サキ著『無口になったアン夫人』には、ボルヘスによる序文と、「無口になったアン夫人」「お話の上手な男」「納戸部屋」「ゲイブリエル‐アーネスト」「トーバモリー」「名画の額ぶち」「非安静療法」「やすらぎの里モーズル・バートン」「ウズラの餌」「あけたままの窓」「スレドニ・ヴァシュター」「邪魔立てするもの」の12編が収録されている。
“不幸というものは、周知のように、ポエジーの要素の一つである。”
サキの本名は、ヘクター・ヒュー・マンロウという。
序文によると、マンロウという姓はスコットランドの旧家の姓であり、サキというエキゾチックな筆名は、『ルバイヤット』に由来しているのだそうだ。
サキは幼少期から二人の厳格な伯母に監視されて暮らす生活を経験しており、その不快な記憶は彼の創作の源の一つになっている。
本書に収められている中にも、「お話の上手な男」「納戸部屋」「スレドニ・ヴァシュター」に、独り善がりな常識と教育を押し付けてくるヒステリックな伯母が登場する。
このうちの「納戸部屋」「スレドニ・ヴァシュター」には、動物と少年との幻想的な交流が描かれているが、これはサキの伯母たちが動物嫌いだったことと無関係ではあるまい。幼少期のサキも、動物に救済を求めたことがあったのだろう。
サキの物語において、伯母たちは歪んだ善意で子供たちを苦しめるが、最後には手痛いしっぺ返しを食らう滑稽な存在、というのが一つのパターンになっている。描いていてさぞや溜飲が下がったことと思うが、現実にはこの手の人物が痛い目に遭うことはそうそうない。だからこそ彼ら彼女らの存在は不快で、物語の中でやり込められても同情する気になれず、安心して笑っていられる。
「お話の上手な男」は、面白くとも何とも無い教訓話を子供たちに押し付ける伯母が、ゆきずりの話し上手な男にやり込められる話だが、サラリと笑える程度に毒が留められている。
それに対して、「スレドニ・ヴァシュター」では、伯母を断罪するのは動物で、「お話の上手な男」の男よりはるかに情け容赦が無い。
十歳のコンラディンにとって、この世の五分の三はじつに嫌な現実の世界で、その代表者が伯母だった。それと永久に対立する残りの五分の二は彼自身と彼の空想の世界で、彼は救いの港を物置小屋に求めた。
コンラディンは、納戸部屋に籠り、タペストリの動物たちを見ながら空想にふける「納戸部屋」の主人公ニコラスと同じ魂の持ち主なのだ。
コンラディンの魂はとても弱いので、このままではそのうち伯母を代表とする現実の世界に押しつぶされてしまうだろう。そんな彼を救うために現われたのが、スレドニ・ヴァシュターだ。
スレドニ・ヴァシュターとは、コンラディンが物置小屋で秘かに飼っている大イタチだ。
コンラディンは、この大イタチを愛玩動物としてではなく、自分だけの神として信奉し、伯母の監視下に置ける息の詰まりそうな生活の中で心の拠り所にしていた。
スレドニ・ヴァシュターに祈り続けていれば、いつか必ず、二言目には「本人のためだから」と、すること成すこといちいち抑え込もうとする「あの女」から救い出してくれるに違いない。
当然のことだが、コンラディンの一挙手一投足をすべて把握し、矯正することを己が務めと心得る「あの女」が、甥が物置小屋で生き物をこっそり飼っていることに気が付かない訳がない。かくて、断罪の時は唐突に訪れる。
遠くに叫び声を聞きながら、好物のトーストを焼き上げるコンラディンの無慈悲は、まさに超自然の存在のもので、スレドニ・ヴァシュターとは、実は彼の分身だったのではないかとさえ思った。
表題作の「無口になったアン夫人」のアン夫人は、伯母の変種と見ていいかもしれない。
機嫌を損ねた時のアン夫人のパターンは決まっていて、“まず最初の四分間は黙り込む。それから猛烈にまくしたてる。”
ところが、この日のアン夫人は、夫のエグバードがどんなアプローチをとっても一向に口を開こうとはしなかった。二人が結婚して以来初めての珍事である。何故アン夫人は無口になってしまったのか?
