青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

みづうみ

2021-01-26 09:41:29 | 日記
川端康成著『みづうみ』

去年の10月23日にこのブログで、鎌倉文学館開館35周年記念の特別展「川端康成 美しい日本」展を見に行った話をしました。
その時に、積読本をある程度読み終えたら、川端の『みづうみ』を再読したいと思いまして。再読と言っても、前回読んだのは随分昔のことなので、殆ど初読のようなものです。ちなみに川端の作品では、『片腕』と『眠れる美女』が好きです。
以下、つらつらと感想を述べますが、文体は変えます。


“人間のなかに人とちがった魔族というようなものがいて、別の魔界というようなものがあるのかもしれません”

醜い男が若く美しい女のあとを付けるという設定は、田山花袋の『少女病』に似ている。
が、『少女病』が自然主義的なスタイルで描かれているのに対し、『みづうみ』は主人公の心のままに場所も時間軸も自由に入れ替わる。そこに物語の奥行きを感じる。
閉じた世界なのに、その内部は広く、深く、水のように変幻自在なのだ。

この物語の基盤は、現実世界ではなく、主人公の意識だ。
そこでは、現実世界のような時間・空間の束縛は一切無効になる。主人公が偶然接し、意識を向けた事物をきっかけに、何の説明もなく、場面は滑らかに別の時間、別の場所に移動する。まるで悪い夢の中を彷徨っているような不安が終始付きまとう。


桃井鉄平は、軽装で秋口の軽井沢に姿を現した。
観光目的でもないのに、彼が東京からシーズンオフの軽井沢にやってきたのには理由があった。犯罪者として追われているのかどうか、自分でもわからない。
彼の拾った大金は、あの女にとっても後ろ暗い金だったのではないか?ならば、彼女が警察に届けていない可能性もある……。

鉄平はトルコ風呂に入ると、湯女にマッサージを頼む。
湯女の少女のような手が、鉄平の猿のように醜い足を揉む。
彼は己の足を深く恥じていた。その足を見るたびに思い出すのだ。母の故郷の湖を。美しかった母を。醜かった父を。初恋の従姉やよいを。
それでいて、湯女相手に足の醜さを誇示するような問いかけばかりを繰り返すのだ。鉄平の執拗かつ変態的な物言いに、元々言葉の少なかった湯女はどんどん無口になって行く。
静寂と心地良いマッサージに誘われるように、鉄平の思考は宮子との偶然の出会いに還っていく。

鉄平が宮子を追跡したのは、何も彼女の金が目的だったわけではない。
彼は美しい女の跡をつけずにはいられないという悪癖の持ち主だった。その悪癖のために、彼は教職を追われたのだ。
宮子は屋敷町に続く角を曲がると、思いがけないほど強い力で、鉄平の顔にハンドバッグをぶつけて走り去った。
鉄平はハンドバッグに大金が入っているとは考えもしなかった。
それを拾い上げたのは己のストーキングの証拠を隠蔽したいからに過ぎなかった。
しかし、開けてみたら札束が入っていた。
預金通帳も入っていた。女は銀行の帰りだったらしく、おそらく銀行から後をつけられたと思ったに違いない。女の名が水木宮子と言うのも、鉄平は通帳で知った。
金目当てでないのだから、ハンドバッグは宮子に返すべきだっただろう。
しかし、怯えのような気持ちから、鉄平はハンドバッグを送り返すこともその場に捨てることもできなかった。

鉄平の思考はそこから、彼が初めて後をつけた女、玉木久子へと逸れていく。
久子は高等学校の女生徒で鉄平の教え子だった。
久子の家の門まで後をつけて、その門の立派なのにハッと立ち止まった。門前から逃げ出して辿り着いた盛り場で、花屋の窓ガラスから母の里の氷の張った湖を思い浮かべた。

