青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

義経藤・弁慶藤と鯉のぼり

2023-04-28 08:52:57 | 日記
前回のブログの続きです。


引地川親水公園の藤棚と躑躅を鑑賞した後、いったん家に帰って柴犬凜ちゃんを置いてから、白旗神社に向かいました。

白旗神社ではこの時期、白い藤の義経藤、紫の藤の弁慶藤が見頃なのです。
我が家は藤沢市内在なのに白旗神社にはあまり来たことが無くて、義経藤・弁慶藤を見るのは今回が初めてでした。トレアージュ白旗の方がまだ来ている感じです。
しかもこの時期鯉のぼりを出していることを最近まで知りませんでした。一応地元民なのに面目ない。


白旗神社と通りを挟んで向かいにあるトレアージュ白旗の駐車場に車を止めました。
ここからも鯉のぼりが見えます。




久しぶりに白旗神社の鳥居をくぐります。


前回訪れたのは、昨年の大河『鎌倉殿の13人』のゆかりの地巡りの時で、5カ月くらい前です。

白旗神社は、奥州平泉・衣川館で最期を遂げ源義経をまつる神社です。
伝承によれば、義経と弁慶の首は腰越の浜で首実検されたあと、この地に飛んできたといわれています。
前回訪れた時は、神社を出てから徒歩で5分くらいの所にある「義経首洗井戸」にも行ったのでした。




参拝は後にして、藤棚と鯉のぼりの鑑賞です。
まずは護神札授与所・社務所の奥にある義経藤。


真っ白な藤の房が涼やか。天気のいい日に見たかったです。


曇り空で分かりにくいですが、奥の方まで白い花房が垂れさがっていてとても綺麗でした。







次は弁慶藤。












弁慶藤は義経藤よりも開花が早いようです。
この日はもう盛りを過ぎている感じでした。
奥の方にも藤棚が見えますが、手摺越しにしか鑑賞できません。
写真を撮るのを忘れていましたが、弁慶藤のそばには松尾芭蕉の句碑「草臥て 宿かる比や 藤の花」があります。

駐車場の上にたくさんの鯉のぼりが泳いでいました。














あまり高くない位置に飾っているので、大きな鯉は触ることができます。私たちは触りませんでしたが、小さい子たちが手を伸ばしている姿は大層可愛らしかったですよ。
この日はお宮参りの赤ちゃんとご両親の姿もありました。

この後神社の参拝をしました。


御手水の亀。




石塔の土台にも亀が彫ってあります。

白旗神社と亀の関係は、境内に何の説明書きも無いのではっきりしません。
その昔、白旗神社は街道から望むと亀の形に見えるから亀形山と呼ばれていたそうで、それが機縁なのかもしれません。








源義経公鎮霊碑。
義経没後810年を記念して、1999年に建立されました。










弁慶の力石。
この石に触れると健康になり病気をしないそうです。






白旗神社の毘沙門天は、藤沢七福神の一つです。
義経ゆかりの京都・鞍馬寺の毘沙門天を勧請し鎮座されています。

一通り散策してから帰宅しました。
藤と関係のない情報ですが、白旗神社向かいのトレアージュ白旗には、ピーコックストアや100均などが入っているので、帰りにお買い物もできて便利です。
このショッピングモールも店舗の入れ替わりがそこそこ頻繁な様子ですが、ピーコックストアと整形外科は娘コメガネ(16歳)が生まれるから健在です。100均はいつの間にか入っていました。
コメガネを産んだ後しばらく両手指のシビレが続いていたので、こちらの整形外科に通っていました。その頃はもう少し白旗の近くに住んでいたので。
コメント (2)

引地川親水公園の藤棚2023

2023-04-25 08:41:25 | 日記

今年も引地川親水公園の藤棚を見に行きました。
この時期に一番楽しみにしている引地川親水公園の藤棚ですが、今年はあいにくの曇天で薄紫の花がイマイチ映えなかったです。ここ数回の行楽はお天気に恵まれていたので、たまにはこんな日があっても仕方ないですね(;´д`)トホホ






























