今日も ぺこぺこ

ジョリ夫婦&ぺこ。3匹とも、今日も元気に「ぺこっ」てます。

映画の帰りに寄り道

2006-01-19 19:28:35 | Weblog

映画館を出たら、もう6時くらいでした。
大体いつも、クリシー広場にある大きな映画館へ行くわたしたち。普段なら
モンマルトル墓地上を通ってアベス通りへ出て、そのまますぐ家に戻るんですが、
この日はなんだかどこか寄って行きたい気分になったワタシ。
横断歩道の信号待ちの間に、夫を口説きます。
「アイリッシュ・パブに寄ってかない?」
クリシー大通りには、いくつかアイリッシュ・パブがあるんです。
アベス通りでなく、クリシー通りを通って帰宅しても距離的には同じ。
しかもその時間はちょうど「ハッピー・アワー」と呼ばれるサービスタイム。
わたしはまだコレを利用したことが無いんですが、多分、通常の料金で倍ほど
出してもらえるとか、そういうシステムだと思います。(←違うかもしれません・・・)
このハッピー・アワーは大体、夕方5時から8時くらいの間だったと思います。

でも、わたし以上に寒がりな夫。
「ビールは・・・寒いよ。ビールって気分じゃないよ~」と言い出します。
ワタシの脳内ではすでに「ギネス」とオーダーまで決まってたのに・・・(無念!)
仕方なく?予定変更!ワタシは、この冬まだ飲んでなかったヴァン・ショーを
提案し直しました。
ヴァン・ショーとは、ワインとオレンジの絞り汁を小鍋で温めた飲み物で、
シナモンと砂糖を入れて飲みます。(シナモンスティックを入れて鍋で温める
のかもしれません。作り方は人それぞれのようです。)
冬時期はカフェの定番メニューです。

ヴァン・ショーに対しては反論しない夫。
じゃあ、どこに行こうか?
帰り道上であり、そしてウチの近所にあるカフェ、「Les 2 moulins」(ドゥー・ムーラン)
に決定! ←映画「アメリ」で有名になったあのカフェです。

お店の一番奥に「禁煙席」と書かれた場所があり、そこの壁には巨大なアメリの
ポスターが。近所なのに、なかなか来る機会の無いこの店。
この店に夫と二人だけで来るのはもしかしたら2度目かも?
わたし「前に二人で来たのって、いつだったっけ?」
「えーっと・・・・・・・・ (悩)」
わたし「あっ!! 確か、もう4年以上も前よ。シャンゼリゼの映画館でアメリを
  観た後で、歩いて帰って、夜遅くにここに寄ってキール飲んだのよ。」
「そうだった、そうだった!僕が連れてきたんだった!」
かな~り昔のことなので、二人とも忘れかけてました。
2001年の夏、フランスに3ヶ月滞在予定で来たワタシを夫(当時、彼)が
「モンマルトルが舞台になってる映画があるから、行こうよ!」と半ば無理やり
わたしを映画館に誘ったのでした。そしてその帰りに、映画の舞台となった
例のカフェに連れて行ってくれて、キール(フルーツのリキュールを白ワインで
割ったもの)を飲んだのでした。夜11時くらいだったかなぁ。

そんな話をしていたら、ウェイターが注文を聞きに来ました。
「ヴァン・ショー2つ、おねがいします。」と夫。

しばらくすると、わたしたちのヴァン・ショーよりも先に、隣に日本人男性&
フランス人女性という感じの二人がやって来ました。テーブルがギューッと
寄せてあるので、その女性が通って席に着くだけの幅がありません。わたしは
自分たちのテーブルをギリギリ可能なところまで壁に押し付け、場所を広げて
通れるようにしてあげました。
「Merci !」と、彼女からの心地よい返事。

やって来たヴァン・ショーとともに、さっき観た映画の話をしていたら、横のカップル
の話し声も自然と耳に入ってきます。
わたしの隣には、女性。夫の隣には、日本人かな?といった感じの男性が
座っています。
バーは雑音が多いため、わたしの耳には(耳の向いてる方向のせいで)
わたしに対して向かい側に座ってる男性の声のほうがよく聞こえてきて、
わたしと肩が触れ合うんじゃないかってくらい真横に座ってる女性の声は
ほとんど聞こえてきませんでした。(いや、そもそも盗み聞きしようと“耳ダンボ”
にしてたワケじゃないしね・・・)
でも、時々「ヨコハマ」とかナンとか、気になる単語が男性の口から聞こえて
くるのです。あ、やっぱり日本人なのか~、と思いました。

顔を赤くしながら一生懸命話をしてる、この男性。
“彼女を口説こうと考えているのかな?” そんな考えが浮かびました。
そしてしばらくしたら、二人はわたしたちより先に去っていきました。

わたしたちも、そろそろ帰ることに。
2人で8.40ユーロだったので、夫は10ユーロ札をテーブルに置いて去ろうと
しました。でもたまたまウェイターが近くに来たのでお金を渡し、全部取って
ください、と。その際に、わたしが欲しいと言ってた「レシート」をもらって良いか
どうか、夫は尋ねました。
「もちろん。いいですよ。」との答えが。
そしてそのウェイターさんは、わたしたちがコートを着てる間に、店の写真が
印刷されたマッチ箱を持ってきて、「記念に、どうぞ」と言ってくれたんです。
わたしってば、完全に観光客に見られてしまったようですね。(笑)

上の写真が、その時のレシートとマッチ箱。

レシートの一番下に、
“Amelie vous remercie de votre visite” と書いてあります。
日本語にすると、「来てくれてありがとう。 by アメリ」ってところでしょうかね。
(コレが面白かったので、レシートが欲しかったんです。)

注:レシートって、普通もらっちゃっても構わないんですが、カフェやバーで
ウェイターに直接お金を支払うのではなく、お金をテーブルに置いて立ち去る
こともけっこうあるので(それはOKな行為)、その際に「レシートが無いと、
忙しいウェイターさんだったら困るのでは?」とワタシはいつも気になるのです。
グラスの形からしてヴァン・ショーだとわかるにしても、やっぱ・・・ね。

2ムーランを出て家へ向かって歩いている時、夫が先ほど隣のテーブルにいた
二人の話をしてきました。
「あの日本人&フランス人の横にいたフランス人カップルが、やたらキスしてて、
  それ見た日本人の男の子が“日本じゃアレはタブーなんだ”って女の子に
  説明してたよ。」と夫はそう言いながら笑ってました。
ワタシ「ん~、でも今なら、喫茶店でチューするカップルもいるかもよ。そんな
  話をしてたんだ、あの二人。ならわたしたちもチューすれば良かったかな?
  日本人だってやるんだよ~ってね。(笑)」
「でもココはフランスだから、やっぱ違うでしょ~。」
とまあ、こんなこと言いながら帰宅したんですが、実際のわたしたちはと言いますと、
日本在住の普通の日本人カップル並みにシャイなのであります。
人前でチューなんぞできるような夫ではないのです。(苦笑)
(↑ホントにキミはフランス人なのか? 謎)

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(余談)
ヴァン・ショーですが、お店によってはシナモンが横に置いてあったり、
粉末状のスパイス容器ごと一緒に出されて「お好みで入れてね」って感じ
だったりもします。店によってホントにいろいろ違うんです。
(シナモンを最初から入れてないのは、シナモン・アレルギーの人がいるから
かもしれません。)
2ムーランのヴァン・ショーは、スプーンで耐熱グラスの中を探ると短く切られた
シナモン・スティックが出てきました。(ワタシは粉シナモンは表面に浮くので
ヴァン・ショーには向かないと思っています。)
夫に「シナモン・スティックってね、飲み物に香りをつけるだけだから、洗って
乾かして数回使うことができるんだって」と話しました。そう本で読んだことが
あるんです。(←ホントにホント?誰か知ってる?)
非常に驚く夫。「マジでー?」
で、ここでワタシはあることに気が付きました・・・。
「ねぇねぇ、このシナモン・スティック、もしかしたら洗って何度も使ってるかもよ。」
夫は「まさか~」という反応でしたが、ここはフランス。ありえなくも無いと思うワタシ。
(笑)


