青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

アウラ・純な魂

2017-05-29 07:24:21 | 日記
カルロス・フエンテス著『アウラ・純な魂』

収録作は、「チャック・モール」、「生命線」、「最後の恋」、「女王人形」、「純な魂」、「アウラ」の六作。解説とは本来は最後に読むものだろうが、フエンテスの経歴と作風について解り易くまとめられているので、手掛かりとして先に読んでおいても良いかもしれない。

フエンテスは1928年、パナマにて生を受けた。
メキシコ人でありながら、父親が外務省に勤務していた関係で、南米の諸都市を転々とした後、1934年にワシントンに落ち着いた。当時のメキシコ大統領ラサロ・カルデナスの政策がアメリカの経済に不利益を齎したことから、新聞ではメキシコ・バッシングが展開され、フエンテスは通っていた小学校で爪弾きに会い、心に深い傷を負った。
その経験と1910年に起きたメキシコ革命とがフエンテスの創作活動に大きな影響を及ぼしている。フエンテスは外国生活が長かったために、祖国メキシコを距離を置いて眺めることが出来た。フエンテスは愛憎半ばする感情に責め立てられながら、自国のアイデンティティと自らのアイデンティティを探るようになる。
メキシコは地理的にみると、北は先進国のアメリカ、南は発展途上国の中南米諸国に接している。宗教的には、北はプロテスタント、南はカトリックだ。人種的には、少数の白人とこれも少数のインディオ、それに多数の混血によって構成されている。歴史的には、マヤ・アステカに代表されるメキシコの古代文明は、スペイン人によって破壊された。
斯様に、相対立する文化、思考様式、価値観が混在するメキシコという国の複雑なアイデンティティは、そのままフエンテス文学の多重・多様性に繋がっている。

訳者の手腕もあるのだろうが、非常に読みやすい文章だった。
屋外なら風景、屋内なら調度品、人物の容姿から身に着けている物、意識の流れまで、克明で繊細な描写がなされている。それ故、場面や人物の心情を想像し易く、一見解り易い印象を受ける。しかし、一つ一つの描写を近視的に追っているうちは解っているつもりになれるのに、全体を見てみようとすると途端に世界が幾重にもぼやけて、実は何も読めていなかったことに気ついてしまう。今、自分は誰の心に寄り添っていたのか?誰の目で世界を見ていたのか?全てがあやふやで心許ない。フエンテス作品の中に流れる時間は直線的ではなく、その世界は多層的で、一言で特徴を表すことが出来ないのだ。


「アウラ」は、「フランス語の知識がある若い歴史家。月四千ペソ。」との新聞広告に惹かれたフェリーペが、コンスエロ夫人の屋敷を尋ねるところから始まる。
まるで胎内のように暗い邸内で告げられた依頼の内容は、60年前に亡くなったコンスエロ夫人の夫リョレンテ将軍の回想録を完成させることだった。条件は完成までこの家で寝泊まりすること。夫人は、「戻ってくると申し上げたでしょう……」と言う。フェリーペが、「誰のことを言っておられるんです?」と問えば、「アウラのことですわ。私のお友達、姪ですの」と答える。そして、いつの間にかその場に居た若い娘に、フェリーペが一緒に暮らすことになったと告げるのだった。


解説によれば、フエンテスは「アウラ」の執筆にあたって、溝口健二の映画『雨月物語』、さらには上田秋成の原作から多大な影響を受けたらしい。確かに『雨月物語』で源十郎が連れ込まれる朽木氏の姫・若狭の屋敷と、コンスエロ夫人とアウラの住む屋敷の雰囲気はよく似ている。油彩画風の濃厚な陰翳ではなく、水墨画風の幽冥な陰りで覆われているのだ。
「アウラ」に限らず、フエンテス作品の多くは、他のラテンアメリカの作家に比べると熱狂性は薄く、また、ラヴクラフトみたいにドロリともしていない。日本人の感性に馴染みやすい淡麗さだ。