お天気以上に園内奥の藤棚の下の斜面の躑躅がすでに花が終わっていたのが残念でした。
今年はあらゆる花の開花が早いですね。
他の場所の躑躅は綺麗に咲いていましたけど、一番取りたかった構図が取れなくて無念です。
なので、去年撮った画像をコラージュして載せておきます。
↓↓↓


やはり天気が良い方が花の色が映えますね。
藤はもちろん、躑躅が燃えるように鮮やかでした。
気を取り直して、メインのロング藤棚のある所に移動。






































こちらも今年は花が終わりかけていて、房が寂しかったです( ノД`)シクシク…
いい時期に行けば、約130mの藤棚から満開の花房が垂れているのが最高に綺麗なんですよ。良かったら去年のブログも観てください。
そんなわけで、この日はあまり長居はせず、9時ごろに到着して10時には車に乗っていました。凜ちゃんの写真が可愛く撮れたのは良かったです。
来年は花の状態と天気が良い感じの日に行けたら良いなと思います。
コメント (2)

牡丹とサクラソウその他(大船フラワーセンター)

2023-04-21 08:41:32 | 日記
前回の続きです。


芍薬園を出て、薔薇園に少し立ち寄ってから、牡丹園に着きました。
芍薬は見頃までまだまだでしたが、牡丹は最盛期を少し過ぎたくらいの印象でしたね。
この時期は天候が愚図つきがちで、この日も前日は雨でした。たしか去年訪れた時もそんな感じだったと思います。















































牡丹園を出てから、園内を少し散策しました。




菊桜。
子供の簪みたいでとても可愛い。






園内には数種類の桜が咲いているので、長い期間観桜を楽しめます。




広場の花壇。
寄せ植えの参考になります。














すっかり定番になったネモフィラ。












盆栽コーナーの横にサクラソウが展示されていました。






サクラソウは多年草ですが、私は何度チャレンジしても夏越しに失敗してしまいます。
去年大船フラワーセンターで催された「サクラソウ展」で4鉢購入したんですが、これらも夏に全滅させてしまいました。水をやり過ぎなんでしょうね。サクラソウと一緒に購入した固形肥料がむなしく手元に残っています(^^;








一巡してエントランスに戻りました。


売店で少し遅めの昼食を取りました。
グリーンカレーです。


デザートにソフトクリームを食べようと思ったのですが、この日は暑かったからか、売り切れでした。
代わりにかき氷を食べましたよ。
コメント

藤棚と芍薬(大船フラワーセンター)

2023-04-18 08:39:29 | 日記

先週末、大船フラワーセンターに、藤棚、芍薬、牡丹、サクラソウなどを見に行きました。
藤は見頃で、芍薬はやや早すぎ、牡丹は盛りを過ぎはじめた頃でした。
枚数が多いので、今回は藤棚と芍薬メイン、次回に牡丹とサクラソウメインに分けてブログに載せます。

エントランスの寄せ植えたち。


I LOVE MOM
もうじき母の日ですね。



















一通り寄せ植えを鑑賞してから、睡蓮池やロックガーデンを通過して藤棚のエリアに移動しました。








睡蓮池の前にも藤棚があります。










ロックガーデン。


パンパスグラスの向こうが藤棚のエリアです。






























白い藤はムラサキより開花が遅めのようです。






まだ藤棚になりきらない大きさの藤はユーモラスな形をしています。






八重桜も咲き残っていました。

芍薬園に移動。


同じ芍薬でも品種によって開花時期が違うのか、一部満開の株もありましたが、全体としてはまだ見頃ではありませんでしたね。


こんな感じで蕾の株が目立ちました。
でも咲いている芍薬はとても綺麗でしたよ。


















それに来週になったら牡丹が散っていると思うので、どちらも観たいのならこの日で正解だったと思います。

芍薬園を出て、牡丹園に移動。








途中、薔薇園によりました。今の時期はモッコウバラが満開でした。

枚数が多いので、今回はここまで。牡丹、サクラソウ、花壇の花などは次回のブログに載せます。
コメント (2)