Je vous trouve tres beau

2006-01-19 18:23:51 | Weblog

この間の日曜日に、夫と映画を観てきました。
題名は「Je vous trouve tres beau」(←アクサン省略)です。
日本語訳すると “あなたはとてもハンサムですね” とでもなるかな?
これは映画中に何度か登場するセリフなのですが、しかし、映画の中核を成す
言葉(内容)でもあるんです。

映画の舞台はフランスのとある田舎町。
主人公の中年農夫(エメー)は妻との淡々とした暮らしの中、妻の存在を重視して
などいなかったが、妻の突然の事故死をきっかけに、妻の存在がいかに重要
であったのか気づくことに。それは愛からではなく、単に「オレ1人でどうやって
農業&家事etc.をこなしていくんだ!!」ということでした。
とにかく、働き手が必要だ。特に家のことをやってくれる人がいなくては。
(今まで、洗濯も料理もしたことが無かったエメーなのです。)
困った挙句、仕方なしに結婚相手を紹介してくれる会社へ出向くことに。
そこは貧しいルーマニア女性を斡旋する業者でした。
「どんなタイプの女性がお好みですか?ブロンド女性?それとも黒髪?」
との質問にエメーは答えます。「そりゃ、毛は生えてるほうがいいが・・・。」
とにかく「妻」というよりも「働き手としての家族、伴侶」を求めるエメーなのです。

この斡旋業者の女社長が、エメーを連れて飛行機で一路ルーマニアへ。そこの
ホテルにてお見合いが行われます。沢山の女性がホテルに集まり、1人ずつ
エメーと面会。皆、セクシーな服を着て派手なお化粧をしています。
そしてエメーの前でルーマニア語交じりのフランス語で自己紹介しながら、
「Je vous trouve tres beau」と皆が皆、必ず最後に言うのです。
“アナタ、トッテモハンサムデスネー。”と。(←社長の教えた殺し文句?笑)
「なんで皆同じこと言うんだ!こんな中年男(←お世辞にもハンサムとは言えない)
のどこがハンサムなんだ!あんなこと無理に言わせなくてもいいんだ!」と、
終いには怒り出すエメー。
「きっと・・・ルーマニア人の好みなのよ、きっと。」とおろおろする女社長。

お見合いを終えた仲間に、同じくお見合い目的でそこへ来ていた貧しいルーマニア人
のエレナは聞きます。「どんな人だった?」
仲間はそっけなく答えます。「んー。チビでハゲ。農業やってるんだって~。」
それを聞いたエレナは、自分の派手な服装を改めて見直し、近くにあるバーに
座ってた若者に「ちょっとだけ、そのセーター貸してくんない?」と頼みました。
そしてきれいにジェルをつけてた髪の毛を掻き乱してぼさぼさに・・・。

エメーの最後のお見合い相手が、地味なセーターを着て登場したエレナでした。
「わたし、動物が好きなの。」と言うエレナ。
「それは良かったわ~、この方、農場を持っておられるのよ!」と女社長。
「動物ねぇ・・・沢山いるよ。」“その世話で大変なんだよ!”と言いたげな感じで
ぶっきらぼうに答えるエメー。
「沢山!? うさぎも???」と目を輝かせて聞く、エレナ。

こうしてエレナはエメーに連れられてフランスへ行くことに。
しかし、エレナには実は子どもがいたのです・・・小さな女の子。
彼女は家族を支えるために、涙を飲んで、フランスへ行くのです。
「アンタの夢のバレエ教室、いつか開けるようにするために送金するからね」と
泣きながら妹に自分の娘を託して。

(全部話すと面白くないので、解説はここでオワリね。)
   あ、でもコレだけちょっと書かせて・・・(笑)

フランスに来てエメーの家で一緒に暮し始めることになったエレナ。
必要なものを買うように言われてエメーから300ユーロもらったのですが、
すぐに全部使い果たしてエメーをビックリさせます。
でも彼女が買ったもののうちの一つがコレ、クチナシの花の鉢植えでした。

これをエメーに渡しながら、
「gardemoi っていうお花なのよ、知ってる?」とエレナ。
(これと同音の gardes-moi という語は“わたしを手放さないで”という意味に
とらえられます。)
花なんて無価値だと思っているエメーには、それは無駄遣いとしか思えず、
半ば憤慨しながらも「それは gardemoi じゃなくって gardenia(クチナシ)だよ・・・」
と答えるのでした。(ここで gardenia? gardenia? と首をかしげるエレナ。笑)
エレナはエメーに自分の必死な状況を伝えたかったのでしょうが、この時は
まだエメーはそれに気が付かないでいるのでした。
ギリギリのところでがんばっているエレナ、しかしいつも笑顔を絶やさないのです。


この映画、フランスの農家の現状とルーマニア移民の現状を描いています。
エメーとエレナの心の距離がだんだんと近づいていく、感動的なお話でもあり、
またそれとは全く違うところで全く関係なくコメディーが繰り広げられていて、
とってもフランス映画らしい魅力を持っている映画です。
この映画を見る女性は、エレナのまっすぐな心にきっと心を打たれるはず。
チャンスがある人はぜひ観てみてね。オススメです。
(日本でも、いつか上映される日がくると思うから。単館上映かもしれないけど・・・)


紺碧の瞳

2006-01-18 23:52:51 | Weblog

義妹のダンナが双子ちゃんの写真を送ってくれました。
その中に・・・目が開いてる写真がっ!!!

というワケで・・・載せちゃいます♪
(義妹たちには許可を得てないんですが・・・汗)

上の写真がルイーズちゃんです。
写真が小さくてわかりづらいかもしれませんが、両親の目は茶色系なのに、
この子の目は茶色というよりは青みがかった色でしょ?

こっちはジャンヌちゃんです。↓

(おっぱいに吸い付いてる写真だったので、大幅にカットしています。)
これもまた、青っぽいのがわかりますよね?

深い深い青色の、サファイアのような色なんです。
これ、いつまで続くんだろうか・・・。
(目の色がだんだんと変わっていく段階を毎日見てみたいと思うんだけどね。)


夢バトン

2006-01-18 02:33:43 | Weblog

フランスでの暮らし、フェレットのことなどを書かれたブログをお持ちのサラさんから、
「夢バトン」をいただきました~。
早速答えてみたいと思います。

夢バトン♪

Q1 小さい頃何になりたかった?

えっと・・・(小さい頃って小学生くらいのことでしょうか?)
「大人になったら働かなければならない」という概念を持たない子だったので(というか
そういう現実の怖さを知らないアホな子だった?)、小学校の中学年くらいに皆が
「わたし、看護婦さんになりたいの~」とか「保母さんになりたいの~」とか「お嫁さんに
なりたいの~」なんて言ってる友達を冷静にナナメに見ながらも、ハテ、自分は一体何に
なりたいんだ?と改めて考えてみたところ・・・特に浮かばなかったのです。
そんなワタシにとって、学校で時々やらされた「将来の夢」について書かされる作文は
つらかったです。苦痛でした。それでテキトーに、自分の夢でも何でも無いのに「将来は、
父のような立派な教師になりたいです」なんてウソばっかり書いて先生に褒められたり
しました(汗)
というワケで・・・・つまり・・・・ 特にコレという職業は無いんです。
しかし、全く無いというわけでもありませんでした。
実は、母が持っていたドガなどの画集を見ながら「好きな絵を描いて暮していける、
“絵描きさん”っていいな~」と思っていました。
でもコレって職業かなぁ? (わたしの意味する“絵描きさん”は、別段有名な画家という
わけではなく、単に絵を描いてる人という意味だったので。)

Q2 その夢は叶いましたか?

ハイ。
実は、夢が小さかっただけに、叶いましたっ(嬉)
心の広い夫のおかげで、ワタクシは専業主婦をさせてもらっています。
なので、自分が何かを作りたい!絵を描きたい!と思えばそれができる環境にあります。
(親に高いお金を出して美大に行かせてもらったことも感謝しています。)

Q3 現在の夢は?

太陽がさんさんと当たるお庭を持つこと。
ウチには中庭があるのですが、日陰なので・・・・・・
悲しいかな、雑草もなかなか生えてきません。
田舎へ引っ越したいですが、田舎には夫の職が無いので無理です。
は~、まさに夢です。

Q4 宝くじで3億円当たったら?

