今日も ぺこぺこ

ジョリ夫婦&ぺこ。3匹とも、今日も元気に「ぺこっ」てます。

脳のお散歩(4) -カレンダー (追記)-

2006-01-10 16:29:19 | Weblog

この本の冒頭にも面白いページがあります。
以下、その抜粋です。


   西暦2000年とは・・・・・・

  実際のキリストの誕生年に従えば、今の 1996年
    (キリストの実際の誕生年が紀元前4年ごろとされているため。)

  旧ローマ暦に従えば 2753年

  古代バビロニア暦に従えば 2749年

  最初のエジプト暦に従えば 6236年

  ユダヤ暦に従えば 5760年

  イスラム暦に従えば 1422年

  ペルシア暦に従えば 1378年

  コプト暦に従えば 1716年

  仏教暦に従えば 2544年

  マヤのグレートサイクルの 5119年目

  フランス革命暦に従えば 208年

  中国の暦に従えば 辰年


と本には書いてあります。
これに、さらに日本人としていくつか追加するとすれば・・・

  日本の現行の年号で言えば 平成12年

  日本の紀元である皇紀に従えば 2660年
    (皇紀は日本史の初代天皇である神武天皇の即位の年を元年として計算。)

なんてのもあります。
「西暦」はキリストの誕生年を元年として計算されましたが(実際は間違えられてたらしいけど)、
日本にも独自の「皇紀」があったんですね~。
でも皇紀っていつからいつまで使われてたんだろう・・・?
(あ・・・また謎が増えてしまった・・・)


脳のお散歩(3) -カレンダーのはじまり 失われた10日間-

2006-01-10 06:13:33 | Weblog

ガリレオの話から始まり、今度はカレンダーのお話です。

この写真の本、「暦をつくった人々」デイヴィッド・E・ダンカン著 河出書房新社 はワタシのブログに
よくコメントくださっているバイアリー・タークさんのブログで紹介されていた本で、とても面白そうだと
思ったので買ってみたのです。
この本を買った動機は単純そのものです。
「カレンダーって、誰が作ったの?」ただそれが知りたかったんです。
キリストが生まれた年から2000年以上経った今、「世紀末の恐怖」の呪縛からも開放され、
よく考えてみると「日本にも日本の暦はあったんだから・・・」という考えに辿り着く。
中国はまだ太陰暦を使っているし、中近東あたりの国になるともっと複雑らしい。
要するに、現代日本人が使っているカレンダーとは「欧州で作られたグレゴリオ暦」であり、
それを公式に採用する以前は日本も今とは違うカレンダーを使っていたはずなのです。
(いまだに平成○年とかいってるみたいにね。)
この本を読めば、「カレンダー」の生い立ちがわかると思ったの。

で、数日前からちらほらと読み始めたのですが・・・
いきなり第一章目から、えらい話題に出くわしたのです。
この本によると、1582年にグレゴリウス13世により、それまでの間違いを正して今の形
の暦に改定された
、とあります。
(それで現代のカレンダーが“グレゴリウス暦”と呼ばれているのです。)

ここで注目したいのが、1582年という年です。
これはガリレオが18歳の頃ということになります。
読んでて「エッ?」と思いました。
暦を作る、暦を修正するには、「一年」という時間を正確に計算する必要があります。そのためには
天文学の知識と数学による難解な計算が必要です。先に書いたようにガリレオはその方面の
人ですから・・・ 彼が18歳の時に「暦が改定された」ことは、彼に大きな影響を与えたと
考えてもおかしくはないと思うんです。
(ガリレオさんの登場は、ここでおしまいです。笑)

グレゴリウス13世が「それまでの暦の間違いを正した」というからには、以前の暦に何か
決定的な間違いがあったはず。それは何だったのか?
この本の第一章目には、それがドラマティックに描かれています。

このお話の主人公は、ロジャー・ベーコンという僧侶。(1240年代にはパリ大学の教授であり、
その後1250年代に司祭に。)
ダ・ヴィンチが生まれる200年も前に、ダ・ヴィンチばりの奇才を発揮していたらしいこの
ロジャー・ベーコンは、「現行の暦と比べると実際の一年は11分ほど長い」ということを発見し、
それが積み重なると125年で丸一日の誤差が生じるということをローマ教皇に知らせ、暦の
改定を求めたのです。
一年間でたったの11分・・・しかし、このわずかな時間の差が、大きな争いを生むことに。

125年で丸一日の誤差。ロジャー・ベーコンの意見が正しいとなると、250年で2日、500年で
4日のズレが生じ、1000年では8日間ものズレとなります。
(こうして考えると、けっこうなズレですよね。)
わたしたち、信仰心などあまり無い現代日本人にとってはそれでも無関心でいられるかもしれ
ませんが、当時のヨーロッパの人々は、全ての中心にキリスト教がありました。そして宗教行事
のための日取りを決めるのに暦は欠かせないものだったのです。
たとえばキリストの復活を祝う復活祭。この祝日は固定しておらず、毎年春分の日を基点として
決められるのです。(春分後の最初の満月のあとの日曜日が復活祭の日。)
ロジャー・ベーコンの時代の暦では、春分の日は3月21日と固定されていたそうです。
しかしそれでは、125年後には丸一日のズレが生じてしまうことに・・・。
熱心に信仰している人たちにとっては、正確な日に正確に行事を執り行うことが大事であり、
それを「間違った日に祝っている」などと指摘されては、心底震え上がったことでしょう。
(地動説を躍起になってもみ消そうとした教会、ここでは必死に聖なる行事の日を守ろうと
しているってわけですね。)
ロジャー・ベーコンは春分・秋分、夏至・冬至の決め方について、このように鋭く指摘したのです。
そして彼の解決策は、「125年ごとに丸一日を暦から取り除くこと」だったそうです。