湖には霧が立ち込めている。岸辺の氷の向こうは霧に隠れて無限だった。
鉄平は母方の従姉やよひを、湖の氷の上を歩いてみるように誘ったものだった。鉄平にとってやよひは初恋の人であり、呪詛の対象でもあった。足元の氷が割れて、彼女が湖に落ちればいいと思った。
鉄平の父が湖で溺死してから、母の里の人たちは鉄平の家を忌み嫌った。やよひも鉄平を疎んじ見下した。鉄平の父親譲りの猿のような足を嘲笑った。今は未亡人になっているはずだ。

はじめは警戒していた久子と、人目を忍んで逢引する仲になった。
しかし、幸福な時は長くは続かなかった。久子の親友に密告され、鉄平は教職を追われた。

“先生、また私の後をつけて来て下さい。私の気が付かないようにつけて来て下さい。やはり学校の帰りがいいわ。”

無職になった鉄平と転校した久子は、その後も久子の屋敷の堀の中「草葉のかげ」で逢瀬を重ねた。
やがて、久子の家族の目を盗んで、久子の部屋で密会するようになるが、それが発覚しないはずはなかった。久子は屋敷から出ることを禁じられ、鉄平は彼女と連絡を取る手段を失った。
それからも、鉄平は久子を求めて「草葉のかげ」を度々訪れた。
ようやく久子に会えた時、鉄平は二人で、寂しい湖の岸まで逃げようと誘った。が、久子はもう先生とはお会いしないことに決めたと鉄平を拒絶した。

“どうしても先生に会わずにいられなくなったら、どんなにしても先生をさがして行きます。”

“私は先生のことを忘れられたら忘れます。“

それから、鉄平は久子に会っていない。
何年かの時が流れ、久子の実家が取り壊された。「草葉のかげ」も地ならしされ、新しい家が建った。実は久子が結婚をして、ここの新居に住むとは鉄平の知る由ではなかった。

一方、宮子の落としたハンドバッグの大金は、鉄平が考えたような事件性のあるものではなかった。
しかし、宮子としては警察に届けにくい事情があるのは確かなのだ。
今でこそ、老人相手の妾稼業に身を落としている宮子であるが、戦前までは大切に育てられた名家の令嬢であった。
美しさと育ちの良さが、資産家・有田老人の目に留まり、さらには鉄平のような変態男たちに付け回される要因(鉄平や有田老人は、それを魔性と呼んでいる)になっているのだ。
ハンドバッグに入れていた大金は、有田老人からの手当を長年貯めてきたもので、言ってみれば、彼女の青春の代償であった。
みみっちいことを好まない彼女でも、その殆どすべてを失ったことにはさすがに堪えた。
宮子には啓助という弟がいる。
彼女は自分の人生を売り渡した金で、弟を大学に入れたかったのだ。

啓助の級友・水野には、年下の恋人・町枝がいた。
町枝の両親に交際を反対されているため、二人は町枝の犬の散歩を口実に土手で会っていた。ある日、土手に向かう坂道で、町枝は不審者に声をかけられた。

その不審者は鉄平であった。
町枝には相手にされなかったが、彼女の潤んで輝く瞳は湖を連想させた。彼はその清らかな黒い湖に裸で泳ぎたいという憧憬と絶望を抱いた。
次の日、土手に向かう並木道と貴族の屋敷との間の溝に隠れて、鉄平は町枝を待った。
そこは久子との逢引の場であった「草葉のかげ」を思い出させた。鉄平は日が暮れるまで少女を待ち続けたが、彼女は坂道を通らなかった。

その坂道から遠くない堀に蛍狩りが催されると、新聞で見たのは六月のことだった。
母の里の湖も蛍の名所だった。
母に連れられて行って、捕まえた蛍を蚊帳の中に放して寝た。隣の間のやよひと、どちらの蚊帳の蛍が多いかを数えて競った。
その時のやよひの浴衣が大きい十字絣であったのを、鉄平は今でも覚えている。

鉄平は町枝を求めて、お堀の蛍狩りに出向いた。
姿を現した町枝の同行者は、水野ではなく別の青年だった。その青年は宮子の弟・啓助なのだが、そんなことは鉄平は知らない。
恋愛の儚さを感じた鉄平は、町枝のワンピースのバンドに蛍籠をそっとひっかけた。町枝は気が付かない。鉄平が橋の外れまで行くと、町枝の腰に蛍籠がぼうっと光っているのが見えた。

