青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

里山公園のお雛様2018

2018-02-26 07:09:09 | 日記
日曜日に茅ケ崎里山公園に行ってきました。
園内の里の家では、3月21日までお雛様が飾られています。














小さな女の子を連れた家族が何組か見学していました。


庭では竹製の遊具で遊べます。凜は縁側付近でご休憩。


里の家に続く孟宗竹の竹林。
里山エリアには犬を連れた人たちやバードウォッチングを楽しんでいる人たちが結構いましたよ。


遊具エリアにはローラースライダーと大きなトランポリンがあります。


凜は今月で7歳になりました。
お世辞かもしれませんが、若く見えるとよく言われます。里山公園で話しかけてくれた人たちにもそう言われました。陽気で人懐っこいからでしょうか。先週お誕生日だったと言ったら、お祝いの言葉を貰えました。色んな人たちから撫でてもらえて、およそのワンちゃんたちとも交流できて、凜は楽しそうでしたよ。


桜も今月で7歳。
凜と一緒ですが、凜より老けて見えると言われます。マッタリしているからでしょうか。


先々週に避妊手術を受けた柏ですが、土曜日に抜糸に行ったら傷口の治りが遅いので一針分だけ糸を残すことになりました。食欲もあるし、元気に走り回っているので大丈夫だとは思いますが。
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黄昏に献ず

2018-02-22 07:06:35 | 日記
塚本邦雄著『黄昏に献ず』

「檻」「陽轉」「木賊刈」「昔に霞む」「黄昏に献ず」「赤き雪の主題」「まゆこもり」「果物急ぎ」「有憂宮」「反唇」「鳰」「白馬」「桃夭樂」「空中伽藍」「水中斜塔圖」「火宅搖籃歌」「網膜遊行」「雄蘂變」「味蕾」「狼」の21篇の掌編集。

私が17年ほど俳句を習った中で感じたことは、歌人、俳人など定型詩の巧手はだいたい文章もうまいということだ。
そもそもの観察眼や着想力が優れているということもあるが、単語や「てにをは」の選択、文字の並びの視覚的効果、音読した時のリズムにまで注意を払って創作している。言葉に対する感受性が鋭敏なのだ(ちなみに私の俳句は謙遜抜きにつまらない。小手先でそれなりの句を作れる自信はあるが、そこより先に突き抜ける感性が欠如している。人間性が陳腐なのだろう)。

塚本邦雄は言うまでもなく日本の代表的な歌人だ。
私は俳句寄りの人間なので、短歌に関しては何も知らない。塚本邦雄の短歌について言えることも何もない。だが、この掌編集が傑作であることは断言できる。
本書に収められている作品は、数ページから20ページほどの掌編ばかりであるが、すべてが頽廃と倒錯美の極み。幻想的・反写実的と言われる塚本邦雄の短歌と同様、極度に削ぎ落された文字数で豪奢で唯美的な世界を展開している。腐り落ちる直前の果実のような濃厚な香りにむせ返りながら、小説を読む楽しみに存分に浸ることが出来るのだ。
ダラダラと文字数を重ねれば傑作が書けるというものでもないだろう。たとえば、久生十蘭はいったん書き上げた原稿を音読し、不要な言葉を徹底的に削ぎ落していたという。言葉を詰め込むよりも、捨てる思い切りとセンスの方が文芸では大切だ。


「檻」でいきなり極彩色の非日常世界に放り込まれる。
女装、同性愛、主従転倒、そしてカニバリズム。わずか10ページの小品なのに、読後、ドッと疲労感に苛まされる。閉じた目を暫し開けられなくなるが、余韻に浸っているのではない。ダメージに耐えているのだ。
血統、財力、地位、名声、円満な家庭、およそ俗人が望むものすべてを手に入れ、人々からの羨望を浴びていた華晶に何が起こったのか?

