青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

ゴールデンウイーク間近ですが…

2017-04-27 07:15:28 | 日記

春先にネットで購入した一才藤が開花し始めました。
受け取った時は土に刺さった棒状態で、「生きてるのかな?」と思いましたが、時期が来たらちゃんと咲くものですね。藤は直植えすると大変なことになるので今後も鉢植えで育てますが、植え替えの時期になったら可愛い鉢を選んであげようと思います。


こちらは2月15日に蒔いたホトトギス。
二ヶ月余りかけてこの程度しか育っていませんが、枯れているわけでは無いので大丈夫なのでしょう。多分。ホトトギスの種は粉の様に微細でした。芽も本当に小さいので乾燥しないように透明の蓋を被せています。

さて、もうじきGWですね。
娘・コメガネを何処かに連れて行ってあげたいとは思っているのですが、私はひと月ほど前から37度半ばの微熱が続いていて、何の計画も立てられないままでいます。元々平均体温が高めなので、この程度の微熱なら数日は普通に動けるのですが、一ヵ月も続くとさすがに体力を削られている感じが酷いです。その上、ここ数日は胃痛と腹部の膨満感に苛まされるようになって、ガスター10が手放せない状態。コメガネはジェットコースターに乗りたいそうですが、近場のよみうりランドあたりで妥協してもらうことになりそうです。
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新釈 走れメロス 他四篇

2017-04-24 07:18:50 | 日記
森見登美彦著『新釈 走れメロス 他四篇』は、太宰治の「走れメロス」、中島敦の「山月記」、芥川龍之介の「藪の中」、坂口安吾の「桜の森の満開の下」、森鴎外「百物語」の5編の名作を現代の京都を舞台に生まれ変わらせた連作短編集。パロディと呼ぶにはオリジナル色が強いこれらの愉快な短編たちを何と呼べばよいのだろう。

あとがきによれば「ここに選んだ短編は、必ずしもその作家の最高作と言われるものとはかぎらず、さらに言えば、個人的に一番好きな短編を選んだという訳でもない」とのこと。原典を知っている方が登美彦氏の意図を理解しやすいだろうという配慮から、日本文学史上特に有名な作品を選んだのだろうか。


最も登美彦氏らしさが表れていたのが表題作の「走れメロス」。
詭弁論部は、新入生たちに「我ら詭弁を弄して万人に嫌われて悔いない」という宣言を強い、彼らの人としての幸せを台無しにするのを年中行事としている偏屈なクラブである。その唾棄すべき行事は大文字の火床に立って京都の夜景に唾を吐きながら「詭弁踊り」を踊り狂うことで締めくくられる。

芽野と芹名は、詭弁論部に所属している学生だ。
芽野がメロス、芹名がセリヌンティウスにあたる。この二人は奇人変人の吹き溜まりである詭弁論部の中でも、阿呆の双璧と名高い究極の阿呆学生である。

その日の午後、「たまには講義に出てみるか」と考えた芽野が一乗寺の下宿から大学に出てみると、詭弁論部の部室が閉鎖されていた。部員の証言によると、先日、「自転車にこやか整理軍」と名乗る男たちが乗り込んできて部室を封鎖し、詭弁論部の看板を引きはがして、代わりに生湯葉研究会の看板を掲げて行ったというのである。根性なしの部長は権力機構に恐れをなして逃走してしまった。芽野は激怒した。

「自転車にこやか整理軍」を使嗾しているのが、図書館警察である。そして、暴君ディオニスにあたるのが図書館警察の長官なのだ。
図書館警察とは、そもそもは大学の付属図書館の図書を返却しない学生から図書を回収すべく設置された学生組織である。しかし、その実態は長官の個人的な欲望を実現すべく私設軍隊「自転車にこやか整理軍」を指揮し、大学内外に情報網を張り巡らせることで学生たちの個人情報を把握して、歯向かう者にはその者の恥ずかしい秘密を全学部の掲示板に張り出すという制裁を加える恐怖政治団体なのだ。

長官の下へ直談判に行った芽野は、長官の怒りを買う。
そして、詭弁論部を救いたければ、グランドに設置してあるステージの上で、楽団が奏でる『美しく青きドナウ』に合わせてブリーフ一丁で踊り、今宵の学園祭のフィナーレを飾ることを要求されてしまうのだった。

それに対して芽野は、これから姉の結婚式に出なければならないので、一日だけ猶予をくれないか。明日の日暮れまでには必ず戻ってきて、ブリーフ一丁でフィナーレを務める。信じられないのならば人質に親友の芹名を置いていくので、俺が逃げたら代わりに奴を躍らせろと返答した。