雨の音がする。
平地には降るはずのない雨で、どこかの高原でキャンプした夜にでも聞く、非常に大粒でまばらな雨の音である。どこからくる幻聴かといえば、母の里の湖の岸辺であろう。
感傷にかられた鉄平は、初めて町枝を見かけた坂道に向かう。
蛍籠を吊るして並木の坂道を上る幻の少女に、幻の雨が降る。
鉄平は赤子が土手を這い上がって来るのを見つける。その幻の赤子は、かつて鉄平が買い、料金を踏み倒した娼婦が産んだ捨て子だった。
鉄平は久子の予言のような言葉を思い出し、上野へ向かう。


『みづうみ』に出てくる美女たちの中では、宮子は虚無的な印象が強く、一番暗い末路を辿りそうである。
有田老人に向ける心情や、町枝との会話で、自分が不幸だという自覚があるのはわかるが、それに対して何らかの強い感情を持っているようには見えなかった。
ただ、名も知らない追跡者(鉄平)の顔にハンドバッグを投げた場面にのみ、彼女の活き活きとした心の動きを見ることが出来た。その瞬間、彼女はハンドバッグの中の大金のことも、それを手に入れるために払った犠牲のことも、完全に忘れていた。常には無いほどの高揚感で満たされたのだ。

「意識の流れ」という文学的手法は、20世紀にヨーロッパの作家たちの想像した「新しい現実面」の表現方法である。
川端康成は、従来の方法で描けばただの変質者で終わったかもしれない主人公の、若く美しい女への執着と情念を、回顧、現実、妄想、幻想などを織り交ぜた「意識の流れ」で描写し、永遠の憧れの姿に象徴化した。
湖や蛍などに纏わる描写は幻想的な美しさを湛えているのに、作品の根底からは一貫して下衆な腐臭を感じる。そのどちらも、鉄平という男の心の一部なのだろう。
鉄平が美女に心を奪われるたびに、彼の目の前や彼の回想に、ストリートガール、娼婦、長靴を履いた醜女などが登場する。彼女らが鉄平に似合いの現実ということだろうか。

ストーカーが若い女を追い回している描写が大半を占める作品であるが、優美な筆致のため、それほど不快感を覚えることはなかった。
それと、このどうしようもない男の心情にも、一点だけ共感できる点があった。
行きずりの人と、行きずりのまま別れてしまって惜しいと思う気持ち。こんなに心惹かれる人は、この世に二人といないかもしれない。このまま別れると二度と再会することはないだろう。人生ってなんて寂しいのだろう。このあたりの描写には胸が苦しくなった。
しかし、鉄平という男は、その好ましい人(彼のそれは若い美女だ)を追跡し続けて、最終的には殺してしまいそうだとまで思い詰める。こうなると病気である。

自らの、そして、父の醜さをコンプレックスとし、母に代表される美女たちに憧れ続ける。鉄平が美女を付け回したり、思い浮かべたりするたびに、意識は母の里の湖に還っていく。
やよひ、久子、宮子、町枝と、執着する女が変わるたびに、鉄平を取り巻く環境は悪くなっていく。やがては、最後に会った時に久子が言ったように、上野の地下道まで身を落とすのかもしれない。
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時間飛行士へのささやかな贈物

2021-01-18 08:41:18 | 日記
フィリップ・K・ディック著は『時間飛行士へのささやかな贈物』は、ディック傑作集の2巻目にあたる。P・K・ディックの初期の短編を集めた作品集だ。
収録されているのは、「父さんに似たもの」「アフター・サーヴィス」「自動工場」「人間らしさ」「ベニー・セモリがいなかったら」「おお!ブローベルとなりて」「父祖の信仰」「電気蟻」「時間飛行士へのささやかな贈物」の9つの短編と、巻末の「著者による追想」。