無論、「アウラ」には、『雨月物語』には含まれていないテーマも含まれている。
若狭には彼女と一対になる人物がいないが、アウラにはコンスエロ夫人という一対になる人物がいる。アウラ=コンスエロ夫人、そして、フェリーペ・モンテーロ=リョレンテ将軍と捉えてよいのだろうか。
解説に引用されている作者自身の体験によると “鏡の沢山あるパリのアパートで暮らしていた時に、敷居の向こうを通る若い女性の姿がその鏡に映った。それを見て、鏡の中の世界は、現実の世界を忠実に映し出していながら、その実、鏡の中に広がる時間・空間はまったく異質なものであり、したがってそこに映し出される人間も別人なのだということに思い当たった。”とのこと。
つまり、アウラはコンスエロ夫人であると同時に鏡の向こう側の別人でもある、と解釈することが出来る。フェリーペとリョレンテ将軍についても同様に捉えてよいのだろう。フェリーペに対し、「君」と語りかけてくる年上と思われる人物もまた、フェリーペであってフェリーペではない。

老いと若さ、美と醜、生と死…様々に相反する要素を併せ持つコンスエロ夫人即ちアウラとは、フエンテスによると、「超自然の処女、災厄をもたらす女、亡霊になった新妻、ふたたび結ばれたカップル」であり、「アウラは永遠に続く魔女の一族を増やすためにこの地上にやってきた」のだそうだ。

この短編集では、「アウラ」の他に、「女王人形」、「純な魂」の二作が、超常的な女性をヒロインに据えた物語である。
しかし、訳者である木村榮一氏の「アウラはアミラミアやクラウディアと同じ血族に属していると言えよう。」という見解については、若干疑問を感じる。「純な魂」のクラウディアと「アウラ」のアウラが、ともに “太母”であるという意見には賛成だ。ただし、序列では、アウラの方が高位だろう。
だが、「女王人形」のアミラミアは、“太母”の系譜からは落ちこぼれていると思う。
同居している老人に怯える車椅子の彼女はあまりにも弱弱しく、“太母”というよりは、その成り損ないと言った方が近いように思える。彼女が邪険にされている理由もそこにあるのだろう。彼女は、“超自然の処女”には違いないが、愛する男を無意識の工夫工面で死に至らしめたり、永遠に閉じられた時間軸の中に封じ込めたりする力を有しているようには感じられない。
「アウラ」のコンスエロ夫人が、「あの子に肉体を与えることができたのよ。あの子を呼び出し、自分の命をあの子に吹き込むことができるのよ」と神への挑戦に成功したのに対し、「女王人形」の老夫婦は超常的な何者かの作成に失敗したのではないか?アミラミアは、人間から“太母”へのメタモルフォーゼに失敗した半端者なのではないか?
物語の最後に再び訪ねて来たカルロスに対し、アミラミアは「だめ、カルロス。帰って、二度とここには来ないで」と不安そうな表情を浮かべながら伝える。カルロスは彼女に言われたとおり、二度とこの家を訪れさえしなければ、平穏な人生を全うすることが出来るだろう。そこには、本能の猛威・奈落へと引きずり込む甘美さを司る悪い女主人のイメージも無ければ、生に至福を与える幸福の授け手、救済と再生の担い手としての良い母のイメージも無い。
それに対し、アウラはあらゆる相反する要素を併せ持つ太古の女神である。彼女は永劫の時間の中で、四季の巡りのように死と再生を繰り返す。


「悪魔もまたその昔は天使だったのだ…」

リョレンテ将軍の回想録はそこで終わっていた。
最後のページをめくると肖像写真が出てくる。軍服を着た老紳士の写真。古びたその写真には、1894年と記されている。大きく膨らんだスカートをはいてドーリス様式の円柱に凭れかかる1876年のアウラの写真には、厚紙の裏に飾り文字で〈結婚10年を記念して〉と書いてある。三枚目の写真には平服を着た老人と並んでベンチに腰を下ろしているアウラが写っている。最初の写真ほど若くないが、彼女であることは間違いない。そして、老人は…フェリーペだ。白い顎髭のリョレンテ将軍は間違いなくフェリーペだ。彼はこの27年間つけてきた仮面が剥がされるのを恐れるかのように自分の顔に触ってみる。そして、来るべきもの、彼の力では押しとどめることが出来ないものを待ち受ける。彼は時計に、人間の思い上がりが生み出した、偽りの時間を測るあの役立たずの代物に二度と眼を向けないだろう。まやかしの時間を彼はもう思い浮かべることが出来ない。

