青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

無口になったアン夫人

2019-06-24 07:32:01 | 日記
サキ著『無口になったアン夫人』には、ボルヘスによる序文と、「無口になったアン夫人」「お話の上手な男」「納戸部屋」「ゲイブリエル‐アーネスト」「トーバモリー」「名画の額ぶち」「非安静療法」「やすらぎの里モーズル・バートン」「ウズラの餌」「あけたままの窓」「スレドニ・ヴァシュター」「邪魔立てするもの」の12編が収録されている。

“不幸というものは、周知のように、ポエジーの要素の一つである。”

サキの本名は、ヘクター・ヒュー・マンロウという。
序文によると、マンロウという姓はスコットランドの旧家の姓であり、サキというエキゾチックな筆名は、『ルバイヤット』に由来しているのだそうだ。
サキは幼少期から二人の厳格な伯母に監視されて暮らす生活を経験しており、その不快な記憶は彼の創作の源の一つになっている。

本書に収められている中にも、「お話の上手な男」「納戸部屋」「スレドニ・ヴァシュター」に、独り善がりな常識と教育を押し付けてくるヒステリックな伯母が登場する。
このうちの「納戸部屋」「スレドニ・ヴァシュター」には、動物と少年との幻想的な交流が描かれているが、これはサキの伯母たちが動物嫌いだったことと無関係ではあるまい。幼少期のサキも、動物に救済を求めたことがあったのだろう。
サキの物語において、伯母たちは歪んだ善意で子供たちを苦しめるが、最後には手痛いしっぺ返しを食らう滑稽な存在、というのが一つのパターンになっている。描いていてさぞや溜飲が下がったことと思うが、現実にはこの手の人物が痛い目に遭うことはそうそうない。だからこそ彼ら彼女らの存在は不快で、物語の中でやり込められても同情する気になれず、安心して笑っていられる。


「お話の上手な男」は、面白くとも何とも無い教訓話を子供たちに押し付ける伯母が、ゆきずりの話し上手な男にやり込められる話だが、サラリと笑える程度に毒が留められている。
それに対して、「スレドニ・ヴァシュター」では、伯母を断罪するのは動物で、「お話の上手な男」の男よりはるかに情け容赦が無い。

十歳のコンラディンにとって、この世の五分の三はじつに嫌な現実の世界で、その代表者が伯母だった。それと永久に対立する残りの五分の二は彼自身と彼の空想の世界で、彼は救いの港を物置小屋に求めた。
コンラディンは、納戸部屋に籠り、タペストリの動物たちを見ながら空想にふける「納戸部屋」の主人公ニコラスと同じ魂の持ち主なのだ。
コンラディンの魂はとても弱いので、このままではそのうち伯母を代表とする現実の世界に押しつぶされてしまうだろう。そんな彼を救うために現われたのが、スレドニ・ヴァシュターだ。
スレドニ・ヴァシュターとは、コンラディンが物置小屋で秘かに飼っている大イタチだ。
コンラディンは、この大イタチを愛玩動物としてではなく、自分だけの神として信奉し、伯母の監視下に置ける息の詰まりそうな生活の中で心の拠り所にしていた。
スレドニ・ヴァシュターに祈り続けていれば、いつか必ず、二言目には「本人のためだから」と、すること成すこといちいち抑え込もうとする「あの女」から救い出してくれるに違いない。

当然のことだが、コンラディンの一挙手一投足をすべて把握し、矯正することを己が務めと心得る「あの女」が、甥が物置小屋で生き物をこっそり飼っていることに気が付かない訳がない。かくて、断罪の時は唐突に訪れる。
遠くに叫び声を聞きながら、好物のトーストを焼き上げるコンラディンの無慈悲は、まさに超自然の存在のもので、スレドニ・ヴァシュターとは、実は彼の分身だったのではないかとさえ思った。


表題作の「無口になったアン夫人」のアン夫人は、伯母の変種と見ていいかもしれない。
機嫌を損ねた時のアン夫人のパターンは決まっていて、“まず最初の四分間は黙り込む。それから猛烈にまくしたてる。”

ところが、この日のアン夫人は、夫のエグバードがどんなアプローチをとっても一向に口を開こうとはしなかった。二人が結婚して以来初めての珍事である。何故アン夫人は無口になってしまったのか?
このオチで笑ってしまうのは不謹慎かもしれないが、サキも笑って欲しくて書いたのだろうから、笑って構わないのだろう。因みにこの話には猫が出てくる。
一作目からこの鮮やかな締め括り方なので、二作目以降も期待が持てた。さすがに掌編の達人と呼ばれるだけのことはある。