このオチで笑ってしまうのは不謹慎かもしれないが、サキも笑って欲しくて書いたのだろうから、笑って構わないのだろう。因みにこの話には猫が出てくる。
一作目からこの鮮やかな締め括り方なので、二作目以降も期待が持てた。さすがに掌編の達人と呼ばれるだけのことはある。
とは言え、実のところ、サキの真骨頂であろう伯母物より伯母の出てこない「名画の額ぶち」や「ウズラの餌」などの方が、より力みの少ない分、私の好みだった。
特に「名画の額ぶち」は、見たことも無い奇想で、サキのとんでもないストーリーテラーぶりを堪能できる。
「名画の額ぶち」は、主人公のアンリ・デプリが、親族から転がり込んできた遺産を何か害は無いけど派手なことに散財してみようと思いついたことから起こる悲喜劇だ。
アンリ・デプリは、土地で有名な刺青の大家ピンチーニ氏の芸術の支援をしようと思いつく。要はピンチーニ氏に刺青を掘ってもらうのだ。
ピンチーニ氏は、アンリ・デプリの背中にイカルスの墜落を描いた刺青を掘った。作品のテーマはアンリ・デプリの好みではなかったが、出来栄えは上々だった。拝見の光栄に浴した連中一人残らず、これこそピンチーニ氏一世一代の傑作だと誉めそやしたのだ。
評判通り、この傑作はピンチーニ氏の最高の、そして最後の名作となった。というのは、まだ手間賃も受け取らないうちに、ピンチーニ氏が急死してしまったからだ。ここまでは、まあいい。
ここから、ピンチーニ未亡人とアンリ・デプリとの間で、支払いをめぐる対立が起きる。
アンリ・デブリは、ちょいちょい遺産に手を付けていたため、ピンチーニ氏に支払う約束の金額を既に持っていなかったのだ。
腹を立てた未亡人は、この作品の売却を取り消した。そして、この作品をベガルモ市に寄贈してしまうのだった。
こうして、アンリ・デプリは自分の背中にしょった名作によって、極めて不自由な人生を送ることになった。
刺青は彼の肉体の一部だが、市に寄贈された芸術品でもあるので、勝手に人前で背中を晒すことは許されない。また、作品を傷める恐れがあるとして、水着で背中を覆っても海水浴は禁じられた。更には、イタリアでは美術品の国外輸出を厳重に禁止されているため、渡航も儘ならなくなってしまった。
一個人の尊厳など、芸術の前では完全無視の扱いなのだ。
その後、この芸術品をめぐって、イタリアとルクセンブルグで外交問題が起きたり、贋作疑惑を掛けられ、ヨーロッパ諸国で論争が起きたりで、アンリ・デプリは本人にはどうすることも出来ない不運の荒波に揉まれ続けることになる。
心を病んだアンリ・デプリは、イタリア無政府党に入党し、会議中に熱狂的な同志から腐食性の薬品を浴びせられてしまう。これによって背中のイカルスは滅茶苦茶に損傷し、アンリ・デプリは、芸術作品であることから解放され、人間の尊厳を回復する。が、それは同時に取るに足らない者への転落でもあった。
芸術作品から無価値な肉体への失墜は、イカルスの墜落そのものである。ピンチーニ氏は、芸術家の霊感でアンリ・デプリの運命を予見していたのだろうか。
巷ではブラックと評されることの多いサキであるが、ボルヘスは、“一種の慎みをもって、サキはそのうちに秘められた枠組が悲しくも残酷であるような物語に些末事らしい調子を与える”と述べている。
もっと深刻で長い話にすることが可能である題材を、あえて軽く短く仕上げるサキの創作スタイルは、なるほど「慎み」という言葉がふさわしいのかもしれない。慎みから発する軽妙な風刺からは、底意地の悪さよりも品の良さを感じるのだ。
