川端康成著『みづうみ』
去年の10月23日にこのブログで、鎌倉文学館開館35周年記念の特別展「川端康成 美しい日本」展を見に行った話をしました。
その時に、積読本をある程度読み終えたら、川端の『みづうみ』を再読したいと思いまして。再読と言っても、前回読んだのは随分昔のことなので、殆ど初読のようなものです。ちなみに川端の作品では、『片腕』と『眠れる美女』が好きです。
以下、つらつらと感想を述べますが、文体は変えます。
“人間のなかに人とちがった魔族というようなものがいて、別の魔界というようなものがあるのかもしれません”
醜い男が若く美しい女のあとを付けるという設定は、田山花袋の『少女病』に似ている。
が、『少女病』が自然主義的なスタイルで描かれているのに対し、『みづうみ』は主人公の心のままに場所も時間軸も自由に入れ替わる。そこに物語の奥行きを感じる。
閉じた世界なのに、その内部は広く、深く、水のように変幻自在なのだ。
この物語の基盤は、現実世界ではなく、主人公の意識だ。
そこでは、現実世界のような時間・空間の束縛は一切無効になる。主人公が偶然接し、意識を向けた事物をきっかけに、何の説明もなく、場面は滑らかに別の時間、別の場所に移動する。まるで悪い夢の中を彷徨っているような不安が終始付きまとう。
桃井鉄平は、軽装で秋口の軽井沢に姿を現した。
観光目的でもないのに、彼が東京からシーズンオフの軽井沢にやってきたのには理由があった。犯罪者として追われているのかどうか、自分でもわからない。
彼の拾った大金は、あの女にとっても後ろ暗い金だったのではないか?ならば、彼女が警察に届けていない可能性もある……。
鉄平はトルコ風呂に入ると、湯女にマッサージを頼む。
湯女の少女のような手が、鉄平の猿のように醜い足を揉む。
彼は己の足を深く恥じていた。その足を見るたびに思い出すのだ。母の故郷の湖を。美しかった母を。醜かった父を。初恋の従姉やよいを。
それでいて、湯女相手に足の醜さを誇示するような問いかけばかりを繰り返すのだ。鉄平の執拗かつ変態的な物言いに、元々言葉の少なかった湯女はどんどん無口になって行く。
静寂と心地良いマッサージに誘われるように、鉄平の思考は宮子との偶然の出会いに還っていく。
鉄平が宮子を追跡したのは、何も彼女の金が目的だったわけではない。
彼は美しい女の跡をつけずにはいられないという悪癖の持ち主だった。その悪癖のために、彼は教職を追われたのだ。
宮子は屋敷町に続く角を曲がると、思いがけないほど強い力で、鉄平の顔にハンドバッグをぶつけて走り去った。
鉄平はハンドバッグに大金が入っているとは考えもしなかった。
それを拾い上げたのは己のストーキングの証拠を隠蔽したいからに過ぎなかった。
しかし、開けてみたら札束が入っていた。
預金通帳も入っていた。女は銀行の帰りだったらしく、おそらく銀行から後をつけられたと思ったに違いない。女の名が水木宮子と言うのも、鉄平は通帳で知った。
金目当てでないのだから、ハンドバッグは宮子に返すべきだっただろう。
しかし、怯えのような気持ちから、鉄平はハンドバッグを送り返すこともその場に捨てることもできなかった。
鉄平の思考はそこから、彼が初めて後をつけた女、玉木久子へと逸れていく。
久子は高等学校の女生徒で鉄平の教え子だった。
久子の家の門まで後をつけて、その門の立派なのにハッと立ち止まった。門前から逃げ出して辿り着いた盛り場で、花屋の窓ガラスから母の里の氷の張った湖を思い浮かべた。
湖には霧が立ち込めている。岸辺の氷の向こうは霧に隠れて無限だった。
鉄平は母方の従姉やよひを、湖の氷の上を歩いてみるように誘ったものだった。鉄平にとってやよひは初恋の人であり、呪詛の対象でもあった。足元の氷が割れて、彼女が湖に落ちればいいと思った。
鉄平の父が湖で溺死してから、母の里の人たちは鉄平の家を忌み嫌った。やよひも鉄平を疎んじ見下した。鉄平の父親譲りの猿のような足を嘲笑った。今は未亡人になっているはずだ。
はじめは警戒していた久子と、人目を忍んで逢引する仲になった。
しかし、幸福な時は長くは続かなかった。久子の親友に密告され、鉄平は教職を追われた。