石の文学館

2023-04-14 08:56:18 | 日記
和田博文編『石の文学館』

サブタイトルは、〔石の眠り、砂の思考〕

石に纏わる38編の短編小説・詩・エッセイなどが、7章に分けられて収録されている。
石が出てくる作品ならジャンルに拘りは無いようなので、作家の顔ぶれがごった煮になっているのが面白い。稲垣足穂と森瑤子が一緒に収録されているアンソロジーなんて他にあるだろうか。

個人的に花丸だったのが、第一章の稲垣足穂「水晶物語」、高原英里「星水晶」、高柳誠「水晶宮」。第二章の椿實「石の中の鳥」、澁澤龍彦「石の夢」、種村季弘「聖女の宝石函」。第六章の山尾悠子「夜の宮殿と輝くまひるの塔」、田久保英夫「静か石」。
高柳誠、椿實、田久保英夫の作品を読むのは今回が初めてだったので、彼らの他の作品も読んでみたい。未知の作家との出会えるのもアンソロジーの良いところだ。

高柳誠「水晶宮」
水晶宮の調査報告書のような短編。
水晶宮という架空の存在をきっぱりと簡潔な文体で見てきたように描写しているので、読んでいるこちらも見てきたように想像できる。
人類の誕生よりはるか前から存在し、人類の滅亡の後も果てしなく続く、その青く輝く空間は、不滅であるが故に、既に滅びた世界のように静謐な郷愁を漂わせている。

内部が即外部である世界、それが水晶宮の基本構造だ。
水晶宮は信じる者の数だけ存在する。
ただし、信じている人がそこの住人になることは出来ない。水晶宮の入り口はどこにでもあるが、誰もその存在に気が付かないのだ。
水晶宮の住人が、自分たちの住む場所が水晶宮であることを理解することは永遠にない。この相互不可侵性、永久の閉鎖性によって水晶宮は今までもこれからも存在していく。
水晶宮はもう一つ大きな水晶宮の中に存在する。
そして、水晶宮の中には、水晶宮そのままのミニチュアが収められている。つまり水晶宮は、極小から極大への宇宙の生成物の構造と正確に呼応している。
水晶宮は同一時刻にどこにでも存在でき、瞬時にどんな長距離でも移動できる。
現実的な時間の感覚からすると、相対的に見て水晶宮の中で時間はまったく流れないに等しい。
水晶宮では太陽も月も星もすべてその内部に存在する。
故に水晶宮は宇宙そのものということも可能だが、単なるプラネタリウムに過ぎないとの見方もできる。
水晶宮の中央の一室には水晶球が安置されており、その球体はあらゆる複合世界を反映している。
したがってその球には、世界・宇宙が距離感を失ってベタ一面に存在している。球の内部世界では、時間は喪失され歴史的遠近も全く無視されている。
水晶宮の住人は男でも女でもない生殖不能の生物だ。
彼らは老人であって同時に少年少女でもある。彼らはすべて透明な皮膚を持ち、その内臓は様々な宝石の色を帯びて煌めいている。

だが、実際に水晶宮に行って戻ってきた者の存在が確認できない以上、これらの報告(?)の信憑性を保証できるものは何もない。
水晶宮はあらゆる定義づけを拒絶し、ただ断片としてのみ存在する。
その永遠に閉じられた無限の入れ子細工の世界の中に、同じ人物が無限に存在する。
そこは私が私であると同時にあなたでもある世界。
彼女が私にも彼にもなり得る、つまり誰にもなり得ない非人格の世界なのだ。すべての水晶宮の住人は、一人の人物の姿が乱反射する鏡像にすぎないのかもしれない。


澁澤龍彦「石の夢」
プリニウス、キルヒャー、アルドロヴァンデイらの著作を引用しながら、古今東西の奇石にまつわるエピソード、そこに込められた夢想を解きほぐしていくエッセイ。

“石は作品ではないのである。石は芸術の対象ではなくて、おそらく魔術の対象なのである。それ故にこそ、石はさまざまな形態の伝説を生み、伝説はただちに形而上学に結びつくのであろう。”