私は、SF小説とは縁が薄い。これまでの人生で読んだ本の中でSFが占める割合は、多分0.01%にも満たない。そして、その割合は生涯増える気がしない。
P・K・ディックの作品も『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と『高い城の男』くらいしか読んだ記憶がない。
『マイノリティ・リポート』とか『トータル・リコール』とか、P・K・ディック原作の映像作品はいくつか観てきたが、なぜか原作を読もうという気が起きなかった。『ブレードランナー』くらいだろうか、映画を見てから原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだのは。『高い城の男』は、原作を読んで面白いとは思ったけど、ドラマは観たいとは思わなかった。
『時間飛行士へのささやかな贈物』の収録作のいくつかもドラマ化されているそうだが、何となく観る気になれないでいる。

私の脳は多分、SF的ロジックとはあまり相性が良くないのだと思う。
でも、SFは私が馴染みとしているホラーとか幻想文学のジャンルと親和性が高い気がするので、私の意識の中で何かが突き抜ければ、その面白さが分かる気もする。

この本を読む数ヶ月前に、テッド・チャンの『息吹』を読んだ。
テッド・チャンは、私としては例外的に好みのSF作家なのだが、『息吹』収録のテッド・チャン自身による作品ノートに、本書収録の「電気蟻」と「時間飛行士へのささやかな贈物」についての記述があった。それが、このSFの古典的作品集を読もうと思った動機である。
本書の収録作は、50年代から60年代にかけて執筆された作品ばかりなので、近未来を舞台にしているのに、妙にレトロな印象を受ける。そこがちょっと面白かったりする。

「父さんに似たもの」は、子供の頃に読んだホラー漫画に、同じシチュエーションの作品がいくつかあったので、比較的取っつき易かった。子供たちだけで怪物と戦うという設定も懐かしい匂いがする。

身近な人間の中身がいつの間にか変わっているかもしれない―――子供時代にそういう妄想を抱く人は多いのだろうか。
私などは、妄想ではなく願望として、自分の親の中身がいつの間にか他の誰かと変わっていたら良いのになぁと、日々考えながら暮らしていたものだけど。
それはさておき、この物語の〈父さんに似たもの〉は、もとの父さんより嫌な奴になっているし、ほっとくと自分も中身を喰われてガワを乗っ取られてしまうので、退治するよりほかの選択肢はないのだ。

9歳のチャールズ・ウォルトンは、ある日、父さんがガレージで誰かと話しているのを見かける。その後、キッチンに入ってきた父さんは、何だか変な感じがした。これは、父さんではなく、〈父さんに似たもの〉なのではないか?

ガレージを探索すると、チャールズの疑念を裏付ける証拠の物が出てきた。
〈父さんに似たもの〉は、それを樽の一番奥に隠していた。母さんが燃やすつもりでため込んだガラクタの中に、本物の父さんの残骸が押し込まれていたのだ。

チャールズが〈父さんに似たもの〉に気づいたことは、たちまち、〈父さんに似たもの〉に知られてしまう。チャールズは、〈父さんに似たもの〉の魔手から逃走する。
このあたりの地理については、〈父さんに似たもの〉だって、父さんの中身を食べたときに、たくさんの知識を仕入れていることだろう。だが、裏道にかけては子供の方が上だ。
チャールズは民家の庭や裏の小道を駆け抜け、トニー・ベレッティの家に辿り着く。
トニーは14歳、大柄な乱暴者だ。チャールズは、話だけでは半信半疑なトニーを連れて家に引き返す。

二人がリビングルームの窓を覗くと、そこにいたのは〈父さんに似たもの〉。
そいつは、暫く母さんと話し込んでいたが、母さんが部屋から出ていった途端、椅子の中でしぼみ始め、ぐにゃぐにゃなり、口がだらしなく開き、目は虚ろ、人形みたいにがっくりと頭を垂れたのだった。
やっぱりあれは、父さんではないのだ。二人は決意する。

“「まず最初にやらなくちゃならないのは、あいつを殺す方法を見つけることだ」”

