カルロス・フエンテス著『アウラ・純な魂』
収録作は、「チャック・モール」、「生命線」、「最後の恋」、「女王人形」、「純な魂」、「アウラ」の六作。解説とは本来は最後に読むものだろうが、フエンテスの経歴と作風について解り易くまとめられているので、手掛かりとして先に読んでおいても良いかもしれない。
フエンテスは1928年、パナマにて生を受けた。
メキシコ人でありながら、父親が外務省に勤務していた関係で、南米の諸都市を転々とした後、1934年にワシントンに落ち着いた。当時のメキシコ大統領ラサロ・カルデナスの政策がアメリカの経済に不利益を齎したことから、新聞ではメキシコ・バッシングが展開され、フエンテスは通っていた小学校で爪弾きに会い、心に深い傷を負った。
その経験と1910年に起きたメキシコ革命とがフエンテスの創作活動に大きな影響を及ぼしている。フエンテスは外国生活が長かったために、祖国メキシコを距離を置いて眺めることが出来た。フエンテスは愛憎半ばする感情に責め立てられながら、自国のアイデンティティと自らのアイデンティティを探るようになる。
メキシコは地理的にみると、北は先進国のアメリカ、南は発展途上国の中南米諸国に接している。宗教的には、北はプロテスタント、南はカトリックだ。人種的には、少数の白人とこれも少数のインディオ、それに多数の混血によって構成されている。歴史的には、マヤ・アステカに代表されるメキシコの古代文明は、スペイン人によって破壊された。
斯様に、相対立する文化、思考様式、価値観が混在するメキシコという国の複雑なアイデンティティは、そのままフエンテス文学の多重・多様性に繋がっている。
訳者の手腕もあるのだろうが、非常に読みやすい文章だった。
屋外なら風景、屋内なら調度品、人物の容姿から身に着けている物、意識の流れまで、克明で繊細な描写がなされている。それ故、場面や人物の心情を想像し易く、一見解り易い印象を受ける。しかし、一つ一つの描写を近視的に追っているうちは解っているつもりになれるのに、全体を見てみようとすると途端に世界が幾重にもぼやけて、実は何も読めていなかったことに気ついてしまう。今、自分は誰の心に寄り添っていたのか?誰の目で世界を見ていたのか?全てがあやふやで心許ない。フエンテス作品の中に流れる時間は直線的ではなく、その世界は多層的で、一言で特徴を表すことが出来ないのだ。
「アウラ」は、「フランス語の知識がある若い歴史家。月四千ペソ。」との新聞広告に惹かれたフェリーペが、コンスエロ夫人の屋敷を尋ねるところから始まる。
まるで胎内のように暗い邸内で告げられた依頼の内容は、60年前に亡くなったコンスエロ夫人の夫リョレンテ将軍の回想録を完成させることだった。条件は完成までこの家で寝泊まりすること。夫人は、「戻ってくると申し上げたでしょう……」と言う。フェリーペが、「誰のことを言っておられるんです?」と問えば、「アウラのことですわ。私のお友達、姪ですの」と答える。そして、いつの間にかその場に居た若い娘に、フェリーペが一緒に暮らすことになったと告げるのだった。
解説によれば、フエンテスは「アウラ」の執筆にあたって、溝口健二の映画『雨月物語』、さらには上田秋成の原作から多大な影響を受けたらしい。確かに『雨月物語』で源十郎が連れ込まれる朽木氏の姫・若狭の屋敷と、コンスエロ夫人とアウラの住む屋敷の雰囲気はよく似ている。油彩画風の濃厚な陰翳ではなく、水墨画風の幽冥な陰りで覆われているのだ。
「アウラ」に限らず、フエンテス作品の多くは、他のラテンアメリカの作家に比べると熱狂性は薄く、また、ラヴクラフトみたいにドロリともしていない。日本人の感性に馴染みやすい淡麗さだ。
無論、「アウラ」には、『雨月物語』には含まれていないテーマも含まれている。
若狭には彼女と一対になる人物がいないが、アウラにはコンスエロ夫人という一対になる人物がいる。アウラ=コンスエロ夫人、そして、フェリーペ・モンテーロ=リョレンテ将軍と捉えてよいのだろうか。