五十五歳という人生の円熟期に入り、後は孫の誕生くらいしか望むものはない。
そんな華晶が、二代続きの作男兼別荘番の刀根を従えた三ヶ月の海外旅行から帰国後、狂人となった。
最初の凶行は犬殺しだった。飼い犬のセント・バーナードが頭を割られ、脳髄をくり抜かれていたのだ。娘の嵯峨子が父の書斎をノックすると、そこには唇にべっとりと血をこびりつかせた華晶が酷薄な笑みを浮かべて立っていた。机にはデッサン画が五、六枚。いずれも裸体で縛られた、幼児、少年、若者で、ひとしく頭蓋に穴を穿たれ、脳漿を吹き出している。しかもその一人一人の顔が、知人や親族に酷似しているのだ。絵の片隅には華晶によく似た男が舌を垂らし、片手に大匙を掲げて生贄を窺っている。それはもはや、絵空事の域を超えていた。
願望を実現させてしまう前に、娘夫婦の手によって華晶は妻の壬生子と刀根に付き添われ、湖畔のシャトーで幽閉生活を送ることを余儀なくされた。

その時まで、誰も異変に気が付かなかった。何故なら、それ以前に華晶から精神崩壊の兆しを感じたことがなかったからだ。
嵯峨子は思い返してみる。初めて父に違和感を覚えたのは、旅行帰りの父を空港まで迎えに行った時だった。三ヶ月ぶりに家族の前に現れた華晶は、めっきり若返り、唇が妙に赤く色づき、眼光が尋常ではなかった。献身的な刀根が付いていて万一のことなど起こるはずがないと思っていたのに、いったい華晶の身に何が起ったのか。

名家の跡取りとして生まれ、すべてを労せず手に入れ、人から敬われるのが当然の人生。
退屈だったのかもしれない。長い年月をかけて倦怠に蝕まれた心が、瑕瑾の無い人生を破壊することを望んだのかもしれない。華晶と刀根、どちらが先に相手を見出したのか。何十年も顔を合わせていた二人の主従関係が逆転したのはいつからか。旅行中に突然化学反応が起きたとは考えにくい。二人の心底に少しずつ澱の様に積もっていった昏い願望が、二人きりの海外旅行を機に決壊したのではないだろうか。

主従転倒なのだから、作男の刀根が主で、当主の華晶が従だ。
華晶が身に着けているのは、コルセットで締めた胴着と、リボンと造花で飾り立てた極彩色のボンネット。モリナールの練香が鼻腔を擽り、まるで貴婦人の盛装だ。首まで白粉を刷き、蒼ざめた頬は紅で彩られ、媚びを含んで刀根を見上げる目つきは奴隷そのもの。それが、嵯峨子が最期に見た父の姿だった。
華晶の声は掠れ、喘ぐ肩はのめっている。彼は今、庭に妻を埋めて来たばかりなのだ。それなのに、刀根は僅かの休憩も許さず次の仕事を命じる。

飼い犬殺しから始まり、遂には妻と娘まで殺害し、遺体から取り出した脳を主に捧げる。
刀根は四十五、六歳の武骨な髭面の大男。対する華晶は五十五歳の女装が似合うとは思えない老齢。そんな若くも美しくもない二人が異様に妖艶なのだ。二人のあれこれが事細かに描写されているわけでは無い。二人がいつからそういう関係にあったのか、旅行中に何が起きたのかも分からない。分からないからこそ底なし沼にずぶずぶと飲み込まれるような恐怖に囚われる。
私は愛あるSMなんて信じていない。愛だの何だのと言う人に対しては、言い訳しないでただの性癖だと認めてしまえば良いのに、と思う。
そんな私なので、当然、華晶と刀根の間には、愛情など欠片も無いと思っている。二人は己の欲望の実現に互いの心身を利用しただけだ。華晶が本当に愛していたのは、彼が殺した妻であり娘であり、飼い犬だろう。自分にとって価値のある者を無価値な者に供物として捧げつくし、人生を完全に破綻させる。その痛みが生甲斐だ。愛が無いからこそ、華晶と刀根の関係は純粋なのだろう。


「味蕾」は、収録作の中では一番地味な作品だが、私はこの話が一番好きだ。誰も死なないし、事件も起きない。それでも、仄かに甘く滅びの匂いが漂っている。
愛なんて夾雑物と言わんばかりの酷薄な作品ばかりの本書において、唯一登場人物二人の間に温かな優しさと労りが感じられる作品だ。しかし、自分たち以外の人間には気づかいの欠片もない。家族なんて弊履の如く捨ててしまう気でいる辺りはさすがである。

