青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

ソラマチ散策

2019-04-29 09:33:57 | 日記



GW初日の土曜日にソラマチに行ってきました。
天候には恵まれなかったので、スカイツリー展望台には登りませんでしたよ。
何でこんな天気の日に出かけたかというと、GW直前に夫の仕事で大きなトラブルが発生して、いつ休めるか分からない状態になってしまったからです。天候を選んでいる余裕などなくて、休めた日に行っておこうと。そして、日曜から夫は本社に缶詰。このまま現場に出向かもしれません…。


この日は、すみだ水族館⇒お買い物&お食事⇒プラネタリウム天空の順で散策しました。
すみだ水族館が9時開館なので、それに合わせて6時半に出発。途中事故渋滞に巻き込まれましたが、開館直前に辿り着くことが出来ました。





















































すみだ水族館はビル内の水族館なので面積が狭く、それほど期待していなかったのですが、予想外に居心地のいい空間でした。珍しい魚がいる訳では無いのですが、館内のデザインがおしゃれで、水槽の見せ方の工夫が上手いと思いましたよ。私は水族館で暮らしたいくらいの水族館好きなので、この日は一日ここにいたいと思ったのですが、娘コメガネとの約束があるのでそうもいかず。


坐る場所も多くて、こんなところで飲食を楽しみながら見学出来たらなぁと思っていたら、ちゃんとありました、「ペンギンカフェ」。
水族館の喫茶コーナーって普通はお土産売り場の隣とか、水槽の展示スペースとは離れた所にあるものですが、「ペンギンカフェ」は展示スペース内に設置されており、水槽内を泳ぐペンギンや魚を楽しみながら、飲食することが出来ます。甘味だけでなく、おにぎりセットも売っていたので、本当に一日中ここでゆっくりすることが出来ますね。
私たちが買ったソフトクリームは、500円にしてはなかなかのボリュームで味も良かったです。何よりデザインが可愛い。

見学を楽しんだ後は、お土産を買って退出しました。
丁度大道芸が始まったところだったので、それを見物してからショップフロアへ移動。


NHKショップで、大好きなチコちゃんグッズを購入。
他にも、うーたんやコッシーなど、コメガネが幼い頃に親しんでいたキャラのグッズがあって、懐かしい気持ちになりましたね。因みに夫が好きなのは、「忍たま乱太郎」のしんべヱです。
その後、コメガネさんとの約束で、テレビ局公式ショップとジャンプショップに行きました。コメガネさんは大好きな銀魂キャラのグッズを買えてご満悦のようでしたよ。本当はコメガネさん、GW中に銀魂イベントのやっているナンジャタウンに行きたがっていたのですよね。でも夫がしょっぱい顔をしたので、ソラマチにしてもらったのでした。


フードコートで昼食をとってから、プラネタリウム天空へ。
私たちは13時の回に入りました。本当は次の回のサカナクションの方が良かったのですが、一時間も待っていられないので。
プラネタリウム天空は、通常のプラネタリウムのような天体情報は殆どありませんでした。音楽とポエムに合わせた天体映像ショーみたいな感じでしたよ。ファミリー層や天体好き向けというより、若者のデート向けのようです。
リラクゼーション効果は高く、夫とコメガネは途中で寝息を立てていました。私は寝落ちしそうになりながらも何とか最後まで起きていましたが、プログラムの内容は殆ど頭に残っていません。コニカミノルタだけあって映像は綺麗でした。


プラネタリウム天空を出てから帰路につきました。途中でシュークリームを買ったりして、家に着いたのは五時近くでした。


今回ソラマチで購入したお土産。
チコちゃんは普通の顔と怒り顔が買えましたが、私の一番好きなニタッとした顔のグッズは無かったです。目が三日月みたいになっているアレなんですけど。チコちゃんシゲキックスは、シュークリームの後に食べたせいか滅茶苦茶酸っぱかった…。夫が職場の人に食べさせてみると言って、日曜に持っていきましたよ。
コメガネにとっては、第二候補のソラマチでしたが、すごく楽しかったと言っていたのでホッとしました。勿論、私も楽しかったです。
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祈願の御堂

2019-04-25 07:35:56 | 日記
キプリング著『祈願の御堂』には、ボルヘスによる序文と、「祈願の御堂」「サーヒブの戦争」「塹壕のマドンナ」「アラーの目」「園丁」の5編が収録されている。