コンスエロ夫人が館を去ると、アウラは忽ち干からびた老婆になった。
しかし、フェリーペがその肉体に触れ、その肉体を愛すると、彼女は身体を震わせる。彼が彼女の髪に顔を埋めると月の光が消え、二人の姿が闇に包まれる。昔の記憶が暗闇の中に蘇ると、彼女は彼を再び抱きしめる。彼女の力によって彼もまた戻ってくることが出来たのだ。

「あの子は戻ってくるわ、フェリーペ。二人で力を合わせて彼女を連れ戻しましょう。しばらく力を蓄えさせて。そうしたら、もう一度あの子をよみがえらせにみせるわ……」


アミラミアはカルロスを引き留めることも助けを求めることも出来なかった。クラウディアはクレールを自殺に追い込み、フアン・ルイスをも死に至らしめたが、それは永遠にフアン・ルイスを失うことでもあった。アウラは彼女自身もフェリーペも何度だって蘇らせることが出来る。時間軸さえ操ることが出来るのだ。

「女王人形」、「純な魂」、「アウラ」の順に収録されているは興味深い。
失敗作のアミラミアから出発して、クラウディアを通過し、完成形としてのアウラに至る。三作は連作ではないのだから、どれから読んでも自由なのだけど、収録順に読んでみると、ヒロインの超常度が作品ごとに増していくのが面白い。

なんにしても、私はメキシコ人の信仰、神話についてあまりにも無知なのだ。
無知なまま読んでも面白くはあったが、やはりある程度の知識を得てから再読してみなければ、本書の核心に触れることは出来ないだろう。これきりで読了してしまうのは勿体ない。
コメント

予防接種とくったり犬

2017-05-25 07:22:28 | 日記

我が家の柴犬・凜ちゃん(六歳)。
今月は狂犬病の予防接種に混合ワクチンの接種、それからフィラリアの検査と、お年寄りの如く病院通いが続きました。獣医さん相手にはしゃぎ過ぎて、ちょっとお疲れ?
凜ちゃんは病院を嫌がらないので、連れて行くのは楽チンです。基本的にお他所の人が好きですしね。お注射打たれても気にしません。

先週、娘・コメガネの担任が家庭訪問のために我が家を訪れたのですが、凜ちゃんの大歓迎を受けて喜んでくれましたよ。先生の家ではヨークシャテリアを飼っているそうです。犬好きの先生で良かった。

桜も一応ご挨拶しましたが、すぐに猫ハウスに入って寝てしまいました。
桜はお他所の人には割とあっさりしています。病院に連れて行っても、ツラッとした態度。

亡くなった牡丹は、家族以外の人間はみんな嫌いでした。
お客さんが居る間はずっと物陰から睨んでいましたし、帰ってからもしばらく機嫌を直してくれませんでした。当然、病院も大嫌いで、バスケットに入れるのにも一苦労。診察台でも怒って怒って怒り散らして、帰ってからもずっと怒っていました。

実家で飼っていた柴犬二匹も、病院が大嫌いでしたね。
普段の散歩を装ってさり気なく家を出るのですが、いつも何故か途中でばれて座り込みストをされました。病院まで二匹を両脇に抱えて歩く羽目になって、道行く人たちから笑われたりしたものでしたよ。そんな二匹もそれぞれ18歳で亡くなりました。今となっては楽しい思い出です。


天気が良い日は、凜ちゃんをお庭に出します。
たまにメダカちゃんを飼っている睡蓮鉢の水を飲んでいるのですが、よくお腹を壊さないなぁと感心します。メダカちゃんたちは風が水面を揺らしただけでも葉裏に隠れてしまうくらい臆病ですから、凜ちゃんに舌を突っ込まれるのは相当な脅威だと思いますよ。


我が家の庭は、道路に面していないので、凜ちゃんもストレスを感じずに遊べるようです。寧ろ、桜に邪魔されない分、室内より快適かも?桜は外に慣れていないので、網戸の向こうから見学か、私に抱っこされてお庭に出るかです。


お隣との隙間が狭いので、草刈の負担を軽減するために砂利を蒔いたら、凜ちゃんがその上を行ったり来たりするようになりました。足裏に新感触?
コメント

人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

2017-05-22 07:13:04 | 日記
ジャレド・ダイアモンド著『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』