雪のちらつく夜、二人の男が珈琲を飲みながらオペラの感想を語り合う。今夜の歌手は入場料を返して欲しいほどの大外れだった。
會津は保健所の医師、杉谷は建築事務所の設計士。ともに三十五歳、子供が二人、夫婦仲は白け切っている。元々縁もゆかりもなかった二人が知り合ったのも、こんな夜、観劇後に索漠とした気持ちで珈琲を啜っている時だった。それから三年、二人は観劇仲間として付き合い続けてきた。この先もきっとこんな風に友人とも呼べない関係が続いていくはずだった。

二人の間の空気が変わったのは、偶然、突然のことだった。
杉谷が珈琲で舌を火傷したのだ。慌てる杉谷に口を開けさせた會津が「味蕾が荒れている」と言えば、杉谷が「未来が荒れていると聞いてぎょっしたよ。荒れているどころか真暗だもんな」と答える。家に帰るのが憂鬱。夜が怖い。會津が明るい微笑を見せる。声は沈んでいる。「未来が荒れているんならまだ望みはあるが、不気味に鎮まり返って何の徴候も見えやしない」

三年交わったのに互いにその家庭を知らない。観劇の感想を語り合うばかりで、心の内を明かしたことなどなかった。梯子酒などせず、珈琲を飲んで、遅くならないうちに別れる。それが暗黙のルールだった。言わず語らず労わり合っていたのは、一度ラインを踏み越えたら戻れなくなるのが分かっていたからだろう。

二人は初めて遠出の約束をする。
温泉に行くのだ。二人一緒なら行先はどこでもいい。炭酸泉でも硫黄泉でも、血の池地獄でも。二度と家に帰らなくてもいい。二人ならうまくやっていけそうだ。
外は吹雪になった。荒れているのなら望みはある。二人は白け切った日常から静かに逸脱していく。


本書に収められた掌編は、「味蕾」を除いて、どちらかが相手の人生を破壊するか、両者が相剋する関係ばかり。特に女性が男性に悪意を注ぐ話は、情け容赦がない。

「有憂宮」は、裕福な画商の一人娘・錫子が二十七歳の憂鬱症の男・蕗澤を飼い殺しにする話。
蕗澤は度々自立のために就職活動をするが、錫子が裏から手をまわしてすべて潰してしまう。蕗澤は錫子の汗の匂いすら嫌い、彼女から逃れたいと思うが、巧妙に追い詰められ、鍵の無い部屋から出られなくなっていく。

錫子は男を生きたまま絵画にしてしまいたいのだ。
デューラーの銅版画『アダムとイブ』と『メランコリア』。『アダムとイブ』はデューラーが三十四歳の時の作品で、三十四歳はイエス・キリストが貼り付けになった年でもある。『メランコリア』の標題は吸血蝙蝠の翼に書いてある。あと七年、彼女は蕗澤を飼い続けるつもりだ。その後はどこに飛び立とうがかまわない。倦怠と憂鬱を餌食にして生きることが様になる男なんて千人に一人もいやしない。蕗澤はデューラーの天使に匹敵する稀有な男だった。彼を額縁に入れて眺めていたかった。
錫子は蕗澤を彼女の住むマンションの、対面に立つ同じ形のマンションの同階同位置の部屋に住まわせる。彼女は毎日、窓からオペラ・グラスで彼を眺める。

人間を期間限定でオブジェにし、その後は放り出してしまう。
自立の芽を完全に摘まれ、精神をメランコリーに侵された男が、三十四歳という再出発には遅過ぎる年になって一人でどうやって生きていくのかなど、錫子の知ったことではない。三十四歳を過ぎた男はもはや天使ではなく、ただの中年男。翼は折れ、堕天するばかり。飾っておく価値などないのだ。
恐ろしく非人間的で、倦怠と頽廃美に満ちた物語だった。
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柏の避妊手術

2018-02-19 07:08:07 | 日記

土曜日に、柏に避妊手術を受けさせました。柏は生後10か月半、体重は2800gです。
まだ発情期は迎えていませんが、事前に動物病院に蓬と柏を連れて行って、何方の手術を先にするか相談したら、「メスを先にした方が良いだろうね」とのことでしたので。
今回柏が手術を受けた動物病院は、凜を飼い始めたころからお世話になっていて、我が家の犬猫たちは全員この病院で避妊・去勢手術を受けています。
前日の夜ご飯を食べてから絶食、絶水。朝八時に動物病院に連れて行き、夕方四時ごろにお迎えに行きました。