クジ運の悪いワタシにそんなことはまず絶対に起らないと思いますが(笑)、
もしも、万が一、と仮定して考えてお話しますとですね・・・

1億円は夫婦で山分け。(当然ですねぇ~ 笑)
あとの2億円のうち、1億円はお互いの家族へ分ける。(日ごろの感謝を込めて)
そして残った1億円は・・・ ユニセフかどっかへ寄付かな。(←偽善者ではありませぬ!)

土地成金でアタマおかしくなった人が実家の市内にいました。
空港を作るため、その人の持ってた山が高値で買われたらしいのです。(それ以前は
二束三文の土地だったそうです。)
イッキに大金持ちとなってしまったその人は何をしていたかと言うと、なんと、スカートはいて
地元のスーパーの入り口あたりでウロウロしてました。いい年したオッサンですよ。妻には
逃げられたらしい、と聞きました。
分相応でないお金は人をダメにする、そう思いました。
なので、夫婦二人で1億円で十分すぎるとワタシは思うのです。
それ以上持ってしまうと、働く気すら起きないではないですか。精神衛生上良くないですよね。
それよりも、どなたかに有効活用してもらうのがイイんじゃないかと思うのです。
(まずしい田舎村に学校を作ってもらうとかね。)

Q5 あなたにとって、夢のような世界とは?

心地よい香りに満たされた、森やお花畑とかそういう感じかな~。
心からリラックスできるところ、のことですね。

Q6 昨晩見た夢は?

夢の中でワタシは、「新宿駅」を探していました。(笑)←ナゼに?

最初はぼーっと路上に座って暇つぶしをしてたんですが、突然、あることに気が付いたんです。
「コンサートもう始まる時間じゃないの?」
コンサート開始まで何時間もありすぎたので暇つぶしをしてたハズなのに、なぜかビルの
電光掲示板の時計で確認すると、もう開場時間を過ぎていました。
焦りながらも、コンサート会場は新宿駅の近くのはずだから・・・と、地図も見ずに走り
はじめました。(言っときますが、場所はメチャクチャ。それにワタシは東京の地理には
詳しくなんて無いのです・・・)
アタマの中で「新宿駅はどこ?」と自問自答しながらも、どこかで冷静に「東京駅がこのへん
だったから・・・」と東京の電車の地図を思い出そうとしてるワタシ。でも走るワタシの
目の前には、とうてい東京とは思えぬ景色が広がっているのですが・・・。
しかし偶然にも(?)線路発見!
そして歩き続けて、ようやく駅を発見!
でもここは何駅?何線なんだ? 全くわかりません。
でも駅のホームで電車を待ちながら、ドキドキしつつも行き先案内の掲示板など見て
「東京駅行き」を探すワタシ。(←新宿ではなかったのか?謎)
すると、電車がやってきました。
外国の新幹線みたいな感じのデザインです。電車の運転手さんは金髪の外国人。
窓から顔を出し、こっちに向かって手を振ってます。(←一体ナニモノ???)
駅でその電車を待っていたのは、わたしだけではなく、他にも女の子が6人くらいいました。
コンサートへ行くぞ!という服装に見えました。もしかして、わたしと同じ場所へ行くのかな?
そう思いながらも電車がホームで止まるのを待っていたら、なんと、電車が行き過ぎる
ではありませんか!(←じゃあなんでワタシに手を振ったのだ!)
他の女の子たちと一緒になって「キャー! 待ってぇ~!」と必死で電車に戻ってもらうべく
追いかけます。ホームを走る、数名の女。
するとなんと、電車がバックしてきたのです・・・ (←お山の電車じゃあるまいに・・・)
なんとか無事にその電車に乗り込めそうだな、とは思いつつも、「ホントにこの電車で
いいのだろうか???」と、かな~り不安なワタシでした。

そんな夢を見ました。
わたしの夢っていつもこんな感じです。総天然色映像です。
ワタシに「昨日どんな夢みた?」と聞く人は、30分のTVドラマの概要を全部聞くくらいの
覚悟が必要ですぞ。(笑)
で、夢の内容なんですが・・・
こういうわけのわからん夢を見ると、「夢診断」なんていう本ではどのページを見て良いのか
サッパリわからないのです。フロイト氏なら、どう判断してくれるのでしょうか?

Q7 この夢の話をきいてみたいと思う5人は?

う~~~ん・・・
実はすでに受け取られている可能性が高い人ばかりなので・・・(汗)
でも、めげずに書いちゃいますね。

「フランスって」でいつも鋭い視点と広い視野を持ってフランスの今について書かれている、ふらんすさん
「ダーリンはフランス人」でわたしのブログ世界を広げてくださった、フランさんマカロンさんのお二人。
「海風に乗せて -田舎サラリーマンの徒然日記-」でいつもいろんなことを教えてくださるバイアリー・タークさん。
ステキな写真とステキなお話で、わたしを異国へ誘ってくれる、「イスクラ」iskraさん。(←実は彼女、わたしの文通友達なのです。)
そして前回バトン渡したけど不発に終わった(?笑)「hime*goyomi」や(姫)さん。(バトンのやり方、わかってるかなぁ?汗)

どうぞ皆様、もしもまだ「夢バトン」をお受け取りになっておらず、書いてみようかな~と
お思いでしたら、お時間のある時にぜひよろしくお願いいたします。
(尚、記事にしていただいた際にはその旨連絡いただけると嬉しいです。ぜひぜひ
読ませていただきたいので。)
皆様よろしくお願いしま~す。


編み物

2006-01-17 21:13:59 | Weblog

クリスマス帰省中に、義母に「かぎ針編み」を少し教えてもらいました。

編み物は小~中学生の頃にけっこうがんばってやっていたんですが、ほとんど棒針編み
ばかりだったので、かぎ針編みのことは本当に、すっかり忘れていました。
生まれて初めて習った編み物は、かぎ針編みだったのに。(←母が教えてくれました。)
小学校の中学年くらいだったかな。くるくる手首を回しながら母がかぎ針で編み物をする
様子がとても面白くて、少し教えてもらったんです。
でもその後で、一緒に住んでいた祖母(父の母)が棒針編みをしている姿を見て、
キョーレツな印象を受けたのです。
これは・・・まるでマシーンのようだ!
祖母は、チャッチャッチャッチャッと機械的に素早く編み上げ、しかも早いだけでなくとても
きれいに編んでいたのです。それを見て感動したわたしは早速祖母に基礎を教えてもらい、
後は自分で本を買って独学で編み物を開始しました。当時10歳前後だったと思います。

それから20年以上経った今、再び編み針を持つワタシ。

クリスマス帰省時に、義母が古い編み針と古い毛糸をくれました。
スーパーで「簡単な かぎ針編み」という本も買いました。
本とにらめっこしながら、早速練習開始!

本は当然ながら仏語。編み物用語さえよくわかりません。
何度もじっくり読み、実践し、確かめ、そしてようやく理解。
基礎パターンをいくつか頭に叩き込み、なんとかかぎ針編みの理論がわかるようになって
きました。
(ここで、ちゃんと本を見ながら続けないのがワタシの悪い癖です・・・)
「もう出来るようになったんだから、後は実戦あるのみ!」
そう、いきなり前線へ出発してしまうのです・・・

型も、作り方も見ず、とにかく編み始めました。義母がくれた古い毛糸を使って。
「とりあえず、丸く編みゃ、帽子になるだろう」←なんていい加減な・・・
「編み目を増やしていけば広がるし、減らしていけば狭まるし、ね。」←そりゃそうだけど・・・
ヘンになったら少しほどいてまた編み直し・・・と続けて、ようやく編み上げました。
それが上の写真です。
最終目的は「赤ちゃん用の帽子」を作ることなんですが、これは試験的に編んだもの
なので完全なる完成品ではないです。単なる実験です。
毛糸が、極端に太いの(灰色の毛糸)と極端に細いの(白の)だったので、極端に太い毛糸
の方はちょっと苦労しました。あんまり伸縮しないし・・・。
でもとりあえず、なんとなく帽子の形になったでしょ?
(型が無くてもここまで出来ちゃうのが、かぎ針編みのスゴさだと思う。)

横から見たら、こんな感じです。↓

(ペットボトルの上に乗せて撮影しました。)


最後の仕上げに、白くて細い毛糸でレースのように編み上げました。
それは良いのですが・・・
どうも全体的な形が気にくわない。
あまりに毛糸が太すぎて、編み目を減らした場所がガックンと角ばってしまったのです。
こういう場合、本来的にはどうするんだろう?
(さてさて、ここで型やら作り方解説やら見本が必要となってきます。)

わたしの買った本には、帽子の作り方は載っていません。

はぁっ・・・

(ベビー服用の型の載ってる本を買うべきなのか・・・?)