とは言え、実のところ、サキの真骨頂であろう伯母物より伯母の出てこない「名画の額ぶち」や「ウズラの餌」などの方が、より力みの少ない分、私の好みだった。
特に「名画の額ぶち」は、見たことも無い奇想で、サキのとんでもないストーリーテラーぶりを堪能できる。

「名画の額ぶち」は、主人公のアンリ・デプリが、親族から転がり込んできた遺産を何か害は無いけど派手なことに散財してみようと思いついたことから起こる悲喜劇だ。

アンリ・デプリは、土地で有名な刺青の大家ピンチーニ氏の芸術の支援をしようと思いつく。要はピンチーニ氏に刺青を掘ってもらうのだ。
ピンチーニ氏は、アンリ・デプリの背中にイカルスの墜落を描いた刺青を掘った。作品のテーマはアンリ・デプリの好みではなかったが、出来栄えは上々だった。拝見の光栄に浴した連中一人残らず、これこそピンチーニ氏一世一代の傑作だと誉めそやしたのだ。
評判通り、この傑作はピンチーニ氏の最高の、そして最後の名作となった。というのは、まだ手間賃も受け取らないうちに、ピンチーニ氏が急死してしまったからだ。ここまでは、まあいい。

ここから、ピンチーニ未亡人とアンリ・デプリとの間で、支払いをめぐる対立が起きる。
アンリ・デブリは、ちょいちょい遺産に手を付けていたため、ピンチーニ氏に支払う約束の金額を既に持っていなかったのだ。
腹を立てた未亡人は、この作品の売却を取り消した。そして、この作品をベガルモ市に寄贈してしまうのだった。

こうして、アンリ・デプリは自分の背中にしょった名作によって、極めて不自由な人生を送ることになった。
刺青は彼の肉体の一部だが、市に寄贈された芸術品でもあるので、勝手に人前で背中を晒すことは許されない。また、作品を傷める恐れがあるとして、水着で背中を覆っても海水浴は禁じられた。更には、イタリアでは美術品の国外輸出を厳重に禁止されているため、渡航も儘ならなくなってしまった。
一個人の尊厳など、芸術の前では完全無視の扱いなのだ。

その後、この芸術品をめぐって、イタリアとルクセンブルグで外交問題が起きたり、贋作疑惑を掛けられ、ヨーロッパ諸国で論争が起きたりで、アンリ・デプリは本人にはどうすることも出来ない不運の荒波に揉まれ続けることになる。
心を病んだアンリ・デプリは、イタリア無政府党に入党し、会議中に熱狂的な同志から腐食性の薬品を浴びせられてしまう。これによって背中のイカルスは滅茶苦茶に損傷し、アンリ・デプリは、芸術作品であることから解放され、人間の尊厳を回復する。が、それは同時に取るに足らない者への転落でもあった。
芸術作品から無価値な肉体への失墜は、イカルスの墜落そのものである。ピンチーニ氏は、芸術家の霊感でアンリ・デプリの運命を予見していたのだろうか。


巷ではブラックと評されることの多いサキであるが、ボルヘスは、“一種の慎みをもって、サキはそのうちに秘められた枠組が悲しくも残酷であるような物語に些末事らしい調子を与える”と述べている。
もっと深刻で長い話にすることが可能である題材を、あえて軽く短く仕上げるサキの創作スタイルは、なるほど「慎み」という言葉がふさわしいのかもしれない。慎みから発する軽妙な風刺からは、底意地の悪さよりも品の良さを感じるのだ。
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人面の大岩

2019-06-20 08:17:27 | 日記
ホーソーン著『人面の大岩』には、ボルヘスによる序文と、「ウェイクフィールド」「人面の大岩」「地球の大燔祭」「ヒギンボタム氏の災難」「牧師の黒いベール」の五編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の3巻目にあたる。私にとっては16冊目の“バベルの図書館”の作品である。

ホーソーンの作品は、中3の時に読書感想文のために『緋文字』を読んだきりだった。
『緋文字』については、読む前には魔女裁判が出てくるらしいということ以外は知らなかったし、読み始めてから作品の面白さとは別に、感想を書きにくい作品を選んでしまったことについては後悔した。

緋文字とは、不義密通者の徴である。
水死した夫以外の子を産んだヘスターは、不義密通の咎で、胸に赤いAの文字を縫い付けた布をつけられ、晒し台に立たされる。その後は、周囲の人々の好奇と批判の視線に晒されながら、生涯その赤い文字を身に着けて暮らさなければならなくなった。
そうこうするうちに、死んだはずの夫が帰って来て、子供の父親について妻を詰問した。しかし、彼女は白状せず、夫は執念で密通者を探し出した。ヘスターの密通相手は意外な人物だった。ホーソーンはこの不義密通を通して、アメリカン・ピュータリニズムの汚点と信仰の闇を描こうとしたのだ。