帰宅直後。さっそくトイレに行っています。昨晩からずっと何も飲んでいなくても尿は出ていました。


柏が気になって仕方がない蓬。ずっとそばに纏わりついていました。この兄妹は同じ日に生まれたのに体重が1㎏以上違います。同じ量しか食べさせていないのですが、オスとメスでそんなに違いが出るものでしょうか。

ところで、避妊手術を受けるとホルモンのバランスか何かが変わるのか、凜・桜・蓬が頻りに柏のお尻のにおいを嗅いでいましたよ。いつもとにおいが違う、みたいな。


上から桜。桜はずっとそばにいるわけでは無いのですが、それでも気になるのか、時々様子を見に来ていました。


凜と桜は術後に歌舞伎の児雷也みたいなネットを着せられていたのですが、柏は何もつけていませんでした。
上の画像は、桜が避妊手術を受けた時のもの。隣の仔猫は、今は亡き牡丹さんです。蓬と同じ白黒ハチワレ。




傷口を気にしているようだったので、エリザベスカラーを巻いておきましたよ。
開腹手術なので当日は元気がなかったのですが、気が立ってはいませんでした。凜と桜もそんな感じでしたが、牡丹は去勢手術後、半日くらい怒っていたので、こんなところにもオスとメスの違いが出るのだなと興味深かったです。もっとも避妊手術は去勢手術よりも体にかかる負担が大きいので、怒りを表明する元気がなかっただけかもしれませんが。
蓬も柏の体調が安定してから去勢手術を受けさせる予定ですよ。


お薬。抜糸の予定は25日です。
柏ですが、翌日の午前中はまだ食欲もなくジッとしていましたが、午後には割と動き回れるようになっていました。経過は順調なようです。
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あなたの人生の物語

2018-02-16 07:11:59 | 日記
テッド・チャン著『あなたの人生の物語』

「バビロンの塔」「理解」「ゼロで割る」「あなたの人生の物語」「七十二文字」「人類科学の進化」「地獄とは神の不在なり」「顔の美醜について――ドキュメンタリー」の八つの中短編と巻末に「作品覚え書き」が収録されている。
テッド・チャンは寡作な作家で、この作品集に収められた中短編が1990年のデビューから2002年までに発表した作品のすべてである。その後も短編を何作か発表しているが、まとまった形での新刊はまだ出ていないようだ。
SFに限らず、長編に比べると中短編は読者の需要が少ない。そういった傾向を押して本作品集が出版されたことは、それだけテッド・チャンに寄せられる読者・出版関係者の期待が大きいということなのだろう。
数学・物理学を軸に宗教や哲学を盛り込んだ世界観は、論理的でありながらファンタジーの風味が強い。それも、世界がどうのとか宇宙がどうのといった壮大なテーマではなく、個人の心情に寄り添ったデリケートな作風である。ゴリゴリのSFが苦手な私にも、主人公たちの感情がスッと入り込んできた。

表題作の「あなたの人生の物語」は読みながら、カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』を思い浮かべたものだったが、巻末の「作品覚え書き」の中で、その名が出てきたのには嬉しくなった。
作品としては、『スローターハウス5』同様に救いのある話ではない。運命が完全に決定された世界の中で、それでも落ち着きと勇気をもって生きていく人の物語だ。言語学や物理学の知識がない私には、なかなか手強い作品だったが、読み進めていくうちにタイトルの意味がしみじみと心に染みた。書評には「感動」と言う言葉が使われていたが、もっと多彩な感情を刺激される作品だ。子供のいる人なら、特に。

“光がある角度で水面に達し、異なった角度でそのなかを進むという現象を考えてみよう。屈折率のちがいが原因となって光は方向を変えるという言い方で説明すれば、それは人類の見方で世界を見ていることになる。光は目的地への旅程に要する時間を最小にするという言い方で説明すれば、それはヘプタポッドの見方で世界を見ていることになる。まったく異なる二とおりの解釈だ。”