解説に引用されている作者自身の体験によると “鏡の沢山あるパリのアパートで暮らしていた時に、敷居の向こうを通る若い女性の姿がその鏡に映った。それを見て、鏡の中の世界は、現実の世界を忠実に映し出していながら、その実、鏡の中に広がる時間・空間はまったく異質なものであり、したがってそこに映し出される人間も別人なのだということに思い当たった。”とのこと。
つまり、アウラはコンスエロ夫人であると同時に鏡の向こう側の別人でもある、と解釈することが出来る。フェリーペとリョレンテ将軍についても同様に捉えてよいのだろう。フェリーペに対し、「君」と語りかけてくる年上と思われる人物もまた、フェリーペであってフェリーペではない。
老いと若さ、美と醜、生と死…様々に相反する要素を併せ持つコンスエロ夫人即ちアウラとは、フエンテスによると、「超自然の処女、災厄をもたらす女、亡霊になった新妻、ふたたび結ばれたカップル」であり、「アウラは永遠に続く魔女の一族を増やすためにこの地上にやってきた」のだそうだ。
この短編集では、「アウラ」の他に、「女王人形」、「純な魂」の二作が、超常的な女性をヒロインに据えた物語である。
しかし、訳者である木村榮一氏の「アウラはアミラミアやクラウディアと同じ血族に属していると言えよう。」という見解については、若干疑問を感じる。「純な魂」のクラウディアと「アウラ」のアウラが、ともに “太母”であるという意見には賛成だ。ただし、序列では、アウラの方が高位だろう。
だが、「女王人形」のアミラミアは、“太母”の系譜からは落ちこぼれていると思う。
同居している老人に怯える車椅子の彼女はあまりにも弱弱しく、“太母”というよりは、その成り損ないと言った方が近いように思える。彼女が邪険にされている理由もそこにあるのだろう。彼女は、“超自然の処女”には違いないが、愛する男を無意識の工夫工面で死に至らしめたり、永遠に閉じられた時間軸の中に封じ込めたりする力を有しているようには感じられない。
「アウラ」のコンスエロ夫人が、「あの子に肉体を与えることができたのよ。あの子を呼び出し、自分の命をあの子に吹き込むことができるのよ」と神への挑戦に成功したのに対し、「女王人形」の老夫婦は超常的な何者かの作成に失敗したのではないか?アミラミアは、人間から“太母”へのメタモルフォーゼに失敗した半端者なのではないか?
物語の最後に再び訪ねて来たカルロスに対し、アミラミアは「だめ、カルロス。帰って、二度とここには来ないで」と不安そうな表情を浮かべながら伝える。カルロスは彼女に言われたとおり、二度とこの家を訪れさえしなければ、平穏な人生を全うすることが出来るだろう。そこには、本能の猛威・奈落へと引きずり込む甘美さを司る悪い女主人のイメージも無ければ、生に至福を与える幸福の授け手、救済と再生の担い手としての良い母のイメージも無い。
それに対し、アウラはあらゆる相反する要素を併せ持つ太古の女神である。彼女は永劫の時間の中で、四季の巡りのように死と再生を繰り返す。
「悪魔もまたその昔は天使だったのだ…」
リョレンテ将軍の回想録はそこで終わっていた。
最後のページをめくると肖像写真が出てくる。軍服を着た老紳士の写真。古びたその写真には、1894年と記されている。大きく膨らんだスカートをはいてドーリス様式の円柱に凭れかかる1876年のアウラの写真には、厚紙の裏に飾り文字で〈結婚10年を記念して〉と書いてある。三枚目の写真には平服を着た老人と並んでベンチに腰を下ろしているアウラが写っている。最初の写真ほど若くないが、彼女であることは間違いない。そして、老人は…フェリーペだ。白い顎髭のリョレンテ将軍は間違いなくフェリーペだ。彼はこの27年間つけてきた仮面が剥がされるのを恐れるかのように自分の顔に触ってみる。そして、来るべきもの、彼の力では押しとどめることが出来ないものを待ち受ける。彼は時計に、人間の思い上がりが生み出した、偽りの時間を測るあの役立たずの代物に二度と眼を向けないだろう。まやかしの時間を彼はもう思い浮かべることが出来ない。