長官は人間不信だった。元々友人の少なかった彼であったが、唯一の親友と初恋の女性に裏切られたことで意固地になってしまったのだ。しかし、心底にはもう一度友情というものを信じてみたいという願いがあったのだろう。芽野のまっすぐな瞳を受け、彼の冷たく封じられていた魂には暖かい光が差すようであった。長官は芽野の要求を受け入れた。
しかし、そんなピュアな長官に、人質の芹名が暴言とも言うべき爆弾発言を放ったのだ。

「あいつに姉はいないよ」

ショックである。サイテーである。長官は傷つき怒り狂ったが、一番怒ってよいはずの芹名は平然としている。

「俺の親友が、そう簡単に約束を守ると思うなよ」

太宰のメロスは、人質になった親友を救うために走るが、森見版メロスの芽野はまったくの逆。姉の結婚式に出るための猶予をくれと嘘をつき、刻限まで逃げきり、人質になってくれた親友にブリーフ踊りを押し付けるために走る。しかも、逃げている最中に漫画喫茶で「北斗の拳」を読み耽り、自分が逃走中であることを忘れてしまうのだ。
その後、「自転車にこやか整理軍」に見つかり、逃走を再開した芽野が思うことは、「芹名よ。君ならば見事にやり遂げてくれることだろう!」である。親友を犠牲にすることに一切ためらいが無い。クズ過ぎて痺れる。

この時点で謎なのは芹名の心の内である。
芹名は芽野に姉がいないことも彼に帰ってくる気が無い事も知っている。それなのに何を思って人質になることを受け入れたのだろう。

芽野と芹名の友情の始まりは、「パンツ番長戦」である。
「パンツ番長戦」とは、最も長期間同じ下着を履き続けた者が「パンツ番長」の称号を得られるという恥晒しな戦いである。しかし、その馬鹿馬鹿しさ故に勝負魂に火が付くのが詭弁論部の詭弁論部たる所以なのだ。
詭弁論部に入部した年の「パンツ番長戦」において、芽野と芹名は歴史的激闘の末に引き分けとなった。「パンツ番長並立」という詭弁論部始まって以来の異常事態を引き起こした二人は運命を感じた。熱しやすい芽野と冷静な芹名。正反対な二人であるが、「詭弁論部に芽野と芹名あり」と自分たちだけで豪語し、切磋琢磨して誰にも理解できない高みを目指し続けた。

今回の件、刻限までに戻って潔くブリーフ踊りをした方が楽である。
追っ手の追跡は厳しい。友情を踏みにじった卑劣漢として生きていくのはもっと厳しい。しかし、芽野の心は折れなかった。彼にだけは芹名の心が分かっていたから。

「やはり俺はここで約束を守る訳にはいかない。そんなつまらぬ羽目になっては芹名に申し訳ない。彼の期待に応えなければ!」

つまり、約束を破ることこそが、芽野が芹名に捧げる誠、二人の友情の証なのだ。
芽野を追跡するのは「自転車にこやか整理軍」だけではない。長官のかけた懸賞金につられ、町中の人々が血眼になって芽野を追う。その中には芽野が片想いしていた女性もいた。詭弁論部の仲間さえもいた。彼らは口々に芽野を「友情を何だと思っているのだ」「往生際が悪い」と罵りながら掴み掛ってくる。最早身に着けているものは、首に巻いたバスタオルとブリーフのみ。既に十分恥を晒している。
誰がどう考えたって、京都の街中をブリーフで逃げ惑うより、大学の構内でブリーフ踊りを踊る方がマシだろう。しかし、それでも芽野は逃げるのだ。

「あるのだ。そういう友情もあるのだ。型にはめられた友情ばかりではないのだ。声高に美しき友情を称賛し、甘ったるく助け合い、相擁しているばかりが友情ではない。そんな恥ずかしい友情は願い下げだ!おれたちの友情はそんな物ではない。俺たちの繊細微妙な関係を、ありふれた型にはめられてたまるものか。クッキー焼くのとはわけがちがうのだ!」

「約束を守るも守らないも問題ではないのだ、信頼するもしないも問題ではないのだ。迷惑をかけてもいいだろう。裏切ってもかまわん。助け合いたければそれもいい。何であってもいいのだ。そんなことはどうでもいいのだ。ただ同じものを目指していていればそれでいい。なぜならば、だからこそ、我々は唯一無二の友なのだ!」