言語学者のルイーズ・バンクス博士は、物理学者のゲーリー・ドネリー博士とともに、軍からエイリアンとのコンタクトを要請される。
四本脚で歩き回り、三本は腕として側方に巻き上げられた“それら”を、ゲーリーはヘプタポッド(七本脚)と呼んだ。ヘプタポッドは声道が根本的に人類の声道と異なる。また、人類の文字言語はどれも音声表示の範疇に入るのに対し、ヘプタポッドのそれは発話されたものとは何ら関係なく意味を伝える意味図示である。それを構成する諸要素は何か特定の音声と対応するわけでは無い。視覚的統語法とでも言うような、文と構成するそれ自体の規則をもっていて、その統語法は会話言語に適用される統語法とは関連性がない。

人類と全く異なるヘプタポッド(ルイーズは自分が担当する二体に、フラッパーとラズベリーと名付けた)の言語を習得するにつれて、ルイーズの世界観は人類とヘプタポッドの混合物になっていく。

“〈ヘプタポッドB〉を習得してのちの新たな記憶は、それぞれは数年単位の期間に相当する巨大なブロック群がばらばらと所定の場所に落ちてきたようなもので、順序だって到来したとか連続的に到着したとかではないものの、それらはすぐに五十年におよぶ期間の記憶を形成した。これは、わたしが〈ヘプタポッドB〉を、それでものを考えられるまでに習熟することを含む期間であり、フラッパーやラズベリーとの面談の最中にはじまって、わたしの死をもって終わる。”

〈ヘプタポッドB〉がルイーズの記憶に作用するようになってから、彼女は残りの人生を包含する期間で起こるあらゆる出来事をランダムに意識するようになる。その中には、25年で終わってしまう“あなたの人生”も含まれている。 “あなた”のおとうさんと数年で別れてしまうことも、“あなた”がどんなふうに死ぬのかも、彼女は既に知っている。それでも、愛を交わし、“あなた”をつくるのだ。


表題作以外も知力を試される作品ばかりで、分からない用語を調べながら読むのに結構な時間を要したが、その中では、「理解」と「顔の美醜について――ドキュメンタリー」の二作は解り易い部類で、SF初心者の私でもなんとかついていくことが出来た。


「理解」は、主人公が思いがけず特殊な能力を得る点が、「あなたの人生の物語」と共通する。そして、その能力が本人の幸福には寄与してくれない点も。
超人類どうしの対決は脳内に映像をイメージしやすくSF初心者向けであるが、その分、通好みな読者からの評価は低いかもしれない。
同じく、超知性・知性強化療法をテーマとしている「人類科学の進化」と続けて読むと面白いだろう。

事故で脳を損傷し昏睡状態に陥ったレオン・グレコは、ホルモンK療法によって、損傷した神経の再生に留まらず、天才的な知能を得た。
病院での臨床試験では、驚異的な成績を出した。知能の急速な発達によって、仕事の効率が飛躍的に上がり、それまで苦手だったことも容易にこなせるようになった。そればかりか、ピアニストや武術家の技能を、映像を見ただけで体得できるようになった。何を学習してもそのパターンが見て取れる。あらゆるものの中に、そのゲシュタルトが見えるのだ。レオンは万能感に浸されるようになる。

“わたしは腎臓機能、栄養吸収、腺分泌といった身体の動きを感知できる。思考過程のなかでさまざまな神経伝達物質がはたしている役割を意識することすらできる。この意識状態には、アドレナリンによって増強された状況をうわまわる強度の精神活動が含まれている。わたしの心の一部は、もしわたしがふつうの精神や肉体の持ち主であれば数分以内に死を迎える状態を維持できる。心のプログラミングを調整すれば、感情的反応や注意力の強化、あるいは態度の微妙な修正のひきがねとなるすべての物質の増減を感じとることができる。”

“わたしは究極のゲシュタルトに、そのなかではすべての知が調和して光を与えられるコンテクストに、マンダラに、天球の音楽に、コスモスに、迫りつつある。”

“わたしの求める悟りは、霊的なものではなく理性的なものだ。それにいたるにはまださきへ進まねばならないが、こんどはそのゴールがたえずわたしの指さきからしりぞいていくことにはならない。わが心の言語をもってすれば、おのれと悟りをへだてる距離は正確に計測できる。最終目的地が視野に入ったのだ。”