児童書のイメージの強いキプリングであるが、『ジャングル・ブック』の人くらいのイメージで読み始めると、大変苦労をすることになる。
本書はボルヘス編集“バベルの図書館”(全30巻)の27巻で、私にとっては14冊目の“バベルの図書館”の作品にあたるが、ここまで手強い作品はこのシリーズでは初めてである。出来れば最後であって欲しい。

キプリングの作品(少なくとも本書収録の5編)は、読み進めてかなり経っても物語がどこに向かっているのか分からない。中には終盤になって漸くテーマが理解できる作品もある。
暗中模索状態から少しずつ事態が露わになるという書き方の作家は珍しくはないのだが、キプリングほど何も見えない状態で延々と読者を歩かせる作家はそうそういないのではあるまいか。ボーっと読んでいたら最後まで何も掴めない。忍耐力と集中力を要求されるのでたいへん疲れる。

序文に、“死を前にして、彼はいわゆる主義主張のはっきりした作家であることの虚しさを、なにがしかの憂愁をこめて理解した”とある。それがそのまま彼の作品の特徴になっていて、特に女性が主人公の作品、「祈願の御堂」と「園丁」に顕著に表れていると思った。
彼女たちは、慎み深く、感情を露わにしない。読者に解り易いメッセージを送ってもくれない。うっすらと退屈な日常の描写の下で、何か大切な信号を送ってきているような気がするが、それが何なのかはよく分からない。もどかしい読書体験が延々と続く。
ところがある水深まで到達すると、ありきたりな人生を送って来たように見えた彼女たちの秘密が露わになり、世界が反転する。謎を解く鍵は、決定的な証拠として読者に提示されることはなく、さり気ない会話に中に隠されていて、注意深く読んでいないと探し当てることは出来ない。探し当てたとしても、本当の意味が理解できるとは限らない。

多分、キプリングの作品を読んだ殆どの人が、読了して間を置かずに衝撃を引きずったまま読み直すことだろう。
私自身もその例にもれず、読み返しながら、あれはこういうことだったのかと気づくことがいくつもあったし、まだまだ気づいていない謎があるはずだとも思った。再読、三読程度では、取りこぼしがあると思う。さすが、ボルヘスが“キプリングは、想像力、職人芸、音感、無駄のない言葉、誠実さ、どれをとってもむらがなく、まことに称賛に値する”と絶賛するだけのことはある。


「祈願の御堂」は、自分の足の病気は恋人の怪我を引き受けたものだと語る老婦人の話。

ミセス・アシュクロフトは、久々に訪ねてきた旧友のミセス・フェットレイと想い出話に花を咲かせる。自身の健康について。反抗期の孫について。そして、報われなかった恋について。

ミセス・アシュクロフトは、かつてハリーという男に恋をしていた。
ある時、ハリーが仕事中に足に大怪我を負った。このまま不具になってしまったら、彼は仕事を失ってしまう。
彼のために何かしたいと願った彼女は、“祈願の御堂”を思い出した。
以前、彼女が激しい頭痛に苦しんでいた時に、近所の少女がジプシーの娘から教えられた“祈願の御堂”にお願いして身代わりになると言い出したのだ。
“祈願の御堂”のベルを鳴らし、郵便受けのスリットから祈願したいことを伝える。ただし、自分のために祈ってはいけない。“祈願の御堂”に住む遊魂は、誰か他の人の苦しみを引き受けるという願いのみを叶えてくれるのだ。
その話を信じたわけでは無いけれど、とにかく彼女は“祈願の御堂”に出向いて、ハリーの足の怪我を引き受けることを願った。だって、彼の心は冷めかかっていたし、彼の母親からは嫌われていたので、他に出来ることなんて何もなかったのだ。

暫くすると、ハリーは奇跡的に回復した。
その一方で、ミセス・アシュクロフトは足の痛みに苦しむことになった。その痛みは何度も何度もぶり返し、その度に症状は重くなっていった。
それでも彼女は、ハリーのために自分の身を犠牲にすることが出来たと満足だった。
まさに、その足の病気を理由に、彼から結婚を申し込まれなかったのだけど。そして、彼は何も知らないまま、他の女性と結婚してしまったのだけど。それらはすべて、「ハリー・モックラーに取り憑いている疫病をぜんぶ身代わりにわたしに移してください」という祈願が受け入れられた証拠に違いないのだ。