かくして、チャールズとトニー、そして、もう一人、探し物の得意な黒人少年ボビー・ダニエルズの三人で、〈父さんに似たもの〉の正体を探り、立ち向かっていくことになるのだが――。

P・K・ディックによると、“この物語は、ノーマルな感情の別の一例である”そうだ。
「著者による追想」で、P・K・ディックは、幼いころに父親が二人の人間だという印象を持っていたと述べている。
良い父親と悪い父親が、息子の前に交代で姿を現す。もし仮にそれが本当だったら、どうすればよいのだろう? その子には、それを話すことが出来る誰か、話を信じて共に立ち向かってくれる誰かがいてくれるだろうか?
この物語は、ハッピーエンドとは言い難い結末を迎えるが、チャールズには共に戦ってくれる友達がいた。それ故、読後感は悪くない。


家族の中身が、人間とは異なる何者かと入れ替わるのは、「人間らしさ」も同じだ。
個人的にはこちらの方が、「父さんに似たもの」より好み。私がこの物語の主人公と同じ経験をしたとしても、同じ選択をするだろう。

ジル・へリックの夫レスターは、科学者としては優秀なのかもしれない。が、とんでもないモラハラ亭主だ。
レスターは、妻の言動に逐一皮肉な態度を示し、息を吐くようにナチュラルに彼女の人格を貶める。甥(ジルの兄の息子)には、大人気のない嫌がらせをする。
かといって、それらの行為で何らかの快感を得ているわけでもない。彼にとっては、心のこもった食事も親族との交流もすべて時間の無駄。仕事だけが有意義な時間なのだ。
遺伝子的には確かに人間なのだけど、とにかく人間らしくない。ガワは人間だが、精神面で人間らしさを構成するパーツが決定的に欠けている。たいそう気持ちの悪い男だ。

そんなレスターが、甥への態度について妻と口論になった直後、レクサーⅣの遺跡調査に旅立った。
ジルは夫のあまりの態度に、ついに離婚の決意を固めたことを兄のフランクに打ち明ける。

“「結婚して五年になるけれど、年を追ってひどくなるのよ。あの人はほんとうに――本当に人間味がないの。非情なんだわ。あの人も、仕事もね。夜も昼もなしよ」”

“「あの人は決して変わらないわ」ジルは厳しい口調で言った。「わたしにはそれがわかるの。だから別れようと決心したのよ。あの人はこれからもずっと同じよ」”

ところが、レクサーⅣから帰ってきたレスターは、別人のように態度が変わっていた。
妻への思いやりを口にし、室内の調度に興味を示し、妻の作った料理を喜ぶ。それまでのレスターが、不要なものと背を向けていたあらゆるものに、顔を輝かせながら好奇心を示すのだ。
あれほど期待していたレクサーⅣのことは、「ぞっとする」と嫌悪を込めて吐き捨て、幸せそうに顔をほころばせながら地球の素晴らしさを朗々と語る。
レスター自身は、「これでよし、だ」と悦に入っているが、長年夫の冷酷な態度に苦しめられてきたジルは納得できない。一体レスターに何が起こったのか?

いつもの味もそっけもない表情ではなくなった。悠然として、寛容、穏やかな顔つき。態度もまた。食べるし、笑顔を見せるし、いつだって丁寧。甥を相手によく遊び、冗談を言う。
だが、それだけではない。話し方が変わった。
誤解を招く恐れがあると避けていた暗喩を使うようになった。それに奇妙な言葉を使う。今ではもう耳にすることのない、形式ばった、古い文学から借用してきたような言い回し。

妹の話を聞いたフランクには、レクサーⅣでの遺跡調査中にレスターの身に起きたことが分かった。レスターは、レクサー人に体を乗っ取られたのだ。
フランクは、レスターを連邦政府出入国管理官のもとに連行する。