コンスエロ夫人が館を去ると、アウラは忽ち干からびた老婆になった。
しかし、フェリーペがその肉体に触れ、その肉体を愛すると、彼女は身体を震わせる。彼が彼女の髪に顔を埋めると月の光が消え、二人の姿が闇に包まれる。昔の記憶が暗闇の中に蘇ると、彼女は彼を再び抱きしめる。彼女の力によって彼もまた戻ってくることが出来たのだ。
「あの子は戻ってくるわ、フェリーペ。二人で力を合わせて彼女を連れ戻しましょう。しばらく力を蓄えさせて。そうしたら、もう一度あの子をよみがえらせにみせるわ……」
アミラミアはカルロスを引き留めることも助けを求めることも出来なかった。クラウディアはクレールを自殺に追い込み、フアン・ルイスをも死に至らしめたが、それは永遠にフアン・ルイスを失うことでもあった。アウラは彼女自身もフェリーペも何度だって蘇らせることが出来る。時間軸さえ操ることが出来るのだ。
「女王人形」、「純な魂」、「アウラ」の順に収録されているは興味深い。
失敗作のアミラミアから出発して、クラウディアを通過し、完成形としてのアウラに至る。三作は連作ではないのだから、どれから読んでも自由なのだけど、収録順に読んでみると、ヒロインの超常度が作品ごとに増していくのが面白い。
なんにしても、私はメキシコ人の信仰、神話についてあまりにも無知なのだ。
無知なまま読んでも面白くはあったが、やはりある程度の知識を得てから再読してみなければ、本書の核心に触れることは出来ないだろう。これきりで読了してしまうのは勿体ない。
収録作は、「チャック・モール」、「生命線」、「最後の恋」、「女王人形」、「純な魂」、「アウラ」の六作。解説とは本来は最後に読むものだろうが、フエンテスの経歴と作風について解り易くまとめられているので、手掛かりとして先に読んでおいても良いかもしれない。
フエンテスは1928年、パナマにて生を受けた。
メキシコ人でありながら、父親が外務省に勤務していた関係で、南米の諸都市を転々とした後、1934年にワシントンに落ち着いた。当時のメキシコ大統領ラサロ・カルデナスの政策がアメリカの経済に不利益を齎したことから、新聞ではメキシコ・バッシングが展開され、フエンテスは通っていた小学校で爪弾きに会い、心に深い傷を負った。
その経験と1910年に起きたメキシコ革命とがフエンテスの創作活動に大きな影響を及ぼしている。フエンテスは外国生活が長かったために、祖国メキシコを距離を置いて眺めることが出来た。フエンテスは愛憎半ばする感情に責め立てられながら、自国のアイデンティティと自らのアイデンティティを探るようになる。
メキシコは地理的にみると、北は先進国のアメリカ、南は発展途上国の中南米諸国に接している。宗教的には、北はプロテスタント、南はカトリックだ。人種的には、少数の白人とこれも少数のインディオ、それに多数の混血によって構成されている。歴史的には、マヤ・アステカに代表されるメキシコの古代文明は、スペイン人によって破壊された。
斯様に、相対立する文化、思考様式、価値観が混在するメキシコという国の複雑なアイデンティティは、そのままフエンテス文学の多重・多様性に繋がっている。
訳者の手腕もあるのだろうが、非常に読みやすい文章だった。
屋外なら風景、屋内なら調度品、人物の容姿から身に着けている物、意識の流れまで、克明で繊細な描写がなされている。それ故、場面や人物の心情を想像し易く、一見解り易い印象を受ける。しかし、一つ一つの描写を近視的に追っているうちは解っているつもりになれるのに、全体を見てみようとすると途端に世界が幾重にもぼやけて、実は何も読めていなかったことに気ついてしまう。今、自分は誰の心に寄り添っていたのか?誰の目で世界を見ていたのか?全てがあやふやで心許ない。フエンテス作品の中に流れる時間は直線的ではなく、その世界は多層的で、一言で特徴を表すことが出来ないのだ。