だけど、ミセス・フェットレイは知っているのだ。
ミセス・アシュクロフトの足の病気は“祈願の御堂”の奇跡でも何でもなく、偶々罹った癌であることを。そして、来年のホップ摘みのシーズンには、ミセス・アシュクロフトはきっとこの世にいないということも。
もしかしたら、ミセス・アシュクロフト自身も解っているのかもしれない。
それでも、その痛みに意義を見出したい。自分の恋が、自己犠牲の精神が、無駄ではなかったと信じたい。それをミセス・フェットレイに知っておいて欲しい。

“「大事なことよ、そうでしょ、痛みがあるということは?」”


「園丁」は、事故死した弟に変わって育てた甥を戦争で喪った女性が墓参する話。

ボルヘスは、“本書のために選んだ短編のうちで、おそらく私がいちばん心を動かされるのは『園丁』である”と述べている。
終末のさり気ない一言で、主人公が長年隠し通してきた嘘と、彼女を包む救済が明らかになる。この場面に至るまでの様々な描写と「園丁」というタイトルに秘められた意味に気づいた瞬間に襲われる衝撃は、きっと忘れられないものになるだろう。

“ヘレン・タレルが誰に対しても、とりわけ立派に、ただ一人の弟の不幸せな息子に対して、すべきことはしてやったということは、村の誰もが知っていた。”

ヘレンは、身持ちの良くなかった弟が遺した甥のマイケルを女手一つで育て上げた。
ところが、マイケルは大学在学中に招集され、フランスで戦死してしまう。
遺体が見つからないうちは死亡とは限らない、と望みをかけていたヘレンだったが、遂に彼女の元に、マイケルの遺体が発見され、ハーゲンゼーレ第三陸軍墓地に埋葬された、という趣旨の公式通知が届けられる。

ヘレンは英仏海峡を渡り陸軍墓地を訪れるが、膨大な数の墓標のうちのどれがマイケルのものなのかが分からない。
迷っている彼女の目に、一人の男が墓石の背後で跪いているのが映った。園丁と思われた。男は立ち上がると、彼女に誰を捜しているのかと尋ねた。

“「マイケル・タレル中尉です――わたしの甥ですわ」とヘレンは、生涯ずっと幾度となくそうしてきたように、ゆっくりと一言ずつ言った。
その男は視線を上げ、無限の同情をこめて彼女を見やったあと、播種された芝生から、立ち並ぶ黒い十字架の裸木のほうに視線を移した。
「わたしと一緒に来なさい」と彼は言った。「そうすれば、あなたの息子さんのいる処を教えてあげよう」“

マイケルはヘレンの実の息子だったのだ。
これまでこの物語の中で描写されてきたヘレンのすべてが、この罪を隠すための偽りだった。誰も見抜くことが出来なかったその嘘を、園丁だけが見抜いた。園丁は誤解でも聞き間違いでもなく、正しく彼女の本当の姿を見抜いたのだ。
罪と嘘に塗れたヘレンの人生(読み返してみると、彼女の嘘は吃驚するくらい巧妙だ)は、果たして醜悪なものだったのだろうか。

ヘレンの真実が明るみになった瞬間、彼女に救いが訪れる。
彼女の罪はまた、彼女の善性の証でもあった。園丁は、聖書の彼だったのだ。キリストは、彼女の魂は救済に値すると判断した。
墓参の前夜に、スカーズウァース夫人がヘレンに語った「嘘にひどく疲れてしまったんだもの…何年も何年も、口に出す言葉はみな注意をして、次にはどんな嘘をつくか、懸命に考えなければならなかったんです」という言葉は、ヘレンの懊悩を代弁したものでもあったのだろう。夫人もまた、ヘレンを救済へと導くために引き合わされた存在だったのかもしれない。

「園丁」のラストシーンは、ヨハネ伝第20章15節の描写そのものだ。
ヨハネ伝第20章は、キリストの墓参りに来たマグダラのマリアが、墓石が取り除けてあるのを発見するところから始まる。墓穴にはキリストの遺体がなかった。マグダラのマリアが泣いていると、いつの間にか後ろに男が立っていた。マグダラのマリアは彼を園丁だと思った。15節で、園丁らしき男は彼女に「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」と尋ねた。園丁は復活したキリストだったのだ。
マグダラのマリアは、多くを愛することで多くの罪をゆるされた。
ヘレンもそうなのだろう。罪を犯し、嘘に嘘を重ね続けた彼女だったけど、彼女が愛情深い人だったことは誰もが知っていたのだから。