戦艦「大和」

2006-01-16 23:54:46 | Weblog

今、日本では「男たちの大和」っていう映画をやってるんですね。

わたしの母方の祖父は、その「大和」を作っていた場所、呉造船で長年働いていました。
(大和の造船には関わってませんけどねっ!)
そしてわたしの父は、その呉造船を見下ろす場所にある職場にて長年働いていました。

広島県呉市。(ひろしま けん くれ し)

父に連れられて何度か潜水艦を見に行ったことがあります。
今でも自衛隊海軍のある場所です。
海を越えて向かい側にある島には、自衛隊の高等仕官を育てる学校があります。
なので呉市内では時々、水兵さんやら軍服を着た人を見かけます。

戦艦「大和」の辿った悲しい運命。
去年の夏に帰国した際に、確かNHKの特番だったと思いますが、見ました。
艦長は、負けが見えているみじめな状態での出撃に、大和で出たくは無かった。
しかし、上層に「一億特攻のさきがけとなれ」と、その一言を言われ、黙って涙をのんだ
という話でした。

呉市には「大和ミュージアム」という博物館が作られたそうで、父はわたしと夫をそこへ連れて
行きたがっていました。しかし、去年の夏の帰国は1ヶ月近くも滞在していたというのに
なかなか時間が無くて、結局行けずじまいに・・・。
(呉市には何度か行ったのですが、今は亡き祖母や大叔父のお見舞い目的だったので。)

父は、何かをわたしに見せたかったのかな?
それとも、単なるいつもの「物好きオヤジ」かな?

去年の末、父からこのTシャツが届けられました。夫にです。
戦艦「大和」が誇らしげに描かれているTシャツ。
(コレ、夜光塗料なんですよ~)

間違った方向には考えたくないですが、しかし、「戦争」そして「特攻」という悲しさとは裏腹に、
当時の日本が全身全霊を込めて作り上げた当時世界最高の精度を誇る戦艦。
その技術者の誇りと、そして艦長の魂が、何か自分を奮い立たせてくれるような、単純な言葉で
言いあらわすとしたら「カッコイイ」という表現になるけれど、そういう気分なのです。

もっとまっすぐ、真摯に、魂を強くして生きねばならないのではないか。

昔の人たちはえらかったですね。
特攻に出る10代の若者でさえ、達筆で、ご両親に当ててとても丁寧な手紙を出していた。
それに比べると今のわたしたちって・・・


昨今とても多いイスラム過激派による自爆テロ、フランスでは「kamikaze」(仏語式発音では
“カミカーズ”)と呼ばれています。
日本の「神風特攻隊」から取った呼び方であることは明らかです。
そして、フランスではたとえばバンジージャンプで飛ぶような時に「banzai」(バンザイ!)って
言うのがけっこう普通のようです。これ、戦争当時の日本人が自決する際に「大日本帝国、万歳!」
と言って腹を切ったのが何かの形で残っているんだと思います。

そうじゃないんだ、ちがうんだ。と言ったところで、現代フランス人は何かと冗談として「バンザイ!」
って言って腹を刺すマネをしたりします。わかってもらえないのです。
(今は、日本人にだってわからないことなのかもしれない。わたしもわかってないかもしれない。)

戦争に関することを、カッコイイと言ったり、冗談にしたりしたくは無いですが、でもそこにあった
ことをまっすぐ見ることがまず先決で、それからだな、と自分なりに思います。
そのために、今上映されている「男たちの大和」はとても大事な映画かもしれません。
(わたしは観てないので内容はわかりませんが・・・)

フランスに来てから、パリの小さな劇場で高倉健主演の「ホタル」を観ました。
3年ほど前になるかな?
わたしは涙が出てどうしようもなかったんですが、その時まだ日本の戦争に関する知識の
無かった夫は、単なる昔話・悲しいお話、という程度に見て、日本の田舎の風景を満喫した
様子でした。
この時も思ったんですが、テレビで毎年夏にやってる戦争のドキュメンタリーは、どのくらい
若い人たちが観てるのだろうか?ということ。
この「ホタル」もだけど、今回の「男たちの大和」も、いろんな年齢層の人たちが
“かつての「日本」がしてきた大いなる過失”に対して目を向けたり、“かつての「日本人」のあり方”
について考えたり自分を省みたりする良いチャンスになればと思う。
わたしもこの映画、観てみたいです。


止まらない咳

2006-01-16 22:19:09 | Weblog
風邪ももうすでに治っているような状態にあるのに、何故か咳だけ止まりません。
う~~~ん・・・

金曜日にお医者へ行った時にこの咳の症状を話したら、また新たな薬を出してくれました。
それがこの写真の薬です。

小さい袋の中には白い顆粒が少しだけ入ってます。
それを少量の水に溶かして飲むんですが、水に溶かすとナゼか黄色に・・・。
さらに、味が・・・なかなかイケルのです。
不思議~。
ビタミンC系の飲み物ってウソっぽい柑橘系の味がしますが、ちょっとあんな感じで、でも酸味は全くなく、薄甘い。
日本の薬ってなんであんなに苦いんだろう?とフランスの薬を飲むたびに思うワタシ。

でも、この“おいしい薬”が必ずしも効果を発揮してくれるとは限らない。
もう2日も飲んでるけど、咳は一向に止まる気配を見せず。
きっと止まるまでにあと1週間くらいかかるんだろうな。
でもって、それってかなり“自然治癒”に近いんだろうな・・・
というのがワタシの予想です。

う~~~ん・・・(汗)


でもね、なんだかんだ言いながらも、元気ですよ~(笑)

王様になった、ぺこ

2006-01-15 22:38:51 | Weblog

フランスでは1月初旬、皆が「ギャレット・デ・ロワ」と呼ばれるパイを食べます。
(詳しく知りたい方は、「ギャレット・デ・ロワ」で検索してみてね~。)

そのパイは紙の王冠付きで売られていて、中には陶器でできた小物が隠されています。
このパイを切り分けて皆で食べ、この陶器の小物に当たった人がその場の王様(女王様)
になり、女王様(王様)を選ぶのです。
なんだか楽しいロシアン・ルーレットぽくて、しかもこの“フェーヴ”(feve)と呼ばれる
陶器の小物はいろんな形のが存在するので、コレクターもいるほど。
これが当たるとけっこう嬉しいものです。

さてさて。
ワタシがフランスに来た当初、面白がって何度も夫にせがんで買ってもらってました。
というのも、1月中はどこのパン屋さんでも買えるので、購入可能期間がやたら長いのです。
(本来ならば短期間販売のはずなのですが・・・。今や、早いお店では年末から売っています。)
しかし、このパイの中身はフランジパンと呼ばれるアーモンドペーストなのです。
こってりしてるので、沢山食べれば太ります。なので最近ワタシはそれに気が付き、
制限をしています。(笑)
でも今年はなぜか、ワタシよりも夫のほうが張り切っていた・・・

その原因は、PICARD(ピカー)と言う冷凍食品専門のスーパーです。
夫はそこで「冷凍ギャレット・デ・ロワ」を発見したのです。しかもパン屋さんで買う値段の
半分以下で買えることも。
ケチケチな夫、起動っ!(笑)

友達をウチに呼んでの「ギャレット・デ・ロワ パーティー」のために、夫はコレを2箱買いに
走りました。4人用の冷凍ギャレット2箱買っても、普通にパン屋さんで買うよりも安く
あがりました。

コレ、中身は冷凍パイ生地状態なんです。
家のオーブンで焼いて仕上げる。(焼いてあるパイの冷凍品とは違うのです。)

最初は薄くて白けた色のカチコチの塊だったのに、ほ~ら、ふっくら膨らんできました。
おいしそうでしょ?