「アウラ」は、「フランス語の知識がある若い歴史家。月四千ペソ。」との新聞広告に惹かれたフェリーペが、コンスエロ夫人の屋敷を尋ねるところから始まる。
まるで胎内のように暗い邸内で告げられた依頼の内容は、60年前に亡くなったコンスエロ夫人の夫リョレンテ将軍の回想録を完成させることだった。条件は完成までこの家で寝泊まりすること。夫人は、「戻ってくると申し上げたでしょう……」と言う。フェリーペが、「誰のことを言っておられるんです?」と問えば、「アウラのことですわ。私のお友達、姪ですの」と答える。そして、いつの間にかその場に居た若い娘に、フェリーペが一緒に暮らすことになったと告げるのだった。
解説によれば、フエンテスは「アウラ」の執筆にあたって、溝口健二の映画『雨月物語』、さらには上田秋成の原作から多大な影響を受けたらしい。確かに『雨月物語』で源十郎が連れ込まれる朽木氏の姫・若狭の屋敷と、コンスエロ夫人とアウラの住む屋敷の雰囲気はよく似ている。油彩画風の濃厚な陰翳ではなく、水墨画風の幽冥な陰りで覆われているのだ。
「アウラ」に限らず、フエンテス作品の多くは、他のラテンアメリカの作家に比べると熱狂性は薄く、また、ラヴクラフトみたいにドロリともしていない。日本人の感性に馴染みやすい淡麗さだ。
無論、「アウラ」には、『雨月物語』には含まれていないテーマも含まれている。
若狭には彼女と一対になる人物がいないが、アウラにはコンスエロ夫人という一対になる人物がいる。アウラ=コンスエロ夫人、そして、フェリーペ・モンテーロ=リョレンテ将軍と捉えてよいのだろうか。
解説に引用されている作者自身の体験によると “鏡の沢山あるパリのアパートで暮らしていた時に、敷居の向こうを通る若い女性の姿がその鏡に映った。それを見て、鏡の中の世界は、現実の世界を忠実に映し出していながら、その実、鏡の中に広がる時間・空間はまったく異質なものであり、したがってそこに映し出される人間も別人なのだということに思い当たった。”とのこと。
つまり、アウラはコンスエロ夫人であると同時に鏡の向こう側の別人でもある、と解釈することが出来る。フェリーペとリョレンテ将軍についても同様に捉えてよいのだろう。フェリーペに対し、「君」と語りかけてくる年上と思われる人物もまた、フェリーペであってフェリーペではない。
老いと若さ、美と醜、生と死…様々に相反する要素を併せ持つコンスエロ夫人即ちアウラとは、フエンテスによると、「超自然の処女、災厄をもたらす女、亡霊になった新妻、ふたたび結ばれたカップル」であり、「アウラは永遠に続く魔女の一族を増やすためにこの地上にやってきた」のだそうだ。
この短編集では、「アウラ」の他に、「女王人形」、「純な魂」の二作が、超常的な女性をヒロインに据えた物語である。
しかし、訳者である木村榮一氏の「アウラはアミラミアやクラウディアと同じ血族に属していると言えよう。」という見解については、若干疑問を感じる。「純な魂」のクラウディアと「アウラ」のアウラが、ともに “太母”であるという意見には賛成だ。ただし、序列では、アウラの方が高位だろう。
だが、「女王人形」のアミラミアは、“太母”の系譜からは落ちこぼれていると思う。
同居している老人に怯える車椅子の彼女はあまりにも弱弱しく、“太母”というよりは、その成り損ないと言った方が近いように思える。彼女が邪険にされている理由もそこにあるのだろう。彼女は、“超自然の処女”には違いないが、愛する男を無意識の工夫工面で死に至らしめたり、永遠に閉じられた時間軸の中に封じ込めたりする力を有しているようには感じられない。
「アウラ」のコンスエロ夫人が、「あの子に肉体を与えることができたのよ。あの子を呼び出し、自分の命をあの子に吹き込むことができるのよ」と神への挑戦に成功したのに対し、「女王人形」の老夫婦は超常的な何者かの作成に失敗したのではないか?アミラミアは、人間から“太母”へのメタモルフォーゼに失敗した半端者なのではないか?