“共同墓地を離れるとき、彼女はこれで見納めと振り向いた。遠くの方で例の男が、若木の上に身を屈めているのが見えた。彼は園丁なのだわと彼女は考えながら帰路についた。”

「園丁」は、本書収録作品の中では最も読みやすいので、キプリングはしんどいと思われる方も、これだけは読んでみてはどうだろうか。
本当にさり気ない描かれ方で、注意して読まないと、老女が園丁に墓の場所を教えてもらっただけの話のように読めてしまう。が、彼女の真の人生と園丁の正体に気が付くと、結びの文で魂を揺さぶられる。キリスト教徒ではない私にも、この物語の尊さがいくらかは理解できるのだ。
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輝く金字塔

2019-04-22 07:30:33 | 日記
マッケン著『輝く金字塔』には、ボルヘスによる序文と、「黒い石印のはなし」「白い粉薬のはなし」「輝く金字塔」の三編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館”(全30巻)の21巻で、私にとっては13冊目の“バベルの図書館”の作品である。

“歴史の長い、汲めども尽きぬイギリス文学において、アーサー・マッケンはひとりのマイナー詩人である。(略)私はいま彼を詩人と呼んだが、そのわけは、苦心の散文で書かれた彼の作品は、詩作品のみがもつあの緊張と孤独を湛えているからである。”

マッケンの作品を読んだ殆どの人がラヴクラフトを思い浮かべると思うが、マッケンがラヴクラフトに似ているのではない。ラヴクラフトがマッケンの後継者なのだ。
文学史的な順番を無視してマッケンの作風を平たく表現すると、ラヴクラフトの作風から熱狂を排除し、代わりに詩情と郷愁を加えた感じ、だろうか。
私個人としては、folk taleを精神の支柱とし、オールド・ファッションと評されたA・E・コッパードの作風にも近いものを感じる。

もう一つの特徴、というかこちらの方が重要だと思うが、マッケンの作品世界では、かつてイギリスを支配したいくつもの民族の残り香が古いものから順に妖しく美しい層を形成しているということである。

“彼はケルト人であることに、あくまでもこだわりつづけた、ということはつまりローマ人より早い、サクソン人より早い、この地にその名を与えたアングル族より早い、デーン人より早い、ノルマン人より早い、この島に入植したどの人種よりも早い先住民族であることにこだわりつづけたということだ。幾多の勝利者たる民族によってつぎつぎと重ね書きされてきたこの俗界の羊皮紙文書ともいうべきものの下に、マッケンは、その大地にしっかりと根を張って原始の魔術的な知に培われてきたという、古参者の勝利感をおぼろげながら味わうことができた。”

勝者の歴史を上から順に一枚一枚剥いでいくと、最後にケルト人に行き当たる。
ケルト人はこの土地のもっとも古い敗者なのだ。ケルト人であることに拘り続けたマッケンは、はるか遠い昔に戦いに敗れ、歴史の闇に追いやられた祖先たちの孤独に寄り添い、逆境に耐え続けた。
今日では、アルジャーノン・ブラックウッド、M・R・ジェイムズと並んで欧米怪奇小説の三大巨匠との評価を受けているマッケンであるが、当時のイギリス文学界においては、不道徳であるとの激しい批判を受け、汚物文学とまで蔑まれ、著作は売れず、生活は苦しかった。彼はタリエシンがケルト人に捧げた「彼らはつねに戦いに加わり、つねに敗れた。」という詩句を愛唱していたという。
日本では、ラヴクラフトに比べると紹介される機会が少なく、どちらかと言えばマイナーな印象のマッケンだが、古い古い敗者の血を引く彼の作品は、平家と南朝の嘆きを愛する日本人の感性に馴染みやすいのではないだろうか。

本書に選ばれた三編のうち「黒い石印のはなし」「白い粉薬のはなし」は、マッケンの一番有名な作品『三人の詐欺師』所収の物。この二編と「輝く金字塔」は、奇妙な石の配列や謎の言語の発見、その付近で起きた失踪事件、異形の者の秘儀など共通する要素が多くて、世界観が一つの連作短編集の様で読みやすい。