“先生、また私の後をつけて来て下さい。私の気が付かないようにつけて来て下さい。やはり学校の帰りがいいわ。”
無職になった鉄平と転校した久子は、その後も久子の屋敷の堀の中「草葉のかげ」で逢瀬を重ねた。
やがて、久子の家族の目を盗んで、久子の部屋で密会するようになるが、それが発覚しないはずはなかった。久子は屋敷から出ることを禁じられ、鉄平は彼女と連絡を取る手段を失った。
それからも、鉄平は久子を求めて「草葉のかげ」を度々訪れた。
ようやく久子に会えた時、鉄平は二人で、寂しい湖の岸まで逃げようと誘った。が、久子はもう先生とはお会いしないことに決めたと鉄平を拒絶した。
“どうしても先生に会わずにいられなくなったら、どんなにしても先生をさがして行きます。”
“私は先生のことを忘れられたら忘れます。“
それから、鉄平は久子に会っていない。
何年かの時が流れ、久子の実家が取り壊された。「草葉のかげ」も地ならしされ、新しい家が建った。実は久子が結婚をして、ここの新居に住むとは鉄平の知る由ではなかった。
一方、宮子の落としたハンドバッグの大金は、鉄平が考えたような事件性のあるものではなかった。
しかし、宮子としては警察に届けにくい事情があるのは確かなのだ。
今でこそ、老人相手の妾稼業に身を落としている宮子であるが、戦前までは大切に育てられた名家の令嬢であった。
美しさと育ちの良さが、資産家・有田老人の目に留まり、さらには鉄平のような変態男たちに付け回される要因(鉄平や有田老人は、それを魔性と呼んでいる)になっているのだ。
ハンドバッグに入れていた大金は、有田老人からの手当を長年貯めてきたもので、言ってみれば、彼女の青春の代償であった。
みみっちいことを好まない彼女でも、その殆どすべてを失ったことにはさすがに堪えた。
宮子には啓助という弟がいる。
彼女は自分の人生を売り渡した金で、弟を大学に入れたかったのだ。
啓助の級友・水野には、年下の恋人・町枝がいた。
町枝の両親に交際を反対されているため、二人は町枝の犬の散歩を口実に土手で会っていた。ある日、土手に向かう坂道で、町枝は不審者に声をかけられた。
その不審者は鉄平であった。
町枝には相手にされなかったが、彼女の潤んで輝く瞳は湖を連想させた。彼はその清らかな黒い湖に裸で泳ぎたいという憧憬と絶望を抱いた。
次の日、土手に向かう並木道と貴族の屋敷との間の溝に隠れて、鉄平は町枝を待った。
そこは久子との逢引の場であった「草葉のかげ」を思い出させた。鉄平は日が暮れるまで少女を待ち続けたが、彼女は坂道を通らなかった。
その坂道から遠くない堀に蛍狩りが催されると、新聞で見たのは六月のことだった。
母の里の湖も蛍の名所だった。
母に連れられて行って、捕まえた蛍を蚊帳の中に放して寝た。隣の間のやよひと、どちらの蚊帳の蛍が多いかを数えて競った。
その時のやよひの浴衣が大きい十字絣であったのを、鉄平は今でも覚えている。
鉄平は町枝を求めて、お堀の蛍狩りに出向いた。
姿を現した町枝の同行者は、水野ではなく別の青年だった。その青年は宮子の弟・啓助なのだが、そんなことは鉄平は知らない。
恋愛の儚さを感じた鉄平は、町枝のワンピースのバンドに蛍籠をそっとひっかけた。町枝は気が付かない。鉄平が橋の外れまで行くと、町枝の腰に蛍籠がぼうっと光っているのが見えた。
雨の音がする。
平地には降るはずのない雨で、どこかの高原でキャンプした夜にでも聞く、非常に大粒でまばらな雨の音である。どこからくる幻聴かといえば、母の里の湖の岸辺であろう。
感傷にかられた鉄平は、初めて町枝を見かけた坂道に向かう。
蛍籠を吊るして並木の坂道を上る幻の少女に、幻の雨が降る。
鉄平は赤子が土手を這い上がって来るのを見つける。その幻の赤子は、かつて鉄平が買い、料金を踏み倒した娼婦が産んだ捨て子だった。
鉄平は久子の予言のような言葉を思い出し、上野へ向かう。
『みづうみ』に出てくる美女たちの中では、宮子は虚無的な印象が強く、一番暗い末路を辿りそうである。
有田老人に向ける心情や、町枝との会話で、自分が不幸だという自覚があるのはわかるが、それに対して何らかの強い感情を持っているようには見えなかった。