“不幸というものは、周知のように、ポエジーの要素の一つである。”
サキの本名は、ヘクター・ヒュー・マンロウという。
序文によると、マンロウという姓はスコットランドの旧家の姓であり、サキというエキゾチックな筆名は、『ルバイヤット』に由来しているのだそうだ。
サキは幼少期から二人の厳格な伯母に監視されて暮らす生活を経験しており、その不快な記憶は彼の創作の源の一つになっている。
本書に収められている中にも、「お話の上手な男」「納戸部屋」「スレドニ・ヴァシュター」に、独り善がりな常識と教育を押し付けてくるヒステリックな伯母が登場する。
このうちの「納戸部屋」「スレドニ・ヴァシュター」には、動物と少年との幻想的な交流が描かれているが、これはサキの伯母たちが動物嫌いだったことと無関係ではあるまい。幼少期のサキも、動物に救済を求めたことがあったのだろう。
サキの物語において、伯母たちは歪んだ善意で子供たちを苦しめるが、最後には手痛いしっぺ返しを食らう滑稽な存在、というのが一つのパターンになっている。描いていてさぞや溜飲が下がったことと思うが、現実にはこの手の人物が痛い目に遭うことはそうそうない。だからこそ彼ら彼女らの存在は不快で、物語の中でやり込められても同情する気になれず、安心して笑っていられる。
「お話の上手な男」は、面白くとも何とも無い教訓話を子供たちに押し付ける伯母が、ゆきずりの話し上手な男にやり込められる話だが、サラリと笑える程度に毒が留められている。
それに対して、「スレドニ・ヴァシュター」では、伯母を断罪するのは動物で、「お話の上手な男」の男よりはるかに情け容赦が無い。
十歳のコンラディンにとって、この世の五分の三はじつに嫌な現実の世界で、その代表者が伯母だった。それと永久に対立する残りの五分の二は彼自身と彼の空想の世界で、彼は救いの港を物置小屋に求めた。
コンラディンは、納戸部屋に籠り、タペストリの動物たちを見ながら空想にふける「納戸部屋」の主人公ニコラスと同じ魂の持ち主なのだ。
コンラディンの魂はとても弱いので、このままではそのうち伯母を代表とする現実の世界に押しつぶされてしまうだろう。そんな彼を救うために現われたのが、スレドニ・ヴァシュターだ。
スレドニ・ヴァシュターとは、コンラディンが物置小屋で秘かに飼っている大イタチだ。
コンラディンは、この大イタチを愛玩動物としてではなく、自分だけの神として信奉し、伯母の監視下に置ける息の詰まりそうな生活の中で心の拠り所にしていた。
スレドニ・ヴァシュターに祈り続けていれば、いつか必ず、二言目には「本人のためだから」と、すること成すこといちいち抑え込もうとする「あの女」から救い出してくれるに違いない。
当然のことだが、コンラディンの一挙手一投足をすべて把握し、矯正することを己が務めと心得る「あの女」が、甥が物置小屋で生き物をこっそり飼っていることに気が付かない訳がない。かくて、断罪の時は唐突に訪れる。
遠くに叫び声を聞きながら、好物のトーストを焼き上げるコンラディンの無慈悲は、まさに超自然の存在のもので、スレドニ・ヴァシュターとは、実は彼の分身だったのではないかとさえ思った。
表題作の「無口になったアン夫人」のアン夫人は、伯母の変種と見ていいかもしれない。
機嫌を損ねた時のアン夫人のパターンは決まっていて、“まず最初の四分間は黙り込む。それから猛烈にまくしたてる。”
ところが、この日のアン夫人は、夫のエグバードがどんなアプローチをとっても一向に口を開こうとはしなかった。二人が結婚して以来初めての珍事である。何故アン夫人は無口になってしまったのか?