「黒い石印のはなし」では、とある大学教授の失踪の顛末を、助手を務めていた女性が語る。

実家の没落で行き場を失くしたラリー嬢は、偶然知り合ったグレッグ教授に拾われ、彼の助手を務めることになった。
義務として抱えていた『民族学教本』の原稿を仕上げた教授は、ラリー嬢にこれから自分が本当にしたい研究に本腰を入れることを告げる。それは「グレイ・ヒルの石灰岩に刻まれたる文字」に纏わる謎で、グレッグ教授は既にそれと関連があると思われる二、三枚の紙切れと奇妙な印の付いている黒い石を入手していた。
グレイ・ヒルの石灰岩と黒い石には同じ形の奇怪な文字が刻まれていた。教授によると、石灰岩の文字は15年くらい前のもので、黒い石印の文字は四千年以上前のものだという。
そして、教授が黒い石と一緒に保管していた地元の新聞の切り抜き。そこに報じられている失踪事件や殺人事件も石の文字と関連があると教授は考えている。

教授は研究のためにラリー嬢を伴って、グレイ・ヒルそばのカーマンという町に別荘を借りた。ラリー嬢は、別荘の本棚に収められた地誌学者の著作の中の、ラテン語で書かれた文章に注目し、翻訳してみた。

“「この種族は」とわたくしは自分なりに翻訳してみました。「人里離れた秘密の場所に棲み、荒涼たる丘の上で忌まわしき秘儀を行う。顔形をのぞきて人間らしきところさらに無く、人間の習慣とは無縁にして日光を忌み嫌う。人語を話すというよりもシャアシャアと唸り、その耳障りなる声は恐怖を覚えずして聞き得ず。一つの石を尊びてこれを六十石と呼ぶ。六十の文字を示せるが故という。この石には秘密の、口にすべからざる名前あり。イクサクサルがそれなり」”

ラリー嬢からそれを聞いた教授は、この近辺にはあまり頭の良くない若者たちがいるが、自分がそういった若者を連れて帰って来ても気にしないで欲しいと言い出した。そして、ある日、本当に新しい使用人として一人の少年を連れて来たのだった。
ジャーヴェーズ・クラドックという名のその少年は、明らかに白痴で、おまけに癲癇持ちだという。既に使用人の手は足りているというのに、何故そんな奇妙な子供を雇い入れたのか?
クラドック少年をよく知る庭師のモーガンによると、少年の父親は彼が生まれる前に他界していた。それですっかり気の触れた母親は、グレイ・ヒルにしゃがみこんで泣いていたのだそうだ。父親の死後八ヶ月ほど経って生まれた少年は、奇妙な声をあげることで他の子供たちから怖がられていた。

更にしばらく経って、ラリー嬢はクラドック少年の発作の現場に居合わすことになった。
少年の体は電撃に打たれたように痙攣し、顔は紫色に膨れ上がっていた。歯ぎしりしながら泡を吹き、喚き散らすその声は、何か汚らわしい古代に葬られた言語のようにも聞こえた。
そして、ラリー嬢が何より恐ろしいと思ったのは、少年の上に屈み込んだ教授の顔だった。その時、教授の顔には禍々しい喜悦の表情が浮かんでいたのだ。ラリー嬢を苦境から救い出した親切な教授が何故、そんな悪魔的な表情で苦しんでいる子供を見つめるのか?

地元の方言に詳しい牧師でさえ聞いたことがない奇怪な言語を話すクラドック少年。彼の容貌は、ラリー嬢が訳した地誌学書のある種族の容貌に酷似していた。
グレイ・ヒルの石灰岩に刻まれた文字は15年ほど前のもので、丁度その時期にクラドック少年の母親はグレイ・ヒルで泣いている姿を目撃されていた。
グレイ・ヒル付近で起きた殺人事件で使用された原始的な石斧は、四千年以上前の製法で作られた物と推測された。
森へ行ったきり行方知れずとなったグレッグ教授。彼の持ち物は、あの石印と同じ文字の書かれた羊皮紙に包まれて発見された。
……これらの謎は、グレイ・ヒルに潜むある古の種族に結びついていた。クラドック少年の本当の父親は、異形の矮人の末裔だったのだ。

黒い石印の文字を調べていたグレッグ教授は、グレイ・ヒルの風習・伝承と付近で起きた未解決事件との関連に気が付いた。そして、それらの背後に、その存在を口にするだけで神への冒涜となる、遠い昔に消えたはずの異形の種族のにおいを嗅ぎ取ってしまった。
闇の世界に触れた教授は、異形の者に殺されたのか、それとも、彼自身が異形の者になり果てたのか。その末路は不明である。