原題は“Why Is Sex Fun?”で、日本語初版のタイトルは直訳の『セックスはなぜ楽しいのか』。訳者の長谷川寿一氏のあとがきによると「文庫版では、女性や中高校生などにも手に取りやすく、本書全体の内容をより正確にあらわす『人間の性は何故奇妙に進化したのか』とした」とのこと。
確かに初版のタイトルでは手に取るのが恥ずかしい。この本を知った時には図書館で借りようと思ったのだが、あいにく地元の図書館には初版しか置いてなくて、カウンターに持っていく勇気が出なかった。仕方なく文庫版を購入した次第である。

著者のジャレド・ダイアモンドは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部生理学科の教授であると同時に、ニューギニアを舞台にした鳥類の研究で第一線の業績をあげてきた進化生態学者でもある。代表作は、『銃・病原菌・鉄』『文明崩壊』。
本著は、「二つの脳をもつ男」と呼ばれている著者が、人間の性について他の動物と比較しながら考察したものだ。

人間以外の多くの動物にとっては、自らの性行動を隠さないことの方が普通である。
例えば、ヒヒのメスは排卵周期に入ると、〈遠くからでも一目でわかるように膣の周りの皮膚を真っ赤に腫らせる〉、〈独特の臭いを発する〉、〈オスの前に歩み寄ってしゃがみ込んで局部を見せつける〉などで、自らが発情していることをアピールする。
これらの行動について違和感を覚える人は多いのではないだろうか?なんとも思わない人は、これらの行動を人間に当て嵌めてみて欲しい。どう感じるか?
そこまでしてパートナーを獲得したがる女性は少数派だろうし、そこまで明け透けに擦り寄られて喜ぶ男性もまた少数派であろう。端的に言うと、気味が悪い。はしたない。変態だと思う。110番か119番かへ通報するべきである。

しかし、自然界の大多数から見れば、人間の方こそ不気味であり、珍奇であり、変態的なのだ。
〈一夫一婦制〉、〈父親と母親がともに子育てをすること〉、〈他の夫婦とテリトリーを共有しあうこと〉、〈隠れてセックスすること〉、〈排卵が隠蔽されていること〉、〈女性が一定の年齢で閉経すること〉などは、殆ど人間にしか見ることが出来ない特異な行為である。
しかし、進化論的な観点から見れば、これらはすべて個体の生存や遺伝子の伝達を有利に行うための「選択」の結果なのだ。

本書では、人間の性の特異性について、以下の七つの章に分けて他の動物の事例と比較・考察している。

1 人間の奇妙な性生活
2 男と女の利害対立
3 なぜ男は授乳しないのか?
4 セックスはなぜ楽しいのか?
5 男はなんの役に立つのか?
6 少なく産めば、たくさん育つ
7 セックスアピールの真実

何れも俯瞰的に捉えると非常に興味深いが、恋愛だの結婚だのに真剣になるのが馬鹿馬鹿しくなる内容でもある。もっともシビアで滑稽なのは、“2 男と女の利害対立”だろうか。

“交尾をして卵の受精を完了したオスとメスは、つぎにとるべき行動についていくつかの「選択肢」に直面する。共に目の前の卵を置き去りにし、同じパートナー、もしくは新しいパートナーと交尾を行ない、新たな受精のための仕事にとりかかるべきだろうか。しかし、セックスを一休みして子育てを専念したほうが、この卵が生き残れる可能性を高められるかもしれない。後者を選んだ場合、オスとメスはさらに別の選択肢を迫られる。両親で子育てするのか、母親か父親のどちらか一方だけか、という問題だ。一方、親が居なくても卵が育つ可能性が一〇パーセントあり、親が子育てに参加するのと同じ時間で一〇〇〇個の受精卵を算出できるとしたら、親にとって最良の選択は、卵を置き去りにして自力に任せ、自分は新たな受精の仕事に向かうことだ。”(P32~33)

まるであらゆる動物が意識的に「選択肢」を比較検討して、自分の利益を最も増すであろう道を選んでいるかのような印象を受ける。しかし、当然のことながら個体ごとに「選択肢」を判断しているわけではない。行動学で「選択」と呼ばれるものの多くは、自然淘汰によってその種ごとの生理機能や身体構造にあらかじめプログラムされているのである。

“遺伝子を引き継いだ子孫の生存力を最も高めるような解剖学的構造と本能を規定する遺伝子は、しだいにその頻度を増すようになる。言い換えれば、生存力や繁殖力を高める解剖学的構造や本能は、自然淘汰によって定着していく(遺伝的にプログラムされていく)傾向がある。”(P35)