物語の最後に再び訪ねて来たカルロスに対し、アミラミアは「だめ、カルロス。帰って、二度とここには来ないで」と不安そうな表情を浮かべながら伝える。カルロスは彼女に言われたとおり、二度とこの家を訪れさえしなければ、平穏な人生を全うすることが出来るだろう。そこには、本能の猛威・奈落へと引きずり込む甘美さを司る悪い女主人のイメージも無ければ、生に至福を与える幸福の授け手、救済と再生の担い手としての良い母のイメージも無い。
それに対し、アウラはあらゆる相反する要素を併せ持つ太古の女神である。彼女は永劫の時間の中で、四季の巡りのように死と再生を繰り返す。
「悪魔もまたその昔は天使だったのだ…」
リョレンテ将軍の回想録はそこで終わっていた。
最後のページをめくると肖像写真が出てくる。軍服を着た老紳士の写真。古びたその写真には、1894年と記されている。大きく膨らんだスカートをはいてドーリス様式の円柱に凭れかかる1876年のアウラの写真には、厚紙の裏に飾り文字で〈結婚10年を記念して〉と書いてある。三枚目の写真には平服を着た老人と並んでベンチに腰を下ろしているアウラが写っている。最初の写真ほど若くないが、彼女であることは間違いない。そして、老人は…フェリーペだ。白い顎髭のリョレンテ将軍は間違いなくフェリーペだ。彼はこの27年間つけてきた仮面が剥がされるのを恐れるかのように自分の顔に触ってみる。そして、来るべきもの、彼の力では押しとどめることが出来ないものを待ち受ける。彼は時計に、人間の思い上がりが生み出した、偽りの時間を測るあの役立たずの代物に二度と眼を向けないだろう。まやかしの時間を彼はもう思い浮かべることが出来ない。
コンスエロ夫人が館を去ると、アウラは忽ち干からびた老婆になった。
しかし、フェリーペがその肉体に触れ、その肉体を愛すると、彼女は身体を震わせる。彼が彼女の髪に顔を埋めると月の光が消え、二人の姿が闇に包まれる。昔の記憶が暗闇の中に蘇ると、彼女は彼を再び抱きしめる。彼女の力によって彼もまた戻ってくることが出来たのだ。
「あの子は戻ってくるわ、フェリーペ。二人で力を合わせて彼女を連れ戻しましょう。しばらく力を蓄えさせて。そうしたら、もう一度あの子をよみがえらせにみせるわ……」
アミラミアはカルロスを引き留めることも助けを求めることも出来なかった。クラウディアはクレールを自殺に追い込み、フアン・ルイスをも死に至らしめたが、それは永遠にフアン・ルイスを失うことでもあった。アウラは彼女自身もフェリーペも何度だって蘇らせることが出来る。時間軸さえ操ることが出来るのだ。
「女王人形」、「純な魂」、「アウラ」の順に収録されているは興味深い。
失敗作のアミラミアから出発して、クラウディアを通過し、完成形としてのアウラに至る。三作は連作ではないのだから、どれから読んでも自由なのだけど、収録順に読んでみると、ヒロインの超常度が作品ごとに増していくのが面白い。
なんにしても、私はメキシコ人の信仰、神話についてあまりにも無知なのだ。
無知なまま読んでも面白くはあったが、やはりある程度の知識を得てから再読してみなければ、本書の核心に触れることは出来ないだろう。これきりで読了してしまうのは勿体ない。