「白い粉薬のはなし」は、学問にのめり込むあまり、引きこもりがちになっている弟の健康を心配した姉が、医者に掛かることを勧めたことから起きた悲劇。

医師の処方には何の落ち度もなかった。ただ、薬問屋の管理が杜撰だったのだ。
薬を服用するようになったフランシスは、夜な夜な遊び歩くようになる。最初は弟が陽気になったと喜んでいた姉も、徐々に弟の挙動に不信を覚えるようになる。
やがてフランシスの手に奇妙なシミが浮かぶようになり、そのシミは徐々に広がっていって、目つきも異様になり、自室に籠りっきりになった。
姉が再び医師に相談すると、医師は様子を見に来てくれたが、フランシスの部屋から出てくるなり、恐怖に震えながら「もう私を呼ばないでください」と言い捨てて帰ってしまった。そうして、途方に暮れた姉が窓から弟の部屋を見ると、そこには得体の知れない異形の者がいたのだった。

“いえ、それは人間の顔形などしていませんでした。何かある生き物が、爛々と燃える二つの眼でこちらをにらみつけ、その眼は、何かわたくしの恐怖の念と同じように形状をなさないものの真ん中に光っておりました。それはあらゆる邪悪と腐乱の象徴であり、現前でありました。”

医師が処方した珍しい塩は薬問屋のいい加減な管理によって、偶然か暗合かサバトの酒の原料と同質のものと化していた。本当のサバトの秘密とは、アーリア人がヨーロッパに入って来るずっと以前から存在した、ある邪悪なサイエンスの秘密なのだ。薬を常用したフランシスは、サバトに向かう邪教徒の様に夜な夜な出歩くようになり、遂には肉体が溶解し、腐った肉汁が沸きかえっているような液体とも個体ともつかない異形の者になり果ててしまったのである。


マッケンの作品においては、人間は容易く邪悪な存在に取り込まれる。
森に消えた人々の言い伝え――日本風に言えば神隠し――は、邪悪に屈服し、人間社会から転落した人々の物語なのだ。このような邪悪の勝利は、単に屈服した人間の堕落に留まらず、様々な罪を体現し、その罪を蔓延させ、精神だけでなく、肉体をも腐敗させる。我々が御伽噺や絵本で親しんできたあの美しい妖精や剽軽な小人、箒に跨った魔女たちは、古代に闇の世界に追いやられた隠微な存在の飾り立てられた姿なのだった。
彼等は土地の伝承の古層だけでなく、そこに住む人々の血の中にも潜んでいる。それを蘇らせるのは、石に刻まれた文字だったり、サバトの薬だったりする。人間の魂を一皮一皮剥いて行けば、最後に辿り着くのが彼等異形の者なのだろう。邪悪に屈服するというよりは、邪悪に還ると言った方が正解かもしれない。
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死の同心円

2019-04-18 07:21:34 | 日記
ジャック・ロンドン著『死の同心円』は、ボルヘスによる序文と、「マブヒの家」「生命の掟」「恥っかき」「死の同心円」「影と光」の五編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の5巻で、私にとっては12冊目の“バベルの図書館”の作品だ。

ある作家との出会いが大きな喜びとなるか、そうでもないまま終わるかは、読者の年齢が大きく関係すると思う。本書を読みながら、私はロンドンと出会うべき時期を既に失っていたのだと残念に思った。
大変うまい作家なのだ。
10代から20代前半に読んでいたら、多分この作家をとても好きになれたと思う。しかし、40を超えた現在の私は、ロンドンの作品の根底に横たわる野蛮と暴力への憧憬にあまり親しみを感じない。
私が元々ロンドン的な感性を持ち合わせていなかったのなら、「相性が良くなかったね」で終わるのだが、はるか遠い昔には確かに私の中にも野蛮と暴力への憧憬があったと記憶している。「こういうのが好きだった頃もあったのになぁ」という、そこのところに勿体なさを感じる。
ロンドンは40歳で自殺している。
冒険や危険への憧れとか、いわれのない暴力と野蛮、残虐さへの崇拝というのは、人生のある時期まで来たら嫌でも卒業しなければならない期間限定のものなのかもしれない。

ボルヘスは、本巻には、ロンドンの力量と多方面にわたる才能を示すような物語を選んだと述べている。
五編はそれぞれ方向性こそ異なるが、暴力と残虐への憧憬を孕んでいる点は共通していると思う。それは、ラテンアメリカの作家たちの日常の風景としての凶暴性とは異なる。リラダン伯爵の特権階級的な冷たい残虐性とも異なる。憧れ追い求めている時点で、本人の血と肉ではないのだと思う。そこに少しの切なさを感じた。
何れもストーリーの骨子はしっかりとしているので読みやすい。五編の中では、「恥っかき」と「影と光」が、私の好みだった。