自然淘汰とは、種の利益を何らかの形で増すものであるだけではない。親子間の闘争でもあり、夫婦間の闘争でもあるのだ。何故なら、親と子の利益、あるいは父親と母親の利益は必ずしも一致しないからである。
とりわけ、異性間の闘争についていえば、自然淘汰は子孫を多く残すようにオス・メス双方に働くが、最適な戦略は双方で異なるかもしれない。ここに対立が生じる。

オスとメスが交尾して受精卵を作った後、どうするかという「選択」に迫られた場合につて考えてみる。
卵が自力で生き延びる可能性がそれなりに高い場合は簡単だ。
オスもメスも卵を置き去りにすることで利益は一致する。子育ての時間が要らない分、さらに多くの受精卵を作れるのである。
ところが、どちらかが世話をしないと子供が生きていけない場合には、子育てを巡ってオスとメスの間で駆け引きが生じる。
オスもメスも子育ては相手に押し付けて、自分は繁殖可能な新しいパートナーを見つけた方が遺伝的利益を増すためには良い。しかし、残されたパートナーが子育てを全うしてくれなかった場合、子供は死んでしまい、どちらとも遺伝的利益を増すゲームに負けたことになる。

ゲームに負けたくなければ、どちらかが引き下がらなければならない。
どちらが引き下がる場合が多いのか。その答えは、どちらが受精卵により多くの投資をしたかで決まる。オスもメスもこれを意識的に計算しているわけではない。彼らがとる行動は自然淘汰によって遺伝的に解剖学的構造や本能にプログラムされているのだ。
僅かしか投資しなかった側より、多大な投資をした側の方が途中で投げ出しにくい。人間においては、何処の国でも母親が引き下がり、子育てを引き受けることが多いのはこのためである。

人間の場合、卵が受精する瞬間においてさえ、母親の方が多くの投資をしている。
ヒトの成熟した卵子1個の重量は、精子の約100万個分に相当する。
卵子にも精子にも染色体が含まれているが、卵子にはさらに栄養分と代謝機能が備わっており、少なくとも胚が自力で栄養分を摂取できる段階までの間は、それを使って胚の発生を手助けする。それに対して、精子に必要なのは鞭毛を使って数日間泳ぎ回るのに必要なエネルギーだけである。

そして、人間の授精は体内受精である。
体内受精の場合、母親は卵子を作って受精させるまでに要した投資に加えて、そのあと胚にもさらに投資しなくてはならない。体内の栄養分を使って胚を成長させるのである。

また、栄養分だけでなく、妊娠に要する時間も投資しなくてはならない。
母親が妊娠九ヶ月までに費やす時間と労力は莫大なものだが、父親が1ミリリットルの生死を放出するのに費やす投資はちっぽけなものだ。
母親は、妊娠中は他に子供を作ることが出来ない。加えて、哺乳動物となると母親が拘束される時間はさらに長く、授乳期間にまで及ぶ。
これに対して、父親の方は妻の体内に放精した直後でも、別の女性に放精することが出来るので、さらに多く遺伝子を残すことが出来る。
男性が妊娠と同時に女性を捨て、別の女性を求めることの進化的ロジックはここにある。逆に言えば、子育てを引き受けた男性は、別の繁殖機会をいくつものがしていることになる。

投資の大きさの差異、子育てによって失う繁殖機会の差に加えて、親であることの確からしさの差(遺伝子検査でも受けない限り、男性は妻が生んだ子が自分の実子であるか確認する術を持たない)から、男性は女性より子供や配偶者を捨てやすい傾向がある。
大して投資していないから捨てるのがさほど惜しくない。今の妻の子にこだわるより、次々に新たなパートナーを得て繁殖の機会を増やす方が効率的だ。大体、妻の産んだ子が自分の子とは限らないし…。こう書くと、クズ男の「選択」を肯定しているみたいで萎える。倫理と効率的な繁殖は両立が難しいらしい。