しかし、この彼の意見は当時は(コペルニクスやガリレオ同様に)異端視されてしまい、結局
無視されてしまったそうです。
当時、まだ望遠鏡すら発明されていなかったんだとか。それなのに、よくも暦のズレを計算でき
たものだと感心します。

そして、時は3世紀も過ぎて、コペルニクスの時代に。
暦の誤りはロジャー・ベーコンより1000年も前からいろんな学者が指摘していたらしいの
ですが、教会に楯突くことは許されなかったので、毎回ガリレオなどと同じ状態で黙殺されて
いたのです。しかし、1500年代には公然と学者が暦の修正を求めるまでに世の中は変化
したのでした。
1543年にコペルニクスが著した「天球の回転について」という著書の中で、彼は地動説と
同時にこの暦の誤りについても指摘しているそうです。

グレゴリウス13世は1582年2月に勅書を発し、暦を改定することに。
それにより、1582年10月5日から14日までの10日間が、事実上失われることになった。
(つまり1582年10月4日の翌日が10月11日となった、ということだと思います。)
そしてそれはグレゴリウス暦と呼ばれ、1584年までの間にヨーロッパのカトリック国の大半が
この新しい暦を受け入れたそうです。
イギリスはこれより200年も経ってからこの暦を受け入れ、日本は300年も経ってからの受け入れ。
中国に至っては、なんと1949年にようやく受け入れたのだそうです。

カトリック教会の勢力もさることながら、コペルニクスやガリレオの時代にこのような改革が
行われていただなんてね。ビックリでしょ?

ちなみに、春分・秋分などは宗教行事を抜きにしても、たとえば農業なんかにも関わってくる
ので大事ですよね。それに、暦のズレが3ヶ月にもなってくれば・・・8月が「春」ってことに!
(そういう風にベーコンは指摘してました。)

ベーコン、そしてガリレオ、ニュートンときて、現代の優れた天文学により、今ではもっともっと
正確にズレが計算されているようです。
上で書いた「およそ11分の誤差、125年で丸一日の誤差」というのは、望遠鏡のなかった
ベーコンの時代の話です。正確な誤差などについては、この本を読むなり、自分で調べるなり
してみてね~。


ちなみに、この本の巻末には「時の年表」と題された年表が載っています。
暦の制作、その当時の出来事、一年という時間を計算した人たちと彼らの算出した時間の長さ
などが書かれています。


尚、暦の改定という大きな改革は、ロジャー・ベーコン&グレゴリウス13世以前にも世界の
あちこちで行われているので、今回書いたこの内容は歴史のごくほんの一部です。
他にももっといろんな「時間」の改革が・・・なされているんですねぇ~。

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<補足>
本文中のロジャー・ベーコンの名前の部分に、ウィキペディアで調べた彼の項目をリンクしました。
ウィキペディアとは、インターネット上で自由に使える百科事典で、利用者が新しい項目を記入
もしくはすでにある項目を再編集できるというものなので、不特定多数の人の手から成っている
可能性があるので信頼性という意味ではどうとらえたら良いのかわからないんですが・・・
およその事を知るのにはとても便利なサイトです。
今回、ロジャー・ベーコンについて資料が手元に無いのでココで調べてみたところ、面白いこと
が沢山書いてあったのでリンクしてみました。


脳のお散歩(2) -ガリレオ・ガリレイ その人とその時代-

2006-01-10 00:44:28 | Weblog

ガリレオはこうして裁判にかけられたのですが、ローマ教皇と親交のあつかった彼は、裁判直前に
教皇から「自分の命を落としてまで、自分の意見を通すことはない」と諭されており、裁判当日には
自分の意見を封じることで命は取り留めたのでした。

その代わり、ガリレオは「祈りを捧げる(←間違ってるかも)」という刑罰を受けることとなり、
修道院(←間違ってるかも)へ入って余生を過ごすことになりました。
観測や実験に必要なものは教皇の計らいによって全て与えてもらえました。しかし、自分の
意見を公表してはならない、と言われていました。
こうしてガリレオは“真実”を説くチャンスを奪われ、1人きりの研究生活でその生涯を終えた
のでした。(1642年没)

ガリレオは裁判にかけられる以前、1609年、天体望遠鏡を発明していました。
(それまでにも望遠鏡は存在していましたが、精度が非常に劣っていたんだと思います。)
そしてガリレオが死んだ年に生まれたニュートンが、そのガリレオの天体望遠鏡の精度を上げ、
万有引力の法則を発見し、光の構成も発見したのでした。
(この辺りで急速に物理学が進んだワケですね。)