「恥っかき」は、タイトルが秀逸。
最後の最後まで読まないと、この汚名を冠せられた人物が誰なのか分からない。私などは途中までは、単純に主人公スビエンコフのことだと思っていた。最後まで読んで、このスビエンコフという男は、クズ中のクズだと思うと同時に、生涯恥っかきの汚名を着せられることになった人物への憐憫を禁じ得なかった。

スビエンコフは、ポーランドの独立運動を夢見た時から一貫して野蛮な生活を送ってきた無頼漢だ。
ワルシャワで、サンクトペテルブルグで、シベリアの炭鉱で、カムチャツカで。
彼はどこに行っても理不尽な暴力を行使することで生き延びてきた。国境を超えるためにゆきずりの旅行者を殺害して旅券と金銭を奪ったこともあった。他人の血で己の生命を贖って来たのだ。

そうして毛皮泥棒にまで身を落とした彼は、現在、自らが野蛮な仕打ちによって搾取してきたインデアンからの逆襲に遭い、身を拘束され、仲間たちが一人一人と拷問によって命を落として行くのを目の当たりにさせられているところなのだった。
インデアンがスビエンコフへの私刑を最後に回したのは、当然彼を最も恨んでいるからで、ヤカガという男などは、数日前に彼に鞭で殴られた痕を顔面につけた状態で、彼への復讐を今か今かと待ち構えている。

目の前では大男のイワンが拷問の苦痛に耐えかね、獣のような声で泣き叫んでいる。
スビエンコフは、死ぬのは怖くないのだ。彼はただ、自制心を失い、肉体的苦痛に気が動転し、訳の分からないことを喚き散らし、畜生になり果てるのが恐ろしいのだ。
拷問の苦痛を回避し、潔く冗談の一つも言って死ぬ――その望みを叶える為にはどうすればよいのか?スビエンコフは、酋長のマカムックを相手に一世一代の賭けを試みるのだった。

スビエンコフは、たった一つの願いを叶える為に、すべてを投げ出した。
この男は、煮ても焼いても食えぬろくでなしだ。現実には絶対に関わり合いになりたくないタイプだが、物語の主人公としては大変魅力的な人物である。
内省も他者への思いやりも毛ほども持たない彼の生き方は、インデアンよりも遥かに未開的で、それ故誰よりもシンプルで力強い。


「影と光」は、H・G・ウェルズの『透明人間』とは一味違う透明人間譚。
ボルヘスはこの作品を“不可視であることの可能性という、文学古来のモチーフを踏襲し、発展させている”と述べている。
まるで双子のように酷似した二人が互いを殺そうとして自滅していく物語は、パピーニの「泉水のなかの二つの顔」やポーの「ウイリアム・ウイルソン」のようなドッペルゲンガー譚として読むことも可能だ。

私にはかつてロイド・インウッドとポール・テイクローンという二人の幼馴染がいた。
ロイドは背が高く、痩せて、すらりとした体つきで、神経質で、黒髪と黒い瞳の持ち主だった。
ポールは背が高く、痩せて、すらりとした体つきで、神経質で、金髪と青い瞳の持ち主だった。
色が異なる点を別にすれば、二人は瓜二つだった。性格や嗜好も酷似しており、本人たちは決して認めないだろうが、能力も拮抗していた。彼らはいつも張り合い、互いを負かそうと懸命になっていたが、こうした競争が始まると彼らの努力や情熱には限りがなかった。
少年時代には素潜り対決で、対抗意識が過ぎで二人とも溺死するところだった。大学時代には同じ女性に恋をして、その張り合い方の激しさに二人とも彼女からフラれた。
二人は大学では化学を専攻し、共に先例がないほど熱心に研究に取り組んで、教授連中顔負けの論文を発表しては、本人と大学の名を世に鳴り響かせたものだった。

二人とも裕福だったので卒業後は職に就かず、それぞれの研究に没頭していた。
彼等の思考はとてもよく似ていたので、話し合うことなどなくても、自然と同じ研究に取り組むこととなっていった。それは、物体の不可視化である。二人はこのテーマに全く異なったアプローチを試みていた。