レクサーⅣは死にかけている惑星だ。
しかし、新しい惑星への移住を成功させるには、レクサー人の体はあまりにも脆弱なのだ。それで、一世紀ほど前にこの方法を考え出した。レクサーⅣを訪れた異星人の中身と入れ替わり、その星の者に成りすまして生きていく。移住先に順応出来るようにその星の文化についてかなりの学習を積んでいるが、いかんせん、教材が古い。だから、正体を見破るのは案外容易い。
地球についてのレクサー人の認識は、何世紀も前の地球上の文献に基づくものだ。過去の時代のロマンチックな小説。古い地球の本から学んだ言語や、習慣、風俗。
レクサーⅣからの帰還後、レスターの言動が妙に芝居がかかっていて古臭かったのは、そんなわけだった。

地球人は、レクサー人の不法侵入に厳しい。摘発されたレクサー人は、必ず振動放射能で寄生している人体を傷つけないようにして殺される。
因みにレクサー人は、乗っ取った人体の中身は殺さずにレクサーⅣのどこかに保存している。だから、レスターの中身を取り戻して、元の肉体に入れるのは可能だ。連邦政府出入国管理局では、これまで摘発したレクサー人の入れ替わりに対して、裁判にかけたのちに、すべてそのように対処してきた。
しかし、連邦政府出入国管理局に出頭したジルは、意外な証言をする――。

P・K・ディックは、「私にとってこの作品は、人間とはなにかという疑問に対する初期の結論を述べたものである。」と語っている。そして、「著者による追想」執筆の時点で、その観点はそんなに変わっていない。
P・K・ディックにとって、〈人間らしさ〉とは、どれほど親切であるか、なのだ。そして、〈人間らしさ〉は我が信条だとも言う。
この親切という特質が、人間を木石や金属と区別しているものであり、逆に言えば、人間の肉体を持って生まれたとしても、親切を持たぬ者は、人間とは言えない。人間の皮を被った別のなにかだ。

レスターの新しい中身は異星人だが、元の中身より遥かに親切だ。だから、この星で生きていける。どこで生まれたとか、どんな遺伝子を持っているかなどは、親切であるか否かの前では、些細な問題に過ぎない。


と、二つの入れ替わり物語について語ってみたが、私が本書収録作の中で、最も傑作だと思ったのは「電気蟻」だ。
「電気蟻」について語ると長くなりそうなので、細かく感想を述べるのはやめておく。が、読後の、荒涼とした風が腹の中を吹き抜けて行く様な寄る辺無さは、なかなか面白い感覚だった。この作品をもって、SFならではの妙味というものが、少し分かったような気がした。

語られているのは人間の存在の曖昧さだ。
P・K・ディックは、「われわれが“現実”と呼んでいるもののうち、どこまでの部分が外界にあるのだろうか、それとも、自分の頭の中にあるのだろうか?この物語の結末が、いつもわたしは怖くてならない」と言う。
私が私のものだと思っている記憶や感情は、本当に私が経験し、私の中から生まれたものなのか?私は自分が人間であることを疑ったことはないが、その認識さえも、プログラムされたものに過ぎないとしたら?
本当の私は人間ではなく、〈電気蟻〉と呼ばれる有機ロボットで、私の過去、私の生き甲斐、私の感情のすべてが、人間社会に都合の良い成果を齎す為にプログラムされたものだと知ったら、私はそれを知る以前のように生きていける気がしない。
私の自我が、さん孔テープの穴を塞いだり、テープを切ったり、繋ぎ直したりすることで変わるものだとしたら、私を取り巻く世界のすべてもまた、同様なのだろう。
現実供給装置のさん孔テープが、空虚な音を立てて解け続ける。完全に解けた時、世界も私もあっさり終わる。
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鏡開きとポンチョ

2021-01-12 09:17:20 | 日記

11日は鏡開きだったので、おぜんざいを食べました。
鏡開きと言っても、ご覧の通り我が家のはスーパーで買ってきたプラ容器にお餅が入っているなんちゃって鏡餅ですが。

お口直しには、ゆかりと昆布茶で味付けしたひじきの佃煮、沢庵、蜜柑を添えました。

コメガネがポンチョかストールを欲しがっていたので、10日に地元のモールに行ってきました。


かなりの大判です。厚めで目の詰まった生地なので風を通し難そう。


コメガネ着用中。
お尻まですっぽり覆われて暖かそう。
黒い所に早くも犬猫の抜け毛が付着しているのが見えます(笑)