それを、ちょっと冷ましてからお皿に載せます。
ほんわか温かいくらいで食べるのがベストなのです。

この日は女の子の友達3人を呼んでいて、彼女たちの彼氏(二人)が来るかも?どうかな?
って状態だったので、夫は2個買って来たんです。わたしたちを合わせると最低5人は
出席予定だったのでね。
でも彼氏たちは結局来られず、で。
5人で8人分を食べることに。(苦笑)

そしてなんと、今回はワタシがフェーヴに当たりましたっ
(女王様決定~ ジャジャン!)
今年は何かめでたいことでもあるかしら?

さて、ここで王様を決めねばなりませぬ。
すかさず夫が「男は1人だけだからねぇ」と言い出します。
そのまますんなり夫を王様にしたくはない、イジワルなワタシ。
すると、ワタシの同志(笑)が1人立ち上がった!
「ちがうよ~、1人じゃないよっ。ぺこだって男の子じゃない?

というワケで~、王様は~、ぺこ様に決定~! (笑)

「ナンデスカコレハ?」 by ぺこ

さて。
フェーヴとは何ぞや?とお思いの方のために。

↑コレです。

左のが「ブリオッシュ(パンの一種)」で、右が「カゴに盛られたクロワッサン」です。
わたしはクロワッサンに当たりました。
8人分のパイを5人で食べるには無理があり、結局2切れ残ったのですが、その中に
フェーヴが・・・。というワケで、ブリオッシュのフェーヴは誰に当たったというワケでもなく、
なんだか宙ぶらりんな存在感。(苦笑)

大きさ比較のため、ワタシの手のひらに乗せてみました。

こんなもんっス。   ちっこいでしょ?
だからね~、年寄りと一緒にギャレット・デ・ロワをやるとちょっと冷や汗モノなのです。
おもいっきり口に入れてガリッなんてやっちゃった日にゃぁ~・・・
(これ、陶器製ですからね。)

わたし、ギャレット・デ・ロワについて去年の記事にも書いてました。
ポワラーヌのギャレット・デ・ロワ 1
ポワラーヌのギャレット・デ・ロワ 2
フェーヴのコレクション

(あんまり大したこと書いてないけど・・・汗)


そして、王様になったぺこは・・・

寝る時も、王冠は外せません。 (笑)


脳のお散歩(4) -カレンダー (追記)-

2006-01-10 16:29:19 | Weblog

この本の冒頭にも面白いページがあります。
以下、その抜粋です。


   西暦2000年とは・・・・・・

  実際のキリストの誕生年に従えば、今の 1996年
    (キリストの実際の誕生年が紀元前4年ごろとされているため。)

  旧ローマ暦に従えば 2753年

  古代バビロニア暦に従えば 2749年

  最初のエジプト暦に従えば 6236年

  ユダヤ暦に従えば 5760年

  イスラム暦に従えば 1422年

  ペルシア暦に従えば 1378年

  コプト暦に従えば 1716年

  仏教暦に従えば 2544年

  マヤのグレートサイクルの 5119年目

  フランス革命暦に従えば 208年

  中国の暦に従えば 辰年


と本には書いてあります。
これに、さらに日本人としていくつか追加するとすれば・・・

  日本の現行の年号で言えば 平成12年

  日本の紀元である皇紀に従えば 2660年
    (皇紀は日本史の初代天皇である神武天皇の即位の年を元年として計算。)

なんてのもあります。
「西暦」はキリストの誕生年を元年として計算されましたが(実際は間違えられてたらしいけど)、
日本にも独自の「皇紀」があったんですね~。
でも皇紀っていつからいつまで使われてたんだろう・・・?
(あ・・・また謎が増えてしまった・・・)


脳のお散歩(3) -カレンダーのはじまり 失われた10日間-

2006-01-10 06:13:33 | Weblog

ガリレオの話から始まり、今度はカレンダーのお話です。

この写真の本、「暦をつくった人々」デイヴィッド・E・ダンカン著 河出書房新社 はワタシのブログに
よくコメントくださっているバイアリー・タークさんのブログで紹介されていた本で、とても面白そうだと
思ったので買ってみたのです。
この本を買った動機は単純そのものです。
「カレンダーって、誰が作ったの?」ただそれが知りたかったんです。
キリストが生まれた年から2000年以上経った今、「世紀末の恐怖」の呪縛からも開放され、
よく考えてみると「日本にも日本の暦はあったんだから・・・」という考えに辿り着く。
中国はまだ太陰暦を使っているし、中近東あたりの国になるともっと複雑らしい。
要するに、現代日本人が使っているカレンダーとは「欧州で作られたグレゴリオ暦」であり、
それを公式に採用する以前は日本も今とは違うカレンダーを使っていたはずなのです。
(いまだに平成○年とかいってるみたいにね。)
この本を読めば、「カレンダー」の生い立ちがわかると思ったの。

で、数日前からちらほらと読み始めたのですが・・・
いきなり第一章目から、えらい話題に出くわしたのです。
この本によると、1582年にグレゴリウス13世により、それまでの間違いを正して今の形
の暦に改定された
、とあります。
(それで現代のカレンダーが“グレゴリウス暦”と呼ばれているのです。)

ここで注目したいのが、1582年という年です。
これはガリレオが18歳の頃ということになります。
読んでて「エッ?」と思いました。
暦を作る、暦を修正するには、「一年」という時間を正確に計算する必要があります。そのためには
天文学の知識と数学による難解な計算が必要です。先に書いたようにガリレオはその方面の
人ですから・・・ 彼が18歳の時に「暦が改定された」ことは、彼に大きな影響を与えたと
考えてもおかしくはないと思うんです。
(ガリレオさんの登場は、ここでおしまいです。笑)

グレゴリウス13世が「それまでの暦の間違いを正した」というからには、以前の暦に何か
決定的な間違いがあったはず。それは何だったのか?
この本の第一章目には、それがドラマティックに描かれています。

このお話の主人公は、ロジャー・ベーコンという僧侶。(1240年代にはパリ大学の教授であり、
その後1250年代に司祭に。)
ダ・ヴィンチが生まれる200年も前に、ダ・ヴィンチばりの奇才を発揮していたらしいこの
ロジャー・ベーコンは、「現行の暦と比べると実際の一年は11分ほど長い」ということを発見し、
それが積み重なると125年で丸一日の誤差が生じるということをローマ教皇に知らせ、暦の
改定を求めたのです。
一年間でたったの11分・・・しかし、このわずかな時間の差が、大きな争いを生むことに。

125年で丸一日の誤差。ロジャー・ベーコンの意見が正しいとなると、250年で2日、500年で
4日のズレが生じ、1000年では8日間ものズレとなります。
(こうして考えると、けっこうなズレですよね。)
わたしたち、信仰心などあまり無い現代日本人にとってはそれでも無関心でいられるかもしれ
ませんが、当時のヨーロッパの人々は、全ての中心にキリスト教がありました。そして宗教行事
のための日取りを決めるのに暦は欠かせないものだったのです。
たとえばキリストの復活を祝う復活祭。この祝日は固定しておらず、毎年春分の日を基点として
決められるのです。(春分後の最初の満月のあとの日曜日が復活祭の日。)
ロジャー・ベーコンの時代の暦では、春分の日は3月21日と固定されていたそうです。
しかしそれでは、125年後には丸一日のズレが生じてしまうことに・・・。
熱心に信仰している人たちにとっては、正確な日に正確に行事を執り行うことが大事であり、
それを「間違った日に祝っている」などと指摘されては、心底震え上がったことでしょう。
(地動説を躍起になってもみ消そうとした教会、ここでは必死に聖なる行事の日を守ろうと
しているってわけですね。)
ロジャー・ベーコンは春分・秋分、夏至・冬至の決め方について、このように鋭く指摘したのです。
そして彼の解決策は、「125年ごとに丸一日を暦から取り除くこと」だったそうです。

しかし、この彼の意見は当時は(コペルニクスやガリレオ同様に)異端視されてしまい、結局
無視されてしまったそうです。
当時、まだ望遠鏡すら発明されていなかったんだとか。それなのに、よくも暦のズレを計算でき
たものだと感心します。

そして、時は3世紀も過ぎて、コペルニクスの時代に。
暦の誤りはロジャー・ベーコンより1000年も前からいろんな学者が指摘していたらしいの
ですが、教会に楯突くことは許されなかったので、毎回ガリレオなどと同じ状態で黙殺されて
いたのです。しかし、1500年代には公然と学者が暦の修正を求めるまでに世の中は変化
したのでした。
1543年にコペルニクスが著した「天球の回転について」という著書の中で、彼は地動説と
同時にこの暦の誤りについても指摘しているそうです。

グレゴリウス13世は1582年2月に勅書を発し、暦を改定することに。
それにより、1582年10月5日から14日までの10日間が、事実上失われることになった。
(つまり1582年10月4日の翌日が10月11日となった、ということだと思います。)
そしてそれはグレゴリウス暦と呼ばれ、1584年までの間にヨーロッパのカトリック国の大半が
この新しい暦を受け入れたそうです。
イギリスはこれより200年も経ってからこの暦を受け入れ、日本は300年も経ってからの受け入れ。
中国に至っては、なんと1949年にようやく受け入れたのだそうです。

カトリック教会の勢力もさることながら、コペルニクスやガリレオの時代にこのような改革が
行われていただなんてね。ビックリでしょ?