登美彦氏お得意の阿呆学生が織りなすドタバタコメディに見せかけた、痛いほど真摯な友情物語だ。見ようによっては「山月記」以上に過酷な求道物語であり、「藪の中」以上に閉塞的な愛の物語でもある。芽野は作中で多くの人と言葉を交わしているが、彼が本当に語り掛けているのは常に芹名だ。彼は誰の共感も欲していない。芹名さえ認めてくれれば本望。寧ろそれ以外は不純物。お互い以外はただの背景としか認識していないような、若さゆえの極端に純粋で視野狭窄な価値観。余人には理解できない信頼と情熱であった。
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軽蔑

2017-04-20 07:20:45 | 日記
『軽蔑』(1963年)は、ジャン=リュック・ゴダール監督の長編映画第6作目である。フランス・イタリア合作。原作はアルベルト・モラヴィアの同名小説。


脚本家のポール(ミシェル・ピッコリ)は、妻のカミーユ(ブリジット・バルドー)と穏やかな夫婦生活を送っていた。
ある日、ポールはアメリカから来た映画プロデューサーのプロコシュ(ジャック・パランス)から仕事を依頼される。それは、フリッツ・ラング(本人)が撮影中の映画『オデュッセイア』の脚本がマニアックなので、もっと万人受けするように脚本をリライトしろと言う内容だった。

昼になってカミーユが現れ、夫妻はプロコシュに自宅でのランチに誘われた。
カミーユはプロコシュと二人きりになるのを嫌がっていたが、ポールはカミーユをプロコシュの車に乗せ、先に行かせてしまう。その瞬間からカミーユの夫に対する態度が一変、ひどく冷淡なものになった。ポールには何が起きたのか分からない。カミーユに説明を求めるも、徒に彼女を苛立たせてしまうだけだった。

帰宅後もポールとカミーユの諍いは続いた。二人は別々の部屋で寝ることになる。
翌日、プロコシュからカミーユをロケに誘う電話があった。電話に出たポールは「カミーユ次第だ」と答えてしまう。電話の後で激怒したカミーユは、ポールに「あなたのことは嫌い。もう愛していない。心から軽蔑するわ」と言い放つ。

カプリ島の撮影現場近くにはプロコシュの別荘があった。
撮影中、ラングと対立したプロコシュは、カミーユに別荘へ戻ろうと言う。カミーユはポールを見やるが、ポールはカミーユがプロコシュと別荘に帰ることを承諾した。

ポールは、ラングと『オデュッセイア』について議論を続けた。
彼はオデュッセウス(英名・仏名・独名はユリシーズ)とペネロペに、自分とカミーユを重ねずには居られない。なぜオデュッセウスは十年も帰ってこなかったのか。そもそもなぜ妻を置いて戦争に行ったのか――。


夫婦の愛の終わりをホメロスの『オデュッセイア』に絡めて描いている。
劇中で登場人物たちが口にする哲学や詩をすべて知っていれば、本作への理解がもっと深まったと思う。それでも本作はゴダールの作品の中では解り易い筋立てだったので、碩学な私にも雰囲気は楽しめた。

ポールとカミーユは相思相愛だったが、元々相手に向ける愛情と関心の重さには大きな違いがあった。冒頭では明らかにカミーユの方が重い。
カミーユが「私の足は好き?」「私の髪は好き?」と甘えた声で尋ね、「毎日100回キスして」とねだる。それに対するポールの返事は穏やかだが熱意は感じられず、まるで纏わりついてくる幼子か犬猫をいなしているようだった。
そして、ポールはプロコシュがカミーユに対して邪な感情を抱いていることに気付いていたにも関わらず、彼らを二人きりにしてしまう。ポールの手によってプロコシュのスポーツカーに乗せられたカミーユは、夫の姿が見えなくなるまで不安そうに後ろを振り返っていた。彼女はこの時夫の愛情を信じられなくなったのではないだろうか。
そのうえ、カミーユが明らかに不機嫌になっているというのに、ポールはプロコシュの別荘への招待を断らなかった。「カミーユ次第」という返答は一見妻の意思を尊重しているようだが、関心の薄さが透けて見える発言でもある。