このオチで笑ってしまうのは不謹慎かもしれないが、サキも笑って欲しくて書いたのだろうから、笑って構わないのだろう。因みにこの話には猫が出てくる。
一作目からこの鮮やかな締め括り方なので、二作目以降も期待が持てた。さすがに掌編の達人と呼ばれるだけのことはある。
とは言え、実のところ、サキの真骨頂であろう伯母物より伯母の出てこない「名画の額ぶち」や「ウズラの餌」などの方が、より力みの少ない分、私の好みだった。
特に「名画の額ぶち」は、見たことも無い奇想で、サキのとんでもないストーリーテラーぶりを堪能できる。
「名画の額ぶち」は、主人公のアンリ・デプリが、親族から転がり込んできた遺産を何か害は無いけど派手なことに散財してみようと思いついたことから起こる悲喜劇だ。
アンリ・デプリは、土地で有名な刺青の大家ピンチーニ氏の芸術の支援をしようと思いつく。要はピンチーニ氏に刺青を掘ってもらうのだ。
ピンチーニ氏は、アンリ・デプリの背中にイカルスの墜落を描いた刺青を掘った。作品のテーマはアンリ・デプリの好みではなかったが、出来栄えは上々だった。拝見の光栄に浴した連中一人残らず、これこそピンチーニ氏一世一代の傑作だと誉めそやしたのだ。
評判通り、この傑作はピンチーニ氏の最高の、そして最後の名作となった。というのは、まだ手間賃も受け取らないうちに、ピンチーニ氏が急死してしまったからだ。ここまでは、まあいい。
ここから、ピンチーニ未亡人とアンリ・デプリとの間で、支払いをめぐる対立が起きる。
アンリ・デブリは、ちょいちょい遺産に手を付けていたため、ピンチーニ氏に支払う約束の金額を既に持っていなかったのだ。
腹を立てた未亡人は、この作品の売却を取り消した。そして、この作品をベガルモ市に寄贈してしまうのだった。
こうして、アンリ・デプリは自分の背中にしょった名作によって、極めて不自由な人生を送ることになった。
刺青は彼の肉体の一部だが、市に寄贈された芸術品でもあるので、勝手に人前で背中を晒すことは許されない。また、作品を傷める恐れがあるとして、水着で背中を覆っても海水浴は禁じられた。更には、イタリアでは美術品の国外輸出を厳重に禁止されているため、渡航も儘ならなくなってしまった。
一個人の尊厳など、芸術の前では完全無視の扱いなのだ。
その後、この芸術品をめぐって、イタリアとルクセンブルグで外交問題が起きたり、贋作疑惑を掛けられ、ヨーロッパ諸国で論争が起きたりで、アンリ・デプリは本人にはどうすることも出来ない不運の荒波に揉まれ続けることになる。
心を病んだアンリ・デプリは、イタリア無政府党に入党し、会議中に熱狂的な同志から腐食性の薬品を浴びせられてしまう。これによって背中のイカルスは滅茶苦茶に損傷し、アンリ・デプリは、芸術作品であることから解放され、人間の尊厳を回復する。が、それは同時に取るに足らない者への転落でもあった。
芸術作品から無価値な肉体への失墜は、イカルスの墜落そのものである。ピンチーニ氏は、芸術家の霊感でアンリ・デプリの運命を予見していたのだろうか。
巷ではブラックと評されることの多いサキであるが、ボルヘスは、“一種の慎みをもって、サキはそのうちに秘められた枠組が悲しくも残酷であるような物語に些末事らしい調子を与える”と述べている。
もっと深刻で長い話にすることが可能である題材を、あえて軽く短く仕上げるサキの創作スタイルは、なるほど「慎み」という言葉がふさわしいのかもしれない。慎みから発する軽妙な風刺からは、底意地の悪さよりも品の良さを感じるのだ。