ちなみに、春分・秋分などは宗教行事を抜きにしても、たとえば農業なんかにも関わってくる
ので大事ですよね。それに、暦のズレが3ヶ月にもなってくれば・・・8月が「春」ってことに!
(そういう風にベーコンは指摘してました。)

ベーコン、そしてガリレオ、ニュートンときて、現代の優れた天文学により、今ではもっともっと
正確にズレが計算されているようです。
上で書いた「およそ11分の誤差、125年で丸一日の誤差」というのは、望遠鏡のなかった
ベーコンの時代の話です。正確な誤差などについては、この本を読むなり、自分で調べるなり
してみてね~。


ちなみに、この本の巻末には「時の年表」と題された年表が載っています。
暦の制作、その当時の出来事、一年という時間を計算した人たちと彼らの算出した時間の長さ
などが書かれています。


尚、暦の改定という大きな改革は、ロジャー・ベーコン&グレゴリウス13世以前にも世界の
あちこちで行われているので、今回書いたこの内容は歴史のごくほんの一部です。
他にももっといろんな「時間」の改革が・・・なされているんですねぇ~。

------------------------
<補足>
本文中のロジャー・ベーコンの名前の部分に、ウィキペディアで調べた彼の項目をリンクしました。
ウィキペディアとは、インターネット上で自由に使える百科事典で、利用者が新しい項目を記入
もしくはすでにある項目を再編集できるというものなので、不特定多数の人の手から成っている
可能性があるので信頼性という意味ではどうとらえたら良いのかわからないんですが・・・
およその事を知るのにはとても便利なサイトです。
今回、ロジャー・ベーコンについて資料が手元に無いのでココで調べてみたところ、面白いこと
が沢山書いてあったのでリンクしてみました。


脳のお散歩(2) -ガリレオ・ガリレイ その人とその時代-

2006-01-10 00:44:28 | Weblog

ガリレオはこうして裁判にかけられたのですが、ローマ教皇と親交のあつかった彼は、裁判直前に
教皇から「自分の命を落としてまで、自分の意見を通すことはない」と諭されており、裁判当日には
自分の意見を封じることで命は取り留めたのでした。

その代わり、ガリレオは「祈りを捧げる(←間違ってるかも)」という刑罰を受けることとなり、
修道院(←間違ってるかも)へ入って余生を過ごすことになりました。
観測や実験に必要なものは教皇の計らいによって全て与えてもらえました。しかし、自分の
意見を公表してはならない、と言われていました。
こうしてガリレオは“真実”を説くチャンスを奪われ、1人きりの研究生活でその生涯を終えた
のでした。(1642年没)

ガリレオは裁判にかけられる以前、1609年、天体望遠鏡を発明していました。
(それまでにも望遠鏡は存在していましたが、精度が非常に劣っていたんだと思います。)
そしてガリレオが死んだ年に生まれたニュートンが、そのガリレオの天体望遠鏡の精度を上げ、
万有引力の法則を発見し、光の構成も発見したのでした。
(この辺りで急速に物理学が進んだワケですね。)


ところで、映画を観てた間中気になっていたことがあります。
「ガリレオ・ガリレイってなんだか冗談みたいな名前だけど、一体どっちが苗字なの?」
ガリレイが苗字だとして、なんでガリレオって名前をつけたんでしょうね?
(まるで漫才コンビの命名みたい。)
ちなみにこのガリレオ・ガリレイさん、日本語では「ガリレオ」って言われてますよねぇ。
てことは、ガリレオが苗字?って思ってたんですが、ガリレイが苗字のような気がします。
フランス語で彼の名は「GALILEE(ガリレー)」と呼ばれてます。というワケで、よけいでも
「ガリレイ」が苗字じゃないの?って思ったんですが。
こちらのサイトの冒頭部分の解説にて、その謎が解けます。

もう一つ、映画を観ていた間にとても気になる発言がありました。
ガリレオが司教たちの尋問を受けていた際、「君は女性と一緒に暮らして、子どもも持っているね」
と責められていたのです。
ガリレオは教壇に立つ身でしたが、当時の「教授、先生」と言われる立場の人は結婚してはなら
ないという決まりがあったらしいのです。
しかしガリレオは掟を破って女性と同棲し、子どもを作っていた、ということです。
ガリレオの伴侶は「正式な妻」としての立場は得られておらず、その上ガリレオは研究に没頭
していたので、映画の中ではキレてガリレオに文句の言葉を投げつけていました。

日本もそうだったんじゃないかと思うんですが、昔々のヨーロッパでは「教会、修道院」が学問の場
であり、教会の中で学問が行われていたので、つまり、神父さんが結婚が許されていないのと
同じような理由で教授も結婚が許されていなかったのではないかと思うのです。
(これについてはちゃんと調べてみる必要があるので、保留ね。)

教会の教え(天動説)に反する意見(地動説)を説いていたガリレオにとって、いくら「自分は信仰心
あついキリスト教徒です」と言ったところでかなり立場は悪く、その上さらに規則違反をして同棲して
いたともなると・・・ぐうの音も出ないですね。


ガリレオの映画を観た後で、ガリレオとコペルニクスとソクラテスに関してとても気になったので、
例の「フランスの子供用百科事典」で調べてみました。

  ソクラテス(前470-399) ギリシャ人
  コペルニクス(1473-1543) ポーランド人 ←「地動説を発表」
  ガリレオ(1564-1642) イタリア人 ←「コペルニクスの説を擁護。天体望遠鏡を発明」
  ニュートン(1642-1727) イギリス人 ←「ガリレオの望遠鏡の精度を上げる」

こういう感じです。
コペルニクスからニュートンまでの間、彼らの人生が重なっていたわけでは全く無いのですが、
(惜しくもズレているのですが、)順調に力学、物理学、天文学などのあらゆる学問が進んで
いっているのが素晴らしいです。

ここでちょっと気になったのが、彼らの国籍と言語。
コペルニクスは「地動説」をポーランド語で説いていたのでしょうか。
そしてガリレオはそれを読んだはずですが、一体何語で読んだのでしょうか。
(イタリア語に翻訳されていたのか?それとも何か他の言語?)
当時の言語がどんなものだったか、調べる必要性がありますねぇ。(欧州の共通語として
ラテン語だったかもしれないし・・・謎)

そして、この学問の飛躍的な進歩に一役買っていたのが「印刷機の発明」と思われます。
ドイツ人のグーテンベルク(1379-1400)の印刷機の発明により、「活字による印刷」が可能となり、
聖書をはじめあらゆる書物の複製を大量に作ることが可能になったのです。
(それ以前は本は手書きで作られる超高級品で、オリジナルの1冊しかないものを人の手で
書き写して複製を作っていたのでした。)
コペルニクスが「地動説」を発表した際、それはすぐさま印刷され、イタリアにも届いたのでしょう。
そしてさまざまな言語にも訳されたと思います。


世の中のこと全てを知ろうとして「学問」していた昔のギリシャ人哲学者たち。
その「学問」が世代や国を越えて続き、さまざまな分野に分かれて詳しく研究されるようになった。
「学問」がいろいろな「道具・機材」を産み、そしてまた「学問」が進む。