ただ、名も知らない追跡者(鉄平)の顔にハンドバッグを投げた場面にのみ、彼女の活き活きとした心の動きを見ることが出来た。その瞬間、彼女はハンドバッグの中の大金のことも、それを手に入れるために払った犠牲のことも、完全に忘れていた。常には無いほどの高揚感で満たされたのだ。
「意識の流れ」という文学的手法は、20世紀にヨーロッパの作家たちの想像した「新しい現実面」の表現方法である。
川端康成は、従来の方法で描けばただの変質者で終わったかもしれない主人公の、若く美しい女への執着と情念を、回顧、現実、妄想、幻想などを織り交ぜた「意識の流れ」で描写し、永遠の憧れの姿に象徴化した。
湖や蛍などに纏わる描写は幻想的な美しさを湛えているのに、作品の根底からは一貫して下衆な腐臭を感じる。そのどちらも、鉄平という男の心の一部なのだろう。
鉄平が美女に心を奪われるたびに、彼の目の前や彼の回想に、ストリートガール、娼婦、長靴を履いた醜女などが登場する。彼女らが鉄平に似合いの現実ということだろうか。
ストーカーが若い女を追い回している描写が大半を占める作品であるが、優美な筆致のため、それほど不快感を覚えることはなかった。
それと、このどうしようもない男の心情にも、一点だけ共感できる点があった。
行きずりの人と、行きずりのまま別れてしまって惜しいと思う気持ち。こんなに心惹かれる人は、この世に二人といないかもしれない。このまま別れると二度と再会することはないだろう。人生ってなんて寂しいのだろう。このあたりの描写には胸が苦しくなった。
しかし、鉄平という男は、その好ましい人(彼のそれは若い美女だ)を追跡し続けて、最終的には殺してしまいそうだとまで思い詰める。こうなると病気である。
自らの、そして、父の醜さをコンプレックスとし、母に代表される美女たちに憧れ続ける。鉄平が美女を付け回したり、思い浮かべたりするたびに、意識は母の里の湖に還っていく。
やよひ、久子、宮子、町枝と、執着する女が変わるたびに、鉄平を取り巻く環境は悪くなっていく。やがては、最後に会った時に久子が言ったように、上野の地下道まで身を落とすのかもしれない。
去年の10月23日にこのブログで、鎌倉文学館開館35周年記念の特別展「川端康成 美しい日本」展を見に行った話をしました。
その時に、積読本をある程度読み終えたら、川端の『みづうみ』を再読したいと思いまして。再読と言っても、前回読んだのは随分昔のことなので、殆ど初読のようなものです。ちなみに川端の作品では、『片腕』と『眠れる美女』が好きです。
以下、つらつらと感想を述べますが、文体は変えます。
“人間のなかに人とちがった魔族というようなものがいて、別の魔界というようなものがあるのかもしれません”
醜い男が若く美しい女のあとを付けるという設定は、田山花袋の『少女病』に似ている。
が、『少女病』が自然主義的なスタイルで描かれているのに対し、『みづうみ』は主人公の心のままに場所も時間軸も自由に入れ替わる。そこに物語の奥行きを感じる。
閉じた世界なのに、その内部は広く、深く、水のように変幻自在なのだ。
この物語の基盤は、現実世界ではなく、主人公の意識だ。
そこでは、現実世界のような時間・空間の束縛は一切無効になる。主人公が偶然接し、意識を向けた事物をきっかけに、何の説明もなく、場面は滑らかに別の時間、別の場所に移動する。まるで悪い夢の中を彷徨っているような不安が終始付きまとう。
桃井鉄平は、軽装で秋口の軽井沢に姿を現した。
観光目的でもないのに、彼が東京からシーズンオフの軽井沢にやってきたのには理由があった。犯罪者として追われているのかどうか、自分でもわからない。
彼の拾った大金は、あの女にとっても後ろ暗い金だったのではないか?ならば、彼女が警察に届けていない可能性もある……。
鉄平はトルコ風呂に入ると、湯女にマッサージを頼む。
湯女の少女のような手が、鉄平の猿のように醜い足を揉む。
彼は己の足を深く恥じていた。その足を見るたびに思い出すのだ。母の故郷の湖を。美しかった母を。醜かった父を。初恋の従姉やよいを。
それでいて、湯女相手に足の醜さを誇示するような問いかけばかりを繰り返すのだ。鉄平の執拗かつ変態的な物言いに、元々言葉の少なかった湯女はどんどん無口になって行く。