ホルモンK療法の被験者は、レオンだけではない。健康な志願者、脳卒中、アルツハイマー、昏睡など様々な状態の被験者がいた。
ホルモンKによる知能の向上は、最初の損傷の程度に依存する。健康な志願者に対してはホルモンの効果はなし。軽い卒中患者は天才レベルにも達せず、重い損傷を受けた患者の向上度ははるかに大きかった。最初に重度の昏睡状態にあった被験者の中で、三度目の注入を受けた者はレオンひとり。研究対象の誰よりも、多くの新しいシナプスを得ている。知能がどこまで高くなるかは、まだ答えの出ていない疑問なのだ。

レオンはFDA(食品医療品局)の非公開データベースに侵入し、ホルモンK被験者の住所及びFDAの内部情報を得た。そのなかで、CIAがレオンを捕獲して、潜在的脅威の程度を評価すべきだと主張していることを知る。
FDAはすべての病院に残存アンプルの返送を依頼していた。レオンはその前にアンプルを入手しなくてはならない。レオンは追っ手を躱しつつ、ホルモンK被験者たちからアンプルを回収していくことになる。

株式の動向をチェックするレオンのパソコンに、何者かがメッセージを送ってきた。
レオンのような人間がほかにもいる、三度目のホルモンK注入を受けた昏睡患者が。その人物は、レオンがFDAのデータベースにアクセスする前に自分のファイルを消去して、主治医の報告書に偽の情報をインプットした。
おそらく、彼はレオンより前にホルモンK治療を施されており、レオンよりも知能の進化――より優れた記憶、より速いパターン認識――が進んでいる。彼は味方なのか、敵なのか?重大な疑問だ。

レオンは美を愛し、レイノルズは人類を愛する。
薬物投与により超知性を得た元凡人が、知覚をぐんぐん向上させていく高揚感。自分の上を行く超知性の持ち主、それも超知性への認識がまるで違う人物に感じる恐怖と容認。そして、崩壊の受容。これまでも、これからも、私自身が経験することの無い感覚であるにも関わらず、ひどく生々しく“理解”することが出来た。


語り口が面白かったのは、「顔の美醜について――ドキュメンタリー」。
“カリー”という美醜失認処置の導入をめぐる賛成派・反対派の応酬をドキュメンタリー番組のタッチで描いている。

ペンブルトン大学では、根深い社会問題であるルッキズム、すなわち容貌差別の解決に向けて、新入生の在学中、これまでは任意に利用していた美醜失認処置(カリーアグノシア)を必要条件にすることが学生会議の議案として提出された。
神経学者のジョゼフ・ガードナーによると、“カリー”とは、統覚的失認というよりも、連想的失認に近いらしい。個人の視覚に干渉するわけでは無く、見たものを認識する能力に干渉する。脳内にある容貌の評価を専門とする神経経路を薬剤によって閉鎖することで、“カリー”は実現する。

学生、保護者、神経学者、宗教学者、人権活動家と様々な立場の人々が喧々諤々する。そこにメディア・コントロールまで絡んでくる。この作品集の中ではちょっと異色な、軽快で賑々しい作品だった。

ルッキズムについて真剣に語れば語るほど、滑稽味が増してしまうのはなぜなのだろう。それは、人種差別や性差別などの議論ではあまり感じることの無い感覚だ。
肉体的な美醜は、人の一生を決める最も大きな要素である。ゆえに、ルッキズムは究極の差別問題と言っても過言でない。恋愛、結婚、就職、昇進はもとより、同性間の友情、親が子に向ける愛情ですら外貌の良し悪しに左右される。不美人であることのハンディは計り知れない。
その反面として、美人薄命なんて言葉が表すように、美が齎す不幸というものもある。しかし、美とはその欠点までもが人を魅了するのだ。美男美女の悲劇には多くの人が涙するが、不細工が同じ目に遭っても人の興味をひかない、下手したら嗤い者になるのはそういうことだ。
親の意志で18歳まで“カリー”を続けていた新入生のタメラ・ライアンズが言うように、美男美女を表現するのに使われる言葉には、「charm」「glamour」「enchanting」「spellbinding」など魔法に関係しているものが多い。肉体の美から放射される強烈な魅力の前では、精神や知性、魂への称賛など、頭づくりの屁理屈に過ぎない。そんな目に見えないものの価値を、外貌に惑わされずに瞬時に判定できるほどの見識を持っている人がどれだけいるのだろうか。
人は生きている限り(死後も?)、肉体的な美醜を評価され続ける。それでも、私は“カリー”を選択する気にはならない。残念ながら私自身は美の保有者ではないので、ルッキズムに関しては嫌な思いをすることもある。だけど、予期せずに本当の美形を見た時の、あのハッとするような感動は失いたくない。その瞬間を味わえる限り、自分自身の外貌の醜さゆえにこうむる様々な不利益を耐えることが出来ると思うのだ。
そういう訳で、SEE(徹底的平等を求める学生会議)議長のマリア・ディスーザが提案する“カリー”の有効化と無効化の切り替えについては、まったく魅力を感じない。美の鑑賞が、見る者と見られる者の双方の合意の上の交流になってしまったら、呪文を掛けられたような瞬間は失われてしまうからだ。
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バレンタインデー2018