「絵のある石」とは、石の表面や断面に現れる模様が、アポロン、ミューズ、キリスト、あるいは動植物などの絵のように見えることからそう呼ばれている。
表面・断面と言っても、もとは石の誕生とともに石の内部に封じ込められ隠されていた形象が、人間の手で切断されるか磨かれるかして偶然に表面に浮かび上がってきたものだ。
偶然によって日の目を見たそれは奇跡と呼ばれ、ひとたび奇跡と認識されるや人々の想像力を固定させてしまう。

澁澤はそれをロールシャッハ・テストの図形が、ひとたび「花」と知覚されると、それ以降その図形が「花」以外の何物にも見えなくなるようなものだと述べながらも、無意味な形象が夢の世界の扉をひらくと続けている。この開かれた扉の先に展開する人間の想像力、いわば「類推の魔」こそが、澁澤の興味の対象であり、このエッセイの面白みなのだ。

中世ヨーロッパの自然科学的な考え方では、石や鉱物は生きているので、地下で成長したり、病気になったり、老衰したり、死んだりする。だから星の影響も受けるし、周囲の土壌の影響も受ける。
キルヒャーは著書『地下世界』で、「絵のある石」の形成される四つの作用を説明する。
その1は「偶然」であり、その2は「土地が母体となって石化を促す作用」であり、その3は「相似の形態を固める磁気作用」であり、その4は「神聖な天の作用」である。
キルヒャーの説明によると、植物と石は同じ土地から生ずるので、彼らの本質は互いに混じり合っている。蘚苔類が鉱物の内部に侵入し、石のような草や果物に変化したり、灌木や水晶や大理石の内部で花を咲かせたりする。
神々やキリストなど聖なるものの像も、同じように形成される。
例えば地中に残された祭具や十字架が、時を経て土に痕跡を残す。二枚の大理石の間に挟まり込んだ物体は、やがてその形を大理石の内部に浸透させる。
それらが切断されるか磨かれるかして表面に現れたものが、「絵のある石」なのだ。
しかし、こうした直接的な原因も、神の摂理なしでは良い結果を生じない。自然界に奇跡をもたらすのは、常に神の摂理だ。石の中に形が生じるのも、天空に星が生じるのも、神の力に支配された結果なのである。
現代人が聴くと、マジカル過ぎてどこが自然科学なのだという論説であるが、中世の自然哲学とは多かれ少なかれ錬金術的発想を下地にしているものらしい。

「石の夢」とは、人間が石に見た、崇拝、憧憬、思慕、郷愁なのではないか。
古来より、人間が石に託してきた夢想のいかに大きく、いかに偏寄を極めていることか。
石の内部に何か神聖なものが取り込まれているという感覚は、古今東西、人類共通のものなのだろう。時代の変遷とともに宗教観や美意識は変わっても、石は常に折口信夫のいう「神の容れ物としての石」だ。

石を巡る澁澤のペンは、最後に内部が空洞になっている石に辿り着く。
ロジェ・カイヨワの『石』に、内部に水が溜まっている奇妙な石が取り上げられている。

“程よい大きさの瑪瑙の団塊を手で持ちあげてみると、時に異常に軽く思われることがある。それで、その内部が中空になっていて、水が入っていることが分る。耳の近くで振ってみると、ごく稀にではあるが、内壁にぶつかる液体の音が聞こえる。たしかに、そこには水が棲んでいるのであり、水は地球の揺籃期からずっと、石の牢獄に閉じこめられたままでいるわけなのだ。この大昔の水を見たいと思う気持ちが生ずる。”

澁澤はその石に対して以下のような感想を持つ。

“たしかに、その水は地球の発達の歴史を知らず、天水を通じて循環することを知らず、溶けた鉱物が固結する過程に、ふと落ちこんだ空洞のなかに捕らえられたまま、二度とふたたび出ることができなくなってしまったという、いわば童話の「塔に閉じこめられた姫君」のような処女の水ではないだろうか。”

内部に液体を封じ込めたその石は、母胎、生命の揺籃を連想させる。或いは生命が尽きた亡骸が最期に安らぐ棺。
では、そこに閉じこめられた処女の水は、永遠に生まれることのない胎児か、永遠に昇天することのない死者の魂なのだろうか。どこにも飛び立てないそれは、石に抱かれて醒めない夢を見続ける。
コメント