「色彩は感覚なのだ」とロイドは言う。
色彩は客観的実在ではなく、光がなければ色彩も物体そのものも見ることは出来ない。すべての物体は闇の中では黒くなるので、闇の中では物体を見ることは不可能だ。若し光が物体に当たらなければ、物体から光が跳ね返ることはなく、従って物体が存在するという視覚的証拠は無いということになる。
確かに日光の中で黒い物体は見える。しかし、それは完全に黒くないからだ。つまり、完全な黒、究極の黒を作り出すことが出来れば、その塗料を塗れば眩い太陽光の中でも物体は見えなくなる。完全な黒色は集中した光を防ぐので、絶対に目に見えないだろう。

ポールの方は、「透明。すべての光線を通過させる物体の状態若しくは性質」の実現を目指して、光の偏光、回折、干渉、単複屈折、あらゆる未知の有機化合物の研究に取り組んでいた。
透明な物体は影を作らないし、光波も反射しない。つまり完全に透明なものは反射しないのだ。だから集中した光を避ければ、物体は影を作らないだけでなく、光を反射しないから、目に見えなくなるはずである。

二人はそれぞれの理論に従って実験を重ねた結果――その実験に巻き込まれた哀れなベッドショー爺さんは発狂してしまったけど――物体の不可視化に成功する。
そして、その世紀の大発明を成し遂げた彼らが真っ先に試みたのが、互いの殺害なのだった。
白昼のテニスコートを舞台に二人の透明人間が殺し合う。
幼い頃の素潜り対決と違って、誰も二人を止めることが出来ない。透明人間同士の対決は、誰の眼にも見ることが出来ないからだ。最後に彼らの体がぶつかったらしい金網の動きが止まるとすべてが終わった。

巻き添えになった私は一時間後、発見された。召使たちは一斉に暇を取ってしまった。ベッドジョー爺さんは精神病院に監禁されている。
ロイドとポールの大発見も、二人が死ぬとともに秘密も消え、それぞれの実験室は親族によって取り壊された。私は自然の光で充分だと思っている。
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中学最初の授業参観と平成最後の桜

2019-04-15 09:37:18 | 日記
先週土曜日は、娘コメガネの中学校の授業参観でした。
夫も一緒に行けたので、土曜日にやってくれたのは良かったです。でも、ちょっと時期が早すぎるかなあとは思いました。まだ入学して一週間目で担任の先生ですらクラスの生徒の名前を覚えていませんし、生徒たちもまだ学校に馴染んでいないせいか誰も手を挙げず、先生が一人で話しているだけで授業が終わってしまいました。授業後の懇談会でも先生から特に重要なお話は無く(先生もちょっと困り顔でした)、殆ど自己紹介だけで解散しました。

コメガネさんが中学入学を機にスマホデビューしたいと言うので、日曜にスマホの契約に行ってきました。帰ってから早速ラインを入れて楽しんでいましたよ。色々覚えてお友達とのやり取りに役立てて欲しいです。でも、フィルタリング以外にも使用制限は厳しめにかけていますけどね。コメガネさんだけ不自由なのはかわいそうなので、私自身も使用時間は制限することにしました。

今日は振替休日ですがコメガネさんはちょっとお疲れ気味なので、眼科とメガネ屋に連れて行くだけにしてゆっくりさせようと思っています。我が家では毎年この時期がコメガネさんのメガネ交換期です。


話は変わりますが、凜の散歩コースの桜を撮影してきました。














今年はそろそろ開花かという時期に天候が崩れたせいか、近所の桜が綺麗に咲きそろいませんでした。同じ場所に植えてあるのに、既に葉っぱ混じりになっている樹とまだ咲ききっていない樹があって、撮影にベストな日がありませんでしたね。何日かトライしてみて、比較的状態の良い画像を集めてみたのですが…。




















この川沿いの桜並木は地元でもちょっと知られた桜の名所なのですが、今年は蕾から少なめでした。
よく見ると所々枝を剪定した痕があるので、天候の影響だけでなく、桜自体の体力が弱っているのかもしれません。桜はデリケートな樹ですから剪定は難しいですね。来年はちゃんと咲くのでしょうか。

去年の4月2日に、『桜日和と柴犬』というタイトルで、今年とだいたい同じ場所で撮った桜をブログに載せたのですが、比べてみると今年はちょっと残念な状態です。雨か曇りの日が続いて、桜日和と言える日が無いまま散り始めてしまいました。
この時期の曇り空は、季語では花曇といいます。
字だけ見ると綺麗な感じがしますが、やはり花は晴天の下が一番です。平成最後の桜だから、青空の下で一斉に満開な状態を撮影したかったです。
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