2018-02-13 07:19:24 | 日記

今年のバレンタインは、自宅用にはガトーショコラ、娘のお友達用には苺とココアのカップケーキを焼きましたよ。

ガトーショコラを作るのは今回が初めてなので、作る前に工程をイメトレしました。オリンピックを見ながらですが。
幸いなことに、夫も娘もガトーショコラが何なのか分かっていなかったので、失敗してもデコレーションで誤魔化して、そういうお菓子なのだと言い張るつもりでいましたよ。

材料は、チョコレート150g、生クリーム150g、バター90g、薄力粉20g、純ココア30g、砂糖60g、卵4個です。


まず、チョコレートとバターをレンジで様子を見ながら溶かし、そこに生クリームを加えて、よく混ぜます。
オーブンを170度で予熱しておきます。

卵は卵黄と卵白に分けます。
卵白は冷蔵庫に戻して冷やしておきます。
卵黄は砂糖30gとハンドミキサーでクリーム状になるまでよく混ぜます。
それを、チョコ、バター、生クリームを混ぜておいた器に入れて、ヘラでよく混ぜます。更に、振るっておいた薄力粉と純ココアを入れ、よく混ぜます。


冷やしておいた卵白と残りの砂糖30gを、ハンドミキサーで角が立つまでしっかり混ぜてメレンゲにします。
今回作ってみての感想ですが、ガトーショコラはメレンゲさえ上手くいけば失敗しません…多分。メレンゲのコツは、卵白の中に卵黄が混ざらないようにすることと、しっかり冷やしてから混ぜることでしょうか。
出来たメレンゲは、三回に分けて生地の中にヘラで切るように混ぜます。混ぜ過ぎるとせっかくのメレンゲがつぶれてしまうので要注意です。


型紙を敷いた耐熱容器に生地を入れて、底をトントンします。

オーブンに入れて焼きます。
我が家のオーブンは何を焼くのにも時間がかかるので(パンも綺麗な焼き色がつかない)、今回も焼きあがるのに70分もかかりました。最初に40分にセットして、それから10分延長を3回繰り返しましたよ。一般的にガトーショコラの焼き時間は40分ほどなのですが…。


画像は焼きあがってから、20分ほど置いた状態です。
焼き上がり直後は、カルメラみたいに膨れ上がっていて、こんなに膨れては生地が落ち着いた時にひび割れだらけになるのではないかと心配していましたが、思ったよりも割れが少なくて、我ながら上手く出来たと思いましたよ。


一晩おいてから、粉糖を掛けました。


こちらは娘の友チョコ用のカップケーキです。オーブンから出した直後。
材料は、卵2個、砂糖100g、バター100g、薄力粉180g、純ココア大匙3杯、ベーキングパウダー10g、苺120g、苺用の砂糖大匙2杯です。

作り方の箇条書き。
1・卵、バターを常温に。粉類は振るっておく。
2・苺と砂糖大匙2を電子レンジで様子を見ながら過熱。オーブンは190度で予熱しておく。
3・バターと砂糖をハンドミキサーでしっかり混ぜる。卵は2回に分けて加え、混ぜる。
4・3に粉類を2回に分けてヘラで混ぜる。そこに苺汁も混ぜる。
5・4に苺を混ぜる。
6・型に入れ、スプーンで軽く形を整えてから、オーブンで20分焼く。

このカップケーキはとても簡単で、特にコツ入りません。強いてあげるなら、苺は生のまま入れると、果肉の酸味と生地の甘みが喧嘩するので、あらかじめ砂糖をまぶして加熱しておくことくらいでしょうか。
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