カミーユから度々発せられる信号に、なぜポールは気付かなかったのか。
ポールとカミーユでは愛し方の方法が違うということもある。しかし、それ以上に彼は妻の愛情に胡坐をかいていたのではないだろうか。愛されているという過信が不注意に繋がってしまったのだ。
関心の多寡はそのまま愛情の多寡を表している。劇中でカミーユは度々ポールに視線を向けているが、ポールの方はそれほど彼女を見ていない。夫婦問題について頭を悩ませている時も彼女の心より己の心を探っているように見えた。

たとえ相思相愛であったとしても、二人の感情が同じ熱量を持っていることなどは、まずないだろう。人と人との関係なのだから仕方の無い事とはいえ、愛情の深い側にとっては寂しいことだ。カミーユが冒頭でポールに執拗に甘えかかっていたのは、そんな寂しさの露呈だったのではないだろうか。
その心底に澱の様に積もって行った寂しさとか不信とかが些細なきっかけで溢れ出す。平穏な時には目を瞑っていられた齟齬を無視できなくなる。カミーユをプロコシュの家に行かせたのは、ポールにとっては些細な判断ミス。だがカミーユにとっては不信の決定打。プロコシュの出現が無くても、この夫婦は遅かれ早かれ上手くいかなくなったのではないか。
文句を言わないからと言って、不満が無いわけでは無い。「いて当たり前」「愛されて当然」と思った瞬間から男女の仲は亀裂が生じるのだろうと思った。

ポールはポールなりに考えてはいた。だが、考えるだけで実際には何もしていなかった。
ポールは『オデュッセイア』の脚本を書くために、オデュッセウスと己を重ね合わせる。そして、オッデュセウスの愛情表現を己の選択肢の一つとして検討する。
オデュッセウスはイタケに帰還した後、出征中にペネロペに求婚した男たちを悉く射殺した。ポールもオデュッセウスに倣い拳銃を手にする。しかし、彼は発砲することが出来なかった。
彼はオデュッセウスよりも理性的な人だったから、殺すことは解決にならないと考えたのだ。例えば、カミーユの浮気を責め、彼女を殺害したとする。その結果、カミーユの死によってポールは彼女の愛を永久に失う。逆にプロコシュを殺せば、ポールはカミーユに怯えられ、やはり愛を失う。それが、彼の判断だった。
殺害が解決に繋がらないことは、ラングも指摘していた。理性の優る人なら皆そう考える。
しかし、カミーユは理性より情緒の人なのだ。ポールは問題を根本から見誤っていた。如何に彼女を理解していなかったかという証左である。

オデュッセウスの蛮行は、善悪や理屈を超えた愛の証明だった。オデュッセウスは言葉より行動で妻に愛を伝えたのだ。
カミーユが望んでいたのも、行動による愛の証明だったのではないだろうか。
まさかプロコシュを殺して欲しいとまでは思っていなかっただろうが、抗議くらいはして欲しかっただろう。カミーユはポールと口論している間、彼の口からどれだけ愛の言葉を吐かれても、自分を言いくるめるための詭弁にしか聞こえなかったに違いない。口ばかりで何もしない男、そんな評価が“軽蔑”と言う言葉に繋がったのではないだろうか。

なんだが、ポールに対する評価ばかりが辛くなってしまったが、カミーユにも非が無いわけでは無い。この夫婦はどちらも独り善がりなのだ。そして、どちらも口で言うほどは相手を愛していない。カミーユが好きでもないプロコシュと出て行ったのも、残されたポールが妙にサバサバした態度だったのも、そういうことだからではないか。
愛について真剣に考えてみたら、愛なんて元々無かったことに気がついてしまった、そんな虚無感。地中海の青さと愛の幻滅が目に染みる作品だった。
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欲望

2017-04-17 07:12:41 | 日記
『欲望』は、1967年のイギリス・イタリア合作映画。

コルタサルの小説『悪魔の涎』を下敷きに、イタリア映画三大巨匠の一人ミケランジェロ・アントニオーニが脚本・監督を手掛けた。1960年代中盤のロンドンを舞台に、当時のイギリスの世相を織り交ぜつつ、不条理な世界を描く。1967年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞した。

音楽はハービー・ハンコック。
アントニオーニは当初、BGM無しで映画を作ろうとしたのだそうだ。確かに、車を乗り回す珍奇な白メイクの青年たち、施設から出てくる貧民の群れ、デモ行進、ライブハウス、ドラッグ・パーティなど、賑やかな場面が多い割には、アンバランスなほど音の数が少ない。