静寂と心地良いマッサージに誘われるように、鉄平の思考は宮子との偶然の出会いに還っていく。
鉄平が宮子を追跡したのは、何も彼女の金が目的だったわけではない。
彼は美しい女の跡をつけずにはいられないという悪癖の持ち主だった。その悪癖のために、彼は教職を追われたのだ。
宮子は屋敷町に続く角を曲がると、思いがけないほど強い力で、鉄平の顔にハンドバッグをぶつけて走り去った。
鉄平はハンドバッグに大金が入っているとは考えもしなかった。
それを拾い上げたのは己のストーキングの証拠を隠蔽したいからに過ぎなかった。
しかし、開けてみたら札束が入っていた。
預金通帳も入っていた。女は銀行の帰りだったらしく、おそらく銀行から後をつけられたと思ったに違いない。女の名が水木宮子と言うのも、鉄平は通帳で知った。
金目当てでないのだから、ハンドバッグは宮子に返すべきだっただろう。
しかし、怯えのような気持ちから、鉄平はハンドバッグを送り返すこともその場に捨てることもできなかった。
鉄平の思考はそこから、彼が初めて後をつけた女、玉木久子へと逸れていく。
久子は高等学校の女生徒で鉄平の教え子だった。
久子の家の門まで後をつけて、その門の立派なのにハッと立ち止まった。門前から逃げ出して辿り着いた盛り場で、花屋の窓ガラスから母の里の氷の張った湖を思い浮かべた。
湖には霧が立ち込めている。岸辺の氷の向こうは霧に隠れて無限だった。
鉄平は母方の従姉やよひを、湖の氷の上を歩いてみるように誘ったものだった。鉄平にとってやよひは初恋の人であり、呪詛の対象でもあった。足元の氷が割れて、彼女が湖に落ちればいいと思った。
鉄平の父が湖で溺死してから、母の里の人たちは鉄平の家を忌み嫌った。やよひも鉄平を疎んじ見下した。鉄平の父親譲りの猿のような足を嘲笑った。今は未亡人になっているはずだ。
はじめは警戒していた久子と、人目を忍んで逢引する仲になった。
しかし、幸福な時は長くは続かなかった。久子の親友に密告され、鉄平は教職を追われた。
“先生、また私の後をつけて来て下さい。私の気が付かないようにつけて来て下さい。やはり学校の帰りがいいわ。”
無職になった鉄平と転校した久子は、その後も久子の屋敷の堀の中「草葉のかげ」で逢瀬を重ねた。
やがて、久子の家族の目を盗んで、久子の部屋で密会するようになるが、それが発覚しないはずはなかった。久子は屋敷から出ることを禁じられ、鉄平は彼女と連絡を取る手段を失った。
それからも、鉄平は久子を求めて「草葉のかげ」を度々訪れた。
ようやく久子に会えた時、鉄平は二人で、寂しい湖の岸まで逃げようと誘った。が、久子はもう先生とはお会いしないことに決めたと鉄平を拒絶した。
“どうしても先生に会わずにいられなくなったら、どんなにしても先生をさがして行きます。”
“私は先生のことを忘れられたら忘れます。“
それから、鉄平は久子に会っていない。
何年かの時が流れ、久子の実家が取り壊された。「草葉のかげ」も地ならしされ、新しい家が建った。実は久子が結婚をして、ここの新居に住むとは鉄平の知る由ではなかった。
一方、宮子の落としたハンドバッグの大金は、鉄平が考えたような事件性のあるものではなかった。
しかし、宮子としては警察に届けにくい事情があるのは確かなのだ。
今でこそ、老人相手の妾稼業に身を落としている宮子であるが、戦前までは大切に育てられた名家の令嬢であった。
美しさと育ちの良さが、資産家・有田老人の目に留まり、さらには鉄平のような変態男たちに付け回される要因(鉄平や有田老人は、それを魔性と呼んでいる)になっているのだ。
ハンドバッグに入れていた大金は、有田老人からの手当を長年貯めてきたもので、言ってみれば、彼女の青春の代償であった。
みみっちいことを好まない彼女でも、その殆どすべてを失ったことにはさすがに堪えた。
宮子には啓助という弟がいる。
彼女は自分の人生を売り渡した金で、弟を大学に入れたかったのだ。
啓助の級友・水野には、年下の恋人・町枝がいた。
町枝の両親に交際を反対されているため、二人は町枝の犬の散歩を口実に土手で会っていた。ある日、土手に向かう坂道で、町枝は不審者に声をかけられた。