ついでに私もストールを購入しました。コメガネのポンチョと比べると軽めの素材です。
ボタンを留めるとポンチョとしても使えます。


この日のおやつは、苺大福と桜餅で春を先取りしました。
白いのがこしあんでコメガネ。
ピンクが粒あんで夫。
黄色がきんとんで私。


温かいお茶を添えて。


ついでにこの日の晩御飯。
鰺フライとエビフライ。そして、マカロニサラダ。
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七草粥2021

2021-01-08 08:33:36 | 日記

今年も七草粥を食べました。
副菜は、里芋とひき肉のコロッケ、かぼちゃの煮物、水菜と卵のスープです。
里芋はお節料理に使うのに購入したものが大量に余っていて(安かったもので……)、しばらくの間里芋料理が続いていましたが、今回で終了。廃棄せずに済みました。

ちょうど七草粥の日に、一都三県に緊急事態宣言が発令されました。期間は本日八日から二月七日まで。
全国的にも新規感染者数の増加に歯止めがかからず、厳しい状況となっています。
個人のできることには限度がありますが、こんな状況でも精神的に追い詰められないよう、家族で支えあって健康を維持していきたいです。
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学校開始と緊急事態宣言

2021-01-06 09:07:43 | 日記





冬枯れの中の凜ちゃん。柴犬は寒さに強い。
落ち葉の匂いを楽しんでいるのかな?


猫たちは室内でヌクヌク。

明日から娘コメガネの学校の授業が開始されます。初日からお弁当なんで、ちょっと慌てました。午前中に帰ってくると勘違いしていたもので……。

今年の冬休みは、コロナのせいで初詣にも遊びにも行けず仕舞いでした。
去年のお正月に行った江の島の《湘南の宝石》が今年も開催中ですが、屋外とはいえ人出の多い所に出向くのは今のところは見送り。3月7日までやっているので、状況が好転すれば見に行けるかも?




上の画像は、去年の正月休みに《湘南の宝石》で撮った写真です。ウインターチューリップも奇麗でした。
今年も行きたいな~、行けたらいいな~。

そんな訳で、大晦日は、夫はライジンと紅白のザッピング、私とコメガネはガキ使を見て過ごしました。年始は、コメガネはDVD鑑賞。私は撮り溜めておいた『岸辺露伴は動かない』を観たり、読書したりでした。夫はソシャゲ三昧。
読書といえば、このブログに載せている読書感想が長文ばかりなので、今年はもう少し短くまとめられるように努力したいですね。とはいえ、すでに四冊分感想文を書き終わった後なので、頑張るのはそれ以降です(言うだけで終わらないように)。

年始の万単位のお買い物は、私のスマホと、コメガネと私の眼鏡のみでした。
いずれも実用品を必要に迫られて買っただけなので、買い物をしたぞ~という充足感は無かったです。
遊びと言えば、去年は一度も美術館・博物館・映画館等の屋内施設に行けませんでした。
今年は4日に、私の住む神奈川県を含めた1都3県の知事が、「1都3県緊急事態行動」として、共同で不要不急の外出自粛を控えるよう呼びかける方針を固めました。
7日には、緊急事態宣言の発令も決定される見通しです。専門家でつくる基本的対処方針等諮問委員会で緊急事態に該当すると判断されれば同日中に発令するとのこと。
第一波の時の緊急事態宣言とは異なり、対象は飲食関連の業種に絞られるようです。
しかし、事態の推移によっては、美術館・博物館・映画館等も対象になるかもしれません。公立学校の長期休校はしないとのことですが、それもどうなることか……。
コメガネさんは、4月から中3になるのですよ。コロナ禍での受験ということで、親子共々不安は大きいです。
親としては、体調面・精神面でできる限りのサポートをして、悔いの無い結果を出せるように環境を整えてあげたいと思っています。
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