ところで、映画を観てた間中気になっていたことがあります。
「ガリレオ・ガリレイってなんだか冗談みたいな名前だけど、一体どっちが苗字なの?」
ガリレイが苗字だとして、なんでガリレオって名前をつけたんでしょうね?
(まるで漫才コンビの命名みたい。)
ちなみにこのガリレオ・ガリレイさん、日本語では「ガリレオ」って言われてますよねぇ。
てことは、ガリレオが苗字?って思ってたんですが、ガリレイが苗字のような気がします。
フランス語で彼の名は「GALILEE(ガリレー)」と呼ばれてます。というワケで、よけいでも
「ガリレイ」が苗字じゃないの?って思ったんですが。
こちらのサイトの冒頭部分の解説にて、その謎が解けます。

もう一つ、映画を観ていた間にとても気になる発言がありました。
ガリレオが司教たちの尋問を受けていた際、「君は女性と一緒に暮らして、子どもも持っているね」
と責められていたのです。
ガリレオは教壇に立つ身でしたが、当時の「教授、先生」と言われる立場の人は結婚してはなら
ないという決まりがあったらしいのです。
しかしガリレオは掟を破って女性と同棲し、子どもを作っていた、ということです。
ガリレオの伴侶は「正式な妻」としての立場は得られておらず、その上ガリレオは研究に没頭
していたので、映画の中ではキレてガリレオに文句の言葉を投げつけていました。

日本もそうだったんじゃないかと思うんですが、昔々のヨーロッパでは「教会、修道院」が学問の場
であり、教会の中で学問が行われていたので、つまり、神父さんが結婚が許されていないのと
同じような理由で教授も結婚が許されていなかったのではないかと思うのです。
(これについてはちゃんと調べてみる必要があるので、保留ね。)

教会の教え(天動説)に反する意見(地動説)を説いていたガリレオにとって、いくら「自分は信仰心
あついキリスト教徒です」と言ったところでかなり立場は悪く、その上さらに規則違反をして同棲して
いたともなると・・・ぐうの音も出ないですね。


ガリレオの映画を観た後で、ガリレオとコペルニクスとソクラテスに関してとても気になったので、
例の「フランスの子供用百科事典」で調べてみました。

  ソクラテス(前470-399) ギリシャ人
  コペルニクス(1473-1543) ポーランド人 ←「地動説を発表」
  ガリレオ(1564-1642) イタリア人 ←「コペルニクスの説を擁護。天体望遠鏡を発明」
  ニュートン(1642-1727) イギリス人 ←「ガリレオの望遠鏡の精度を上げる」

こういう感じです。
コペルニクスからニュートンまでの間、彼らの人生が重なっていたわけでは全く無いのですが、
(惜しくもズレているのですが、)順調に力学、物理学、天文学などのあらゆる学問が進んで
いっているのが素晴らしいです。

ここでちょっと気になったのが、彼らの国籍と言語。
コペルニクスは「地動説」をポーランド語で説いていたのでしょうか。
そしてガリレオはそれを読んだはずですが、一体何語で読んだのでしょうか。
(イタリア語に翻訳されていたのか?それとも何か他の言語?)
当時の言語がどんなものだったか、調べる必要性がありますねぇ。(欧州の共通語として
ラテン語だったかもしれないし・・・謎)

そして、この学問の飛躍的な進歩に一役買っていたのが「印刷機の発明」と思われます。
ドイツ人のグーテンベルク(1379-1400)の印刷機の発明により、「活字による印刷」が可能となり、
聖書をはじめあらゆる書物の複製を大量に作ることが可能になったのです。
(それ以前は本は手書きで作られる超高級品で、オリジナルの1冊しかないものを人の手で
書き写して複製を作っていたのでした。)
コペルニクスが「地動説」を発表した際、それはすぐさま印刷され、イタリアにも届いたのでしょう。
そしてさまざまな言語にも訳されたと思います。


世の中のこと全てを知ろうとして「学問」していた昔のギリシャ人哲学者たち。
その「学問」が世代や国を越えて続き、さまざまな分野に分かれて詳しく研究されるようになった。
「学問」がいろいろな「道具・機材」を産み、そしてまた「学問」が進む。

ガリレオを調べはじめたら、その前後関係からいろいろなことが見えてきたんです。
ガリレオが生まれる半世紀ほど前に、すでにマゼランが世界一周していました。
ガリレオの没後半世紀以上経ってから、ファーレンハイトが水銀温度計を発明した。
こうして眺めてみると、ガリレオの時代、世の中はまだ「不確かな波の中」にあったのだという
ことが鳥瞰できます。

次は、もっと興味深い内容を書きますね~。

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<蛇足>
前回も今回も同じく、わたしが手元にある本などを使って調べたことを中心にまとめて書いてます。
なのでモトが間違った情報であったとしたら、ここに書いてあることも間違ってる可能性があります。
みんなも、もし気になったらそれぞれに調べてみてね。けっこう面白いよ。