因みに、中2の読書感想文はスタンダールの『赤と黒』で、こちらは大変読み易く、また、感想文も書き易かった。当時の私が何で二年続けて宗教と不義密通の作品を選んだのかは、今となってはよく分からない。

序文ではホーソーンの経歴を端的にまとめてあるが、その中で、彼が魔女狩りの嵐が吹き荒れたセイレムの出身であることだけでなく、彼の親族がまさにその中心人物であったことにも触れている。
彼の四代前の先祖ジョン・ホーソーンは、156人が魔女の容疑者となり、そのうち19人が絞首刑に処された、1692年の魔女裁判において裁判官であったのだ。
ネット社会の現代では、ジョン・ホーソーンという人物についても、アメリカン・ピューリタンの歴史についても、簡単に触れることが出来る。が、アメリカン・ピューリタンと言えば、『大草原の小さな家』みたいな感じだと思っていた私には、これがなかなか中立な立場で読むのにはしんどい内容なのだった。

この件について、ホーソーンはこう述べている。
「魔女たちの殉教においては、それら不運な女たちの血が殉教というものに汚点を残したと考えるのが正しいことがじつにはっきりとしている。それはチャター・ストリートの墓地の、彼女らの骨の中に、もしそれらの骨が塵と化していなければいまなお消え残っているに違いないほど根深い汚点だ。」

ホーソーンのこともアメリカン・ピューリタンの歴史も触りしか知らない身なので、どうこう言えないが、この件一つとっても私とは立ち位置の違う人だなという感想を抱く。
作家と一読者としてなら、別に立ち位置が違ってもいいのである。作品が面白ければ。そして、本書に選ばれた五つの短編はどれも大変面白かった。私には彼のピューリタニズムを共有することは出来ないが、それを置いても一読に値する作品をいくつも書き残している才能と真摯な精神は尊敬している。

本書に収められた作品は、「人面の大岩」を読むと先ず、ああピューリタンだなぁという感想を抱くが、それだけに留まる作品でもない。
ボルヘスの述べるように、この作品は独創的な分身譚である。また、そうとは知らずに自身が探求の目的である探究者という、別の古来のテーマ(たとえば『オイディプス王』のような)をも取り上げている。更に、そこには素朴な温かみもあり、テーマは異なるが、小川未明の「牛女」を思い浮かべたりもした。


「ウェイクフィールド」は、際限なく先送りに引き延ばす仕組みがカフカの作品に近いが、カフカの様に不安と緊張を長引かせず、冒頭から、事の顛末と、話が寓意を含むものであることが提示されている。

ウェイクフィールドは、ちょっと旅に出ると言う態で家を出て、それ以来約二十年、自宅と隣り合わせの通りのアパートに身を隠し、毎日自宅を眺める生活を送った末、何事も無かったように帰宅して、死ぬまで愛情深く暮らした。

ウェイクフィールドとはどういう人物だったのか。
彼は壮年期を迎え、妻に寄せる思いは落ち着いた情感に沈静していた。彼ほどに不実とは無縁な者もいなかったが、それはある種の不精さ故に今いるポジションから動きたくないというのが主な理由だった。頭は良すぎず悪すぎず、物思いには耽るが、行動は伴わない。厳密な意味での創造力や心根の温もりには欠けているが、堕落もせず放埓でもない。何もかもが日常茶飯から逸脱しない男なのだった。

“彼を知る者たちは、明日になってもまだ思い出してもらえそうなことを、今日何一つ絶対にしでかさぬロンドンっ子は誰かと問われたら、ウェイクフィールドを思い浮かべたことだろう。”

十月のある日、彼は妻と出がけの挨拶をあっさり済ませると、その足で赤毛の鬘と古着を購入して変装し、知り合いに見つからぬように遠回りして、アパートに辿り着いた。
この日から、生きている人間の世界での自分の位置や特権を放棄しながら、死者の仲間にも入れてもらえぬ彼の奇妙な生活が始まる。果たして、通り一つ隔てただけの近所で、妻にも知り合いにも見つけられることなく二十年間も暮らすことが可能なのか。この男は、実は別の次元に迷い込んでいたのではないか。別世界から、自分の家や妻を眺めていたのではないか。そんなことまで思わせるのだった。

