわいくなかった。彼のかわいいダーリンは私一人!〉
それでも、心のどこかで自分の人生は台無しにされたと感じている。

Nは言う。
〈奴は死んで当然だ。子どもを傷つけるような奴は誰でも〉
Nは断定した。ほかの子どもたちにも手をかけたに決まっているだろう。君の前、それから君のあとにも――。Nにセシリアを糾弾する意思はなく、共感を示しながら慎重に言葉を選んでいた。複数回にわたる制定法上の強姦罪。未成年者に対する性的暴行。僕たち二人でその連鎖を断ち切ろう。

二人は、Gを墓地に呼び出した…。

Nは、対等な関係では愛せないという点においてGと同病者だ。彼は、自分に依存してくれる精神的に未熟な女性の世話を焼くのが好きなのだ。もし、彼女が自立したら忽ち興味を失くすのだろう。
でも、Nとの間に、Gとの間以上の秘密を抱えたセシリアは、未来永劫立ち直れそうにないから、Nはずっと幸せだ。

セシリアもまた、GやNと同様の歪んだ愛の持ち主だ。
彼女は、頭蓋骨から血を流すGを見詰めながら、Gは確かに愛してくれたと言い募る。Nは彼女の言葉を無視して、Gを殴り続ける。執拗な暴行と罵声に、彼女は酩酊していく。それは、彼女が見た平床トレーラーの夢と同種の、暴力が性的興奮に直結するサディズムの世界だった。

性暴力の被害者側の心の歪みを主題とした作品は珍しい。
無論、オーツは、安易な刺激を提供する目的で本作を書いたのではないだろう。
僅か49ページの小さな物語の中で、狡猾な大人によって巧妙に一人の女性の人生が損なわれていく過程が綴られる。そして、彼女自身が被害者の自覚を持たないまま、新たな加害者に寄り添う状態で物語は終わる。出口のない悪夢に胸が塞がった。
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柚子と大学芋

2016-11-17 07:16:46 | 日記

お隣さんから柚子を分けていただきました。
さっそく柚子湯に使いましたが、それだけでは勿体無いですね。ジャムにするほどの量でもないので、どう調理するか思案中です。


サツマイモの美味しい季節です。
おやつに家族の大好きな大学芋を作りました。


凜はふかし芋が好きです。
熱いので、もう少し冷ましてからね。


桜は匂いを嗅ぐだけです。
食べないのはわかっていますが、依怙贔屓にならないように、凜にあげる時は桜のお皿にも載せます。結局は凜のお腹に収まるのですが(笑)。
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娘、コクられる

2016-11-14 07:17:05 | 日記

娘の初コクられ記念にケーキを焼いてみました。
クリームがうまく塗れなくて難儀しましたよ。特に側面。今回はゴムベラでペタペタ塗り付けたのですが、やはりクリームを塗るための器具が必要かもしれません。

初コクられについてですが――。
先週の金曜日に、娘がいつも以上に浮かれて帰宅して来たので、「何か良いことあったの?」と聞きましたら、「クラスの男の子から好きだと言われた」とのことでした。
それで、「なんて返事したの?」と訊きましたら、「なんて返事していいのか分からなかったから、指でOKってしておいた」とのこと。ローラさんがよくやっていた「オッケ~♪」ってヤツですね。軽ッ。

二人は小学四年生。
同じ年の頃の私は、まだ普通に男の子と遊んでいましたが、今時の子はマセていますね~。
娘はチャラ子なので、「中学生になったらさっそく彼氏とか家に連れて来るんだろうなぁ」などと夫婦で話しておりましたが、その日が来るのは予想より早くなるかもしれません。

男の子の名前は教えてもらえませんでした。
「お母さんは口が軽いから」だそうです。でも、話を聞いていると、どうも男の子本人も彼の母親も私がよく知っている人物らしいんですよね。そうなると、候補はかなり絞られてきますが、デリケートな話なので捜査するのは止めておきます。答えが分かったらペラッちゃいそうですし。なんせ口の軽いお母さんですから(笑)。


娘が浮かれていたその時、夫は仕事で長崎に行っておりました。
今回のお土産は長崎物語&豚まん。


寒くなってきたので、ほかほかに蒸した豚まんが美味しかったです。


長崎の豚まんは小さくて可愛いです。
三口で食べれるサイズ。土曜日の昼ご飯兼おやつにしました。
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