ガリレオを調べはじめたら、その前後関係からいろいろなことが見えてきたんです。
ガリレオが生まれる半世紀ほど前に、すでにマゼランが世界一周していました。
ガリレオの没後半世紀以上経ってから、ファーレンハイトが水銀温度計を発明した。
こうして眺めてみると、ガリレオの時代、世の中はまだ「不確かな波の中」にあったのだという
ことが鳥瞰できます。

次は、もっと興味深い内容を書きますね~。

---------------------------------------
<蛇足>
前回も今回も同じく、わたしが手元にある本などを使って調べたことを中心にまとめて書いてます。
なのでモトが間違った情報であったとしたら、ここに書いてあることも間違ってる可能性があります。
みんなも、もし気になったらそれぞれに調べてみてね。けっこう面白いよ。


脳のお散歩(1) - ガリレオ・ガリレイという人 実験編-

2006-01-09 23:01:51 | Weblog

風邪のせいで、しばらくネットから遠ざかっていましたが、ようやく復活してきました。
というワケで、ちょっとシリーズで書いてみます。
題して「脳のお散歩」です。
どこまで続くかわからないけど、歴史という名のセーターから飛び出ていた一本の糸を引っ張ると、
するするといろんな色の糸がほどけて出てきたので、思いつくままに書いてみます。
(こんな話は頭が痛くなるぞ!というお友達は、テキトーに飛ばしといてね。笑)


最近こっちのテレビで観た映画(ドラマ?)で「ガリレイ」というのがありました。
あの、ガリレオ・ガリレイのお話です。
もちろん仏語で放送されるので、力学や物理の用語満載であろうこの映画は、観る前から
「難しそうだなぁ~」と思っていました。なので、“映画を観ながら夫の白髪を切る”ことを交換条件
として、普段ならこんな退屈な時代モノの映画は観ない夫に解説者役をやってもらうことに。
(何が起こっているのかわからない部分を、簡単な言葉で説明してもらうのです。)
というワケで、わたしの目は夫の髪の毛に釘付け、しかし耳だけは映画を追う、という状態で
ガリレオのお話を観て(聞いて)いました。(苦笑)

これはガリレオの晩年を描いた映画で、主に彼が裁判にかけられているシーンを綴っていました。
ガリレオ(1564-1642)が裁判にかけられた理由は、「地動説(太陽のまわりを地球がまわっている)」
というコペルニクス(1473-1543)の案を、天体観測によって証明し、それを主張していたからです。
当時のヨーロッパはキリスト教(カトリック)に支配されていたので、「天動説(地球のまわりを太陽が
まわっている)」が当然のように教えられ、受け入れられていました。その理由は“神が最初に
土の塊を世界の中心に投げ、それが大地となったから”です。神の存在、そして聖書を全てとする
カトリックの教会にとって「地動説が受け容れられること」=「神の存在の否定」=「教会存続の
脅威」であったわけなんです。

しかし、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは、実は熱心なカトリック信者だったのです。
「わたしは何度も巡礼の旅をしたほどの熱心な信者なのです。神の領域を侵そうとしているの
ではないのです。」と真剣に訴えるガリレオ。

ガリレオがどのようにして「地球が太陽のまわりを回っている」と証明したのか。
実際に判決を下すまでにかけられた、司教などによる数度の尋問では、ガリレオはまるで
力学の講義でもするかのように彼らを教え諭していました。

「地球が東西方向にまわっているという“地球の自転”の意見に反対である。」
と答えた学者がいた。
彼はこの反論を出すために実験をしていた。ある点を中心にし、東と西とへ向けて大砲の玉を
撃ったのです。
もし地球が自転しているのであれば、玉の滞空時間の間にも地球は回っているはずだから、
地球の自転方向の反対方向へ向けて撃った球は飛距離がより長いはずである。彼はそう
考えたのです。が、しかし、結果はどちらも同じ距離であった。
そして彼は、「地球は回ってなどいない」と言ったのです。

この反論意見に答える代わりにガリレオは、
「浜辺の石を一つ取り、それを進む船の上から放り投げてみたとして、どこに落ちると思われますか?」
と逆に司教たちに質問した。司教のうちの1人は「石が空中に放り投げられている間も船は進むの
だから、石は船の後ろ、すなわち水の中に落ちるであろう。」と答えた。
それをガリレオはこう正した。
「石は、2つの力の影響を受けている。1つは“放り投げられた力”、もう1つは“船が進む力”
である。従って、石は船とともに同じスピードで進みながら落ちるので、放り投げた場所とほぼ
同じ位置に石は落下するのです。」
(大砲の玉が東西同じ距離を飛んだことも、この考え方でいくと納得できます。)

教会側は、躍起になって反論を出そうとした。
そして話はソクラテス(前470-399)にまで遡ってきた。
「ソクラテスは、栗の木の葉は栗の実よりも軽いので、同時に落としても栗の実よりも速く地面に
落ちると言ったが、これに対して君は反対意見だと聞いたが、説明してもらいたい。」
これに対しても、ガリレオは的確な説明と実験による証明をしてみせた。
まず、彼は砂の詰まった玉と、それとほぼ同じ大きさの“紙をまるめた玉”を用意し、司教たちに
聞いた。「この2つを同時に落下させると、どちらが先に床に着くと思いますか?」
司教たちは口々に答えた。「砂の玉に決まっているだろう。」
しかし、ガリレオが落としたその2つの玉は、同時に床に着いたのでした。

ソクラテスは世の中の仕組みを考える上で、力学の基礎、そして「引力」の存在を考えていたけど、
しかし「空気抵抗」という所までは考えが及ばなかったのです。
(ソクラテスは、物質の落下速度は重量に比例する、と言った。)
その後ソクラテスの案からいろんな学者が研究を重ね、ついに「空気抵抗」を発見した。
物が落下する際、そこに空気が存在する限り、必ず空気からの抵抗を受けることになる。無色透明
の空気といえども、物質ですからね。物質である限りは質量(=かさ)があるのです。その空気
の抵抗力は、スピードが速ければ速いほど強いものとなる。
空気抵抗を念頭に置くと、物が落下するスピードは重量に比例する、とは言えなくなってくる。

ここでちょっと一息入れて、みんなも簡単な実験してみない?

   ティッシュペーパーを一枚出して、床に落としてみましょう。
   ぺらりと広げた状態で落とすと、ふわりとゆっくり落ちますね。
   では、それを拾い上げて、ギュッと丸めて落としてみましょう。
   あれ?さっきよりもずっと速く落ちますねぇ。

空気抵抗とはつまり、そういうことなんです。
同じ一枚のティッシュペーパーなんだから、重さ(重量)は全く同じはず。
しかし、形状が変わることによって、空気抵抗の受け方が異なるので、より抵抗を受けやすい
平面形である状態のほうが、空気という物質に“押されて”遅く落ちるのです。
(完全に空気の無い状態だと想定すると、この2つは同じ速度で落下・着地することになりますね。)

このことを念頭に置いて、再びガリレオの「砂の玉と紙の玉」の実験に戻ります。
どちらの玉も質量(=かさ)は同じ。違うのは重量(=重さ)。
重い砂の玉はより速く落ちるけれど、同時により沢山の、すなわちより強い空気抵抗力を受ける
ので、結果として、プラス・マイナスで同時に着地となるのです。

これも自宅で簡単に実験できますよ。

   同じサイズの容器(マッチ箱など)を用意します。
   片方は何も入れず。もう片方には何か重いものを入れておきます。
   それを同時に床に落とします。
   (わたしは細長く固めたティッシュと乾電池で実験しましたが、同時に落ちました。)

こうしてガリレオは次々に実験と証明をして見せたのですが、教会側(司教たち)は文句のように
くだらない反論を続け、常に「神の存在」を脅し文句のようにガリレオに向けて言い放つばかりで、
実際には具体的な反対実験や反論をするだけの知識は無かったのです。

そしてガリレオは裁判にかけられ、判決を言い渡されました・・・
(つづく)
------------------------------------------

<蛇足>
この映画を観た後、実家の父(=物理の高校教員)に電話した際に、ガリレオの実験について
話をしてみました。すると、夫の解説でも追いつかなかった部分を次々と見事に補足説明して
くれました。算数から物理まで、とにかくこのテの分野が大のニガテなワタシでもなんとか
ガリレオの実験について行けてるのは、実は父の解説のおかげなのです。
(父よ、ありがとう~)


風邪、その後

2006-01-09 21:56:42 | Weblog
木曜日の夜から抗生物質を飲み始め、お医者さまの予言どおり、週末の間にかなり良くなりました。
後は、この手切れの悪い「咳」と完全に縁が切れるのを待つのみです。
心配してくださったみなさん、ありがとうございます。

ブログのほうに書きたいことが沢山溜まってしまっているんだけれど、これから精力的に更新、できるかなぁ~?