自分は変わり果てているくせに、そのことには気づかず、これまで通りの人間だと思いこんでいる。「近いうちに帰ってやるぞ」と言い続け、自分が二十年間同じことを言って来たとは思っていない。「つい隣の通りにあるじゃないか」と時折言ってみるが、そこは既に別世界となっているのだ。自ら流民となり果てた彼に比べれば、死者だって現世の自宅を再訪する機会に恵まれているだろう。そう思わせておいて、彼は出ていった時と同様にあっさり帰宅するのである。

ここからどんな寓意を読み取ればいいのか。
彼の奇行の根底には、病的な虚栄心があったのだ。彼は、この広い世界で彼など何の意味も持たぬこと、彼に注目している者など誰もいないということを分かっていなかった。自分がいなくなっても何も変わらない世界を見つめながら、彼は何を思ったのだろう?

“一見混沌たるこの謎めいた世界のさなかで、個人は実にみごとに一つの組織へと調整され、組織は相互に調整されて、遂には一つの全体を成しており、ために人間は一瞬でも離れたら、永遠に持ち場を喪うという恐ろしい危険に我が身をさらすことになる。ウェイクフィールドのように、いわば「宇宙の孤児」となるかもしれないのだ。”


「牧師の黒いベール」もまた、「宇宙の孤児」となった男の物語だが、こちらの主人公はウェイクフィールドとは異なり、鉄の意志の持ち主であったため、生涯を「宇宙の孤児」として全うしただけでなく、彼を見る者すべてを「宇宙の孤児」にしおおせた。

フーバー牧師は、三十歳ぐらいの独身ながら品の良い人物で、いかにも聖職者らしいこざっぱりとした身なりをしていた。活力には欠けるが、その分、人当たりが柔らかく、穏やかな微笑を絶やさない彼は、教区の信者たちから尊敬と親愛を一身に受けていた。その彼が、ある時から常に黒いベールで顔を隠すようになったのだ。

その時から教区の住民たちの態度が変わった。
それまではフーバー牧師の隣を歩くことや昼食に招くことを名誉と考えていた人々が、掌を返したように彼を避けるようになった。彼の正気を疑う者もいれば、何か恐ろしい罪を抱えているのではないかと噂する者もいたが、彼に真意を問いただす勇気のある者は皆無だった。一度だけ、彼の婚約者がベールを外すように懇願したことがあったが、その願いは跳ね除けられ、二人は破局した。

たった一枚の布切れで、彼は教区の人々にとって別人になってしまった。
唯一ベールに隠されていない口元に浮かぶ微笑は、以前と変わらず穏やかなものなのに、だからこそ見る者を青ざめさせた。男同士の友情も、男女の愛も失ってしまった。心根の優しい人だけに、人々から避けられることは心底辛かった。それでも、彼はベールを被る理由を語ることも無ければ、ベールを外すこともなく、長い年月を孤独に暮らした。行為という点においては非の打ち所の無かった彼の名は、黒いベールの謎と共にニューイングランド中の教会に知れ渡り、彼はフーバー尊師と呼ばれるようになった。

臨終の床においても、フーバー牧師は黒いベールを外そうとしなかった。
ウェストベリのクラーク牧師がベールを外そうとすると、フーバー牧師は瀕死の老人とは思えない力でそれを抑え、荒い息遣いでこう言い放ったのだった。

“「わたし一人になぜ震えるのだ」(略)「おたがいを見て震え合うことも忘れてはならぬ。男たちがわたしを避け、女たちが憐みを示さず、子供たちまでが悲鳴をあげて逃げ出したのは、はたしてわたしの黒いベールのためだけなのか。この一枚のクレープ布をこんなに恐ろしいものにしたものは、その布に朦朧と浮かび出る神秘のほかに何があろう。友人に対してもしも自分の心の奥底を見せる者がいたら、恋する者が最愛の人にもしも心の奥底を覗かせてやるなら、もしも『創造主』の眼から逃れて、自分の罪の秘めごとを忌まわしくも隠匿することが徒労でなければ、それならわたしが顔を覆って生涯を過ごし、そのまま死んでいくこの徴ゆえに、わたしをばけものと思ってくれて結構だ。こうやって見まわしてみると、おやおや、誰の顔にも『黒いベール』がついているな」”

それを聞いた人々はお互いが怖くなった。
この瞬間、彼らはこれまでの常識と日常から、遥か彼方に飛ばされたのだ。
黒いベールを被ったまま地中で朽ち果てたフーバー牧師の顔を想像すると、私は教区の人々同様に青ざめてしまうのである。
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父の日2019