さらに非倫理的な「選択」になるが、男性は既婚女性と浮気することで、子の数をより確実に増やすことが出来る。
男性が遺伝的成功を最大化できる方法は、既婚女性と婚外性交し、相手の夫に他人の子とは悟られずに生まれた子供を育てさせることだ。遺伝子を多く残すためには、繁殖の機会を増やすだけでは片手落ちである。捨てていく女性がしっかり子育てして遺伝子の生存を助けくれなかった場合、この性交は無駄撃ちになってしまうのだ。より確実に遺伝子を残すためには、彼女に加えて彼女の夫にもうまく子育てを押し付けるのが良い。すべては、自然淘汰によって定着した遺伝的プログラムの成せる業である。不倫は文化ではなく本能だったのだ。
逆に夫に不満な女性が、現在の夫よりも財力があったり、良い遺伝子を持つ男性との再婚や婚外関係を求めたりするのもまた、自然淘汰による「選択」の結果だ。

我々が親子愛だの恋愛だのと美化している感情が、繁殖戦略のための「選択」から生まれたものだとすれば、切ないのを通り越して可笑しくなってしまう。愛しているだとか好きだとかなんて、所詮は気持ち良く子孫を生み増やしていくために遺伝子にプログラムされた感情に過ぎないのだろうか。
コメント

初夏の花2017

2017-05-18 07:24:26 | 日記

気温が20度を超える日が増え、我が家の小さな庭の植物も次々に花を咲かせています。


オレンジのアマリリスは、子球が四つも付いているせいで例年より元気がありません。
あまり花のことを気にしない夫が、「やつれてる」と心配するくらいです。人間の妊婦と一緒で、子供に栄養を持っていかれているんですね。時期が来たら子球を外さなければ…。
このアマリリスは、今ついている子球の他に既に三つ子球を分けているので、合計で七つの子沢山です。しかも、別の鉢に植えた子珠には孫球が出来ています。アマリリスの球根は普通の状態では分球し難いそうですが、どういうことなんでしょうか?里親を見つけるのにも限度があるので、もう増えなくて良いのですが(笑)。

白にピンクのアマリリスは、去年植えたもの。花が重すぎて茎が曲がっています。


海老根。


姫空木。


金雀枝。隣の赤い花は名前を忘れました。


ジャーマンアイリス。


白い紫蘭。


ランタナ。





寄せ植え。
コメント

母の日2017

2017-05-15 07:09:52 | 日記

先週末は母の日だったので、ケーキを焼きました。
ずっしり重たいベイクドチーズケーキです。普通にスポンジケーキを焼くより楽に仕上がりますね。


クッキングシートを敷いた上に土台を敷き詰め平らにします。
土台はマリービスケットにバターを混ぜたものです。


生地(クリームチーズ・200g、卵・2個、生クリーム・1パック、砂糖・60g、薄力粉35g、バター・適量、レモン汁・大匙3杯)を流し入れて焼きました。一晩、冷蔵庫に寝かせて完成です。


主人がカニクリームコロッケを作ってくれました。


プレゼントは、主人からはアナスイのピアス。アナスイらしい紫の蝶です。


娘・コメガネからは青地に小花模様のワンピースを貰いました。
私のクローゼットの中は、青色か臙脂色の服が大半を占めています。たまには違う色の服もって思うのですが、買っても結局あまり着ないんですよね。

主人と自分の実家には焼菓子を送りました。
私の母は私より元気ですが、主人の母は一年足らずの間に病気や骨折が重なって、すっかり弱気になっていました。
いつもは矢鱈とポジティブなのに、電話の向こうの口調が湿っぽくなっていて驚きましたよ。長年嵌っている新興宗教の話が出なかったのも初めてです。何の話をしていても、必ず宗教の話に結び付けるトリッキーな話術の持ち主でしたのに…。人間、あまりにも不運が重なると神頼みをする気もなくなるのですね。主人なんか「もうすぐ死ぬんじゃねえの?」などと言ってコメガネに窘められる始末。まぁ、宗教に関しては、長年にわたり親族の間で軋轢の種になっておりましたので、これを機に我々を勧誘するのは諦めてくれると良いと思っています。本人が続ける分には、何も言う気はありません。
更に不運なことに、義母と同居している義兄と上の姪も交通事故で骨折してしまい、一家で災難続きです。特に姪は腕に障害が残るらしく、休職中の職場も何れは退職することになりそうです。医療関係のお仕事なので、手が使えないことにはどうにもならないのですよ。私は主人の親族の中では彼女が一番好きなので、とても心が痛いです。
コメント