かかりつけのお医者さん

2006-01-06 16:19:13 | Weblog

風邪があまりにスッキリしないので、お医者へ行ってきました。

英語で言う「ホーム・ドクター」ってヤツで、フランスでは「かかりつけの医者」を決めるという制度が
2005年に決まったみたいで、いつも同じお医者さまの所へ通っているわたしたちも改めて
「自分のかかりつけ医」を選びました。この制度、双方が選べるそうで、医者が患者数を減らし
たい(過労なので仕事を減らしたい)という場合、「かかりつけのお医者さんになってくださ~い」
っていう患者さんの意向を医者が断ることができるそうなのです。
(タチの悪い患者を無視することができるようになる、とも言えますな・・・。)

前置きはこれくらいにして。
わたしの“公的に認められた”かかりつけ医のところへ行ってきました。
このお医者さん、わたしがフランスに来てからずーっとお世話になってるジェネラリスト(一般医)
なのですが、西洋医学だけに頼ろうとしない(=薬をやたらめったら処方しない)のがウチの夫の
お気に入り。わたしも、食べ物とか生活改善で病気が軽減するのならそのほうが好きだし。それに
この先生は薬草や東洋医学にも興味があるので尚更、話してて面白いのです。

今回は「気管支炎」ということでした。(肺炎でなくてヨカッタ。)
呼吸の際に気管がゼーゼーいってるのと、治りが悪いのとでわたしもなんとなくコレを疑ってました。
なかなかスッキリ治らないこの病気、今回は、もう10日近く患ってるということでスグに抗生物質
を処方してもらい、「夫婦で治さなきゃ、病気のキャッチボールになるからね。」と言って、夫のぶんの
処方せんももらってきました。
そして昨夜から抗生物質を飲み始めたのですが・・・
なんかねぇ、昨夜から二人とも調子をよけい悪くしたような。(そんなものなのでしょうか。)
でも、先生は「土曜にはかなり良くなってるはずだから、症状が改善しないようならまた月曜に
来てくださいね。」と言ってたから、もうちょっと待ってみよう。

結局、お医者さんに出してもらった薬はというと、抗生物質と風邪シロップだけでした。
(日本だったら、粉薬に、錠剤に、そして注射か点滴の1本でも打たれそうな気がするけれど。)


さっきからずっと「お医者さん」って書いてるけどね、これには理由があるのです。
こういうドクターは大抵「病院」ではなく、「診察室」でやっているので「病院へ行く」という日本語の
表現があまりしっくり来ないから。だってねぇ、普通のアパートの一室に、パソコン1台とデスクと
診察台と血圧測定器と聴診器・・・そんな程度の設備だからね、ジェネラリスト(一般医)って。

で、このお医者さんへ昨日行った際に、待合室で待っていたら、チョット面白いことがありました。
わたしが入ってからしばらくして、一組の親子(母&男の子)が入ってきたのです。子どもはまだ
7~8歳くらいに見えたので、わたしが占領していた二人用の長椅子をゆずって、わたしは一人用
の椅子に腰掛けたのです。
「メルシー」とお母さんのほうに言われたのですが、その時に改めて姿を見て あ、東洋人だ。 と。
しかし、どこの国の人かということまではわかりませんでした。
子どもをせっつかせて上着を脱がせてる母親。そして・・・「てぶくろも、」という声が聞こえてきた
のです。あれ?日本語???
どうやら日仏家庭の親子のようでした。男の子は、その後も母親が日本語で話してる時もずっと
フランス語で答えていましたが、母親の日本語は完璧にわかっていました。
日本語が時々混ざる、仏語の会話。
それをすぐ横で聞いてるワタシ。
ワタシには全部話の内容がわかってしまうのが面白くて、つい、聞くでもなく聞いてしまいました。
そうしていると、男の子が手の中で弄んでいた5セント硬貨がころころっとわたしの方へ転がってきた
ので、わたしが拾い上げて「voila ! (ヴォワラ)」(ハイッ!)と男の子に手渡したら、「merci !」と元気の
良い、でもちょっと照れた口調での返事がうつむき加減の顔から返ってきました。
そういう年頃なんでしょうね。

このお医者さんの所では、予約して行ってるのに散々待たされる(普通20分くらいは)ので、
いつもなら退屈しちゃうんだけど、今回はこのかわいい親子のおかげで退屈することなく待つこと
ができました。

そしてお医者さんとの話が始まると、これはこれでまた、楽しいのです。
今回も、薬の話(ホメオパシーの話)から植物、東洋医学の話になっていき、もっとゆっくり時間が
取れたらもっと突っ込んだ所を話したいのにな~と思いつつ。でも後に患者さんが控えているので
ワタシばかりが占領するわけにもいかず。
お医者さんの言ってた「植物の力で回復を助ける」ということ、そして「ナスタチューム(金蓮花)」
(仏語でcapucine)が咳に効くということが非常に頭に残りました。
お医者さんの言ってたのは、エッセンシャルオイルではなさそうでした。ハーブティーでもないかも。
それとも、この花のハーブティーは売っていない、という意味だったのかもしれません。とにかく、
お医者さんは「昔はこういう知識があって、そこから薬を作ったはずなのに、今はその知識が
失われていっていて・・・でも一部でまだ売ってるところもあるみたいだから。」と言っていました。
彼女は「西洋医学の薬は、所詮“コピー”にすぎないのだから。」と言って、柳の葉からアスピリン
(だったかな?)を作ったという話をしてくれました。

面白い、「薬」の世界。

そう、化学薬品はつまり、自然界のコピー。自然の物質の中で“良い”と思われる部分を濃縮
するためにその部分だけを取り出したものなのだから。
自然であって、自然ではない。不自然な形態の自然、とでも言うべきか?
でもそうでなくても、多少効率が悪くても昔からの植物の利用法で助けになるのなら・・・

お医者さんは「植物だけで治すのでもなく、西洋医学の薬と同時に使うことに興味がある」と
言っていました。彼女もまだ、いろんな本を読んでいる段階で、なかなか実践的なことができ
ないでいる様子でした。

強烈な作用が必要な場合以外の病気治療、特に長期の治療が必要になってくる場合に、
植物の力で治療する、もしくは治療の助けとすることに、何か重要性を感じているということで
わたしたちの意見は一致したのですが。
じゃあ、具体的にどうしたらいいのか?

虚弱体質、頭痛持ち、便秘症、精神的な問題、そしてアレルギー。これらの、病気と言えるのか
どうか難しい、“体質”とも言ってしまえる状態(重度でない場合)に対しては、西洋医学の薬は
あまりコレといったものが無いので、そういう場合に植物の力はとても頼りになるのではないか
という気がします。


赤ちゃんお披露目

2006-01-05 00:02:25 | Weblog

義妹からメールで届いた写真をお披露目します。
(横顔だから、許してねっ!)

この雪のような肌を見てやってください。
きらきら輝いてます。
この目蓋の下に、紺碧の目が隠されているんです。
赤ちゃんは、うつらうつらしながら時々目を開け、そしてそのサファイアのような瞳を見せて
くれるのです。

血液がどうのこうのと聞いていた、入院中の双子のもう1人のほうも、明日にでも退院できるとか
聞きました。夫が聞いた話では「赤血球が不足していた」ということのようで、大したことじゃ
ないらしいです。
夫がしきりに「双子が1人きりにされて、びっくりしてるだろうね~。“あれ?わたし一人??”って。」
と言っていました。ホント、生まれる瞬間まで姉妹くっついて成長してきたのに、生まれてすぐに
引き離されて。「あれれ?」って思ってるでしょうね。
でももうすぐ、双子の1人&ママとご対~面~!