2019-06-17 07:46:02 | 日記

日曜日に父の日のお祝いをしました。
今年のメニューは、押し寿司、チャーシュー、胡麻豆腐、ブルーベリーのババロアです。

プレゼントは折り畳み傘にしました。晴雨兼用でダークグレーのシンプルなデザインです。
先月末に買って既に渡してあるので、さっそく出張に役立ててもらっていますよ。先々週は北海道、先週は大阪と福岡に持って行っていましたよ。


ブルーベリーババロアは、ゼラチン少なめにしてフワフワに仕上げました。
ブルーベリー250g、水切りヨーグルト200g、生クリーム200ml、練乳100g、ゼラチン8g、砂糖70g。


胡麻豆腐は、今回初挑戦でしたが、思ったより固過ぎる仕上がりになってしまいました。今度作る時には、片栗粉の量を少し減らそうと思います。
ゴマペースト100g、だし汁700ml、片栗粉60g。
タレは、味噌とめんつゆを混ぜて作りました。

押し寿司は、梅の花型の型で酢飯を型抜きし、上に錦糸卵とトビッコを散らし、マグロで作った薔薇の花を飾りました。


チャーシューは前日から作り始めました。
豚肩ロースを縛って塩コショウしてから表面を焼く。その間に寸胴鍋にネギ、玉ねぎ、ショウガを入れた水を沸騰させておく。
焼き上がった肉を鍋に入れて、砂糖、醤油を投入する。途中でコーラを入れる。約5時間茹でる。


五時間茹でた状態。


翌日、さらに一時間ほど火を入れました。

他に茄子の揚げびたしも用意していたのですが、出すの忘れてました。今夜のおかずにします。

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梅雨の晴れ間の庭の花

2019-06-13 07:56:50 | 日記
関東も先週梅雨入りしました。梅雨の晴れ間を縫って我が家の花を撮り溜めてみましたよ。




ピンクとオレンジのアマリリス。
我が家のアマリリスは、子球がボコボコできるので、貰い先が追いつきません。
お隣さんに差し上げたアマリリスも玄関先で花を咲かせています。大切にしてもらって嬉しいです。


アリストロメリア。


スカシユリ。


ハイビスカス。


ランタナ。


シロタエギク。





朝顔を植えるために出した鉢に納まる桜ちゃん。


朝顔。もう芽が出ています。


今年の柏葉紫陽花は、例年以上に葉っぱの生育が旺盛で花の房があまり見えません。


かなり高い位置にあるので見えにくいですが、額の花です。


夏椿。二階のベランダから見ないと良く見えない高さに咲いているので、毎年地面に落下した花を見て、開花したのを知る始末です。


フウセンカズラは今までプランターで育てていたのですが、今年は庭のタイルを少し剥がして、直に蒔いてみました。


ケイトウを貰ったのでテーブルに置いておいたら、柏ちゃんが先端の3分の1ほどを齧っってしまったので、外に出しました。
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中学最初の中間試験

2019-06-10 08:15:26 | 日記
金曜日に、中学最初の中間試験が終了しました。
コメガネさん、初めてのちゃんとした試験だったので、かなり緊張したようです。「成績悪くても怒らないでね」と言われましたけど、コメガネさんが事前にテスト勉強を頑張っていたのを知っているので、どんな結果でも褒めたいと思います。


で、金曜日は午前で終わりなので、給食が無かったんですよね。
そのことをわりと直前まで忘れていて、前日にコメガネさんから「部活があるからお弁当よろしく」と言われてちょっと慌てました。先週は夫が出張だったので、お弁当の材料を用意してなくて、とりあえず冷蔵庫にあるもので作りましたよ。
金曜は部活の課題提出日でもありました。なぜ試験の日にと思いましたけど。
そんなこんなで、コメガネさんは中学に入ってからとても忙しくなりました。
平日は塾か部活かなので、だいたい夜まで家にいませんし、いてもソファで寝ていることが多いですね。特にここ暫くは、GW開けてすぐに体育祭の練習が始まり、体育祭終了後は試験期間、それから部活再開と、バタバタした日が続いたので、かなり消耗している様子です。


あまり遊んでもらえなくて、凜ちゃんも寂しいかな?
凜「ん?」

以下、ついでに夫の出張土産。今回は北海道でした。






私、ホッケが大好きなんです。
そこまでホッケ好きな人が珍しいのか印象に残り易かったらしくて、学生時代、独身時代は、誰と居酒屋に行っても、私が何も言わなくても注文入れる人がホッケを頼むのが定着していました。
夫も北海道出張の際は、余程時間に余裕がない時以外はホッケを買ってきてくれます。
あと、ルタオのダブルフロマージュも好き。じゃがポックルは夫の好物です。
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