その不審者は鉄平であった。
町枝には相手にされなかったが、彼女の潤んで輝く瞳は湖を連想させた。彼はその清らかな黒い湖に裸で泳ぎたいという憧憬と絶望を抱いた。
次の日、土手に向かう並木道と貴族の屋敷との間の溝に隠れて、鉄平は町枝を待った。
そこは久子との逢引の場であった「草葉のかげ」を思い出させた。鉄平は日が暮れるまで少女を待ち続けたが、彼女は坂道を通らなかった。
その坂道から遠くない堀に蛍狩りが催されると、新聞で見たのは六月のことだった。
母の里の湖も蛍の名所だった。
母に連れられて行って、捕まえた蛍を蚊帳の中に放して寝た。隣の間のやよひと、どちらの蚊帳の蛍が多いかを数えて競った。
その時のやよひの浴衣が大きい十字絣であったのを、鉄平は今でも覚えている。
鉄平は町枝を求めて、お堀の蛍狩りに出向いた。
姿を現した町枝の同行者は、水野ではなく別の青年だった。その青年は宮子の弟・啓助なのだが、そんなことは鉄平は知らない。
恋愛の儚さを感じた鉄平は、町枝のワンピースのバンドに蛍籠をそっとひっかけた。町枝は気が付かない。鉄平が橋の外れまで行くと、町枝の腰に蛍籠がぼうっと光っているのが見えた。
雨の音がする。
平地には降るはずのない雨で、どこかの高原でキャンプした夜にでも聞く、非常に大粒でまばらな雨の音である。どこからくる幻聴かといえば、母の里の湖の岸辺であろう。
感傷にかられた鉄平は、初めて町枝を見かけた坂道に向かう。
蛍籠を吊るして並木の坂道を上る幻の少女に、幻の雨が降る。
鉄平は赤子が土手を這い上がって来るのを見つける。その幻の赤子は、かつて鉄平が買い、料金を踏み倒した娼婦が産んだ捨て子だった。
鉄平は久子の予言のような言葉を思い出し、上野へ向かう。
『みづうみ』に出てくる美女たちの中では、宮子は虚無的な印象が強く、一番暗い末路を辿りそうである。
有田老人に向ける心情や、町枝との会話で、自分が不幸だという自覚があるのはわかるが、それに対して何らかの強い感情を持っているようには見えなかった。
ただ、名も知らない追跡者(鉄平)の顔にハンドバッグを投げた場面にのみ、彼女の活き活きとした心の動きを見ることが出来た。その瞬間、彼女はハンドバッグの中の大金のことも、それを手に入れるために払った犠牲のことも、完全に忘れていた。常には無いほどの高揚感で満たされたのだ。
「意識の流れ」という文学的手法は、20世紀にヨーロッパの作家たちの想像した「新しい現実面」の表現方法である。
川端康成は、従来の方法で描けばただの変質者で終わったかもしれない主人公の、若く美しい女への執着と情念を、回顧、現実、妄想、幻想などを織り交ぜた「意識の流れ」で描写し、永遠の憧れの姿に象徴化した。
湖や蛍などに纏わる描写は幻想的な美しさを湛えているのに、作品の根底からは一貫して下衆な腐臭を感じる。そのどちらも、鉄平という男の心の一部なのだろう。
鉄平が美女に心を奪われるたびに、彼の目の前や彼の回想に、ストリートガール、娼婦、長靴を履いた醜女などが登場する。彼女らが鉄平に似合いの現実ということだろうか。
ストーカーが若い女を追い回している描写が大半を占める作品であるが、優美な筆致のため、それほど不快感を覚えることはなかった。
それと、このどうしようもない男の心情にも、一点だけ共感できる点があった。
行きずりの人と、行きずりのまま別れてしまって惜しいと思う気持ち。こんなに心惹かれる人は、この世に二人といないかもしれない。このまま別れると二度と再会することはないだろう。人生ってなんて寂しいのだろう。このあたりの描写には胸が苦しくなった。
しかし、鉄平という男は、その好ましい人(彼のそれは若い美女だ)を追跡し続けて、最終的には殺してしまいそうだとまで思い詰める。こうなると病気である。
自らの、そして、父の醜さをコンプレックスとし、母に代表される美女たちに憧れ続ける。鉄平が美女を付け回したり、思い浮かべたりするたびに、意識は母の里の湖に還っていく。
やよひ、久子、宮子、町枝と、執着する女が変わるたびに、鉄平を取り巻く環境は悪くなっていく。やがては、最後に会った時に久子が言ったように、上野の地下道まで身を落とすのかもしれない。