1960年代のロンドン。
ファッション・カメラマンのトーマス(デヴィッド・ヘミングス)は、ある日公園で逢引中の初老の紳士と若い女(ヴァネッサ・レッドグレイブ)を見かけ、二人の戯れる姿を撮影した。女はトーマスが自分達を撮影しているのに気づくと、ネガを渡すように懇願してきた。トーマスは女の狼狽える姿を面白がり、ネガを渡すことを渋る。女はトーマスに掴みかかってまでネガを手に入れようとするが、紳士の姿が消えたのに気が付くと、走り去っていった。

女がトーマスのスタジオに突然現れた。
どうしてここが分かったのかと驚くトーマスに、女は再びネガの譲渡を要求する。トーマスは女との駆け引きを楽しんだ後、女の名前と電話番号を聞き出し、ネガを渡す。しかし、それは偽物であった。

トーマスはネガを現像した。
すると、男女の逢引を撮影しただけだったはずの写真に、不穏な箇所があることに気が付く。その部分を引き延ばしてみると、そこには不自然な方向に視線を送る女、叢から銃口を向けている人物、そして射殺された男の死体が写っていた。

トーマスは女に電話するが、番号は出鱈目だった。
女は何者なのか?あの場で何が行われていたのか?トーマスは確認のため、再び公園に向かうのだが――。


サスペンス・スリラーを思わせる物語は、次第に不条理劇の様相を呈していく。

トーマスは夜の公園に向かう途中であの女の姿を見かける。
彼女を追っていくうちに、いつの間にかライブハウスに入り込んでいた。場内ではヤード・バーズが演奏中だが、アンプの調子が悪くなったことに腹を立てたジェフ・ベックがアンプにエレキギターを叩きつけた挙句、壊れたギターを観客に投げつける。ジェフ・ベックにとってはもはやゴミに過ぎないそれに、聴衆は何らかの価値を見出し奪い合う。トーマスがそれを手にするが、ライブハウスを出た途端に何でこんなものを拾ったのだろうと言わんばかりの表情を浮かべ、路上に投げ捨てる。

夜の公園で死体を見つけられなかったトーマスは、翌朝もう一度公園に向かう。
カメラをぶら下げて死体を探すトーマスの前に、冒頭に出てきた白メイクの青年たちが再び現れる。そして、彼らは戯れとは思えない熱心さでエア・テニスを始めるのだ。
見えないラケットを振るい、見えない球を打つ彼らは、自分たちを見ているトーマスに気が付くと、金網の外に飛んで行った球を拾うようにジェスチャーで合図してくる。トーマスはカメラを置いて見えない球を拾うと、彼らに向かって投げるポーズをとってみせた。
無言でこちらを見つめるトーマスのアップが暫く続いたのち、ラケットが球を打つ音が響いてきて、トーマスの姿が消えたところで映画は終わる。


無いはずのものがあり、あるはずのものが無い。無価値なものに価値を見出したり、また価値を見失ったりする。
女は二度とトーマスの前に現れないだろうし、事の真相は不明のままだろう。
若くして成功を収めたトーマスは、仕事にも女性関係にも倦んでいる。ドラッグにすらのめり込めない。ファッション業界で飯を食っているくせにモデルたちを軽蔑し、街に繰り出しては社会派モドキの写真を撮ったり、骨董屋でオブジェの材料になりそうな古道具を漁ったりしている。しかし、社会問題にも芸術にも本格的に取り組む気配はない。所詮、ナンチャッテ止まりなのだ。
どこかに旅に出たいと願いつつもどこにも行けないらしい彼は、気が付かないうちに現実と虚構の境界線を往還していた。彼は一時でも退屈な人生を肯うのに充分な体験を出来たのだろうか?

それにしても、“欲望”という邦題は、下世話で作品の雰囲気に合っていない。もっと気の利いた邦題に出来なかったものだろうか?原題は“Blow Up”、写真を引き延ばすという意味。トーマスも私たちも、現実のようでいて本当の現実ではない、自分が見たいように“Blow Up”した歪んだ虚構しか見ていないのだろう。
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観桜

2017-04-13 07:21:03 | 日記
昨日は天気が良かったので、凜と近所の桜を観て廻りました。


こちらはこの辺りで一番大きなお屋敷の桜です。
一般家庭でここまで見事な桜は珍しいのではないでしょうか。こちらのお宅は、元々この辺り一帯の地主さんだったそうで、我が家の敷地もこちらから購入したものです。


E公園の桜。園内からは逆光になるので、道路から撮影。








T公園の桜。


凜は地べたに落ちら花びらを気にしていました。匂いがするのでしょうか?


帰宅後は、桜(猫)とまったり。
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